【第六天 初陣】

「これより契約の儀を始める。我、サンと契約を結ぶ者、前に出よ」

 待ちに待ったこの日。ようやく正式に組織に配属される。これで家族を守れる。それを噛みしめるように一歩前に踏み出す。

 後ろにはまこもさんがいる。それだけじゃない。十人くらい人がいた。おそらく第零班のメンバーだろう。男女で多少デザインが違うけど、全員が正装を着ていた。

 戦闘のときに着る白がメインの白黒衣装とは対照的。黒に赤いラインが入った中華風の正装。厳かな雰囲気がビシビシと伝わってくる。もちろん、俺も着ている。真新しい服の香りがする。陛下の前にいるのもそうだが、場に合わせた服を着るとより心が引き締まる。

 陛下が木簡を取り出して詠唱する。

「五行の理を統べる神よ、我が身を依代に契約を交わしたもう。蓬木よもぎあさ、我に忠誠を誓え」

 そばに置いていた仙器を献上するように持ち上げる。先週届いたばかりの俺専用の武器。代理品と同じ短穂剣で、剣首には水晶が施されている。鞘や持ち手の装飾も代用品とは比べ物にならない。植物を模した模様と花が彫られている。

 陛下が木簡をすっと仙器についけた。その瞬間、仙器が淡く光り出した。

——これが契約の儀……。

 緊張も忘れて眺めていると、左肩に痛みを感じた。痛みと言っても、友達につねられた程度の痛み。気のせいじゃないけど、反応するほどでもない。

 木簡は消えて、仙器も元の状態に戻った。

「これをもって、気象師として蓬木よもぎあさを正式に認める。配属先は第零班。皆、力を貸すように」

 陛下の言葉に後ろの人たちが力強く返事をする。その圧力に負けそうになる。

 儀式が終わり、後ろに下がる。一番端に並んで、陛下の言葉を受け取る。

「天気の加護が在らんことを」

 ただの決め台詞とわかっていても、陛下の言葉が体に染みる。本当に加護がついているかのような、今ならなんでもできるような、そんな気分にさせられる。

あさタオファは残れ。早速じゃが、任務に行ってもらう」

——初任務……!! しかも今!?

 他の組員がすすすっと退室していく。端にいた俺らはポツンッと取り残された。立ち上がって陛下の前へ行き、また跪く。

「場所は北海道札幌市。行けばわかるが、低気圧と高気圧が不自然に接近している。それを解決しろ」

「「御意」」

あさが慣れるまではふたりで行ってもらうことが多くなるだろう。お互いの気を使って精進したまえ。あと……」

 陛下が言葉を詰まらせた。なにやら深刻そうに眉をひそめている。ただごとじゃない雰囲気が伝わってくる。任務のことなのか、俺のことなのか、はたまた第零班のことか。陛下が口を開くのを待っているけど、怖い。

 側近の人も顔に手を当てて、複雑な顔をしている。いったいなんなんだ……。

 そのとき、まこもさんがひと言言った。

「わかってます。あれですね」

「誠か! よし、お主らを期待しとるぞ」

 相変わらず、眉間にしわを寄せている側近の人。対して満面の笑みで俺らを見送る陛下。もしかして、俺だけ状況を理解できてない?


   ◯


 北海道札幌市、さっぽろテレビ塔、展望台。

 大通公園にある電波塔で、時計台と同じく、札幌のシンボルとなっている。ちなみに、非公式キャラクターのテレビ父さんが公式キャラより有名になっている。

「見ろよ蓬木よもぎ、噴水が見え……あ……。なぁ小銭持ってないか?」

「なにしてんのまこもさん! 今任務の途中でしょ!! それに展望台って有料でしょ」

 双眼鏡を両手にしっかり持って、呑気に景色を眺めていた。初任務で気合が入っているのもそうだけど、ちょっと気になることがあった。

 まこもさんは戦闘服のポケットを漁って小銭を取り出す。しかしそれは華仙境のお金。試しに入れてみると、双眼鏡が動いた。引き続き景色を楽しみながら、会話する。

「どうせ他の人には見えてないから大丈夫。それに高いところからのほうが天気わかりやすいだろ。てかお前、契約の儀のときどっか痛くなかったか?」

「あ、やっぱそうだよね。左肩が急に」

「うーん。私は左の骨盤あたり」

 話の内容が見えなくて疑問に思う。まこもさんが「見てみな」と左肩を指差しながら言ってきた。襟を引っ張って隙間から見てみると……。

「なにこれ!?」

 タトゥーのようなものが彫られていた。模様は今着ている戦闘服にもある角ばった陰陽太極図だ。

「それのマークは蓬莱仙國の気象師である証。契約の儀で忠誠を誓うと、それが刻まれる。あずまたみには見えにから安心しろ」

 つまり、あの契約の儀は型式ばったものじゃなく、本当に陛下と主従関係を結んだということ。別に裏切るつもりはないし、他の組員に追いつけるように頑張る。けど、このマークの意味を知ると、背中が重く感じる。まるで国を背負っているような感覚だ。

「クッソ……あいつら肉まん食ってやがる」

——まこもさんは……特になにも思ってなさそう……。

“ブォン”

「「!?」」

 今、なにかが通り過ぎて行った。異常なほど濃厚な気の塊、そんな気がした。まさかこれが高気圧……。

 さすがの事態にまこもさんも双眼鏡から手を離す。今通り過ぎたってことは近くにいるということ。こんな都心で暴れられたら一般人に被害が及ぶ。それに今日は休日の昼間。展望台からでもわかるくらい人が大勢いる。

「この感じ……もしかしてとく?」

「ああそうだ。とりあえず、降りて索敵。どっかに低気圧があるから注意しろよ」

 一気に臨戦態勢に入る。これが記念すべき俺の初任務になる。

“今日のお天気です。札幌全体で晴れ予報ですが、突風や……”


“チン”

「エレベーターで降りるんだ……」

「なんか言ったか?」

「なんも……。それより、てんは?」

 あたりを見渡すもなにも異常は見られなかった。空を見上げても快晴、風はそんなに強くない。

——土、土、土……。だめだ、なにも思いつかない。

 まこもさんの指示に従って相対的に気圧が高いほうへ行く。

 この大通公園は道路に沿ってできた細長い公園。長さにして約一五〇〇メートル。その端にある歩道スペースを走り抜ける。

「お願い、思い違いであってくれ……!」

 西八丁目あたりまで来たとき、それはいた。

 大きさは人より少し大きいくらい。骨が浮き出ている細い手足に、ボサボサの髪の毛。地面に手をついて、砂をいじっているようだ。今回は前回に比べて人っぽさがある。まあそれでも化け物に変わりはない。

 西八丁目と九丁目には遊具がある。遠くのほうで子供達が遊んでいるのがわかる。幸いにも、てんがいるのはなにもない広々としたところ。戦闘するにはうってつけの場所。

 被害が出るまえに討伐しないと……。

「いやーおいしかったね、あそこのパンケーキ」

「うん。でも、札幌ってあんなに並ぶんだね」

 嫌な予感が的中した。


——あさがお……!!


 近くのベンチで友達ふたりと座っていた。昨日、友達と出かけるって言っていた。だから任務場所が札幌だったとき不安だった。まさかあさがおを狙って……。

 あさがおたちは俺もまこもさんも、てんも見えていない。どうする。どうする。

 風が急に止まった。てんの周りには砂がふわっと浮いてまとわりついている。嵐のまえの静けさ、その言葉が脳裏に浮かんだ。

——もう二度とあんな思いはしたくない!

「私がサポートにまわる。蓬木よもぎは隙をついて……」

「おりゃぁぁぁぁ!!」

「ちょ、待て!!」

 剣を抜いて走り出した。まこもさんがなにか言っていた気がするけど、手遅れにはなりたくない。今ここで仕留める。

 てんはじっとして動かない。今がチャンスだ。前傾姿勢で一気に間合いを詰める。大丈夫、この日のために毎日修行してきた。このてんがなにを思っているか知らない。けど、妹を守ることは変わらない。それが俺が気象師になった理由だから。

 吸収、増幅、循環、放出。腕を通して剣に気を送る。手前で跳躍して上から叩き込む。

——いける……!

「ケケ」

 てんと目が合った瞬間、突風が吹いた。砂まじりの風に体が吹っ飛ばされた。

「うわっ!!」

 完全に空中に放り出されてなすすべがなかった。そのまま元いた地点に落ちた。地面に全身を叩きつけられる直前で、まこもさんが片手で支えてくれた。俺を見ることなく、じっと敵を見つめていた。ただ無言で敵を観察していた。

「ご、ごめん……」

 返事はなかった。まるで俺なんていないかのように。それもそうだ。まこもさんひとりのほうが動きやすいに決まっている。

 地面に膝をついたまま下を見ていた。立たなきゃいけないのはわかっていた。でも足がいうことを聞かない。

蓬木よもぎ、もう一回突撃してこい」

「え……?」

 いたって冷静だった。俺に嫌味を言っているわけでも、むかついているわけでもなかった。まこもさんの目線はまっすぐ任務遂行を見据えていた。

 ここで座っててもなにも始まらない。まこもさんにはきっとなにか考えがあるんだろう。彼女の言葉を信じて、立ち上がった。

「はぁぁぁ!!」

 跳躍して斬りかかりと、さっきみたいに吹っ飛ばされる。正面は砂が舞って狙いが定まらない。狙うは足元。

 大勢が崩れるギリギリまで重心を下げて足元を水平に切り込む。

「ケッケケ」

 刃が足に到達するまえに、また砂まじりの風にあおられた。完全に尻餅をついて、隙を見せている。

——まずい……!!

 しかし、てんはびくともしなかった。見えていないのか、それとも罠なのか。状況を整理するためにいったん下がる。

まこもさん、このてんって……」

「黄砂だ。春に発生しやすいてんで、砂塵を操るのが特徴だ。このまま気が衰退していけば問題ないんだが、どうやら違うらしい。さっきより力が増している。このままだと札幌は砂に埋もれるな。あの様子だと、大きいのを一発ぶち込むつもりなんだろう」

 つまり今は力を溜めている状態。攻撃したときに動かなかったのはそういうことか。

 てんとくもくとくの俺と相剋の関係。気だけみれば相性はいい。それにまこもさんのすいとくは俺にとって相生だ。ふたりの気を使えば高火力の打点を生み出せる。

 サポートがまこもさん、切り込むのが俺。彼女もそう言ったが、「ちょっと待って」と考え込んでしまった。目を瞑って顎に手を置く。そうしているうちに、てんを取り囲む砂の量が増した。突風がときおり発生して木々を揺らす。

「今の強かったねぇ。ビル風ってやつかな?」

「今日の天気予報で突風がなんとかって言ってた気がする」

 あさがおたちはまだ怪しんでいない。それがいいのか悪いのか。できれば違和感を感じて屋内に避難してほしい。地下や建物の中ならてんの影響を受けないはず。あさがおが無事ならばどこでもいい。ここから逃げて。

「突風……そうか! 蓬木よもぎ、私は低気圧のほうに向かう。お前はこいつの相手を頼む。急に暴れるかもしれないから注意しろよ」

 そういうと颯爽と駆け出した。理由を聞けないまま俺はひとりになった。てんは依然として動いていない。あさがおもベンチに座っている。

「やってやるよ……! 俺が守るんだ。この街もあさがおも」

 剣を構えて、グッと力を込めた。


 * * *


 陛下が言っていた——


『低気圧と高気圧が不自然に接近している』


 気圧が高くて、あのてんばかり気にかけていた。冷静になって周囲の状況を見れば明らかにおかしな場所がある。低気圧だ。

 てんが気を吸収して高気圧になるのは理にかなっている。近くに低気圧があるのは通常ありえない。気の流れで低気圧が発生してとして、近くても数十キロメートルや百キロメートル離れた場所にできる。こんな数十メートル場所にあるはずがない。

 西四丁目まで戻って、大通公園から札幌駅方面に走った。道ゆく人は私に気がついていない。多少ぶつかっても致し方ない。今は急がないといけない。

 突風が吹いて街路樹を揺らす。次第に気圧が低くなってきた。

「私の予想が正しければ……」

 大通公園と札幌駅のおよそ中間。札幌市北三条広場、通称アカプラ。

 北海道庁赤れんが庁舎や赤れんがテラスが近くにあり、地面は赤れんがが敷き詰められている。脇にはイチョウ並木があって、定期的にイベントごとを催している場所。

「あった」

 広場の中央にそびえる一本の砂の柱。まるで木のように根を張っている。上部にある球状の突起物に土の気が吸われている。そのせでい周りと比べて気圧が低くなる。突風が吹くのもこの気圧差が原因とみて間違いない。

 吸収された気はおそらくてんに送られている。早くなんとかしないと、てんが覚醒してしまう。

 ジャケットは着たままで仙器を取りだす。双水を首にかけて軽くストレッチをする。相性はいいと言えない。水の気を使うと、かえって強化しかねない。単純な物理攻撃を叩き込む必要がある。

 仙器を構えて、呼吸を整える。


「まったく、面倒なてんだ」


 低姿勢で弾けたように走り出した。勢いをそのまま双水にのせる。右手を放して左手を軸に回転させ、後ろから回ってきたところを右手で掴む。体も一緒に回転せ速度を上げていく。左手を放し、右手を使って鞭のように振り回す。狙うは柱の根元。

“ブオン”

 突風で双水があおられた。速度が激減した一撃は表面の砂を数粒落としただけ。それどころか、周りに砂をまとい始めた。

「これは厄介だな……」


 * * *


 敵の攻撃を剣で受け流して、前方に回避する。

「急に攻撃してきたぞ……! どうなってんだ」

 さっきまで大人しかったのに……どういう風の吹き回しなのか。一撃一撃はそんなに重くはないが、速度が速い。それにくわえ、砂で視界が遮られる。攻撃をいなすので精一杯だ。

——まこもさんが注意しろって……まさか、向こうでなにか起きたのか。

“キンッ”

 他人の心配をしている暇はなかった。てんと距離を離したいが、砂のせいで距離感が掴めない。今見えている砂はおそらく気が具現化したもの。でもいつ黄砂が札幌に降り注ぐかわからない。

 黄砂の被害はインフラ、作物、人体にまでおよぶ。降り始めたら最後、砂と混乱が街を包む。

「どうすれば……あ! あれならワンチャン」

 修行のときにこっそり練習していた技。といっても、ズーウェンさんやまこもさんの真似だけど。

 剣を両手で握って集中する。剣先に意識を向けて、送る気の量を増幅させる。イメージは植物の蔦を剣に巻きつけるように。それを何重にも重ねて剣を大きくさせる。

「技名とか……ってそんな余裕ない! 集中集中……」

 練習のときはうまく形成されなく、体の気も消費してダメだった。でも今回はいける気がする。それが着ている戦闘服のおかげか、はたまた近くにあさがおがいるからか。もしくは気のせいか。

 剣に巻きついた蔦は先端を尖らせた。切り込むというより突き刺すのに特化している。突き刺したあとは気を解放して四方八方に蔦を伸ばす。というイメージは万端。

「よし、あともう少し……」

「ゲゲェェェ!!」

 飛びかかってきたてんを寸手でかわす。溜まっていた気が散ってしまい、ただの剣に戻った。

「くっそ……気を溜める時間がない! それになんかこいつ怒ってる……?」

 それだけじゃなかった。気を大量に使ったせいで、体内にほとんど残っていない。これ以上気を使うと命の危険がある。

 予想以上に代償がひどく、目の前がテレビの砂嵐のようにかすむ。

「ケケケケケケ!」

 体はふらつき、剣を持っているだけで精一杯だった。右から、左から。高スピードの連撃をサンドバックのように受け止めるしかできなかった。

——あさがおは無事か……。

 気を逸らした瞬間、てんの爪が頭上から襲いかかる。

「やばい……!」


 * * *


「ぺっ……! 三小……砂が口に入りやがる……。体術も文字どおりサンドバックみたいで全然効かない。どうすれば……」

 砂の塔に傷ひとつなく、さらに規模を増していた。こういう無生物を模したものはやりにくくて仕方がない。動きというものがないし、隙も伺えない。基本、返し技や相手を翻弄するのを得意としている。こういう単純に破壊しろというのは専門外だ。

「ゴホゴホ」

「大丈夫?」

「なんか急に埃っぽくない? それになんだかクラクラする」

 通りすがりの人々に影響が出始めた。大気中の気を吸収しすぎて、今度は人からも気を奪っている。このままだと気の枯渇で死人が出る。

 あずまたみに砂が見え始めているのも非常にまずい。予想以上に早い。この公害を阻止しなければ。

「せいっ!!!」

 双水を柱に巻きつける。絡まったのを利用して、一気に引っ張る。折れてくれたら上々、固定されれば至近距離で気を打つことができる。どっちにしろ……。

「なにっ!?」

 鎖はそのまますり抜けた。勢い余って後ろに倒れた。上を見上げた瞬間、砂の塊が私を狙っていた。

「まずい……!!」


 * * *


 右からのひっかき、後ろにまわって噛みつき。飛んでから踏みつけ。

 敵の動きが素早くなるにつれて、俺の体力は奪われていく。砂の奥からてんが睨む。狂気に塗れた瞳は俺の体を震わせた。


 そのとき、心の奥がキュッとする感覚がした。


「無理……」

 涙がもう出かかってる。目を瞑って、必死で見ないようにした。体に力なんて入らなかった。ただただ、恐怖で固まっていた。

——任務なんてどうでもいい。俺の知ったことか! 天気は自然現象なんだよ……!!

 無責任なことはわかっていた。俺だってこんなこと思いたくない。でも責任感より恐怖が遥かに上回っていた。

 正直いって情けない。今流れてる涙はどっちの涙なのか。

「ケッケケケケ」

「もうどっか行けよ!!!」

 手に持った仙器をてんに向かって投げた。しかしそれが当たることはなかった。すっと避けられた。嘲笑うような雄叫びが聞こえてくる。

 耳を塞いで独り言をぶつぶつと言う。こうすると、自分の声以外なにも聞こえなくなる。それでいい。何時間でもいい。耐えていればじきに済む。もしあいつが俺を引き裂こうとしても、見えてなければ怖くない。一瞬で終わるはず。どうにしたって逃げれない。それがわかっているから、余計に心臓がバクバク動く。残り少ない体力を削っていく。

——死にたくない死にたくない死にたくない……!!!

“リン”

 頭の中に鈴の音が響いた。はっとして目を開けた。顔を上げると、そこにはてんがいた。体は正面を向いているが、顔だけ横を向いている。じっと何かを見つめている。


 そのとき、心の奥がキュッとする感覚がした。


「やめろぉぉぉぉぉ!!!」

 枯れた叫びは自分に響いた。枯渇していたはずの気力も体力も限界を超えた。がむしゃらに走った。手をついて芝生を掻いた。間に合ってくれ、やめてくれ。そんな感情が俺を動かす。

 案の定、てんは走り出した。あさがおに向かって。それも、俺を追い抜いて。

——動け動け動け!! 動けよ!!!

 何度試しても、足は動かなかった。

 気力じゃもうどうにもならなかった。

 てんが欲望のままに両手を伸ばす。

「あさ……がお……」


「お兄ちゃん?」


「陀玖流流星招、ばくりゅう!!」

 轟音が鳴り響く。一瞬滝のようなものが見えた。その余波は凄まじく、打撃地点を中心に水飛沫がたった。

 水飛沫とともに、てんも消えた。まるで川が河縁を削ぐように、水に流されていった。

 そこに残っていたのはまこもさんだった。仙器片手に、もう片方をジャケットのポケットに手を突っ込んでいた。疲れた様子は見受けられなかった。川のせせらぎのように涼しげに投句を見ていた。

 仙器をしまってゆっくり近づいてくる。

「まこ……も……さん」

「しゃべらなくていい」

 そう言うと、俺の背中に手を当てた。じんわりと暖かくなったと思ったら、不思議と体が軽くなった。目が覚めるように視界も脳もはっきりとした。

 乾いた大地に水を垂らした感覚に似ている。体の芯にまで染み込み、やがて満たされる。

「水がなければ木は枯れてしまう。相生を利用した応急処置だ。まだ動くなよ」

 懐から陣符を取り出した。それを地面に貼り付けて発動させる。

 人ひとり分がすっぽりと入る陣が形成された。

「回復陣符だ。ここにいれば一定時間、気を蓄えることができる。ちょっとした傷も治るけど、これも応急処置だからな。陣が切れるまでおとなしくしてろ」

 さっきは指一本も動かせなかったのに、今は座ることができる。

 まこもさんはどこか歩いていった。それについていくこともできず、言われたとおり、おとなしくすることにした。なんとも情けない。

「あれは……俺の本心だった……」

 逃げたい、怖い、死にたくない。すべてに嘘偽りがなかった。そしてそれを体現した。

 妹守ると決めたのに、妹を探すと決めたのに。

——誓ったのに……。

 陛下の前で契約の儀をしたとき、修行を始めたとき、家族が殺されたとき。そのときあった気持ちはどこへ行ったのか。厳しい修行を乗り越えた意志はこんなにも弱いものだったのか。気象師になったのは浅はかだったのか……。

“カチャ”

 まこもさんが目の前に立っていた。手には俺の仙器が握られていた。

 それを受け取り、静かに目を落とす。

「仙器を手放すな。これはお前の意志だ。後悔したいのか反省したいのか、自分の頭で考えろ」

 はっと目を開く。俺はなにも言えなかった。責め立てるように言ってるわけじゃない。いつものまこもさんの口調で涼しげに言っていた。それが余計に心に刺さる。これを後悔と言うんだろうか。

 俺の顔が剣に映る。ひどく、ひどく、惨めだった。

 大通公園に風が吹いた。柔らかな夏の風が木々を揺らす。天気がよくなった証拠。でもそれはまこもさんのおかげ。俺はなにもしていない。

 初陣は苦い結果となった。

「そんなにへこむなよ。いじめてるみたいじゃないか。それにまだ仕事は残っている」

 そういうと、親指で後ろを指さした。そこには小さなてんが数体いた。大体中学男子くらいの身長。ボケット突っ立っているもの、しゃがんでいるもの、砂を出しているもの。見た感じ害はなさそうだった。

「土の気が散って、その余波でできたてんだ。放っておいても害はない。でも倒しても問題はないし、そっちのほうが安全。頼めるか?」

「……うん」

「よし」

 重たい体を持ち上げる。重たいのは体だけじゃない。剣も、心もだった。

 まこもさんの意図は読めた。俺のためだ。不甲斐ないという言葉に尽きる。

 彼女がポンッと軽く背中を押してくれた。深呼吸して走り出す。練習どおりに斬りかかり、重心を前にして別のてんを突き刺す。

 あっという間に倒せた。

「やればできんじゃん。初討伐おめでとう」

「うん。でもこれを初には入れたくない。もっと修行しないと……」

 太陽が雲に隠れて、地面がかげる。涼しく感じたのも束の間、雲が通り過ぎて眩しい光に照らされる。

「じゃあ最後の仕事に取り掛かるか」

「まだあるの?」

「ああ、最重要任務だ」

「ゴクリ……」


  ◯


「うまいぃ!!」

「陛下、あまりそういうのは……」

「いいじゃろ、この“まるごとやんバナナ”略して“やんバナ”がうま過ぎてたまらん。お主もひと口どうじゃ?」

「結構です」

「ど・う・じゃ??」

「じゃあいただきます……っ!? ま、まるごとやん……!!」

「じゃろ!」

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