忌書〜イエノナカ〜

@faich

第一話 浴室

私には変な癖がある。

誰にも知られていないし、誰も知るはずがない。

他人には普通ではなかったとしても、私には当たり前のことだ。

つまり一つの疑問としては、皆は”あの時”息苦しさを感じないのだろうか。


夜道を足早に歩く。

今日はいつも以上に仕事が遅くなった。

時計の秒針より早く刻まれるヒールの音。

少しでも早く帰りつかなければ。

普段は明るいあの街灯やあの民家の光も、今はもう消えている。

町が歯抜けになったようだ。

朝も同じ道を通ったはずなのに、なぜこんなに警戒してしまうのだろうか。

とにかく急ごう。

ゴンッ

道端の何か重いものを蹴飛ばした。

一瞬、そのまま無視してしまおうかと思って、思い直す。

ため息をついてそれが何だったかだけでも確かめようとする。

とりあえず元の場所に戻しておけばいいだろう。

足元は夜の空よりさらに暗い。手探りでそれを探す。

なぜか見つからない。

おかしいここら辺にあるはずなのに。

何度探しても見つからない。

必死に手を伸ばしたり地面を触ったりしているうちにどんどん時間が過ぎていく。

早く帰らなければいけないのに。

明かりが次々に消えていく。

電柱や家や周りの物体が1つずつ見えなくなる。

おかしい。

さっきから地面の感触がない。

落ちる。

と、そこで目が覚めた。

気が付くとそこは自宅のソファの、手前の床だった。

「お風呂が沸きました。」

湯沸し器の音声で目が覚めたらしい。

カードキーを使って玄関のドアロックを外した後からの記憶が戻ってこない。

「むーん。」

身体を丸めたまま動物のように起き上がって、とりあえずスマートフォンと家のキーをテーブルに置く。

台所へ移動し、冷蔵庫からよく冷えた炭酸水を取り出してコップに注いだ。

空気の泡がパチパチ呵っている。

「今何時だろ?」

わたしはそれを飲み干した。

時計の短針は"II"を指している。

屈んでつま先をさする。多少の痛みがあった。

「夢?夢。」

そこもそうだが足全体がむくんで痛い、そして重い。

タイツや皮靴はもちろんスカートにまで私のももやふくらはぎは痛めつけられていた。

とにかく最初に疲れを取りたい。お風呂に入ろう。他の事は小さな問題だった。

脱衣所で衣服を脱ぐ。やっぱりつま先が少し腫れているか。

浴室に足を踏み入れる。

湿度の高いむっとした空間は、まるで両手で首を軽く絞められているような息苦しさだ。

いやさ、私は子供のころからここが嫌いだった。

湿度が高くて狭い密室はとにかく苦手だ。

そんなわけで今日も風呂場の角にある小さな窓の留め具を外す。

ガタッ。

私の家の風呂場の窓は上向きのコの字型に切られている。

留め具を外した途端、それは自分のあごの重さで情けなくだらっと口を開け、向かいのコンビニに向かって熱のこもった息をふうっと吹かした。

ピーッピーッ。

トラックが駐車する音だ。

このアパートの浴室は全部、建物の壁面側についている。

だから窓を開けると外の雑踏が聞こえてきて、なんだか、より気が楽になる。

これで少しはましだ。でも、

「もうちょっと窓が大きければいいのに。」

一軒家でもない、安アパートに不釣り合いなそんな不満を口にした。

この窓は人の頭が通るのがやっとだ。

ああ、息苦しい。

さっさと洗体してここを抜け出してしまいたい。

そんな気持ちでシャンプーボトルに手を伸ばす。

手のひらで軽くもむとブクブクと白い泡が立つ。

それを頭髪に混ぜ込んでいく。

指先で髪と洗剤をなじませる。

増えた泡が自重に負けて頭から顔の方へ垂れてくる。

目に入らないように瞼を閉じる。

一日分の人体の油を含んだ泡がゆっくりと目をふさいでく。

夢で見た景色と似ているな。

今が人間の一番無防備な姿かもしれない。

裸で目を瞑って頭が泡だらけの自分を想像するとちょっと笑える。

「オジャマシマース。」

え?

思わず手が止まる。

誰かに話しかけられた?

うそでしょ?

玄関から?

いや玄関でしょ。

えっと。

・・・鍵が掛かっているのに?

もっと近かった?

そしてここが浴室だということを思い出す。

ありえないと思っているのに動悸が激しい。

思考より先に体が反応している感じがしてすごく嫌だ。

「誰!」

返事がない。

もしかしたら気のせいでは?

声がした方に顔を向けるが、視界は泡に塞がれている。

それを洗い流そうとして水が溜まっているはずの風呂桶に手を伸ばそうとする。

が、さらにいやな予想が頭の片隅によぎる。

どこから声がしたかはっきり覚えていない。

手をのばして、そこで何かを触ってしまったらどうしよう。

もし何かに触れれば、もう気のせいでは済まない。

それはとてもとても気持ちの悪い想像だ。

今の状況があまりにもあんまりで、考えるのを止めそうになる。

身体が震えて動かない。

「オハヨウゴザイマース。」

全身が跳ねるように驚く。

上だ。

窓の方向だ。

震える手で風呂桶を取り上げ必死にシャンプーを洗い流す。

力いっぱい目を開けて急いで声の主を確かめようと努力した。

「ひっ」

思わず声が引きつった。

上隅の風呂場の小さな窓から人間の頭が首まで入ってきている。

そいつは50代くらいの男性に見える。

知らない男が大きな頭を、もじゃもじゃの、悪い意味で艶がかった長い黒髪を振り回しながら、白い首を、窓枠にぶつけながらグネグネと動かした。

ガタッガタッ

「誰ですか!」

頭は止まった。

その皮膚は色白でつやつやと濡れている。すこしふやけている。

たばこのせいか目玉の白目の部分がやたらと黄ばんでいる。

男はゆっくりと血がにじんだ首を動かして不思議そうに浴室を見渡す。

そしてこちらを向いた。

「ゴチソウサマデース。」

男は笑った。

ガタガタの黒ずんだ歯を、左右に目いっぱい広げて。

もうだめだ、これは。

その瞬間、裸のまま浴室を飛び出した。

扉を閉めるとちょうど置いてあった棒状の掃除用具をノブに挟んだ。

偶然上手くそれを固定することができた。

間一髪だったのか、浴室に、ドンッと男の体が落ちた音がした気がする。

あわてて走り出す。

一瞬、すりガラス越しに中でのたうつ黒い影が見えた。

タオル一枚だけ持って泣きながら廊下へ飛び出した。

「誰か!」

「どうしました!?」

助かった。偶然通りかかった人がいた。

息を整える。

なお良いことに女性だった。

「んっ。すみません。」

動機がしてうまくしゃべれない。

「あのっ。お風呂場の窓から不審者に入られたんです。警察に電話してください。」

少し間があった。

「本当ですか?ここ8階ですよ。」

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