第7話 ベイベちゃんではなく、兄として
「……え?」
陽葵は床に散らばるカーテンの残骸を手に取ると、ハッとした様子ですぐさま窓を見た。
そしてその先、真由美ちゃんの部屋へと視線が動く──。
僕はそっと陽葵の肩に触れる。
「汚い部屋だよな。これがあの完璧美人な真由美ちゃんの部屋だって言うんだから、笑っちゃうよな」
「お兄……ちゃ……ん?」
陽葵は驚いた声と表情で僕を呼んだ。
もちろん真由美ちゃんの部屋が汚いから驚いているわけではない。
僕は応える。
兄として、妹の期待に──。
「やっぱり窓は開けるもんだよな。お天道さんが眩しくて気持ちいや。……なぁ、陽葵? 日が暮れるまで時間はまだある。よかったら一緒に日光浴しないか? 約束したろ? お兄ちゃんな、今日は陽葵が学校に行っている間、日光浴してたんだぜ?」
お兄ちゃんの帰還。
昨日までのベイベちゃんではない、僕。
上手にやれているだろうか。
ぎこちなさはないだろうか。
──しかし。
陽葵は勢いよく窓を閉めると「ちょっとまってて!」と言って、大急ぎで部屋から出て行ってしまった。
……あ、れ?
感動スペクタクルな場面だと思っていたのに、陽葵の反応は予想とは大きく違っていて──。
戻って来たかと思えば何故か、ガムテープとピンク色でハート柄の可愛らしいカーテンを手に持っていた。
「すぐにお兄ちゃんの部屋を元どおりにするから! 前にわたしが使ってたお古だけど、遮光性バツグンだから!」
……あぁそうか。なるほどな。
僕はあの日、カーテンを開けないでくれと泣き縋った。
陽向はあのときのお願いを今もなお、守ってくれているんだ。
うんうん。少し唐突過ぎたよな。いきなり普段どおりの格好良いお兄ちゃんに戻ったら、そりゃ戸惑いもするし勘違いだって起こすよな。
「ありがとうな、陽葵。でもこれはもういらないんだ。いいんだ、もう」
言いながらガムテープを取り上げようとすると──。ペチンッ‼︎ 手を叩かれてしまった?!
「いいわけない! 無理しちゃだめ!」
……あっ、あー……。そうか。そうだよな。
お兄ちゃんらしからぬ、弱い姿をたくさん見せてきたんだ。今さら急には元どおりになんて、なれるわけがないよな。
優しい陽葵だ。僕がただ強がっているだけとか無理しているものだとか思っているんだよな。
それでも──。僕はお兄ちゃん風を吹カシし続ける!
「無理なんてしてないよ。僕さ、ひなたが大好きだった頃の、あの頃のお兄ちゃんに戻ったんだ。だからもう大丈夫。今までたくさん心配掛けちゃったよな。ごめんな」
陽葵が安心して、あの頃の格好良いお兄ちゃんを受け入れられるように何度でも、何度だって──。
お兄ちゃん風をフカシし続ける!
「ん? わたしが好きなのは甘えん坊のお兄ちゃんだよ? ほら、おいで?♡ ぎゅーってしてあげるから♡」
両手を広げ、青春のましゅまろが開放される。
飛び込めば幸せだ。嫌なことすべてを忘れられる。
此処に在るのは最高金賞のましゅまろ。
でも、僕はもう──。
ましゅまろに脳内を支配されたりなんかしない!
五万二千八百九十六回のMAYUMI刻みパワーが宿っているから!
「もう大丈夫。ありがとうな」
頭をぽんっとして、撫でる。
されどもまたもや! ペチンッ‼︎ と、払われてしまい──。
「もぉ。逆でしょ? お兄ちゃんがいいこいいこなんだよ?」
言いながらぎゅーっとされて顔面マシュマロむぎゅむにIN──。
……ぉ、ぉぉぉぅふぅーッ!
これはだめなやつ! だめなやつぅ!
……い、いや。だだだ、大丈夫。今の僕はあの頃のお兄ちゃんだ。五万二千八百九十六回のMAYUMI刻みパワーに包まれている究極体だ。……落ち着け。
「いいこいいこよちよち♡ ぎゅー♡」
……ぉ、ぉぉぉぅふぅーッ!
あぁ、これは……。青春のましゅまっろ…………。
今日は体育の授業をたくさんがんばったのかな。濃厚で芳醇な香りに包まれている。
幾重もの青春がハーモニーを奏でている。
パーフェクトガールと青春のハイブリッド仕様。……最高金賞。此処に極まれリ──。
「あっ。待って! やっぱりだめ! 今日ね、体育あったから汗臭いの!」
ビンゴっ。思ったとおりだ。
あはは。あははは……。
僕は立派なましゅまろソムリエに成長してしまった。
ひとたびましゅまろに顔をうずめれば大概のことはわかってしまう。
……でもそっか。そうだったんだ。
陽葵もまた『G』を携えし者。
だから僕は此処に安らぎを求めてしまったんだ。
……本当にしょうもない男だな。
それでも僕はお兄ちゃんだから。
たとえ大っきなベイベちゃんに成り下がったとしても、お兄ちゃんだから──。
「ってことでお兄ちゃん! わたしはシャワー浴びて来るからいい子に待っててね♡」
僕はこの場面で何度も陽葵をベッドに押し倒している。今すぐにましゅまろに顔を埋めたくて仕方がない。
……大丈夫。
…………真由美ちゃん。
今の僕には気持ちを抑えられるだけの力がある。
真由美ちゃんを刻んだ数だけ、強くなれたんだ!
「じゃあシャワーを浴びて来なさい。待ってるから」
「あー……(これはまずいかも。このままじゃお兄ちゃんが元に戻っちゃう)」
しかし陽葵は動こうとしない。
それどころか──。
「やっぱりやーめた。シャワーはあとにして、お兄ちゃんとベッドでいちゃいちゃするぅー♡ たぁくさん♡ いいこいいこよちよちぎゅー♡ってするぅ♡ 汗臭いけど我慢してね?♡」
な、な、なんだって……?
今までは青春のましゅまろを堪能する際は半ば強引にベッドに押し倒していた。でも今日は合意の上でぱふぱふむぎゅむにできるというのか?
甘やかし言葉で囁かれながら堪能できるというのか?!
だったら最後の思い出に……。
たらふく堪能してから……。
……いいや、だめだ。
確実に戻ってこれなくなる。
気づいたら朝になっているんだよ。
……呑まれるな。ここで呑まれたら明日も明後日も幸せいっぱい夢いっぱいのましゅまろループだ。
アゲハ蝶。僕に力を……。
刻み続けたビートの数だけ、想いは届く!
五万二千八百九十六回のMAYUMI刻みパワーに更に追加!
──まっまっまっ真由美ちゅわぁぁあん!
重ねてさらに追加!
──まっまっまっ真由美ちゅわぁぁあん!
もひとつおまけに追加!
──まっまっまっ真由美ちゅわぁぁあん!
「陽葵のことが好きだ。大大大好きだ。でもそれよりも僕は!! お兄ちゃんでありたいんだ!!」
「お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ?♡ 無理しないの。いつもみたいに甘えん坊さんしていいんだよ?♡ ほぉらおいで?♡ あーんよだよ♡ あーんよ♡ おにーちゃん♡ よちよちあーんよ♡」
……違う。こんな甘えん坊の情けない男はお兄ちゃんじゃない。こいつはロクデナシで倫理観を遥か彼方へ置き去りにしてしまった、しょうもない大っきなベイベちゃんだ。
陽葵の中で、あんよな僕が本当のお兄ちゃんになってしまったのならもう──。
僕に残された選択肢は──。
「イケメンをたぶらかしてきなさい」
お兄ちゃん風をフカシ続けて、かつての仲睦まじい兄妹に戻れるのならよかった。
でも、それが叶わないのなら──。
「イケメンをたぶらかしてくるんだ」
イケメンと遊んだり、イケメンに持て囃されたり。陽葵はそれらをするだけに足る、持って生まれてきた人間だ。
だから僕みたいなダメなデブに構っていたらダメなんだ。
陽葵のことを本当に思うからこその、答え。
五万二千八百九十六回+αのMAYUMI刻みパワーが宿っているからこそ取れる、選択肢。
「あー…………。うん。わかったぁ!」
って、え? もうわかっちゃったの?!
「イケメンいたー! ここー!」
なんだ。そういうことか。本当にうちの妹はお兄ちゃん大好きっ娘のブラコンガールだな。
「これはお兄ちゃんからの命令だ。優しくて良い子な陽葵なら聞けるだろ? イケメンをたぶらかしてくるんだ。それでもう、ダメなデブに構うのは……よしなさい……」
いいんだ。これでいいんだ。
「……うーん。そっかぁ……(やっぱりお兄ちゃんの心はまだ、あのビチクソ女にあるのかな。だったらプランBに移行するのが懸命かなぁー。……はぁ~あ。だるっ。できることならあいつは使いたくなかったんだけど)」
すると陽葵は考えるような素振りを見せた。
かと思えば、すぐに?!
「うんわかった! じゃあ行ってくるね!」
……あっ。陽葵! ……あっ──。
こうなることを望んでいたはずなのに、どうしようもなく切ない気持ちが襲ってくる。
できることならもう少し、葛藤の末に答えを出してほしかった。三日三晩、悩みに悩んで答えを出してほしかった……。
それでお互い最後のときを嘆くように別れを惜しみ……。
──ベッドイン。
されども約束された別れを共に嘆き枕を濡らし、目を腫らせ。それでも明日はやってくる。前へ進むための、無慈悲な明日は必ずやってくる──。
的なので良かったんだよ?
それなのになんで?
あっさりし過ぎじゃない?
…………いや。いい。いいんだ。これが陽葵にとって幸せなことなんだ。
僕のもとを離れて、イケメンをたぶらかしていたほうが幸せなんだ……。
いいんだ。これで。今日が巣立ちの日だったんだよ。
+
僕はまた、遮光抜群のカーテンがすべてを閉ざす薄暗い部屋にひとり──。ただ、落ちていくだけの毎日を送る。
変わらない。いつもと同じ景色。同じ言葉。同じ毎日──。
否。カーテンはピンク色になった。ハート柄の可愛いやつで心をフローラルに飾ってくれる。
それになによりガムテープはなくなった。
僕の部屋はもう、閉ざされてはいない。
はず、なのに──。
「真由美ちゃん。真由美ちゃん……」
あれほどまでにキレていたビートが、ご愁傷様だった。
「真由美ちゃん……真由美ちゃん……うぅ…………」
違う。今の僕ならできるはずだ。
陽葵からたくさんのものをもらった。
ご飯だって食べられるようになった。
雨だって止んだ。
虹だって架かった。
じゃあ虹の上を翔けないでどうする!
奇跡を日常に! 当たり前にするんだろ!
でなければ陽葵と過ごした時間を否定することにもなる!
ましゅまろTIMEは最高に幸せだった。このままずっとお爺ちゃんお婆ちゃんになっても側に居たいと思った。
その気持ちに嘘はないから!!
「チェケラ!」
僕の部屋はステージ!
真由美ちゃんの部屋は観客席!
お客さんはアゲハ蝶!
イケッ! 刻めッ! 己が極めたビートマユミを解き放て!
「ヘイYO! 真由美真由美! まっまっ真由美! ママ真由美! Yeah!」
ホップ・ステップ・ジャジャジャジャァーンプ!!
────……シュタ!
空よりも遠い場所に、本日二度目の着地を果たす。
そしてすかさずアゲハ蝶を握りしめて自分の部屋へと戻り、振り回す。
「マーユミ! マユミマーユミ! ミンミン!」
なんだよ。やればできるじゃないか。
ありがとう。陽葵。
ありがとう。真由美ちゃん。
サンキューフォーベルマッチアゲハ蝶。
僕はもう大丈夫だよ。だってこんなにもビートはキレキレなのだから!
「ヘイYO! 真由美真由美! チェケラ! レッツ真由美!」
さぁ、今日も眠くまるまで刻み続けようか!
準備はいいかい? 真由美ちゃん! イクYO!
「チェケラ!」
──の、はずだった。
時刻はおそらく七時くらい。キレキレの真由美ビート刻み換算でおよそ五千回。だから陽葵が僕の部屋を出て二時間ほどが経っている計算になる。
階段を登る足音がふたつ。だんだんと近づいてくる。
この頃の僕はやけに耳がいい。雨音に耳を澄ましていたからなのだろうか。
それともこれもまた、刻み続けた真由美ちゃんの成果なのだろうか。
だからこそ異変に気付けてしまう。この足音は……♂。
まさかこれは俗にいうナンパお持ち帰りってやつなのでは?
ここまでの流れを考えれば、そうとしか思えない。
イケメンをたぶらかして、さっそくお持ち帰りしてしまったんだ……。
本当に、男をたぶらかしてしまったんだ。そしてお持ち帰りをした。そう考えるのが普通の流れ。
陽葵の部屋は壁一枚向こう。……あぁ。こんなバカなことがあるなんて。
言い出しっぺは僕なのに、覚悟が足らなかった。
後悔しても、もう遅い。
陽葵は僕の手を離れ、大人の階段を登る。
僕ではない他の誰かをよちよちして……。褒めてしまうんだ。
あぁ、嫌だ。妹のそんな姿、想像したくない。
『えらいえらい。生きててえらい!』ってイケメンに……そして顔面をましゅまろに頬擦りさせて、やや窒息気味に押し当てて……そのまま…………そのまま………………………朝まで…………その…………ママ…………ママァー!
や、やめろ! 想像するな!
もういいだろ。今日が巣立ちの日だって納得したじゃないか。……納得、したん……だ。し…………た…………。
脳が破壊されそうな僕にトドメを差すように一歩。また一歩と階段を上る音が近づく。そして僕の部屋を──通り過ぎ…………ない?!
ドアが、開く?!
「たっだいまぁ~! お待たせお兄ちゃん! 世間一般的にイケメンと言われている男、兼、真由美ちゃんの元カレを連れてきたよ!」
え。
「ちぃーっす! 真由美の元カレのマサヤでーす! 今日は真由美の生態についていろいろ、お兄さんに教えちゃいますよ〜! 準備はいいっすか〜? チェケチェケチェケラ!」
え。え。えぇぇ?!
チェケラ……?
「ズンチャ、ズンズンズチャ、ヘイ! ズンチャ、ズンズンズチャ! HEY!」
ぼ、ボイスパーカッション?!
「準備はいいかい? おにーさん?
おにーさん! おにーさん! ヘイ!」
「あっ、はい。どうも」
「ズンチャ、ズンズンズチャ、ヘイ! ズンチャ、ズンズンズチャ! HEY!」
うん。見た目はイケメンだけど、人となりは完全に負けているけど、これなら進化した僕のビートのほうが数段キレてるね!
ボイスパーカッションより時代はビートマユミ!
この勝負、勝ったな!
隣の家に住む綺麗なお姉さんに告白したら『暑苦しいデブは無理』と存在自体を否定されてしまった。あまりのショックでご飯も喉を通らずに眠れない夜を過ごしていたら、なななんと激やせして『超絶イケメン』に大変身 おひるね @yuupon555
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