私の中のこの世界

kobaryu

第1章 事のはじまり

子供の頃から不思議なことが好きでした。

好奇心旺盛で生意気、頭でっかちで自分勝手、さらに落ち着きがなくどこか普通の人と違う自分が正直嫌いでした。


幼いころの関心は、もっぱら磁石


お道具箱に入っていた花型でプラスチックで出来たボタンみたいな物。真ん中にフェライト磁石が入っていたのですが、おはじきでもないし、何だったのかは分かりません。

初めてそれに関心を持ち、なぜこれは反発するんだろう、なぜこれは引き合うのだろう、間に紙を挟んでも、間に何も見えないのに互いに影響しあっている。どうしてこんなことが起きるんだろう、と深く疑問に思ったのは小学校1年生の頃でした。


「そういう物なのだ」と認める前に「なぜそうなるのだろう」と疑問にとらわれ、勉強どころではなくなったものです。


近所の町工場を覗くと大型プレス機の壁面に張り付いていた強力な磁石。

指を挟めば低学年の細い指など骨折するほど強い磁力をもったそれをもらってきたり、学校の黒板にプリントを貼り付けるための弱い磁石を勝手に持ち帰ってきたり、砂場で遊んで、もう砂鉄だらけでどうしようもなくなった磁石だったり、ゴミ捨て場にあるスピーカーを分解して取り出した大型の磁石だったり。


当時はネオジム磁石がまだ流通しておらず、磁石といえばもっぱらフェライト磁石。学校で買わされたU字磁石は、磁化されただけなので磁力が弱くてつまらない。


もっと強い磁石がほしい。


当時はなぜそう思うのか分かりませんでした。これって本能なんでしょうか?とにかく、なぜか、より強い磁石に心を惹かれました。


これ不思議ですよね、私だけなんでしょうか。なぜ私は強い磁石に心をも引き寄せられるのでしょう。改めて考えると好奇心だったのでしょうね。


当時は不思議と心惹かれる磁石に興味を持ち、スピーカーを拾ってきてはマイナスドライバーでこじ開け、指を挟んで血豆を作ったりしながらコツコツと集めて、気がつけば何十個もありました。そんなこんなで、家には様々な磁石があり、それらは私の宝物でした。


カセットテープやビデオテープに近づけお気に入りのアニメなど、音質や画質が極端に落ち、原因が磁石だとわかった時は嬉しいやら悲しいやら。


いじめられていた私は学校に行かず、両親が働いている日中、部屋に閉じこもり、父の持つ道具や、身の回りのもので磁石にくっつくものを探したり、磁石を使いレゴブロックみたいな感覚で何かオブジェ的なものを作ったりしていました。良くくっつく重い金属を探しては収集し、周りを金属で囲うと磁力が強くなる性質を見つけたり、色々な発見をしながら遊んでいました。中でもパチンコ球は良くくっついて数珠状に繋がるのでお気に入りでした。そのせいで小学生がお昼頃にパチンコ屋の前をうろつき、落ちてる玉を探しに行ったものです。


学校に行かない午前中、ほとんど毎日ある意味、国営放送の教育番組を見ながら磁石で遊んでました。閉めきったカーテンの中で一人、日々磁石をいじりながら一人遊びをしていたそんなある日、父の仕事で使う金属のボルトを見つけ、手に取りました。

あの冷たさと重さと金属感はなんとも良いものです。重い金属はなぜか強くくっつくものが多い。逆にすごい重いのに磁石君は見向きもしない物もありました。今なら分かるけど多分銅かなんかでしょう。不思議に思いながら色々なものをくっつけたり離したりしながら遊んでいたのですが、たまたま、そばに小学校で使う道具箱がありました。


その中には色々なお道具が入っています、初めて触った磁石もここに入っていたのですが、学校の授業で使うであろう様々な道具の中に麦球(豆電球の小さな奴)が入っていました。今ならLEDなのかな。乾電池の両端に繋ぐため、ケーブルは長いままです。


金属ボルトには溝が掘ってあります。

子供なら何の気なしに巻きますよね? なんとなく巻いちゃいますよね。

金属棒にぐるぐると巻きつけ、磁石とともに意味不明のオブジェを作っていました。金属のボルトにぐるぐる巻きにされた麦球のケーブルと、ボルトに強力に張り付く磁石。

それを近づけたり離したりしていると、なんと偶然にも麦球が一瞬光りました 。多分とても弱い光でしたが、光ったように感じたのです。カーテン閉めてたから。当然理屈も仕組みも知らないまま、電池につながってない麦球が光ったんです。小学校低学年の私が驚かない訳がありません。


なぜ、世界はこうなのだろう・・・・


小さな子供が偶然に、科学でいう磁気誘導を発見できたわけです。いわゆる発電の基礎です。仕組みはわからずとも、いとも簡単に電気が起こせる自然界の仕組みが、この歳になっても不思議でなりません。


電動工具は何故かロマンを感じます。DIYのショッピングセンターに行くと電動ドライバーを触らずには居られないのは私だけではないはず。電力は運動や光、熱といった形に変換され世の中で様々に活用されており、そこには一定の不思議な関連性が有り、科学の世界では法則や方程式として解決されています。

マイケル・ファラデーやジェームズ・クラーク・マクスウェルの様に、自然界の法則を見つけ、それを数式化し理解して、証明し世界の役に立てる。そんな科学の一端を担えれば良かったのですが、私のような高卒凡人の脳では、その証明や論文の理解すら出来ません。だから自分なりにこの不思議な世界を納得の行く形のイメージを作れないかと思っていました。


この文章でいう「世界」とは全ての領域を含みます、もし神々の住む場所があればそこも含み、異次元や亜空間、2次元や4次元、想像された空間をも含むすべての領域の事です。限定された何処かの空間の場合○○の世界、という言い方をしています。


物理的な事象や法則を従うこの3次元の世界や、量子力学やひも理論といったミクロの世界から、宇宙やその外側であろうマクロな世界、重力や量子の不可解な運動。また、同時並行的に存在しているかもしれない余剰次元や、近年あるとささやかれているパラレルワールド。(並行宇宙説)

そもそも何なのかすら理解に苦しむ時間という概念や、それ以上で理解が難しい想像領域の上の世界。果ては意識や自我、思考や愛、倫理や哲学、神や霊、宇宙人にUMA、魂や宗教感といった、まだ良くわかっていないものまで含めて、この世界とはなんて複雑で、それでいて美しく絡み合ってるようにみえるのだろうか、とつくづく思うのです。


この世界とはどういうところなんだろう。

そんな思いに今でも囚われています。


幼い自分が見つけた電気と磁石の関係のように、まだ良くわかってない事、不思議な現象や想像の世界、そこに何らかの法則や一貫した事実は無いのだろうか。と悩み始めたのは20代前半になってからです


一貫した事実とは何か


コインの表の反対側が、裏であることは当たり前で疑う余地が有りません。光りを遮られた場所は影と言い、川は山から海へ流れ、昼と夜は交互にやってきて、太陽は今も光っている、といった世界における事象で、みんなが当たり前だと納得できる事を指します、それはあなたも納得している事です。


いくら神はいないと思う人が居ても、いる人にとっては納得できている事で、逆に居ないという事に納得していればその人にとって神は居ないのです。自然界に確かに存在しているかどうかが確認できない事でも、当人が納得していればその人にとっては事実なのだと思います。


人にはそれぞれ「自分にとって、決着のついてない一貫した事実、以外の物」があります。例えば私にとっての、霊や神の存在です。無神論者ですし。

外国人に「私は無神論者です」というと極端に見下される傾向があります。多くの外国人にとって、存在の証明は重要ではなく、信じる事こそが真実になりうる、そういうことなのだと思うのです。


ただし、科学者は「わからないことは分からない」というべきです。なぜなら科学は神を信仰していません。我々人類が自然界の法則を理解できる形で解明するのが科学ですですから、証明できたことのみを「正しい」とするべきですが、わからないことに「多分こうではないか」という仮説をたてることは間違いではありません。


仮説は証明されるまで仮説でしか有りませんが、証明する術が無い仮説にも価値はあります。

また、すでに別の場所で証明されたことを、本人が知らない場合を「無知」と言いますが、無知も悪いことでは無いと思います。


なぜなら知識は無条件に入ってくるものでは無く、人によって「まだ知らない」事があり、たとえ勉強してもその時点では理解できない事は沢山あるからです。小学生に微積分を理解しろと言っても無理なのと同じで、人にはそれぞれ理解できるタイミングが有ると思うのです。


時々、他人が自分より物事を知らないことを見下す人が居ます、ネット越しでは特に多い気がしますが、それはあまり賢いとは言えない気がします。

事実を知っている人にしてみれば、とんちんかんな意見や仮説でも、その人にとっては立派な仮説であり想像であり真実かもしれず、それは他人に揶揄されるものではないと思うのです。


だから私は自分の想像の世界を恥ずかしいと思わないよう心がけています。


例えばですが、居るかいないかわからない「神」の存在を、心の底から信じてる人を、私は恥ずかしい奴だと思いたく無いし、正直いうと神を信じていない私も恥ずかしいやつだと言われたくないのです。


そう思えるようになる前はひどいものでした。なぜ人は生まれてきたのか、そこに意味はあるのか、死んだらどうなる。なぜ殺したらいけないのか、といった、生きている故に起こる疑問や、何故磁石がくっつくのか、なぜ電気が起こるのか、なぜ光は、なぜ太陽は。という自然界に対する疑問など、解けるかどうかすらわからない疑問に苛まれていた日々でした。


変わり者のせいか、理解力がないのか、頭がいいのか、バカなのかは分かりませんが、自分が納得できていない、まだわかっていない事実の外側の部分が多い私は、そういった謎に好奇心を駆り立てられてしょうがないのです。


鬱に陥っていた当時はそんな「証明のしようがない結論の出ない疑問」の無限ループにはまり抜け出せない生き地獄でした。何らかの謎に囚われて、先に進めなくなっている原因に、私自身が納得の行く形で、世界における当たり前の法則がないものか。四六時中そんなことを考えていました。


既にある「正しい知識」を求め、たとえそれを見つけたとしても、自分が理解できなければ、そんな生き地獄のような無限ループからは抜けだせません。だから、たとえ正しくないとしても自分が納得できる形で、世界の謎を想像してもいいじゃないか。そう思うようになりました。


少し哲学的な話ぽくなってしまいましたが、でも、まぁ


なぜ生まれてきて、なぜ死んでいくのか

この世界はどういう仕組なのか、それが分かったところで


今日の晩飯は納豆ご飯なんですけどね。

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