こうやって手を繋ごう
こぞたに
第1話
「おはよう、優衣」
わたしの目の前に立つ彼女はひらりと手のひらを振ると、そんなに焦って走んなくてもよかったのに、と苦笑しながら続ける。
わたしは乱れた息を整える間もなく、膝に手をつきながら彼女の顔を見上げた。
「ごめん、めっちゃ待たせた」
「ぜんぜん」
彼女——歌織はそうやって首を振るが、歌織はたぶん今日も待ち合わせの30分前から待っていたはずだ。中学時代からの付き合いだとそんなことも分かってしまって、とても申し訳ない気持ちになる。
今朝だって六時には起きてたのに……。初手からミスった。頭の中でそんな言葉がぐるぐるして、どうしても顔が歪んでしまう。
「服選んでて慌てて出てきたんでしょ」
「……なんでそれを」
「だってすごい気合い入ってて、かわいいから」
歌織がまっすぐにわたしを見てそんなことを言うから、顔が熱くなっていくのが自分でも分かって、咄嗟に顔を覆いながら、今日は朝からまるで百面相だな、と他人ごとのように思う。
歌織と出かけるのなんて何回目かも分からないくらい当たり前で、今までわたしが遅れてもこんなにもやもやすることはなかったけど、それでも今日は特別だった。
「その、ありがと」
「どういたしまして。優衣も楽しみにしてくれてたんだなって分かって、すごい嬉しい」
当たり前じゃん、とわたしは笑う。
今日はわたしたちの関係性を表す言葉が「友達」から「恋人」になって初めてのお休みで、初めてのお泊まりデートだった。だから、今までの旅行とは違って、少しだけ特別。
「温泉だっけ?」
「そうそう、卒業旅行で行ったところ」
去年の春、大学入学を控えたわたしたちは、今日と同じように駅で待ち合わせをして温泉に行った。そのころは恋心もまだ心の内に秘めていて、すごいドキドキしたのを思い出す。
「もう一年前か、懐かしいね」
「でしょ。そういえばあの日も優衣が遅れなかったっけ」
歌織はそう言って、にやにやとわたしを見てくる。歌織は突然わたしをからかうモードに入る時があるようで、たぶん今回もそれだろう。
わたしが耳まで赤くしていると、歌織はクツクツと声を抑えて笑い始めたので、軽く蹴りを入れる。
「お、出たいつものキック」
「そうやってからかってばかり!」
「はいはいごめんね」
頭に乗せられる歌織の手。これはわたしが拗ねたのを宥めるための常套手段だ。
「でもいつも通り元気になったみたいでよかった」
「え?」
わたし今日そんな体調悪そうだった、と首をかしげてみると、いやそうじゃなくて、と歌織が続ける。
「今日遅れたのめっちゃ気にしてそうな顔してたから」
「それは、……そうだけど」
だって気にするよ、とわたしが少ししょぼくれていると、歌織が慌てた様子になる。
「ほら、私たち長い付き合いだしさ、」
これから深い付き合いにもなるんだから、あんまり気にしないでよ、と歌織は頭に乗せたままの手をわしゃわしゃと動かした。その手はもうわたしの頭の上が定位置かのように馴染んでいて、わたしの心を落ち着ける。
「そうだね。いつも通りかぁ」
「そうそう、リラックスリラックス」
肩ガチガチだよ、と頭の上の手が今度は肩にスライドして、ほぐすような動きをする。歌織のマッサージは相変わらず痛くて、手加減というものを知らない。
「分かった、分かったから」
わたしが顔を歪めて彼女の手をぺしぺしと叩くと、そんなに痛いかな、と首をひねりながら渋々と言った感じで手をどける。
その時に歌織のつけた腕時計が見えて、ふと思い出した。
「ってか、時間大丈夫!?」
本来の集合時間から三十分は経ってしまっている。
「大丈夫大丈夫、次の新幹線まであと十五分くらいあるし」
「そっか、よかった」
「でもそろそろ行こっか」
切符買いたいし、指定席の方がいいでしょ、と笑う歌織にうなずくと、じゃあ行こうと優しく手を取られる。
ふと、自分の右手を見てみた。
歌織は、いつからかわたしがふらふらしてしまうからと手を繋ぐようになって、それはいつの間にか習慣化していた。だから、わたしの右手が歌織の左手に優しく包まれているのは、いつも通り。でも今は、彼女と手を繋ぎ始めた頃とは違って歌織はわたしの特別で、特別な人と手を繋げているのはとても幸せで。
でも、幸せなはずなのに、少しだけちくりと心が痛むのはなぜだろう。
◇
「こことかどう?」
卒業旅行のとき行けなかったしと言いながら、歌織が新幹線の隣の席でふせんだらけのガイドブックをめくる。たしかにそこは卒業旅行のときわたしが行きたいと言ったけど行けなかったところで、だけどわたしは今の今まで忘れていた。
「行けなかったところとか、全部覚えてるの?」
「うん、ていうかふせん付けてる」
そう言って誇らしげにふせんを触る。よく考えてみれば今までお出かけの計画とかは全部歌織が立てていて、なんだか申し訳なくなる。
「ごめんね、任せっきりで……」
「いいよ、私こういう計画立てるの好きだし」
「歌織は? どっか行きたいところとか……」
わたしがそう聞くと、えーっとね……、とガイドブックを繰り始め、そしてここと一点を指差した。そこはダークブラウンの木目調のカフェで、わたしも歌織も好きなタイプの店だった。
「いいね、行こうよ」
「うん、前回歩き回って疲れちゃったから今回はちょっと休みたいなって」
「あー、確かに」
その後も歌織はガイドブックを開きながらスケジュールを組み立てていって、最後に今日はこんな感じでどうかな、と締めくくった。
「じゃあ、案内とかお願いしちゃってもいい?」
「任せてよ」
そう言って微笑む歌織はとても楽しそうで、この旅行が楽しいものになるんだろうな、という確信に近い予感がする。
「優衣も見なよ。ガイドブック読むのも結構面白いよ」
「うん、ありがと」
歌織から渡されたガイドブックを開いて、とりあえず今日の予定を確認する。今日泊まる予定の旅館は新幹線の駅から電車を乗り継いだところにあって、どうやら歌織は前回行けなかった所のリストから沿線にあるところをピックアップしてくれたみたいだ。
エリアごとの観光情報、途中に挟まれる特集コーナー、定番のお土産物……。ガイドブックをめくるとたくさんの記事が楽しげなレイアウトで並んでいて、見ていて飽きない。
今日どこに行くかも確認し終わって、確かにガイドブックは暇つぶしになるな、と思いながらぱらぱらとページをめくっていると、ふと一つの記事が目に止まった。
「女子旅……」
「あれ、優衣そういう感じのところ苦手じゃなかった?」
確かに、そこに並んでいたのはわたしの少し苦手な感じの施設が多かった。じゃあなんでこの記事に目が止まったんだろう。考えてみてもよくわからない。
わからないけれど——さっきと同じ、駅で手を繋ぎながら歩いたときと同じようなちくりとした胸の痛みが、今度はちょっとだけ強く襲ってくる。少しだけ、心がキュッと締め付けられる。
女子旅、女子旅、と口の中で何度も転がすようにつぶやいてみたけど、胸のちくちくが強くなるだけで、何もわからないまま。
わからないまま、このまま歌織と「女子旅」を楽しんでもいいんじゃないか。そんな風に思いながら、ページの中で手を繋いで笑い合っているモデル二人を見て、すぐにそう思ったことを後悔した。
これは女子旅じゃなくて、デートだ。わたしはこの旅行をデートだと思っている。
でも二人の距離感は友達だった頃からすぐに変われる訳ではなくて、たぶんそれだけ見ればデートというより女子旅だろう。
「どうしたの?」
ガイドブックのページを開きながらフリーズしたわたしに、歌織が覗き込むようにして聞いてくる。
わたしたち、ちゃんとデートできてるかな。
なんて、言えるわけがない。
「え、なんでもないよ!」
だからわたしは、取り繕うように笑顔を浮かべる。
歌織の顔が、怪訝としたものに変わっていくのがありありと分かるけれど、わたしには、なにも聞かないでと祈ることしかできない。
ちゃんとデートできてるか、なんて言ったら、たぶん歌織は困るだろうし、世間一般のデートをしようとするだろう。でもわたしたちの関係は徐々に変わりつつあって、それを無理やりに型にはめようとしたら、変な形にひしゃげてしまう気がする。
わたしは歌織とゆっくりと恋人になっていきたくて、でも別のわたしはちゃんと「恋人」になれているかとわたしを焦らせる。
「ほんとになんでもない?」
「うん……」
まだ歌織は怪訝そうな顔をしているけれど、ふ〜ん、と言っただけでわたしへの追及は止む。それにとりあえずは胸をなで下ろしたが、結局のところなにも解決していない。
わたしは、歌織となにになりたいんだろう。
当然、将来的にはちゃんと恋人になりたいけれど、今はまだ、友達だった頃の名残は抜けきれないし、手放したくないようにも思う。
だけど、ちょっとは恋人っぽい雰囲気にもなりたくて……。
「ほら、あとちょっとで着くよ」
「あれ!? もうそんなに時間経った?」
歌織の声で確かに車内にはアナウンスが流れていて、周りにも降りる準備をしている人がちらほらといる。
こんなことを考えていたせいで旅行を楽しめなかったなんてことがあったら、それこそ本末転倒だ。そうわたしは結論付けて、とりあえずこのもやもやした気持ちを先送りにすることにして、荷物棚から自分のバッグを下ろした。
◇
「楽しかった?」
「すっごい楽しかった!」
半日かけて観光地を回ったわたしたちは、カフェに入ってコーヒーとおやつを楽しんでいた。
「美術館すごかったね」
「でしょ! 一回行きたかったんだよね」
わたしが前回の旅行で行きたかったけど行けなかった美術館は、ガイドブックの写真で見るよりもずっと楽しくて、それだけでわたしの心は小躍りしてしまった。
思っていたより大きかった屋外展示の彫刻とか、それを遠くから眺めながら飲んだ紅茶とか、そんな楽しい話をしようと一旦コーヒーを飲んで落ち着いていると、ふとこちらを見ている歌織と目が合う。
「なんか付いてる?」
定番のようにそうやって聞いてみるけど、たぶん違うよなというのはその目がじっと一点に注目するものじゃないからわかる。歌織はわたしにとろけるような目を向けてながら微笑んでいて、その意味は掴めない。
ちょっと首を右に傾けてみると、歌織は恥ずかしそうに頬を引っ掻く仕草をした。
「いや、なんも付いてないよ。ただ——」
「ただ?」
「ちょっと悩んでるみたいだったから、心配だったんだけど……」
すごい楽しそうで、嬉しかったと歌織はまた笑う。でもその目は少しだけ寂しそうで、まだなにか言い足りないと訴えていた。
楽しかったよと言ってわたしも笑う。笑えただろうか。
わたしの悩みを、歌織に言うべきなのだろうか。言うべきかもしれないし、言うべきでないかもしれない。言ってしまいたいし、言ってしまいたくない。
わたしたちの距離感を、一気に変えてしまいたいし、変えてしまいたくない。
わたしの中では、歌織は恋人にカテゴライズされていて、たぶん歌織の中でもわたしは同じようなラベルが貼られているはずだ。でもわたしたちは、わたしたちのあいだの空気を友達から恋人に変える方法を知らない。
「ねえ」
机の上で迷子になっていたわたしの手が、不意に包まれる。
「なに、悩んでるの」
そう顔を寄せる歌織の目は、さっきとは違って真剣そのもので、この目からは逃げられないことを悟った。
「えっと」
頭の中で濁流となっている悩みが、濁流のまま漏れ出さないように、努めてゆっくりと言葉を選ぶ。それでもしっかりと選べているか不安になって、喉に絡まって声にならない。
ふと、包まれていた手が一段と強く握られて、あ、と喉から声が鳴る。
「あの、わたしたち、恋人、じゃん」
「うん」
「今日の、お出かけは、デート、じゃん」
「そうだね」
「ちゃんとデート、できてた?」
言ってしまった。たぶん歌織は一瞬困った顔をして、それからすぐ笑顔になって完璧なデートプランを練り上げるだろう。でもわたしはそういうつもりじゃなくて——。頭が白色で埋められていって、そうじゃないと伝える方法さえ分からなくなる。
しかし、予想に反して歌織はそういうことか、と納得した顔をして、それからわたしを見てにやりと、からかうときの笑顔を見せた。
「わたしたちがまだ友達同士に見えるって、不安になった?」
図星だ。図星すぎて機械のようにこくこくと頷くことしかできない。
「じゃあちょっとだけ、『恋人』してみる?」
わたしは少し怖くなって、それでも「ちょっとだけ」という言葉に少しだけ救われて、たっぷり十秒は考えてからやっと頷く。
「じゃあさ、行こっか」
歌織は待ちきれないといった表情で、わたしにコーヒーを飲むように急かす。歌織のそんなところは珍しくて、なんだか可笑しい。
こくこくと喉を鳴らし、ぬるくなってしまったカップの中身を飲み干して、ソーサーに置くと、歌織はレジカウンターの前で会計を済ませてわたしの方を待っていた。
「おまたせ」
わたしが少し駆け足で彼女の元に向かうと、ほら、と手が差し出される。
その手をとって、引かれるままに店のドアをくぐって外に出る。
突然に、わたしの手を包む歌織の手がするりと動いて、歌織の指がわたしの指の間に入り込む。これはいわゆる——。
「こうすればほら、恋人でしょ」
歌織がにやりと笑う。それはまるでイタズラが成功した子供のような笑顔だった。確かに、とわたしも彼女と同じような笑みを浮かべた。
そういえば、わたしたちは今まで恋人繋ぎというものをしていなかったなと思う。
友達同士でもやっていておかしくないが、今までのわたしたちはそれをあえて避けるように、手を繋ぐとき、確かに五本指を揃えて互いの手を包むようにしていた。
恋人という言葉に怯えたかはわからない。でもわたしたちにとって、恋人繋ぎはあくまでも恋人のためのものだったのだろう。
わたしたちは、指を絡めて手を繋げるような関係になれた。それはわたしたちの「特別」の証拠であるようにも思えて、あたたかいなと、指に絡まって繋がった彼女の手をぎゅうと握った。
こうやって手を繋ごう こぞたに @kztn
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ネクスト掲載小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます