各地の神社にまつわる伝承覚書

今の神社の神様は、明治政府が決めたもの。じゃあその前はどんな神様がいたんだろう?

高麗神社と白髭神社

――高麗こま神社は、大宮社又は白髭明神しろひげみょうじんとなえて、高麗移民の氏神である。今の高麗村に、高麗人の移ったのは、「続日本紀」に見える通り、元正天皇の霊亀れいき二年である。『駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野、七国の高麗人千七百九十九人を、武蔵国に移し、高麗郡に置く』とある如く、以前七ヶ国に置かれたものを、一箇所に集めたのである。これら多くの高麗人の子孫は、その後南北朝の頃から、戦争に参加して活躍した程で、高麗王は、常にそうした高麗族の人達から崇敬せられ、高麗移民の氏神として、高麗神社として祭られるようになったのである。


 その高麗の移民達が、氏神として祭った高麗王は、長寿高齢、白鬚の神々しい人であったというので、高麗神社は、白髭明神とも称えられているのである。


「日本伝説業書 北武蔵の巻」(藤沢衛彦 編、国書刊行会、大正六年)より引用。*旧字を新字体に変換しています。


 現在、埼玉県日高市には高麗の地名が残っていますが、これは大陸からの移民がここに住んでいた歴史に拠るものです。文中にある白髭明神ですが、今も各地には白髭神社があり、この神社と渡来人の関係もまた興味深いものがあります。


 ただ、すべての白髭神社と渡来人を結び付けるのは短絡に過ぎるかと存じます。

 

 道教の影響を受けた口承伝説が庶民にいきわたるようになると、白髭白髪の神仙が村に湧き水をもたらしたという伝承が発生することから、土地の記憶と伝承が入り混じって、渡来人の記録がなくてもそこに白髭神社が現れることがあります。


 そうであっても、やはりいくつかの白髭神社は高麗からの移民との関連は否定できず、そんな面からもその土地に何故その神社があるのか、考えることは非常に面白いことです。


 引用文中に見える霊亀二年は七一七年、この前年には阿倍仲麻呂、吉備真備らが遣唐使として大陸に派遣されました。日本から大陸に、大陸から日本に、活発に人の行き来があったことが示されています。

 

 高麗の渡来人は南北朝時代にあって戦闘にも参加していた、と、この文献で述べられていることから、その後、戦国時代の武士の権力関係にも大きな影響を与えていたことが推察されます。


 ただ現在、中世を題材にした戦記物で、高麗人の活躍を積極的に描いたものはほとんどないように見受けられます。もしかしたら一次資料から不足しているのかもしれません。


 そしておそらく、中世までの渡来人に関する日本人の感覚は、現在とはかなり違っていたのではないでしょうか。


 感覚の断絶は、江戸時代の鎖国政策にあるのではないかと私は考えます。


 江戸時代の日記や公的記録の文献は、公的に日本を訪れた渡来人を、アジア人であっても珍しい者として捉えており、これは江戸の市井の人々の感覚とさほど乖離してはいないと思うのです。


 東アジアの移民を受け入れていた中世。移民の断絶があった近世。

 なぜ江戸時代に朝鮮半島からの移民が途絶えたのか。


 この問いに対する答えは日本史の教科書にはなく、世界史に書かれた大陸や朝鮮半島と歴史を紐解けば比較的容易に理由を知ることができるでしょう。けれど本稿での言及はここまでに留めますので、興味を持たれた方は是非、世界史の教科書一七世紀の東アジアのページをご参照ください。


 近況ノートには高麗王の墓があるという埼玉県日高市の聖天院と、私が取材の合間に遭遇した白髭神社の画像を掲載しています(https://kakuyomu.jp/users/gonnozui0123/news/16817139555568771993)。

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