第2話
「桜井さん」
授業を終えた都筑は、いそいそと廊下に出た鈴音を呼び止めると、すっと隣に立った。
「な……なんですか」
鈴音はじりじりと離れると、上目で笑顔の都筑を見た。
今朝は都筑が職員室へ行ったのを確認してから出席簿を取りに行ったお陰で難
を逃れたが、昨日の今日だ。今2人になったら何をされるか分かったものではない。
「ちょっと準備室来て」
「えぇぇ……。私、ちょっと用事が……」
心底嫌そうな鈴音を目だけで見下ろすと、都筑は声のトーンを落とした。
「また行こうかな。メイドカ……」
「行きます……」
都筑の後について準備室に入る。締め切られた室内にホルマリンの匂いはなく、そこには都筑の部屋である事を示す、あのコロンの匂いがした。
鈴音はコロンのメーカーや種類などわからない。それでも、都筑のコロンの香りは好きだった。とても心地よく、爽やかな香りだからだ。
その香りを静かに吸い込むと、鈴音は事務椅子に腰掛けた都筑の前に立ち、「なんですか」と呼び付けられた理由を素っ気無く聞いた。
「プリント配って」
「これ、さっき持ってたやつでしょ」
都筑が差し出したのは、学年便りだ。だが、それを挟んでいたフォルダを、教室を出る前から抱えていた事を鈴音は覚えている。要は図られたのである。
「あ。バレた?」
「自分で配ればよかったのに。なんでわざわざ」
腹を擦りながらブツブツと文句を垂れる鈴音の細いウエストに手をかけると、都筑は自分の足の間に引き寄せた。
「俺は鈴音と2人になりたかったんだよ」
「当店はお触り禁止です」
「いてっ」
鈴音に手の甲を抓られると、都筑は小さく悲鳴を上げた。
そして、赤くなった手を撫でながら鈴音を軽く睨む。
鈴音は時折腹を擦りながら、明後日の方向を向いたままだ。
そんな様子に嘆息すると、都筑はいよいよ本題に入った。
「お前、あのバイト続けるの」
「時給いいし」
「なんだよ。何か欲しい物でもあるの?」
「教えない」
今日の鈴音はいつもに増してつれない。その上、どこか上の空である。
しかし、鈴音にメイドカフェを辞めさせたい都筑はお構いなしに続けた。
「それにしたって、他にもあるだろ。ビル掃除とか、皿洗いとか。他にも袋貼りとか宛名書きとか、ストラップ作りってのもあるぞ」
「最後の方、内職ですけど」
「あのね。ああ言う店に来る客が何考えてんのか、分かってんのか?」
「実行に移さない分、先生よりはマトモです」
「俺は健全なの」
都筑の言い分に呆れた鈴音は、自分の耳に小指を突っ込んだ。そのままグリグリと動かし、「聞こえませんけど」のリアクションである。
その態度に、都筑はすっと目を細めた。こめかみに青筋すら浮かんでいる。
「桜井さん。人の話はちゃんと聞くように幼稚園で習いませんでしたか?」
「私、保育園だったもん」
「鈴音」
相変わらず頑なな鈴音の胸にこつんと額を当てると、都筑は苦しげに呟いた。
「俺はね、鈴音が他の男の目に触れると思うだけで、気が狂いそうなんだよ」
鈴音は何も言わない。だが、都筑は再び鈴音の身体に腕を回すと、その身体を抱き寄せた。
「ホントは閉じ込めておきたい位だ」
そう言って腕に力を込めた時、鈴音が呻く様な声を上げた。
「鈴音?」
「……たい」
振り絞るように言うと身体を折り、都筑の肩にしがみつく。
「どうした?」
「お腹痛い……」
慌てて鈴音の身体を起こして前髪をかき上げる。
鈴音の顔は真っ青だった。奥歯を噛締めているのが、強張った頬の筋肉で分かる。
「大丈夫か?保健室……」
「いい。生理痛……」
自分を抱き上げようとする都筑の腕に手をかけて引き止めると、鈴音は座り込んでしまった。
「都筑せんせー……あれ?」
ノックもなしに準備室の引き戸が開かれると、副委員長の倉木がひょっこりと顔を出した。
サッカー部のエースでもある倉木は、日に焼けた肌に白い歯が印象的な好青年で、性格も明るく人なつっこい。クラスでも人気者だ。
「どうしたの、桜井」
腹を抱えて座り込んだ鈴音を見止めると、倉木は踵を踏んだ校内履きをパタパタ言わせて駆け寄ってきた。
心配そうに鈴音の肩に手をかけると、その顔を覗き込む。
「大丈夫か?」
「腹痛だそうだ。保健室に連れて行くよ」
倉木と鈴音の間に、割り込ませるように腕を差し込むと、都筑は鈴音を抱き上げようと身体を寄せた。
「悪いけど、どいてくれないか」
しかし、倉木はその場を譲るどころか、都筑の肩を掴むと強く引いた。
「俺が連れてくよ」
倉木は真っ直ぐに都筑の目を見ている。その挑むような目つきに、都筑は顔を逸らした。
「いいよ」
「なんで」
「いい」
『都筑先生、都筑先生。至急職員室まで──』
一瞬の沈黙の後、校内中のスピーカーから、都筑を呼ぶ放送が流れた。
「ほら、先生呼ばれてるよ?」
倉木は天井を指差すと、にっこりと笑う。
2人の視線がまたぶつかった。
「行って来たら?なんかあったら報告するよ。それでいいっしょ?」
「……じゃあ、頼む」
ふっと息を吐いて立ち上がり、蹲る鈴音の頭をそっと撫でると、都筑は部屋を後にした。
都筑が出て行くと、倉木は再び鈴音の細い肩に手をかけた。
「桜井立てる?」
「ん……」
鈴音の顔を覆っている前髪をかき上げると、顔を覗き込む。
鈴音は眉間に皺を寄せていた。顔色も相当悪い。
「マジで辛そうだなあ」
倉木はそう言うと、鈴音の脇下に腕を通した。
「よっ」
そんな掛け声とともに、鈴音の身体がふわりと宙に浮く。倉木が鈴音を抱き上げたのだ。
途端に鈴音の青白い頬にさっと朱がさした。
「くっ、倉木君、いいよ!お……重いから!」
「全然軽いよ。ちゃんと食ってる?」
足で器用に引き戸を開けると、鈴音を抱いたまま、倉木は堂々と廊下へと出て行く。それはまるで、周囲に見せ付けているようでもあった。
「あれー、桜井どうしたんだよ?」
「真っ青じゃんか」
2人の姿に、廊下で立ち話をしていたクラスメイトが驚いたように声を掛けた。
「腹いただって。保健室連れてくわ」
「おー、倉木、役得じゃん!いいなあ」
「なんだよ、なんで倉木なの」
「代われ代われ。俺が運ぶ!」
口々にそう言って集まってくるクラスメイトを蹴散らすと倉木は笑った。
「ダメ。とにかくどけよ、お姫様のお通りだぞ!」
保健室は無人だった。
校医は出張中らしく、その旨が書かれたプレートが、きれいに片付けられたデスクに立て掛けられているのみだ。
「えーっと、胃薬……」
鈴音をベッドに寝かせた倉木は、薬棚をガチャガチャ言わせながら引っ掻き回している。なかなかお目当ての薬が見付からないらしい。
「あの……鎮痛剤……」
鈴音が申し訳なさげに青いパッケージを指差すと、倉木は「あっ」と小さく声を上げた。ようやく鈴音の腹痛の原因を悟ったらしい。
「そっ、そっか。ゴメンな。俺んとこ男兄弟ばっかだから、その……気が付かなくて」
女の子特有の症状を口にするのも憚られるのだろう。倉木は耳まで赤くなっていた。
それを誤魔化すかのように背を向け、シンクで水を汲むと、パッケージのままの鎮痛剤と一緒に鈴音に手渡し、そのまま事務椅子を引き寄せ座った。
静かな室内に、事務椅子の軋む音がやけに響く。
「あの、有難う倉木君。その、もう行っていいよ?」
「うん?もう少しいるよ。チャイムもとっくになってるし。構うもんか」
そう言うものの、会話が続かない。
鈴音も横になれずにいた。気まずい。
再び事務椅子の軋む音が室内を支配した。
「あのさ」
「うん?」
沈黙を破ったのは倉木だった。
暫く「えーっと」を繰り返し、頭を掻いていたが、意を決したように鈴音を見る。
「俺って、一応副委員長じゃん?」
「え?うん」
「だけど、なんつーか、都筑っていっつも桜井使ってんだろ」
「うー……うん」
「忙しいときとかさ、その……。俺を頼っていいんだぞ?って言うか……」
そこまで言うと、倉木はまた黙ってしまった。
制服のズボンの上に手を付き、宙を見ているその姿は、何か考え込んでいるかのようでもある。
「有難う。倉木君優しいね。でも……」
「桜井」
大丈夫だよと続ける間もなく、倉木が鈴音の言葉を遮った。そして。
それはまるで静電気のようだった。
ほんの一瞬の事だったのに、合わさった唇が痺れた。
自分が知っているそれとは全く違う。不安と、恐れの混じったぎこちないキスだ。
「俺、桜井が好きだ」
「倉……」
直ぐ目の前の倉木を見て鈴音は言葉を失った。
キスされた自分よりずっと苦しそうで、痛そうで。そんな思い詰めた表情の倉木を見たのは初めてだったからだ。
「返事急がないから。じゃ、そろそろ行くわ」
鈴音は保健室を出て行く倉木の背中を、ただ呆然と眺めていた。
何も言えなかった。どうしたら良いのか判らなかった。
自らも好意を抱いていたはずの倉木の気持ちに動揺した。
そして、思い浮かんだのは──。
「鈴音、大丈夫か」
ベッドを取り囲んでいるカーテンを引いて入ってきたのは都筑だった。
ぼんやりとベッドの上に座っている鈴音を見ると、怪訝そうに眉を顰めている。
「何かあったの」
「べ……別に」
「ふーん」
鈴音は明らかにうろたえている。それを見逃す都筑ではなかった。
毛布をいじっている鈴音の手を掴むと、身体ごと横倒しにした。
「ねえ。俺に隠し事出来ると思ってるの」
圧し掛かってきた都筑からは、あのコロンの香りがする。それは鈴音にとってもはや媚薬のようなものだ。
顔を背けると、深く吸い込まないよう、浅い呼吸を繰り返した。
「何でもないもん」
「倉木なの?」
「何が」
「前に、鈴音が言ってた好きなやつだよ」
「先生はオトナだからイチイチ気にしないんでしょ」
我ながら子供染みていると思ったが、それは鈴音の意思とは関係なく口をついで出た。
「ウソだよ」
口を尖らせる鈴音の顎に手をかけると、都筑は無理矢理自分の方へ向ける。
互いの鼻が触れ合うほどに顔が近づくと、都筑は目を閉じ、鈴音の鼻先を自分のそれで撫でた。
「言ったろ。他の男の目に触れるだけで、気が狂いそうだって」
都筑が言葉をつなぐ度、鈴音の唇が都筑の唇に突付かれる。
それはキスされるよりずっと激しく鈴音の身体を震わせた。
ピリピリと体中の産毛が逆立つような感覚。早くなる鼓動。上下する胸。
まともに都筑を見る事すら出来ない。胸が痛い。絞られるように痛いのだ。
「今だって、嫉妬でおかしくなりそうだ」
長い前髪の間から覗く都筑は、倉木と同じ様に苦しげだった。
「待っ……」
「鈴音の所為だぞ」
抵抗しようとする鈴音を無視してそう呟くと、都筑は鈴音の首筋に顔を埋めた。
準備室のデスクの前で、都筑はぼんやりと窓の外を見ていた。
小テストの採点を済まさなくてはいけないと言うのに、全く手が付かない。
重ねたテスト用紙を、ボールペンの尻で何度もトントンと叩いては溜息を吐く。
──やっぱり昨日、保健室で何かあったな。
鈴音は何も言わないが、それでも今日はどこかおかしかった。
自分を避けるのはいつものことだが、倉木のことすら避けていた。
目が合えば逸らし、声を掛けられれば適当な返事をしてはそそくさとその場を離れていた。
都筑はそれが気に食わなかった。
鈴音は意外に鈍い。倉木が鈴音を好いている事など周知の事実だが、恐らく鈴音本人はそれに気付いていないはずである。
それがいきなりあの態度だ。間違いなく、何かあったのだろう。
そしてそれは──。
「失礼しまーっす。プリント持って来ましたー」
いきなりガラリと引き戸が開くと、当の倉木が入ってきた。
面食らった都筑はしばし黙って倉木を見てたが、あからさまに溜息を吐くと、かけていた眼鏡を外しこめかみを揉んだ。
「……僕は、桜井さんに頼んだんだけど」
「知ってますよ」
倉木はプリントの束を丸めると、ポンポンと自分の肩を叩いている。
そんな倉木を上目で見ると、都筑は腰掛けたまま白衣の腕を組んだ。
「じゃ、なんで倉木君が持ってきてるのかな」
「いいでしょ?桜井バイト行くって言ってたし」
「バイト……ね」
軽く嘆息すると、ぱらりと落ちた前髪をかき上げ、長い足を組みかえる。
目の前の倉木も問題だが、あのバイトも問題だ。
倉木は頷くと、「それに」と続けた。
都筑を見る目が鋭くなっている。挑戦的と言っていい。
「俺、先生に用があったから」
「僕に?」
「そうだよ」
言いながら、倉木も制服の腕を組む。
室内に、緊迫した重い空気が渦巻いた。
「何?」
「宣戦布告」
「何の」
「とぼけるなよ、先生。桜井の事だ」
事務椅子の背にもたれた都筑は、無言のまま倉木を見詰めている。
そんな都筑の態度を余裕と受け取った倉木は、ギリギリと奥歯を噛締め、丸めたプリントの先を突き付けた。
「負けねえからな」
「ふうん……。凄い自信だね」
都筑はプリントの束を手の甲で払うと、口の端を上げた。
それは「真面目で優しい先生」を脱ぎ捨てた都筑だ。
「で、何?先制攻撃はそれだけ?他にも爆弾持ってるの」
都筑の問いに、今度は倉木が口の端を上げる番だった。
「昨日、保健室で告ったよ」
「そう。それで?」
「キスした」
一瞬、都筑の眉がぴくりと動いた。しかし、倉木からふいと顔を逸らすと事務机に肘をつき、倉木とは反対の窓の外へと視線を移す。
開け放たれた準備室の窓から風が入り、生成りのカーテンがふわりと舞い上がる。
カーテンに視界を遮られた都筑は、立ち上がると膨らんだカーテンを掴み、タッセルで纏めながら口を開いた。
「だから?」
「だから……?」
倉木には都筑の表情を窺い知る事は出来ない。だが、都筑に馬鹿にされているように思えて無性に腹が立った。
噛締めた奥歯がギリギリと音を立て、握り締めた拳は色を失う。
都筑は慌てるでもなく、食って掛かるでもない。17歳の自分との違いを見せ付けられた。
「なんだよ。大人のヨユーってやつ?」
「そうじゃないよ」
そう言って再び倉木へと向き直った都筑の顔には、やはり大人の余裕が見受けられた。倉木ににっこりと笑顔すら見せているのだ。
「でも、別に鈴音がOKした訳じゃないでしょ」
「鈴音?」
倉木の眉がつり上がった。
そんな倉木の表情を見ると、都筑は繰り返す。
「鈴音。鈴音は君を受け入れたの?俺にはそんな風に見えなかったけど」
「なんでンな事アンタ分かんだよ」
「君が保健室を出た後、充分に口直ししといた」
都筑はさらりと言って事務椅子に座り、足を組む。
それを唇を噛んで睨みつけると、倉木は拳を震わせ、声を荒げた。
「ぜってぇ!ぜってぇ負けねえからな!」
「俺も譲る気ないから。あ、プリントかして」
都筑が差し出した掌にプリントの束を叩きつけると、倉木は準備室を出た。
「あのヤロー」
「あのガキ」
──絶対許さん!
日曜日。
鈴音は買い物に出かけた。新しい参考書を購入する為だ。
ファッションビルの地下に位置する大型書店で幾つもの書棚を巡り、ようやく
探していた参考書を見つけた鈴音は、天井近くまでそびえ立つ書棚を見上げ溜息をついた。
「はー……」
お目当ての本は随分と高いところから鈴音を見下ろしていた。
「届く……かな」
ミュールの踵を上げ、精一杯背伸びをして指先を伸ばす。
しかし、爪先と指先が震えるのみで、あと少し届かない。
「も……もう少し……」
その時、突然鈴音を大きな影が覆うと、肩先から白いシャツの腕が伸びた。
「これ?」
「あ、はい。すみま……」
目当ての本を手渡してくれた腕の持ち主に礼を言いつつ顎を上げると、見慣れた都筑の顔がそこにあった。
「あんまり背伸びすると、ヘソが見える」
Tシャツの下から覗く鈴音の素肌に、背後から回した手で触れると、都筑は書棚と自分の体で鈴音の体を挟み込み、鈴音の耳元でそう囁いた。
「ちょっ……。人が来るよ」
「じゃあ、暴れないで。目立つよ?」
「暴れなくったって、先生がいるだけで人目を引くんだよ」
「人目を引くのは俺のせいじゃないよ。鈴音のせい。それと、ミニスカート姿の鈴音も可愛いけど、 外に出る時はアバヤが望ましいね」
アバヤと言うのはイスラム教信者の女性が身に着ける全身を覆う布の様な物の事だ。
都筑は鈴音に肌を露出するなと言っているのである。
「ウチは浄土真宗ですから。って、そんなこと関係ないでしょ。今日はどうしたんですか?ってまさか、張り込み……」
都筑の腕から逃れると、鈴音は疑わしそうに美貌の担任を見た。
「あのね……。丁度この上の階に買い物に来たんだよ」
このファッションビルには、スポーツショップ、AVショップ、服飾品等の様々なテナントが入っている。
そして、地階にあるこの書店の上の階、つまり1FにあるのがスポーツショップとAVショップだ。
「買い物?何買ったの?CD?」
「サンドバックとグローブ。取り寄せだけど」
「何それ。トレーニングでも始めるんですか」
「ストレス解消ってとこかな。ホントは藁人形でも良かったんだけど。なんだかもう、無性に何かを殴りたくて」
目を閉じ、はーっ息をつくと、都筑は握った拳を震わせた。
「危ない……」
「失礼な。ところで鈴音、これから予定は?」
「特にないですけど。これ買ったら帰ろうと思ってたし」
「そう。じゃあ、出掛けない?」
にっこりと笑って覗き込んでくる都筑を、鈴音はまたも疑わしそうに見詰めた。
「人気の無い藪の中とかだったらお断りします」
「俺ってそんなに信用ないのか」
「ご自分の胸に手を当ててみたら何かわかるんじゃないですかー?」
鈴音に言われると、都筑は素直に右手を胸に当てた。
しかし、直ぐに困ったように眉尻を下げる。
「……意外に逞しいって事しかわからないんだけど」
「……どこですか」
「そうだなあ。大胸筋とか、腹直筋?」
「帰ろっかな……」
「冗談だよ。海は?散歩しに……なんだよ」
都筑は眉間に皺を寄せた。
目の前の鈴音が、ハニワのような顔で自分を見上げていたからである。
「健全でびっくりした」
「あ。不健全が良かった?なんなら車の中で……ウソだって」
支払い前の参考書を振り上げる鈴音に、都筑は慌てて降参のポーズをとった。
「うわ。結構暖かい」
「今日は天気がいいからね」
車で20分ほど走った所にある海岸に着くと、2人は浜辺へと下りた。
夏ともなれば海水浴に来る客でごった返す海岸だったが、春先と言う事もあり、日曜日の昼下がりだと言うのに人はまばらだ。
さくさくと音を立てる砂を踏み前を歩く都筑を追うと、鈴音は自分より随分と高いところにある、整い過ぎるほどに整った顔を見上げた。
「海ってよく来るんですか」
「たまーに。浜辺歩いてると……ほら。こう言うの」
都筑は長身を屈め、砂浜から何かを拾い上げた。
「シーグラスって言うんだけど、こう言うのが結構落ちてたりするんだよ」
都筑が拾い上げたのは、深い青緑色のガラス片であった。
ガラス片と言っても、長い間波と砂に揉まれたせいで角など無く、形は滑らかな石のようだ。そして表面はスリガラスのようになっている。
時間と自然が作ったそれには、優しい美しさがあった。
「わ。キレイ……。集めてるの?」
「なんとなくね。欲しい?」
「うん」
「それじゃあ、これは鈴音にあげような」
都筑に手渡されたシーグラスは温かかった。砂浜で温められたのか、それとも都筑の手の温もりか。
鈴音はそれをギュッと握った。
「有難う」
「どういたしまして。そうそう、桜貝もよく落ちてるよ」
「桜貝?」
「うん。淡いピンク色の小さな貝だよ。薄くて脆くて。鈴音の爪みたいな」
そう言うと、都筑は鈴音の手を取った。
「ちょっと座る?」
「え……うん」
砂浜に並んで座った2人だったが、直ぐに鈴音がスカートの中を気にしだした。
「うー……。砂入っちゃう。ザラザラして気持ち悪い」
立ち上がると、スカートの中の砂を落とし、ヒップに付いた砂粒をパタパタと払う。
そして、再び隣へ腰を下ろそうとした鈴音の手首を都筑が握った。
「おいで」
握った手をぐいと引き寄せると、都筑は自分の腕の中に転がり込んで来た鈴音を抱き上げ、胡坐の上に横抱きにした。
「砂の上よりいいでしょ?」
「そう……だけど……人が見てるよぅ……」
鈴音の顔は真っ赤だ。都筑のシャツを掴み、その胸に額を押し当てている。
そんな鈴音の小さな頭を都筑は優しく抱きかかえた。
「あっちもカップルなんだから、いちいち気にしないよ。大丈夫」
都筑の言う通り、こちらを見たカップルは何事も無かったように手を繋ぎ、浜辺の散歩を続けていた。
「ほらね」
「先生……」
「うん?」
「今日、何か違う」
「そう?」
「優しいし」
「俺はいつも優しいでしょ」
「優しい……けど、半ば無理やりと言うか。直ぐ……なんて言うか」
「押し倒したり、キスするし?」
鈴音が言いにくそうにしていることをズバリ言ってのけると、都筑はくすくすと笑った。
「うん……」
「でも、今日は襲わないでしょ」
「うん。な……何?」
鈴音はとっさに身構えた。
都筑がじっと自分を見ていたからだ。これは来る。そう思った。
だが──。
「しないよ」
「なんだ……」
「ガッカリ?」
「は?」
肩の力を抜いた鈴音の顔を覗き込むと、都筑は更に聞いた。
「ちょっと寂しいとか思った?」
「べ……別に……」
「そう。俺は寂しい。鈴音が思ってる以上に俺は鈴音を好きだから、傍にいたいし、触れたいし、キスしたい」
真面目な顔でそう話す都筑を、心配そうに見詰めると、鈴音は都筑の額に掌を当てた。
「どうしたんですか?熱あるとか?」
「あのなあ……」
がっくりと項垂れると、都筑は溜息をついた。
そして額に掛かった髪をかき上げると、遠くで飼い主らしき少年と走り回っているラブラドールを目で追いながら、ぼそりと呟く。
「ガマンしてるんだよ、俺は」
「なんで?」
「あれ。して欲しいの?」
「そう言う事じゃなくて。なんかあったんですか?ホントに先生ヘンだもん。ちゃんと言って」
鈴音は真剣そのものだ。ここで誤魔化したところで食い下がってくるだろう。
「うーん。倉木がね」
倉木の名を口にしただけで、鈴音の体がぴくりと反応した。
そんな鈴音をちらりと見ると、都筑は一気に話した。
「倉木が宣戦布告してきた。保健室で何したかまで言ってきたよ。うーん、何て言うのかな。本能的に、俺が自分にとってどういう存在なのか嗅ぎ取ったんだろうな。……ま、そんな訳で、一応あのバカに敬意を表してガマンしてたりするんだよ、俺」
都筑は、ただ黙って自分の胸にもたれている鈴音の髪を梳くと、宙を見ている鈴音の目を覗き込んだ。
「鈴音、倉木の事好きなの?」
「……わかんない」
「でも、保健室で聞いた時、否定しなかったでしょ?」
「そう……だけど……。何もかもわかんなくなってきた。今も自分がわかんない」
「どうして?」
「だって……、なんか私も寂しいんだもん」
鈴音の声は震えていた。都筑は声と同じ様に震える華奢な体を抱き締めると、何度も小さな頭を撫でた。
「ごめん。もういいよ」
「良くない」
「へ?」
意外な反応に面食らっている都筑のシャツを引くと、鈴音は小首を傾げ、上目で都筑を見た。
「先生」
「はい」
「いつもみたく……して」
ぼそぼそとそれだけ言って俯いてしまった鈴音を愛しそうに見つめると、都筑は鈴音の顎に手を掛けた。
「好きだよ」
「ところで」
“いつものように”され、ぼうっとしている鈴音に、都筑は切り出した。
「あのバイト、辞めろ。気が気でない。禿げそうだ」
「でも……、買いたい物、あるんだもん」
「……なんだよ」
「ひみつ」
言いながら、鈴音はちらりと都筑の腕時計を見た。
都筑の腕時計は狂っている。本人はさほど気にしていないようだが、何度あわせても狂ってしまうのだ。
「気になるなあ」
「教えない」
鈴音はその容姿にそぐわぬ頑固者だ。都筑もそれはよく理解している。ここまで答えを拒否している以上、いくら聞いたところで話しはしないだろう。
都筑は早々に白旗を揚げた。
「わかった。でもね、俺、嫉妬深いらしいんだよ」
「今頃気付いたんですか」
「まあね」
そう言うと、都筑はにやりと笑った。
「他にも気付いた事がある」
「何?」
「どうやら俺はガマン出来ないタチらしくて」
「はあ」
訳が分らずきょとんとしている鈴音の手を取り立ち上がると、都筑は鈴音の肩を抱いた。
「そろそろ人気の無い藪にでも行こうか」
「ぜっったい、イヤ」
「ケチ」
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