【第一天 雨(あめ)】

 桜というのはとても不思議な植物だ。特別香りがするわけでもないのに、桜の味や香りといわれたらなんとなく想像できる。春になると桃色の花を咲かせて、夏には深緑の葉を身につける。秋には赤く染めあげて、冬には雪が積もる。

 この木ひとつで四季を感じられる。五感を刺激する。忘れたい記憶も、思い出す。


 俺は桜が嫌いだ。過去も今も、これからも。

 私は桜を知った。過去のも今のも、これからのも。


 季節に流されて、景色は変わる。雨の日、晴れの日、曇りの日。天気ひとつでガラリと姿を変える。


 手を伸ばせば触れられそうな距離に君はいる。でも触れてはいけない気がする。雨の雫のように、触れば割れてしまいそう。

 手を伸ばせば触れられそうな距離にあなたはいる。でも触れられないの。あなたが晴れ空みたいに、眩しすぎるから。

 

 雨のち曇り、曇りのち晴れ。


 晴れのち曇り、曇りのち……。


 俺は……。

 私は……。

 

 雨が好きだ。


   ◯


“続いて、全国の天気予報です。天気お姉さんの佐藤さーん”

 毎朝見る天気予報。別に注意深く見るわけじゃない。テレビをBGMの代わりにして、学校に行く準備をするだけ。雨が降ってれば音でわかるし、窓を見れば晴れているかどうかわかる。俺的には星座占いのほうが重要だ。

「今日も晴れか……ん?」

 テレビの左上を見る。リビングの壁を見る。携帯を確認する。そして念のためもう一回テレビを確認する。

“午前八時になりました。全国のニュースです”

「遅刻じゃん!!!!」

 これが中学校だったらどんなによかったか。徒歩十分で着くのに。でも高校は違う。いつも七時五分の列車に乗っている。札幌駅まで乗って、地下鉄の東豊線に乗り換える。終着の一個手前、月寒中央で降りる。あとは歩いて十分くらいのところに俺の高校がある。

 遠すぎる……。そもそも、俺の家から最寄りの駅までが遠い。自転車で十五分もかかる。ポンコツ自転車のチェーンが外れなければ。

「母さんなんで起こしてくれ……」

 振り向いてもだれもいない。リビングどころか、家全体が静まりかえっていた。そんな気がした。

“ギシッギシッ”

 階段からだれか降りてくる。一階に着いたとき、足音が軽くなる。

「お兄ちゃんなにしてんの」

 汚いものを見るような目で俺を睨んでいる。セーラー服を着て、スクールバッグを肩にかけていた。地元でよく見かける中学生の制服だ。髪の毛もツインテールに結んでいて、非の打ち所がないほどきちんとしている。

「あ、あさがお……」

「入学早々もう遅刻してんの。どうせ寝坊したんでしょ。お母さんは早番だし、起こしてくれる人いないもんね」

「俺の目の前にいる人はどうなんですかね」

「いやよ」

「冷たいなぁ」

「遅刻おつ」

 さっと髪をなびかせて玄関に向かう。蓬あさがお、俺の妹だ。人に興味がないのかと思うくらい冷たい。基本的に仏頂面か見下すような笑いしかしない。まあそれでも、学校の成績はいいし、家でもしっかりしている。面倒くさがるのが玉に瑕だけど。

 しゃがんでスニーカーを履くのを見届ける。ふわっと立ち上がって玄関のドアを開けた。

「学校には行ってよ、お兄ちゃん」

「はいはい、あさがおも気をつけて」

「あいよー」

 パタンとドアが閉まる。相変わらずそっけないけど、なんか嫌な気にならない。妹だからかな。

「あれ、お兄ちゃんも今日学校休みなの?」

 後ろからひょっこり出てきた。パジャマ姿のもうひとりの妹。といっても双子だから俺と同い年。長い髪の毛が寝癖でぐしゃぐしゃになっている。

「あーそういえば、ゆうの学校は開校記念日だもんね」

「そうだよん」

 明るいというか楽観的というか、彼女はふわふわしている。昔、猫を追いかけて迷子になったことがある。こういうのを天然って言うのかな。

 生まれてからずっと俺らは一緒だった。考えていることも、好きな食べ物も一緒だった。性格はちょっと違うけど、お互い支え合ってきた。

「ねぇねぇお兄ちゃん、帰りにさ、シュークリーム買ってきて! ほら、札駅の地下にある有名なお店の」

「しょうがないなぁ。代わりに皿洗いしてよ」

「了解であります!」

 ニカッと笑って敬礼をする。ゆうの笑顔は西陽のように暖かい。どんなつらいことがあっても、吹っ飛んでしまう。

 頭に手を乗せて、優しく撫でる。彼女は決まって猫のように頭を寄せる。無意識でやっているのがあざとい。すぐ彼氏とかできそう。もしそうなったら俺は……なんでもない。

「ってこうしちゃいられない! 列車まだあるかな……あぁもういいや!」

 パパッと制服に着替えてカバンを背負う。教科書とか資料集とかたぶん入ってる。うん。最悪ノートさえあればなんとかなる。今はとりあえず必要なものだけ確認しよう。

——携帯、財布、定期券……。よし、全部ある。

 階段をドタドタいわせながら駆け降りる。母さんがいたら怒られるやつだけど、今日は仕方がないし問題もない。あとは靴を履いて出ていくだけ。

「なにかあったら連絡しろよ。知らない人が来ても出ちゃダメだぞ。それから……」

「はいはいわかったから。お兄ちゃんは学校に行っておいで」

 背中を押されて無理やり立たされる。玄関のドアを開けると眩しい光が入ってきた。

「いってきます」

「いってらっしゃい!」

 今日は天気がいいみたいだ。


“続いてのニュースです。東京でまた異常気象です。現場の……”



 自転車を漕いで最寄り駅まで行く。この時間帯だと駐輪場が埋まってて困る。もちろん、学生の姿は見えない。不幸中の幸いか、ちょうど電車がやってきた。そのまま乗って札幌駅を目指す。

 電車に揺られる。いつもの時間帯はすし詰め状態なのに、今日は席にも座れる。片道二十五分ずっと立っているのは暇だし疲れる。遅刻したという焦りで背中にひんやりとした汗をかいている。

 ポケットからワイヤレスのイヤホンを取り出して音楽を聴く。別に特定のアーティストが好きなわけじゃない。大体その日の天気で聴きたい曲を決めている。

 いつものように窓の外を見る。

——天気いいなぁ。四月なのに寒くない。

 流れる木々、合間に見える青空、たまに現れるビル。午前の太陽が俺を照らす。目をこらせば、オフィスの様子も見えそう。それくらい明るかった。

 入学してからまだ一ヶ月も経っていない。電車に乗って通学なんて、ちょっとした夢だった。いい意味でまだ慣れない。

——じゃあ、今日はこの曲かな。

 既存の曲のカバー。この人の歌声は優しくて、アコースティクギターにとても合う。原曲も好きだけど、こっちのほうがよく聞いているかも。あとはランダムに再生する。

“次は大麻、大麻。お出口は左側です”


「な、なんだよこれ……」

 地下鉄に乗り換えて月寒中央までやってきた。そこまではよかった。それなのに……。

「土砂降りじゃねぇかっ!!」

 自転車を漕いでいるときも、電車に乗っているときも、なんなら札幌駅内から見えた外の景色も快晴だった。地下鉄乗った、降りた、はい土砂降り。とんだ異常気象に一周まわって、ちょっとだけ浮かれる。けどやっぱり面倒くさい。今朝の天気予報はなんだったのか。

「今週ずっと晴れだったんじゃないのかよ……。寝坊したバチが当たったんかな」

 わかっていながらカバンの中を確認する。もちろん折り畳み傘なんてない。今ある装備は学ランだけ。アニメみたいにカバンを上に持ち上げる方法もある。けど俺はスクールバッグじゃなくて普通のリュック。それに教科書やらなんやらが重たくて腕が疲れる。

 コンビニに行ったら傘売ってるかもしれない。駅と学校のちょうど中間の位置にある。そこまで行くなら、さっさと学校に行ったほうがいいか? でも帰りのときに雨降ってたら厄介だし、今買っておいたほうがいいかも。いやまてよ、そもそもお金あるか?

 財布を取り出して中身を確認する。

「三〇〇円って……遠足かよ」

 フーッと息を吸って吐き出す。とうとう諦めがついた。ここにいても止む気配ないし、どうやっても濡れるなら早く行きたい。全日学校をサボるほど不良じゃないんで。

 軽く頭をかく。天気のせいにしようにもできない歯痒さを感じる。

——くっそ、もうどうにでもなれ!

 雨が真下に降り注ぐなか、一心不乱に走った。制服のおかげで多少水は弾いた。どのくらい持つかは知らない。中学校のときから着ているこの制服を信じよう。

 こんな土砂降りなのに傘をささないなんて目立つに決まってる。何人か傘をさした人とすれ違った。みんな好奇の目を向けていた、気がする。雨がひどくてまともに目が開けられない。ましてや走っていると横から雨があたる。雨音も耳奥に響く。他の音なんて聞こえやしない。雨の日独特の臭いもする。

 走れば走るほど濡れる。濡れれば濡れるほどどうでもよくなる。不思議と落ち着いている俺がいる。

“ドンッ”

 雨に目をやられてて人にぶつかった。とっさに振り向いて「ごめんなさい!」と叫んで、すぐ走っていった。失礼だけど、こっちもそれどころじゃない。運よく青信号になった横断歩道を駆け抜けていく。

——そういえば、今の人……気のせいか。


 ◯


 結局教室に着いたころには一時間目が終わっていた。おかげで先生からとやかく言われることはなかったけど、その分友達からはいじられる。制服はびしゃびしゃだし、髪もぐしょ濡れ。幸い、カバンの中はそこまで被害がないみたい。教科書の端がちょっと湿っているくらい。

 あんなに晴れてて暖かかったのに、今や土砂降りで肌寒い。濡れているせいか、鳥肌まで立っている。

——タオル持ってきてない……最悪。

 前髪から滴る雨の雫が、机の上に落ちる。それをぼんやりと見つめていた。ハンカチでどうにかなるかな。いっそのことトイレに行って、トイレットペーパーを使うとか。

あさ……」

 名前を呼ばれて顔をあげる。下の名前で呼ぶのはあいつしかいない。

「なんだよ……ッゴフ!?」

 その瞬間、顔めがけてなにか飛んできた。顔を守ろうと腕を動かすも、間に合わなかった。中途半端に上がった両手は行き場をなくしている。

 顔面に直撃。あれ、でも痛くない。痛いには痛かったんだけど、それは濡れた肌が敏感に反応しているだけ。パサッと腕に落ちたそれを見てみると、タオルだった。

「ちゃんと受け取れよー」

「そんなとっさに反応できるわけないだろ」

 笑いを交えて俺のほうに歩いてくる。学ランの内側にパーカーを着ている。もちろんボタンは閉めていない。校則に引っ掛かるようなヤンチャな格好をしている。それなのに、顔がよくて様になっているのが腹が立つ。

 彼の名前はきよみずせん、小学校の幼馴染だ。卒業とともに札幌に引っ越したせいで、一緒の中学校じゃない。

 高校の入学式当日に話しかけられたのを覚えている。つい数週間前の話だけど。初めはだれかわからなかった。だって昔は半袖短パンで鼻水垂らしているようなやつだったから。人ってこんなにも変わるんだな。

「災難だったな、あさが来るまじでちょっとまえは晴れてたんだぞ。お前やっぱ雨男だろ」

「それな、だから傘持っていかなかったのに。はぁ、晴れ男になりたいよ」

「晴れ男は俺なんで、ちょっとパスで」

「パスってなんだよ」

 行事やイベントごとは昔からなにかと天気が悪いことが多い。運動会も、スキー学習も修学旅行も。キャンプに行こうものなら土砂降りでもはやサバイバル。雨は俺にとってきっても切れないもの。悪い意味で。

 嫌なような、懐かしいような記憶を思い出しながら髪の毛を拭く——


『こらまちなさい。ちゃんと拭かないと風邪引くよ』

『じゃあお母さんやって!』

『もう仕方ないわね』

『ニシシ——』


「おーい聞こえてっか?」

「え、なんだっけ」

「だから、それ放課後までに返してくれればいいから」

「ああわかった。ありがとう」

 仙は自分の席に戻っていった。ちょどそのとき、先生が教室に入ってきた。とりあえず、このくらいでいいかな。短髪だし、触って湿っているくらいならすぐ乾く。それならさっき返しておけばよかった。

 教科書とノートを取り出して、使い終わったタオルを一旦カバンの上に置いた。

「日直さん号令お願いします」



「気をつけて帰れよ」

 学校についてからはなにも起きず、そのまま放課後を迎えた。教室を掃除する人、部活に行く人、駄弁っている人。日常のテンプレがそこにあった。俺も俺でそのモブキャラのひとり。強いてイレギュラーをあげるなら、ずっと雨が降っていることだ。

 さっさと帰ってゲームでもしようかな。

「おいあさ、どうせ暇だろ。掃除手伝えよ」

「なんで俺が……」

「うちの班のやつが欠席して人数少ないんだよ。お願い!」

 返答する時間すら与えてもらえず、箒を押し付けられた。タオル貸してもらったお礼まだしてなかったし、まあ別にいいけど。

——俺ってやっぱ暇人なんだな。部活、入ればよかったかな。

 運動も学業もそこそこ。突出して得意なものがあるわけじゃない。唯一の趣味といえば、観葉植物を育てることかな。地味すぎる……。およそ男子高校生とは思えない趣味だよ。

 このクラスでそれを知っているのは仙だけ。隠しているわけじゃないけど、あまり言いたくない。

「しっかし、雨止まないなぁ」

「それな、ここ数年の北海道まじで異常気象だよな。おととしは雪全然降らなかったのに、去年はドカ雪だったし。四月なのに気温が17度とか大雨とか。地球温暖化してんなぁ、暇なのかな」

「暇つぶしで地球温暖化とか勘弁してほしいんだけど」

 他の県からすれば普通なのかもしれない。でも慣れていないとそれは異常気象になる。東京に雪が降るのと同じ原理。北海道が避暑地なんて呼ばれていたのはもう昔のこと。今は……。

「“試される大地”だな」

「それな」

 雨が降っているせいで、教室内がやけに明るい。まるで夜の学校にいるみたい。その非日常感に少しだけ心が弾む。

 窓の外に見えるプールに水が溜まってしまうんじゃないかって思う。そんなことはないってわかってはいるけど、想像力が掻き立てられる。

 床をはいて、仙と駄弁って、また床をはく。雨の音をBGMにしながら。

「そういえばあさ、ゴールデンウィークなにすんだ?」

「ゲームとガーデニング。あ、久々に原始林行こうかな。仙は?」

「遠征だよ。まじでだるいわ。まあ、他校の女子マネと知り合えるチャンスだし、ついでに他の部活も!!」

「お前の中学時代が気になるわ……」


 掃除が終わって、今度こそ帰宅する。仙に「じゃあな」と言って玄関に向かう。一年生の教室は一階にあるから移動が楽。俺のクラス、一年三組は比較的玄関に近い。遅刻しても、必死で階段を登らなくて済む。

 購買がある広場を抜けて数段の階段を登る。あとは自分の下駄箱を探すだけ。たまに見失うことがある。まだ四月だし、しょうがない。来月にはきっと覚えている。

“キー”

 木造の下駄箱の蓋が開く。

——うわ……まだ濡れてる……。

 朝ずぶ濡れになったのは靴も同じ。いつもより色が濃くなって、重たくなる。ちょっとだけ気分も落ち込む。

「あ、そっか……」

 靴を見て、あることに気づく…

「傘忘れたんだった……」

 依然として雨は降っている。学校来るときにコンビニで買わなかったことを後悔したけど、そういえばお金がなかったんだ。結局、天気には抗えない。

 全力で走れば駅まで五分かからないか? 濡れること自体はそこまで問題はない。それよりも周りからの目線が気になる。隣に全身ずぶ濡れの人がいたら「あ、傘忘れたんだ」ってなるでしょ。まあ確かにそうなんだけど……。それに座席が濡れるから座れない。

 止むまで待つのもひとつの手段。それなら図書館で時間を……。

「あの!」

 ビクッと体が反応する。振り返ってみると、ちょこんっとひとりの女子生徒がいた。黒髪ロングで清潔感があって、聖女や巫女を彷彿させる。こんなシチュエーション、ゲームとかアニメで見たことがある。

 浮だつ心を抑えて、念のため周りを確認する。もちろん俺しかいない。俺に話しかけているのは確実だった。

「え、えっと……」

「こ、これ……! 使ってください!」

 手渡されたのは透明なビニール傘だった。ビニールが手に張り付くような感覚がする。もしかして新品なのか?

「え、でも悪いよ」

「大丈夫です! 私折り畳み傘あるんで! それじゃあ私部活行ってきます!!」

 嵐のように現れて去っていった。玄関でひとり、唖然としている。あの子は一体だれなんだ?

 そういえば、うちのクラスの人だった気がする。けど名前が思い出せない。顔はなんとなく覚えているのに、漢字ひと文字すら出てこない。人違いかな。

 そもそも、仮にクラスメイトだとして、どうして俺に傘を貸してくれるんだろう。目的がわからないし、怪しいとは思う。じゃあなんの疑いがあるのかって聞かれたら、正直わからない。答えのない疑惑に頭を悩ませる。

 タグがついた傘をどうして俺に。

「明日確認するか」

“バサッ”

 暗い雨の中をひとり突き進んでいく。

“パランパラン”

 雨が傘に当たる音が響く。上を見ると雫が当たっては流れ落ちて、当たっては落ちてを繰り返している。

——まあでも、傘があってよかった。

 もしなかったら、これらの雫が俺に当たって染み込む。流れ出すのは髪と服が飽和したとき。要するにずぶ濡れってことだ。

“グチョ、グチョ”

 雨を吸ったスニーカーが音を立てる。ここまで濡れているともうどうでもよくなる。どうせ家に帰るだけだし、これ以上濡れてもなにも変わらない。諦めたほうが気が楽になる。

 信号待ちもおっくうに思わない。学校に行くとき、あんなに急いでたせいか、今はゆっくりまったりしている。きっと普段より歩くの遅いと思う。それもこれも、全部雨のせい。世界をモノクロに変えたのも、信号機の灯りが鮮やかなのも、身に覚えのない感傷に浸るのも、全部。

“パッポ、パッポ”

 信号が青になって歩き出す。足元の水たまりを警戒して一歩踏み出す。傘を後ろに傾けて前を見やすくさせた、そのとき……。

「え、……」


 見てはいけないものを見た、直感でそう思った。


「サ……サ……」

 雨の日に傘をさしていない人は目立つ。その理屈は人以外でも当てはまるらしい。横断歩道のちょうど真ん中、視界の左側にそれはいた。

「サ……サ……」

 身長、約二メートル五十センチ。全身石膏のような灰色の体で、服は着ていない。美術の資料集に載っている石像のように、大胸筋や上腕二頭筋が浮き彫りになっていた。脇腹や背中から不規則に数多の腕が生えている。もちろん正規の腕もちゃんとある。ピクピクと指が動いていることを知らなきゃよかった……。

 血の気が引くような悪寒が全身を包む。それなのに、体はいうことを聞かない。

——やめろやめろやめろ!!

 好奇心が体を支配して、上を見上げる。

「サ……サ……」

 頭らしきものが……なかった。

「サ……サ……」

 まさかと思って目線を目の高さに戻す。ちょうど腹の位置。

「サ……サ……」


「サムイィィィィ!!」


 腹がガバッと避けて口が現れた。生々しいほど人間な歯がずらりと並んでいた。その音圧と恐怖に押されて後ろに倒れる。

「なんなんだよこいつ……!」

 声を出した瞬間、この化け物と目が合った。口を手で塞いで息を飲んで凍った。

——殺される……。

「ウガァァァァァ!!」

 口が体を引っ張るように俺に飛びついてきた。舌を出してよだれを垂らし、不規則に生えた腕をブルブルと震わせてる。腹を空かせた猛獣のように欲のままに欲していた。

——逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ!!

 噛みつかれる寸手で、生存本能が仕事した。手元にあった傘で必死に防御した。けどそんなの意味がなかった。化け物に理性なんて存在しない。その巨体を止めることなく突進してきた。ビニール越しに見える貪欲な歯、生温かい吐息が傘をすり抜ける。

 ビニール傘でどうにかなるわけなく、抗えない力に押されて変形する。

「くっそ……!」

 死にたくない。雨なんてどうでもいい。周りの目なんて気にしない。傘を身代わりに横に身を投げ出した。情けなく地面に顔をつけて、すぐに起き上がる。考える余裕なんてない。とにかく逃げるんだ……!

「ザァァァァァァ!!!」

 足がもつれる。それでも必死で走った。後ろを振り向きたくない、でも振り向かないのも怖い。不規則で重たい足音がどんどん近づいてくる。

——国道に出れば助かるかも。

 ぐっと力を入れて右に曲がって路地に入る。そこはスナックや居酒屋が並んでいて、昼間はシャッターが閉まっている。さっきと比べて道幅は狭いしアスファルトは割れてる。車一台通れるかどうかだ。

 距離にしておよそ一◯◯メートル。いつも通りなら十数秒で走り切れる。

——いける! このままいけば……。

“ドンッ!!!”

 地面が揺れるとともに、巨体が目の前に現れた。距離は離していたはずなのに、それを跳躍ひとつで軽々と超えられてしまった。

 死ぬという恐怖とどうしようもないという絶望が全身を支配する。立つことすら忘れてその場に崩れた。腰が抜けている。脚も腕も力が入らない。頭の中が真っ白だ。

「あっ……あ……」

 とうとう声の出し方すら忘れた。大声を出そうとしても、大量の息が吐かれるだけ。声帯はびくともしない。

「サムイサムイサムイ……ザムイィィィィィ!!!!」

 生温かい吐息が全身を包む。俺の上半身が口の中に入った。あとは噛むだけ、それで俺の人生は終了する。味気ない人生を飾るのは暗い口の中。いいことといえば雨が当たらないこと、わるいことといえばよだれが頬をつたうこと。

 瞳孔が限界まで絞られる。俺が唯一できる最期の抵抗だ。死への恐怖を和らげるために。

——食べられる……!


「せいっ!!!」


 突然視界が明るくなった。それと同時に轟音が鳴り響く。唖然としながらも、首を横に回す。そこには建物にめり込んだあの怪物がいた。

「な、なにが起きたんだ……」

“タタン”

 目の前にふわっとなにかが舞い降りる。人……なのか? まさかこの人が……。

 次から次へと状況が変わって頭がついてこない。今は別の意味で声が出ない。

「あれ、案外しぶてぇじゃねか」

 耳に入った瞬間、謎の安心感を得た。さっきまでがあまりにも人の気配がなかったせいかもしれない。

 男勝りな口調の女性の声。背中から漂ってくる覇気は凡人な俺でも感じる。黒いジャケットのポケットに手を突っ込んで、悠然と立っていた。髪の毛は中華風のお団子で、覆っている白い布には黒と赤でなにか模様が描かれていた。

「あ、あの……ありがとう……ございます」

 自分でも驚くほどに震えていた。久々に声を出した気分だ。

 彼女はピクッと頭を動かして俺を見る。まるで今俺の存在に気づいたようだった。

 若干吊り目のキリッとした目。左目にはほくろがあった。顔も小さく、幼い印象を受けたが、耳元には大きめのピアスがそれを取り消す。数珠ついているふさふさした紐束のような赤いピアス。純白の肌に咲き誇る。

——び、美人だ……。

 見惚れる俺とは反対に、目を開く彼女。

「お前、私が見え……」

「ザアァァァァァァ!!!!」

 彼女の言葉を遮って怪物が雄叫びをあげる。耳をつんざく。脳が揺れる。たまらず耳を閉じてうずくまった。かろうじて開けていた目が見たのは彼女の姿だった。動じず、ただ怪物のほうを向いていた。

 あの怪物に同調するように、雨は激しさを増した。

「同類かよ」

「ちょっと待ってくださいよ! 置いていくなんてひどいじゃないですか!!」

 俺がこの路地に入ってきたところから人がやってきた。相当焦っている、いや、疲れているようだった。

 白黒の中華風の服を着ている。全体的に白の面積が多かった。顔には黒子のような布をつけていたため、どんな顔かわからない。声的に男性かなと想像した。

 彼が到着するのを待たずに、怪物から目を離さないで命令する。

「結界」

「だから! 俺まだ丙級ですって!!」

「使えねぇな」

 雨の中にもかかわらず、彼女の声は鮮明に聞こえた。別に大声じゃなかったはずなのに。ちっと舌打ちをした音も聞こえてしまった。

 羽織っていたジャケットを脱ぎ始めた。すると、その背中にあるものが見えた。

——あれは……。

「おい一般人。これ持ってあいつのとこに行け。死にたきゃそこにいろ」

 乱暴に投げられたジャケットを受け取る。彼女が指さすほうにはさっき現れた人がいた。必死で手招きしている。でもそんな急に体と頭が動くわけがない。依然として腰が抜けていた。

 彼女の服装も白がメインのチャイナ服。ズボンは黒で裾の部分が窄まっている。袖は七分丈で法被のように広い口をしていた。そしてなにより目立つのが背中に大きく描かれた紋章。正方形を角が上下左右にくるように回転し、稲妻のような線で分断する。一方を黒く塗って白い点を、もう片方には黒い点をつける。

 これに似たものを見たことがある。よくアニメや漫画で見るやつ。そう、陰陽太極図だ。かくばっているが、勾玉に見えなくない。全身が白黒の衣装なため、よりそう思ってしまう。

 この紋章の意味は知らない。けどなぜか長い歴史の威厳を感じる。それと同時に恐怖の対象が怪物から彼女へ移り変わった。

「なにしてるの!! さあ立って!!」

 黒子の彼が俺を抱えて走る。引きずられているせいで、うまく足が動かない。彼に身を任せて連れていかれる。外に置いてある店の看板に俺らは身を隠した。

 息が荒いふたり。状況を整理する暇も心の余裕もなかった。

「あんた、“あずま”の人か? 怪我はない?」

「あ、あず? と、とりあえず怪我はないです」

 彼は布を後ろにやって顔を見せる。自分と同い年、あるいはもっと若い青年だった。心配そうにつま先から頭の先まで目視する。そのあと、へその下あたりを触り出した。いくら男とはいえ、際どい部分。ほんの少し顔が熱い。

「木か……ってことは相当まずいな」

「なにがですか」

「いいかよく聞け。これから……」

“ズドン!!”

 さっきまで建物だったものが瓦礫と化す。とっさに看板に隠れたからものの、頭を出してたら飛んできた瓦礫が直撃していた。

 恐る恐る頭を出してみると、あの女性が建物にめり込んでいた。

「三小……ってお前らなんでここにいるんだ! 早く逃げろ!」

 さっきの地点から相当離れていたはず。その証拠に怪物の位置は変わっていない。あんなところから吹っ飛ばされて大丈夫なのか。

 彼女は瓦礫から這い出して「油断した」と言いながら肩を回す。

「帰ったらあいつぶん殴ってやる……!」

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