第2話「天然少女」

「くそ、あの崖をどうやって降りてきた!?」


 振り返ると案の定、先程の魔獣の姿が見えた。

 奴が唸り声を上げると、周辺に風が渦巻く。


「ち……風魔法か!」


 風の魔法を使えるなら、自分の身体を宙に浮かせることだってできる。

 血の臭いを頼りに空を飛び、ここの入り口を見つけたのだろう。


 魔獣は魔法の扱いに長けている。

 魔法の力を暴走させることなく生き延びた魔物のことをそう呼ぶのだから、当たり前といえば当たり前だが……ここまで細かな制御ができる奴は珍しい。


 旧エルフの森から南下するほどに魔物たちが手付かずで放置されていると聞いていたが……。


(噂通り、いや噂以上だ)


 一歩、後ろにたたらを踏む。 


 ひゅん、と、俺がそれまでいた場所を何かが通り過ぎた。

 遅れて頬が裂け、ただでさえ減っている血がさらに流出する。


 風魔法による斬撃。

 足を動かしていなかったら、今頃俺の首は繋がっていなかっただろう。


「きみ!」

「はぇ? 私ですか?」


 耳に入るだけで肩の力が抜けるような、優しい声。

 魔獣を前にしても、少女はどこかのんびりとしていた。

 今の状況が分からないほどの箱入りお嬢様なのだろうか。


 この場所は何か、とか。

 少女が何者か、とか。


 そういうことは全部後回しだ。

 俺はともかく、あの少女だけでも逃してやらないと。


「奴の狙いは俺だ! 俺が囮になっている間に逃げろ!」

「あの」


 少女はすたすたと側まで寄ってきて、俺の腹と頬を交互に見やりながら、


「怪我してますね」


 やはりのほほんとした声でそう確認した。


「そんなことはどうでもいい!」

「だめですよ、ちゃんと治さないと。人間の命は一つしかないんですから」


 この子、世間知らずな上に天然なのか!?


「いいから逃げろ! 魔獣がすぐそこにいるんだぞ!」


 怒鳴るが、少女が動じる様子はない。

 「どこに危ないものがあるんですか?」といった様子で頭に「?」を浮かべている。


 俺たちの押し問答を魔獣が待ってくれるはずもなく、少女の方に飛びかかった。


「危ない!」


 俺は咄嗟に少女を引き寄せ、魔獣に背を向けた。

 鋭い爪と尖った牙が肩を食い破り、俺は為す術も無く魔獣のエサに――。


「えい」


 気の抜けた掛け声と共に、少女が腕を振るった。

 ちょうど俺の肩に飛びかかろうとしていた魔獣の頬に、彼女の拳が当たり――すさまじい速度で壁にめり込んだ。


「はぁ!?」


 全く状況が掴めず困惑する俺に、少女やはりのほほんと答えた。


「あの子を気にしていたみたいなんでぶっ飛ばしました。これで安心ですか?」

「……」


 そんな馬鹿な。

 こんな虫も殺せなさそうな細腕の女の子が、

 冒険者も逃げるような魔獣を、

 素手で倒した。


 にわかに信じられない光景だったが、だからこそ網膜の裏に強く焼き付いた。


「君は、一体何者ボ」


 発した言葉が、途中で意味不明な言語に化けた。

 視界が真っ白になり、身体の平行感覚が消失する。


 魔獣という脅威がいなくなったことにより、緊張が一気に切れてしまったらしい。

 そのせいで俺の身体は急速に限界を訴えてきていた。

 立っていることもできなくなり、その場で地面に吸い込まれる。


「おっと、危ないです」


 倒れる直前、少女に優しく抱き止めてられる。

 けど、もう手遅れだ。


(……血ィ、流しすぎた)


 右の脇腹から流れた血が、靴まで濡らしている。

 手足が冷たい。

 今から止血したところで、助かる見込みは薄いだろう。


 少女が頭を屈め、俺の傷口を調べている。


でよかったです。これならすぐに治せますね」


 ひょい、と身体が持ち上がる。

 旅用の装備を身につけた俺は八十キロに近い重さだ。

 少女では運ぶどころか、引き摺って移動させることすら難しいだろう。

 そのはずなのに、俺を肩に担いで軽やかに歩いている。


「ふふ。外の人とお話できるのはいつぶりかなぁ」


 上機嫌そうな少女の声。


(あー、駄目だ。限、界……)


 何もかもが茫洋としはじめ、俺は完全に意識を消失させた。

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