自由を取り戻した男娼王子は南溟の楽園で不義の騎士と邂逅する【完結】
オリーゼ
男娼と海賊
昼の灼熱が重く湿った夜気に残り、虫除け香の甘くスパイシーな香りが薫る南国の夜。
じっとりと肌に汗が絡む蒸し暑さだが、紙で作られたランタンで飾られ幻想的に整えられた夜の中庭を見下ろすテラスは、吹き抜ける風のおかげで多少は過ごしやすい。
男はこの店で一番安い蒸留酒をグラスに注ぐと、テーブルを挟んで向かい合って座る青年に手渡した。
一部の狂いもない左右対称の彫像のような美貌が、冴え渡る月に照らされて白く浮かんで見える。
誰に贈られたのだろうか、東方の絹で作られた滑らかな東方風のガウンを裸体にしどけなく羽織る姿は、全てを惹きつける色香と誰にも陥ちない高貴さとを兼ね備えていた。
その婀娜めいた様に、彼が男でありながらこの群島で最高級の娼館であるラトゥーチェフロレンスの中でも最も高級な娼婦の称号フルール・セレストを受けて、高貴なる藤の君と持て囃され、あらゆる金持ちから金と精気を搾り取っているという伝聞が事実だと納得する。
俯いて肩を落として、男の無骨な手にやわらかく触れながらグラスを受け取った指先は、相変わらず華奢で滑らかだ。
「飲めよ。夜はまだ長い」
手管を理解しながら、誘惑を無視して男が酒を勧めると、覚悟を決めたように頷いて、それを呷った青年は咽せて咳き込んだ。
「いまだに酒の飲み方も覚えてねえのか?」
水を渡すと首をふるりと振った青年から、想像以上に質の悪い酒だったから、と細い声が返ってくる。
頬にかかった金髪が月明かりで煌めいて、憂いに満ちた眦を彩った。
「で、俺に何の用だ? 確かに俺はお前の初夜権を買ったが、もう何年も前の話だ。今のお前が、わざわざ金も尽きた昔の客に声なんぞかける必要はないだろう?」
どうしてもあなたに会いたいという内容の熱烈な恋文めいたものが送り付けられてきて、人生最後の思い出にと半ば自棄になって最後の蓄えを手に、ラトゥーチェフロレンスの門をくぐったのだ。
「私を身請けしてここから出してくれませんか?」
すっと視線を上げて目と目を合わせての頼みに、男は机に手をついて椅子から腰を上げた。
「は……? 無理に決まってんだろ」
大金を払えばこの館の娼妓を自分だけの物にできる。だが彼を購うだけの財力は今の男にない。正直、一番金を持っていた時ですら贖えるか難しいところだろう。
「お前さんがしなだれかかりゃ、身代を傾けてでも身請けしたい金持ちがゴマンといるだろう?」
「それでは意味がない。誰を選んでも複数人に囲われる籠の鳥から誰かの為の籠の鳥になるだけだから」
強く否定して、懐に隠した革の袋を取り出し、男の目の前に置く。
「金ならばここに。けれど自分で自分の身を贖う事は許されていない。だから貴方に頼みたい。礼を含めてこれだけあれば充分でしょう?」
袋の口を開けて中身を改めて男は呻いた。長年の稼業で純度の高い本物の金貨と最高級の宝石の見分けぐらいはつく。
「こんな大金どうやって……」
「私にたかる虫どもがせっせと集めてきた物ですよ」
唇を歪め、侮蔑を隠そうともせずに青年は言った。
「なんで俺なんだ」
「貴方のことを慕っている……と言ったら?」
青年の柔らかな掌が男の手をそっと包み、月光を反射した金の瞳が妖しく蕩ける。一転して熱を帯びた眼差しと純白の微笑は作り物だと見抜けても心臓が高鳴った。
「信じると思うか」
「思いません」
快活な笑い声を上げた青年は、先程の酒を再び口に含み、顰め面で飲み込んで続けた。
「貴方はあんな手紙で呼び出されてくれる程度には義理堅いが、特に私に執着はしてはいない。それとメルシア連合王国が海賊の取り締まりをさらに強化したと聞きました。そのために商売がうまくいかず、あれほどの富を誇ったのは過去の話で、今はこのドブみたいな味をした安酒を頼むしかない懐具合という事も理由です」
「その俺があんたを身請けするのはおかしいだろう?」
「最期の思い出に身請けしたい、こちらが手放す必要が出たら三割で買い戻して欲しいと言えば、あの業突張なら私のことを売るでしょうね。少し貸すだけで、これの七割が懐に入るんですから」
「なるほどな。だが、俺がこの金を持ち逃げしたら?」
「見る目がなかったという事です。けれど、貴方はきっと私を選びます。監視の厳しい籠の中でこれだけの金を集める鳥と端金、貴方の中で量るまでもないでしょう?」
「何故、そこまでして外に出たがる?」
腹は既に決まっていたが、それだけがどうしても腑に落ちない。
大したことのない事のように誘っているが、彼は奴隷としてここに囚われている。強欲な主人の目を盗んで客からの貢物をちょろまかし、それを原資に別の客と通じて自由を得ようとしている。
危ない橋だ。どこか一点でも破綻すれば、自由はなくとも贅沢は出来るこの生活から一転、身体を壊し死に至るまで客を取らされ続ける最底辺に堕とされると分からないはずはないのに。
尋ねると虚をつかれたのか青年の顔から表情が抜け、ただその瞳に湛えられた暗い沼の様な鈍い光だけが男に返ってきた。
「そうだね。本当は無理をして出る必要はないんだ。何もかも間に合わなかったんだから。大切なものは全て奪われてしまったし、取り返す術も気力もない。このまま身を削って過ごして死んでいく方がはるかに楽だ。だが、この身を贖えるだけの対価をなんとか貯められた。他のなにもかもを守れなくなった今、せめて私を命を賭して護ってくれた人の、最期の言葉ぐらいは守るべきだろう」
独り言めいた言葉は普段の耳を溶かす優しい響きとは違っていた。だがこれこそが彼の本質だと男の勘が告げている。初めて彼と出会った時にこちらを見つめていた昏い穴と同じ虚無。
「最期の言葉?」
美しい眦から一筋の光が溢れ落ちる。
突然感情のコントロールを失ってはらはらと涙を零す様は抱き寄せる事はおろか、手巾を差し出すことすら躊躇わせる強烈な孤独を纏っていた。
「こんな生き恥を晒して……あの時共に死んでしまいたかった。けれどもなんとしても生きろと言われたんだ。ここの生活は生きているとは言いがたいから」
「どういう事だ? お前さんは一体何者なんだ?」
「死人だよ。この身体が生き長らえているのは献身と、私を捕らえた海賊の強欲と悪運の果てだ」
袖で涙を抑えた青年は男の腕を取った。
「もう心は決まっているのだろう? ならば中に入ろう」
「はぐらかすな。ちゃんと俺の知りたい答えを話せ」
「長い話にテラスは向かない。それにこの酒は私の話のツマミにするには不味すぎるんだ。中にメルシア……故郷のブランデーがあるから飲み直そう」
奢りだよ。とふわりと笑った青年は不意に付け加えた。
「そうだ。貴方を選んだ理由。貴方の髪と目の色が同じ色だった。そんな単純な理由なんだ」
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