PRISONER

桜坂詠恋

第1話

 伏見高校化学実習室は静かだ。

 普通教室棟と離れている上に、体育会系クラブ員が犇めくグラウンドの丁度反対側に面していることもあり、放課後となれば授業中以上に静かになってしまう。

 4月も半ばを過ぎ、吹く風も徐々にではあるが温かく感じる。

 そんな実習室の、少し生成りがかったカーテンが開け放たれた窓で風をはらみ、潮の満ち干きを連想させるかのようにゆっくりとはためいた。

 そのたびに鼻をかすめる柔らかなコロンの香り。

 2年D組の桜井鈴音は、実習台に備え付けられたシンクの中で濡れた手を止め、ふと視線を上げた。

 少々のくせはあるものの、柔かくしなやかな黒髪が鈴音の肩を滑り落ちる。

 自分の立つシンクと対になった向かいのシンクでは、少女の担任でもある化学教師、都筑駿が長身を持て余すかのように体を折り曲げ、黙々とビーカーを洗っていた。

 27歳と校内の教師陣の中では割と若い上に、その辺のモデルも裸足で逃げ出すような、整った容姿に長身。

 物腰は柔らかく丁寧でありながら、それに相反するストイックさが加わって、女生徒達にかなりの人気を博している人物である。

 その為、実習室利用のあった放課後には残って片づけをしなければならない週番が回ってくる日を、少女達は今か今かと待っている。

 ハンサムで優しい担任に少しでも近づきたい。そのチャンスがこの週番なのだ。

 しかし。

 鈴音にとってこの週番が回ってきた月曜は憂鬱そのものだった。ただでさえ委員長と言う立場上、都筑と係わる機会が多いのだ。これ以上2人きりになる時間を増やしたくなかった。

 なぜなら──。

「どうしたの」

 鈴音の手が止まっていることに気がついたのだろう。都筑は少し困った顔で「手が動いてないぞ」というと、幾つかのビーカーやフラスコを鈴音の前に差し出した。

「これも……」

 その時、蛇口の上から手渡ししたメスシリンダーの底が「ガチン」となったかと思うと、氷砂糖のように飛び散った。

「……つっ!」

 割れて落下するメスシリンダーを反射的に受けようとしてしまった鈴音が、小さく悲鳴を上げた。

 真っ白なシンクがみるみるうちに赤くなる。

 血の苦手な鈴音は眩暈を感じた。水を流していた所為で実際量以上の失血のように見えるのだ。

 膝ががくがくしたかと思うと、足元から床にすい込まれそうになる。

 そんな体を背後から受け止めたのは他でもない都筑だった。

 都筑の濡れて一層冷たくなった手が自分の右手首をとり、彼の胸が背中に感じる。

 華奢に見える担任の胸は意外に厚くて固い。鈴音は急に、こめかみの辺りがうずく様な感覚に襲われた。

「ああ……。出血ほど酷くないな。破片も入ってない」

 そんな声も、何処か遠くから聞こえるようだ。

「指先だから、しばらくは痛みが気になるだろうけど」

 都筑はふらつく鈴音をスツールに座らせると、その場にしゃがみ込みポケットを探った。ハンカチを探しているようだが、見付からないらしい。

 と、その時。

「……!」

 それは、心臓に杭を打たれたかと思うほどの衝撃だった。

 都筑の唇が鈴音の指先に触れ、その奥で彼の舌先が赤い血を舐め取るのを感じたからだ。

「なに?」

 都筑は事も無げに言うと、鈴音を見上げる。

「や……やめてください」

 そう言って引っ込めようとする鈴音の手を握ると、都筑は強く引いた。途端にスツールに座っていた鈴音の華奢な身体が、都筑の胸の中に転がり込む。白衣の下のワイシャツからは、風に乗って届いたあのコロンの香りがした。

「鈴音、なんでそんな身構えてんの?」

 鈴音は都筑の腕の中で身を硬くしている。そして、そろそろと身体の隙間に手を差し込むと、都筑の胸に当て、力を込めて突っ張った。

「べっ、別に……」

「ふうん?でもそう言うの、凄くそそるんだよね」

 都筑はクスリと笑うと、鈴音の耳元に顔を寄せる。そして片手を膝の裏側へ回すと、掬い上げるように易々と体勢を変え、鈴音の身体をリノリウムの床へと倒した。

「ぎゃっ……たすけ……」

「しー……。外に聞こえる」

 言いながら都筑は鈴音に覆い被さると、露になったその細く白い首に口をつける。そんな都筑の白衣の背中を必死に引っ張りながら、鈴音は抵抗を続けた。

「きっ、聞こえるように言わなきゃ、助けが来ないでしょ!」

 そこで都筑はようやく身体を起こすと、乱れた髪を気だるげに掻き揚げ、じたばたと暴れる鈴音の顔を覗き込んだ。

「……大きい声出したら口塞ぐよ?当然、俺の口でだけど」

「……」

「そうそう。いい子だね。そのまま静かにしてて。ホントに誰か来た」

 渋々黙った鈴音の身体を引き寄せると、都筑はその髪に口付け、鈴音を抱いたまま長身を折って狭いテーブルの下へと入り込んだ。

「狭っ……」

「しー……」

 抱き締められ、必然的に押し付けられた都筑胸から、トン、トンと規則的な心音が聞こえる。鈴音は、その倍以上に鼓動する自分の心音が都筑に聞こえないようにと祈りながら、ぎゅっと目を閉じ、息を殺した。


 ガラガラと実習室の引き戸が開けられると、数人の女生徒の賑やかな声がした。

「あれー。都筑っちいないじゃーん」

「せっかく実習で作ったクッキーあげようと思ったのにねー」

「ガッカリ。お洒落までしたのに」

「お洒落ってかおりん、制服じゃん」

「スカート折って短くしてるんだよ」


──っく……ん


「あれ?」

「どしたの、ゆかりん」

「誰かいるような気がしたんだけど……。なんか聞こえなかった?」

「気のせいじゃない?」

「私も聞こえなかった」

「そだね。帰ろっか、みゆちん、かおりん」


 再び引き戸が閉まり、足音が充分に遠ざかると、鈴音の耳元で都筑がプッと吹き出した。

 くつくつと喉を鳴らし、肩を震わせ、その目には涙さえ浮かんでいる。

「鈴音、声出すなよ」

 そんな都筑から逃れようと身を捩ると、鈴音は真っ赤になって左の耳を押さえた。

「先生が耳噛むからじゃない!」

「良かった?」

 都筑は悪びれもせず、ニコニコとしている。

「いいわけないでしょ!離れてよ」

「イヤ」

 頬を膨らませる鈴音にそう言い放つと、都筑は再び鈴音を床に倒した。

「やだってばッ!」

 逃れようとする鈴音の腕を自分の脇下に通し、もう片方の細い手首を掴むと床に押し付ける。そして、膝を立てようとするのを押し戻すと、自分の足を乗せた。

「ねえ、鈴音。実習、クッキーだったの」

「そうですけど。何か」

 都筑の甘い囁き声も、鈴音には通用しない。白々と都筑を見たかと思うと、ふいとそっぽを向いた。

「俺には無い訳」

「ありません」

「今日は昼飯食べる時間もなかったから、凄くお腹空いてるんだけどな」

「あげません」

「あっそ」

 取り付く島も無い鈴音の態度に都筑はムッとすると、鈴音の肩に敷いていた腕で、手首を掴み直した。

 そして空いた手を鈴音の顎に掛けると、そのまま襟元へと滑らせる。

「じゃ、このまま鈴音を食ってやる」

「まっ……待って待って!」

 ブラウスのボタンに手を掛けた都筑の手を慌てて掴むと、鈴音はクッキーの在り処を白状した。

「かっ、カバン!カバンに入ってます!」

「何それ。俺に食われるのがイヤなの」

 必死な鈴音の姿に、都筑は不満そうだ。

「だから、なんで私なんですか。先生ならハッキリ言って選り取りみどりでしょ」

 鈴音は溜息を吐くと言った。

「そんなの、好きだからに決まってるでしょ。俺、鈴音以外の女に興味ないもん」

 都筑の顔は、何を今更と言わんばかりだ。自分の家でテレビでも見るように床に肘を立て、その手に頭を乗せる。

「知ってるくせに」

「わ……私にだって、好きな人いるんですっ!」

「そ。でも、俺はオトナだから。そう言うのイチイチ気にしないの」

「気にしてよ」

「ヤダね。それに鈴音」

 ゆっくり身体を起こし、鈴音の顔を覗き込むと、都筑は爽やかな笑みを浮かべた。

「そんなにイヤでもないでしょ?」

「イ……」

「俺がイヤなの?」

「べ……別に先生がどうとかじゃなくて……」

 不思議そうに覗き込む都筑の直ぐ下で、鈴音は困ったように視線を泳がせている。

 それを暫く黙って見ていた都筑だったが、再び鈴音に覆い被さると、じっと鈴音の大きな目を見詰めた。

「ねえ鈴音」

「な……なんですか」

 鈴音は既に警戒している。胸の前に両腕を移動させると、ボクシングの防御の体制を取った。

 しかし都筑は鈴音の拳をあっさりと押し下げ、ぐいっと自分の顔を近づけると、にやりと口の端を上げた。

「無駄な抵抗はしない方がいい」

「なななな……」

「動くな」

 これは。このパターンは──。

 キスが来る!

 鈴音は大きく息を吸い込むと、観念したようにギュッと目を閉じた。その数秒後。

「……ホラ。取れた」

 拍子抜けするような都筑の声に、鈴音はゆっくりと目を開けた。

 力を入れすぎていたせいで、まだ目の前がチカチカする。

「へ……?」

「まつ毛にゴミついてた。しかもデカイ」

「ゴ……ゴミ……」

 都筑の指は、子供の爪ほどの綿埃を摘んでいた。勿論、鈴音のまつ毛にこれだけの埃が付いていれば本人が気付かない訳が無い。だが、鈴音がそれに気付く前に、都筑は綿埃を吹き飛ばした。

「鈴音、期待したでしょ」

 ぽかんとしていた鈴音だったが、意地の悪い笑みを浮かべる都筑に気付いた途端、キッと眉を吊り上げ、ワイシャツの胸をドンと叩いた。

「バカッ!先生キライ!あっち行って!」

「ごめん、ごめん。鈴音が凄く可愛いから、つい意地悪したくなったんだよ」

「ふえ」

「おい、泣くなよ。泣くなって」

 鈴音は眉尻を下げると大粒の涙を零した。それは重力に従い、耳へと向かって真っ直ぐな筋を作っていく。

「鈴音?」

「ひっ……ぐ」

 突然蛙のような声が漏れた。しゃくり上げた鈴音の唇が薄く開いた途端、都筑がそれを塞いだのだ。

「ふぐっ」

 息を継ごうと大きく口を開くと、更に深く入り込んで来る。抵抗しようにも、身体からはどんどん力が抜けていった。頭もくらくらする。

 鈴音は眉間に皺を刻んだまま、僅かながら込めていた腕の力を抜いた。

「……ぷはっ」

「ヤだった?……ぶっ!」

「変態!ロリコン教師!」

 やっと開放した都筑の顔を平手で押し戻すと、鈴音はそう言って立ち上がった。

「帰るっ!」

 荷物を纏めると、振り返りもせずにピシャリと勢い良く引き戸を閉める。

「みんな先生の本性知らないんだから!」

 そう言うと、鈴音はスカートを翻し、廊下をどかどか歩いて行った。

「やれやれ」

 実習室に一人残された都筑は立ち上がると、ぱたぱたとスラックスに付いた埃を払い、白衣の胸の前で腕を組んだ。。

「しっかし、マジでイヤなのかな。結構脈アリだと思うんだけど」




 翌朝、科学準備室の前で鈴音は溜息を吐いていた。

 毎朝担任のもとへ出席簿を取りに行くのが各クラスの委員長の仕事である。

 新学期に役員を決める際、それが分かっていたからこそ目立たないよう気をつけていたのに、よりによって、担任である都筑自ら指名したのだから始末が悪い。

 クラスメイトはこれ幸いと、大喜びで委員長を鈴音に押し付けた。

「はーあ」

 もう一度大きな溜息を吐き、コンコンと2回ノックをして準備室の引き戸を開けると、薬品と教材や資料本、教本を山のように詰め込んだ棚に周囲を取り囲まれた準備室の中で、予想通り都筑が待ち構えていた。

「おはよう」

 備え付けの事務椅子に、長い足を組んで座り声を掛けて来る都筑を鈴音は無視すると、机の上のブックスタンドに手を伸ばして出席簿を抜き取った。

 そのままくるりと背を向け、戸口へと向かう。

「鈴音」

 鈴音は返事をしない。しかし、直ぐに出て行くこともしなかった。

 制服の皺を伸ばし、靴下を直す。それは、無視しているのだと言う態度を都筑に見せ付けている風でもある。

「すーずーね」

 あからさまにシカトする鈴音の背中に都筑は再度声を掛けるが、鈴音は知らん顔だ。

 すると、突如として都筑の眉間に渓谷が刻まれた。

「おはようのキスするぞ。スッゴイやつ」

 びくり。と肩を強張らせたかと思うと、ゆっくりと鈴音が振り返った。

 都筑と同じように眉間に皺を寄せている。

「何ですか」

「今日、ウチ来ない?」

 鈴音が口を利いたことで、都筑の機嫌は一気に良くなったようだ。満足そうな笑みを浮かべ、鈴音の傍へ歩み寄ると、柔らかな髪に手を伸ばした。

 しかし、鈴音は出席簿を盾にその手を避けると、つんとそっぽを向く。

「行きません」

「なんで」

「身の危険を感じるから」

「なんだ。カンがいいなあ」

「否定するもんじゃないですか?フツー」

 そう冷たく言うと、鈴音は再び都筑に背を向ける。その背中にしょうがないなあと呟くと、都筑は左手を胸に当て、右手の掌を前に向けて掲げた。

「何もしないように心がけます。出来るだけ。誓えます。多分」

 ウソですと言っているようなものだ。

 鈴音もそれは心得ているらしく、ちらりとも都筑を見ようとしない。

「ダメ。それに今日からバイトなんで」

「バイト?どこの」

「教えません。教えたら来るでしょ」

「うん、行く」

 すたすたと戸口に向かって歩き出す鈴音の後ろを、子犬のように都筑はつきまとう。そんな都筑の胸を鈴音は戸口で押し戻した。

「だから教えません。失礼します」

 都筑の鼻先で引き戸が乾いた音を立てて閉まる。と同時に、懐かしい黒電話のベルが準備室に鳴り響いた。都筑の携帯電話である。

 つかつかと机に向かい、携帯の液晶を確認すると素っ気無く応対に出た。

「なんだよ」

『相変わらず冷たいッスねー』

 のんびりした声でそう応えるのは、都筑の大学時代の後輩、矢木であった。現在は某製薬会社で研究員をしている。鈴音を除いては都筑の本性を知る唯一の人間で、愛想のない応対も慣れっことなっている、ある意味貴重な存在だ。

「今、スゲー機嫌悪いんだけど」

『まあまあ、そう言わないで、ちょっと聞いて下さいよ。ね?』

 都筑は答えない。しかし、それに構わず矢木は喋り続けた。

『今日、ちょっと付き合って欲しいトコあるんスよね。カフェなんスけどー。ちょっと独りじゃ入りにくいって言うか、なんて言うか、テレちゃうんスよ』

「カフェに入るのが?」

『はあ。で、先輩に付き合って欲しいなあーなんて。なんか今日予定あります?デートとか?』

 デートという単語に、都筑の眉がぴくりと反応した。爪先がイライラと早いリズムを刻む。

「別に。何も」

『イヤー!良かったー!』

「おい!俺は行くとは……」

『就業時間に迎えに行きますから!んじゃ』

 矢木は一方的に約束を取り付けると、ブツリと通話を切った。

「あのバカ!」

 乱暴に携帯を折り畳み、書棚へ投げつけようと振りかぶった時、準備室のドアをノックする者がいた。

「都筑先生、いるー?」

「センセー」

 数人の女生徒の声である。

 盛大に部屋中の物をひっくり返したいほどイライラしていた都筑だったが、「真面目で優しい都筑先生」を演じている以上、生徒の前で醜態を晒すわけにはいかない。

「はい。いますよ」

 何度か深呼吸し、急いでクールダウンすると、準備室の引き戸を開けてやった。

「昨日の授業の中でえ、ちょっと分らない事があってー。質問したいんですけどー」

「分らない事?」

「朝礼までにまだ時間もあるしー」

「教えて下さーい」

 女生徒達が抱えているのはお菓子の包みで、教科書やノートの1冊も持っていない。

 彼女達の質問が授業内容におけるものではなく、都筑のプライベートに関してである事は一目瞭然である。

 それでも都筑はにっこりと笑って見せると、入り口を譲った。

「勿論。どうぞ」




 その日一日、何とか不機嫌な都筑から逃れ切った鈴音は、バイト先のロッカールームにいた。

「ふふ。ここなら絶対来ないはず」

 着替えを済ませると、鏡を見ながら鈴音は呟いた。

 都筑の趣味は知り尽くしているのだ。ここなら絶対にやって来ない。

「大丈夫よ、鈴音!」

 鈴音は鏡に映ったメイド姿の自分を励ますと、ロッカールームを出た。

「お帰りなさいませ。ご主人様」

 フロアでは、同じ制服に身を包んだ女の子たちが客を迎えている。

 鈴音がバイト先として選んだのはメイドカフェだった。

 ここではメイド服に身を包んだ女の子が、男性客を「ご主人様」、女性客を「お嬢様」と呼び、コーヒーや軽食とともに「萌え」を販売している。

 都筑はこう言った方面には疎いから、絶対に鉢合わせる事はない。と言うのが鈴音がこのバイトを選んだ理由だった。その上制服も可愛いく、時給もいい。

一石三鳥と言うやつである。

 カウンターに入りトレイを受け取ると、直ぐにフロアへ出た。

 この店では、デビュー1週間前にじっくり研修を受ける事が義務付けられている。

 仕事始めの日に、オタオタとみっともない姿を客に晒さない為だ。

 その為、初仕事であっても、一体何をすれば良いのか鈴音にも分かっていた。

 客がドアの前に姿を見せたら直ぐに迎えに出る。

 胸の前で手を合わせたら指を組み、小首を傾げて少し前屈みになったら、にっこり笑ってこう言うのだ。

「お帰りなさいませ!ご主人さ……」

 そこまで言った鈴音の顔が強張った。

「な……なんでここに……」

 白い綿シャツの腕を組み、可愛い店内におよそ不似合いな深い渓谷を眉間に刻んだ都筑の姿を見止めたからだ。

「学生時代の後輩に誘われたんだよ。無理矢理」

 そう言う都筑の後ろから、野球帽にロイドメガネの男がひょっこりと顔を出した。

 都筑とは対照的な地味さだが、人の良さが滲み出ていると言った風だ。

 男はすっかり固まっている鈴音を見ると、メガネの奥の小さな目を見開いた。

「ひゃー!カワイイっスねえ。ここは可愛い子が多いって聞いて来たけど、本当なんだなあ!あ。僕、矢木です。この愛想の悪いお兄さんの後輩なんスけど、僕はメチャクチャ愛想いいですよ。なーんて、そんな事聞いてないかあ。って、あれ?ひょっとして知り合い?知り合いなの?えー、参ったなあ。先輩も実は好き……」

「おい、矢木」

「はい?」

 都筑は鼻の下を伸ばし喋り続ける矢木を制し、彼の野球帽のつばを押し下げた。

「いたた!メガネが鼻に食い込んでますよう!」

「見るな」

「は?」

「見るなって言ってるだろ」

 帽子を被り直し、メガネをずり上げた矢木の帽子は、再び都筑によって押し下げられた。

 それをもう一度直そうと帽子のつばを上げた矢木だったが、都筑の凶悪極まりない視線にぶつかると、強盗に気付いた店主がシャッターでも下ろすように慌ててつばを下げた。

「えーっと。あの、こうですか?」

 大人しく従った矢木の襟首を掴み、手近な椅子に座らせると、都筑は鈴音の前に仁王立ちになった。

「鈴音」

「何か」

 店内では先輩メイド達によるショーが始まり、ステージ前にはリュックを背負った男達が群がってフラッシュを焚いている。

 都筑はそんな男達を一瞥するも、直ぐに鈴音に視線を戻すと小言を始めた。

「スカートが短い」

 しかし鈴音も直ぐに言い返す。

「こう言う制服なんです」

「愛想よすぎ」

「客商売ですから」

「ご主人様ってなんだよ」

「決まり文句なの!とにかく、他のお客さんにご迷惑ですから、さっさと座って!」

 不服そうな都筑を無理矢理矢木の前に座らせると、鈴音はオーダー表を手に取った。

「で?何にしますか」

「他の客とはエライ違いなんだけど」

 都筑はジーンズの足を組み、見る気もないメニューを広げて踏ん反り返っている。

「オーナーに言いつけちゃおっかなー……」

「何になさいますか、ご主人様」

 ふるふると肩を震わせ、抑揚のない声でなんとか答える鈴音をちらりと見ると、都筑はメニューを戻した。

「鈴音」

「コーヒーでございますね」

 鈴音の頬はぴくぴくと引きつっている。ボールペンの先は、鈴音の感情を代弁するかのように、オーダー表の束に大きな溝を掘っていた。

「俺は鈴音と言ったんだけど」

「チョコレートパフェでしたか」

「毎日来るぞ」

「コーヒーで……勘弁してください」

 その後、都筑は次々とオーダーを繰り返して3時間粘り、全額を矢木に支払わせて帰っていった。

 げっそりとやつれた鈴音を残して。

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