【第七天 雲の中】

“今日のお天気です。全国的に雲がかかって涼しくなるでしょう。北海道から東北にかけて……”

「お兄ちゃん、学校遅刻するよー」

 俺の部屋に入ってきて、枕元で呼びかける。相変わらずの棒読みに心が落ち着いた。

 携帯で時間を確認する。

“7:32”

 まえ住んでいたところだったら確実に遅刻していた。

「もうちょっと……」

「あっそ」

「そこ止めないのね」

 しぶしぶ起き上がって背伸びをする。あさがおはもう制服に着替えていた。新しい中学校の制服。さすがにもう見慣れたけど、たまに昔の制服を思い出す。俺もゆうも通っていた地元の学校の制服。

——ゆう……どこにいるんだ……。

あさがお、最近変なこととかない?」

「どうしたの急に。まあ特にないかな。強いて言うなら……ガチャでSSRが出ない。おかしい」

「あー……あぁまあ……がんば」

 いつもどおりだった。それがなによりもうれしかった。いつ襲われるかわからない。そうなったときは俺が助けないと。前回みたいな失敗は許されない。

「そういえばお兄ちゃん、先週……やっぱいいや」

「なにそれ、気になるんだけど」

「いいの。早く支度しちゃいなよー」

 そういってパタンッとドアを閉めた。


   ◯


「えーつまり、問ニの連立不等式はまずそれぞれ整理して……」

 窓を開けても風が入ってこない。今日は曇りでそんなに暑くはないけど、夏は夏。それなりに暑い。そもそもこの教室が風通し悪いし、扇風機すらない。クーラーなんて代物が北海道の学校にあるわけない。私立を除いて。

 寝ている人、ノートで仰いでいる人、内職をしている人。

 夏服に身をつつで、今日も平和な……。

“ブァン”

「……!!」

 生暖かいものを感じた。この感覚は気が乱れた証拠。それに普通じゃない乱れだ。

 はっとして横を見ると、まこもさんと目が合った。どうやら彼女も感じたらしい。

 先生や周りを警戒しつつ、ノートの端に書き込む。それをまこもさんに渡した。

“今のっててんだよね?”

 彼女からノートが帰ってきた。

“うん、しかも近い”

 その後もやりとりは続いた。バレないように、音を立てないように、こっそりと。

“昼休みまで待つ?”

“それじゃ間に合わない。風が変わった”

“でも今授業中だし”

“私にいい考えがある”

 そのメッセージを読み終わって横を見た。まこもさんは手をあげていた。背筋を伸ばしてピンッと腕を伸ばしている。こんなの王室でしか見たことがない。

「先生、具合悪いんで保健室行ってきます」

——いい考えってこれのこと!?

「大丈夫か? ならだれかついていってやれ」

 そのとき、彼女と目が合った。それで考えていることがわかった。

 まこもさんを連れていくと言って、そのまま教室を抜け出す。討伐し終わったあと、急いで帰る。多少時間かかるが、自分も具合が悪かったとか、先生に呼ばれたとか言い訳はできる。

 チャンスは今しかなかった。

「先生、俺がつきそって……」

「私行きます」

 俺の言葉をさえぎったのは〇〇さんだった。

 彼女が「保健員なんで」と言うと、先生も「そうか」と納得してしまった。このままじゃ俺が教室から出れない。どうする……。どうすれば……。

“パサッ”

 まこもさんがノートを俺の机に置いた。そこに書いてあったのは……。

“がんば”

「それじゃあ行ってきますね」

——置いていかないでぇぇぇぇぇ!!

 その訴えも虚しく、彼女たちは保健室へ向かった。

 俺にできることはもうこれしかない。

「先生……トイレ行ってきます……」


   ◯


 服を着替えて、まこもさんと玄関で合流する。

「案外早かったな」

「まあねぇ……それより早く探さないと」

 学校内だと細かい気の流れがわかりにくい。一旦玄関から外に出て索敵する。気圧が高いのはグラウンドの方角だ。急いで向かう。

「いた」

 グラウンドの中心に悠々と立っていた。いや、正確には浮いていた。

 ふくよかな体型で肌の色は白い。足らしきものはなく、一メートルくらいの高さをぷかぷかと漂っていた。グラウンドにはあるはずのない雲や霧が発生していた。

「天気予報では曇りって言ってたけど、こいつは“積乱雲”だ」

 強い上昇気流で鉛直に成長した巨大な雲。激しい雨や雷を伴う。日本だと入道雲や雷雲とも言う。

 おそらくてんすいとくまこもさんと同じだ。俺にとっては相生。倒すという目的ならば少し厄介かもしれない。とりあえず、離れた場所で一回様子を見る。

 俺らは仙器を取り出して構える。てんが動き出せばすぐに対応できる。それにしても……。

——絶対あそこにラピュタある。

「絶対あそこにラピュタある」

「言わないようにしてたのに……」

 気を取り直して、敵を観察する。依然としてグラウンドを漂っているだけ。しかし、気の乱れが徐々に大きくなっている。このまま放ったらかしにしたら、手遅れになるかもしれない。

 ふたりで話し合い、こちらから仕掛けることにした。周りに浮いている雲は以前戦った黄砂とおそらく同じ役割。それなら対策のしようがある。

「準備いいか」

「おう」

 急に雲が多くなった。のんびりしている暇はない。


「まったく、せっかちなてんだ」


 風を切って走り出した。置いていかれないように、しっかりとついていく。

 まこもさんが先頭を走ってくれているおかげで、俺が受ける空気抵抗が少ない。風の流れを読んで右左と動く。それに合わせて俺も右左と体を合わせる。

「いくぞ! 散!!」


 * * *


 中心に行けば行くほど気流が乱れている。右から風が吹いたと思えば、今度は後ろから吹く。視界は決してよくない。それでも気を感じ取って距離を詰める。

 蓬木よもぎてんを挟むように位置を取る。仙器を両手に持ち、乱気流を利用して跳躍する。

「せいっ!!」

 放物線を描いて巨体に一撃を入れる。手に伝わってきたのは空振りをした感覚だった。仙器どころか私の体も勢いに任せてすり抜ける。

——やっぱり。

 こいつの巨体は本物の雲。つまりフェイク。本体はこの雲の中に隠れている。うまく周りの雲と気を調和していて、居場所がわからない。雲を蹴散らすのはほぼ不可能。仙器や体術で闇雲に攻撃するのは無謀だ。だから……。

蓬木よもぎ!!」

「おう!!」

 乱気流の中、双水の端を蓬木よもぎに投げ渡す。それを掴んで振り回すように引っ張った。蓬木よもぎの後ろに着地した瞬間、地面を蹴って前に突進する。同時に蓬木よもぎが双水を引っ張って私を加速させる。

 狙うのは敵の真下。分厚い雲と強い上昇気流の影響で、簡単には潜り込めない。

「よし……!」

 力を合わせたおかげで、真下付近に位置取りができた。私と蓬木よもぎを繋ぐのは長年ともにした仙器。よく考えてみれば、こんな使い方をしたのは初めてだ。いつだって私は——


『またひとりで片付けたのかよ』

てんより荒々しい』

『俺が横から牽制するから……って待てよ!! ——』


 仙器を強く握った。後ろにいる彼との繋がりを感じた。

 体を一八〇度回転させて、足で踏ん張る。ピンと張った瞬間、全身の力を込めて引き寄せた。雲の向こうから彼がやってくる。

「任せたぞ!!」

 手を重ねて、レシーブするように腰を落とす。大きく踏み込んだ彼の足が両手に乗る。体を逸らせて、後ろに倒れながら上に投げ飛ばす。


 * * *


 まこもさんに打ち上げられて一気に上空へ飛んでいく。積乱雲の上はとても晴れていた。

 すかさず仙器を鞘から出して、集中する——


蓬木よもぎ、一点に高密度の気を溜めるのは意外と難しいんだ。お前はまず“広く均一に”を意識しろ』


 吸収、増幅、循環、放出。クレープの生地のように薄く広げるイメージで気を練り上げていく。

 自由落下を利用して思いっきり振り下ろす。

「いけぇぇぇぇぇぇぇ!!」

 剣の軌跡が光を帯びて、積乱雲の中心を通る。

——広く……均一に!!!

 完全に振り切り、地面に足をつける。

「そこ!!!」

 まこもさんが俺の背中に手をついて気を送る。冷たく、途絶えることのない滑らかな気が体に入ってくる。その瞬間、光の筋は蔓となり、大きな葉を生成した。

「ギャピャァァァァァァ!!!!」

 広範囲の合わせ技は積乱雲を吹き飛ばし、小さな本体を消滅させた。

 あたりに緑色の光の粒が降り注ぐ。

「やった……やったんだ俺!」

 汗が頬をつたう。優しい風を感じる。

 今度こそ、自分の手でてんを倒した。それを実感して、体が安心する。緊張が溶けて、くたっと片膝をつく。

「お疲れ、やったな」

 差し出された手を取って立ち上がる。前回のような立ちくらみも体の痛みもない。恐怖もない。気象師として、初めて任務を完了した。体の奥から、嬉しさに似た高揚感を感じる。これを自信というのだろうか。

 今回はまこもさんのサポートがあってあの技が出せた。本来ならひとりでやらないといけない。

——次の目標はこれだな。

 前回とはまったく違う。顔を上げて空を見上げることができた。自分が守ったこの天気を目に焼き付ける。

「ありがとうまこもさん。俺、もっと修行して、みんなに追いつけるように頑張るよ。気象師の誇りを持って」

 ジャケットのポケットに手を突っ込んでガムを膨らませている。これは彼女なりの返事だろうか。そもそも聞いていたのかわからない。マイペースな彼女の瞳は俺を見つめていた。

“キーンコーンカーンコーン”

「やっば、もうそんな時間」

 チャイムに流されて校舎に戻る。一時はどうなるかと思ったけど、無事に終わってよかった。

「頑張れよ」

 ひと言そう言って、彼女は廊下を歩いていった。俺も制服に着替えて教室に戻る。

“ピンポーンパーンポーン”



蓬木よもぎ、お前トイレ長すぎだろ。どこ行ってたんだ」

「すみません……」


   ◯


「「かんぱーい!!」」

 おのおの飲み物を手に取って掲げる。大きな円卓を大人数で囲う。白黒の戦闘服がチームとしての一体感を演出している。

 ここは城内のとある一室。十人座れる回転テーブルが四台置いてあった。空間も十分にあって、宴会にはもってこいの場所だった。

 どうしてこうなったかというと——


『ただいまー。なんかいい匂いする』

『おかえりお兄ちゃん、いまカレー作ってる』

『まじか、ちょうど食べたかっ……あれ、まこもさんからだ。もしもし?』

“班長から呼び出しだ。今すぐ来い”

『え、ちょっと!? もしも……切れてる』

『どうしたの?』

『ごめん、用事できたわ。じゃっ』

『あ、ちょっと……。お兄ちゃんのばか——』


 ふたつのテーブルには料理が乗せられていた。豚の角煮、小籠包、黒い卵、野菜炒めなど見慣れたものからそうでないものまで種類豊富だった。

あさ、お前の歓迎会なんだから遠慮しないで食え!!」

 ズーウェンさんの基準で料理が盛られる。雑なのになぜか皿から溢れてないのが不思議だ。そして量が多い。

 みんな前回と今回の任務のことを知っているようだった。俺が口を開くまえに「初討伐おめでとう」と労ってくれた。第零班の人と最初に会ったのは契約の儀のとき。そのあとも特に機会がなかったため、実質初めましてだ。

 隣に座って綺麗に小籠包を食べているまこもさんに助けを求めた。

「インキャかよ」

「なにお!?」

「まあまあタオファ、新人くんには優しくですよ」

 後ろからすっと現れて肩に手を置かれた。振り向くと、色白の顔立ちが整った美青年がいた。戦闘服はズーウェンさんとちょっと異なっていた。振袖のように長い袖丈、長く垂れた帯。黒くさらりとした長髪を髪留めで止めている。

「初めまして、私はフーヤンと言います。タオファと同じすいとくで、個性は湖です」

 声を聞いているだけなのに、マッサージを受けているような心地よさがあった。見た目や話し方も相まって、戦闘員というより軍師のような印象を受ける。

 フーヤンさんが自己紹介をしたのを皮切りに、他の人も順番に説明してくれた。


「あたしの名前はランラン! この大きいのが飛飛でこっちの小さいのが想想、あとまだいるんだけどみんな寝ちゃったんだよねぇ。あ、パンダ饅頭食べる?? 美味しいよ!」

「それがしは六華仙がひとり、ズーミン。班員の中で二番目に年長だ。とくで個性は土石流。よろしく頼むよ」

「次は私ね。名前はシャンメイもくとくで個性は香木。普段はお香のお店をやっているの。興味があるならお姉さんが教えてあげる」

「俺はリーゼン、見てのとおり虎だ。よろしく」


 個性豊かな自己紹介が終わり、一旦頭を整理する。

——え、虎? どう見ても虎だよね?? 本人も言ってたけど。

 体格はズーウェンさんのようなボディビル体型。手も足も虎だし、尻尾までついている。

 さすがに本人に聞くのは気まずい。蒲さんにまた助けを求めたが、パンダ饅頭を頬張っていた。「な、なに……あげないよ」と、いかにも俺が饅頭を狙っているかのような反応をしてきた。

 もろもろ諦めのため息をついて、受け入れた。

ズーウェンさん、これで全員?」

「あとは……あれ、ダーアン来てなくねぇか?」

ダーアンはそれがしの部屋で休んでるよ。腹を下して、小指をタンスの角にぶつけたと言っておった」

 話によると、俺と背格好が似ている人いて、究極に運が悪いらしい。よく雷に打たれるんだとか。不幸体質より、雷に打たれて平気な体に疑問を抱く。

 飲み物を口に運んで、ふと二つ目のテーブルを見る。奥のほうに静かに座って、ちびちびと酒を飲んでいる人がいた。見るからに顔がいかつい。ひと言も話していないのに、眉間にしわが寄っている。

 じっと見ていると、フーヤンさんがその人に声をかけた。

ウージョウ、あなたも自己紹介したらどうです」

「うっせぇ、俺はそいつを第零班とは認めてねぇ。ぱっとでがしゃしゃってんじゃねぇよ」

 俺と一切目を合わせず、静かに言葉を置いた。

 盛り上がっていた空気に気まずさが流れる。

 カタンッとおちょこを置く音が響いた。

「すまないね、悪いやつじゃないんだ。許してやってくれ」

 リーゼンさんが優しく場を取り繕ってくれた。またみんなが和気藹々と食事を始めても、依然として渋い顔をしていた。ズーミンさんや他の人と会話をしているところを見ると、別に孤立しているとかではないみたい。

 彼がこうなのはいつもどおりらしいけど、叱られたみたいに心がキュッと締め付けられた。

「そういえば、第零班の班長って……? ズーミンさんとか?」

「あー班長は……」

「わしじゃ!!」

 俺とフーヤンさんの間から元気よく飛び出したのは陛下だった。驚いた拍子に変な声が出た。

 いつもの赤い正装ではなく、俺らと同じ戦闘服を着ていた。ひとつ違うのは固有の柄がないこと。まこもさんの鯉、俺の蔦、ズーウェンさんの火炎など、個々の能力を示した柄が戦闘服に描かれてなかった。

 何事もなかったように、フーヤンさんがコップにフルーツジュースを入れて手渡す。両手で落ちないようにしっかりと持ってそれを飲む。その姿はまさしく小学生。

——あさがおもこんな時期あったなぁ。

「んまい! やっぱ最高じゃのう。ところであさよ、なんでわしが班長なのか疑問に思っているじゃろ」

「そ、そうでございまするるぅ……」

 急に現れた陛下に対する緊張で敬語がおかしくなる。

「そう固くならなくてよい。今日は無礼講じゃ。それにわしが班長の理由も難しくない。わしがお主らと契約をしている。ただそれだけじゃ」

「陛下はあずまの文化好きですもんねぇ。どうせそれも理由なんでしょう?」

「バレておったかっ!!」

 敬語を使ってはいるけど、王室にいるときのような厳粛さは感じなかった。主従関係というより、もっと単純で深い絆で結ばれていた。仲間という言葉がしっくりきた。

 ここで改めて俺が新入りだって気付かされた。

「コホン、まあともあれ、お主が第零班に来たこと嬉しく思うぞ。今日の活躍と契約を祝して乾杯じゃ!」

“カン”

 両手で差し出されたコップに、両手で持って乾杯する。花が咲いた笑みは無邪気で、俺を安心させる。彼女の発言も同じで、その見た目に反して大人の余裕と陛下の威厳が詰まっていた。言葉のひとつひとつに説得力があった。

「飛飛! 元気じゃったか!!」

「陛下! パンダ饅頭あげる!!」

「おいリーゼン、今度こそお前に腕相撲で勝ってやる!」

ズーウェン酔いすぎ。まず水でも飲みなよ」

「ほう、これはいい香りですね」

「気疲れに効くお香よ。試作品でよければあげるわ」

 飲んで食べて、話して遊んで。気が置けない仲との宴会はさぞ楽しいだろう。新参者の俺でさえ頬と気が緩んでしまうのだから。

 

「ちょっと休憩」

 部屋の外に出て背伸びをする。こんなに多くの人と関わったのは小学校ぶりで、ちょっと疲れる。もう時間も遅いけど、まだ帰る様子はみられなかった。おそらくまだ飲み食いするんだろう。

 背伸び終わりに遠くを眺める。廊下をちょっと歩いたところに人影が見えた。

 近づいてみると、そこに彼女がいた。

まこもさん」

蓬木よもぎか、どうしたんだ」

「ちょっと風に当たりたくて」

 そこは初めて華仙境に来たときに通った場所。初めて街並みを見た場所。

 まこもさんの隣で街を眺める。

 一面に広がるネオン街。夜でも明るく、昼間とはまた別な人の営みを感じる。

 あそこがおつゆさんの店、あそこが鍛冶屋、俺らの家は多分あそこらへん。街を知っているから余計に楽しめた。

「私はここの景色が好きだ」

 独り言をこぼすように、静かに話し始めた。

「天気を予想して、あずまに行って、てんを倒す。それの繰り返し。だからたまに自分の存在意義がわからなくなるんだ。もちろん、私らがいないと世界は崩壊する。そんなことはわかってる。だけど、あずまたみは天気なんて気にもとめてない。人の気持ちですら考えない」

 手すりに腕を置いて、そこに顔を埋める。じっと遠くを眺めて続きを話す。

「だからこの景色を見ていると、少し気が楽になるんだ。役に立ってるんだって思える。あずまが無事ならここも平和。そう思うようにしている」

 言葉の節々に感傷の情を感じる。限りなく本音に近かった。でも見えないほんの少しの本音が根深かった。気軽に聞けるわけもない。たとえ親友や恋人になったとしてもそれを受け止めるのは難しいと思う。

 彼女にとってこの景色は曇天から漏れるひと筋の光なのだろう。雨が降った大地をかすかに照らしているんだろう。己の命を削って、俺たちを守ってきたんだろう。


「ありがとう」


 * * *


 唐突にそう言った。

 植物の蔓のようにゆっくりしっかりと心に寄り添う。気づいたときにはすでに包まれていた。

 別にこいつに恋心があるわけじゃない。世話は焼けるし、才能の持ち腐れだし、なに考えているかわからないし。それでも、だれかにお礼を言われたことなんてあっただろうか。いや、気象師としては一度もない。

 仲間から感謝されることはもちろんある。でも蓬木よもぎの言葉は仲間というより、いちあずまたみとして、いち友人として言っているようだった。気遣いじゃない本心だった。

——気象師を選んでよかったのかもな。

「どういたしまして」

 そよ風が髪をなびかせる。目の前の景色がさっきより明るくなった気がする。街もそういう気分なのかな。

 横目でチラッと蓬木よもぎを見る。両親が殺されたっていうのに、濁りがない瞳に夜景を映している。私はそんな早く吹っ切れなかった。

 それでも出会ったころと大して変わっていない。ただひとつ言えるのは……。

「あ、いたいた。ふたりともー、お茶とお菓子準備できたよー!」

「今いくよー! お菓子だってさ。行こっか」

——兄貴だな。

 寒くもなく涼しくもなく、肌に馴染むような天気。雲ひとつなく、欠けた月が私たちを照らす。ほのかに香る茶葉と砂糖を辿って、私の居場所に戻っていく。

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