第8話「限られた自由で生きるのは息苦しいわ」
「はあ? 熊のぬいぐるみ? 十四の妹に? あなた馬鹿じゃないの?」
「ええ……そんなにひどいかな?」
「あなただっておもちゃ貰って嬉しがる年頃じゃないでしょ?」
文句を言いながら、僕の前をちょこちょこ歩く彼女――名前はまだ知らない――は言う。
そんなにセンスがなかったのかな?
そういえば、妹にプレゼントをあげるのは帝軍幼年学校を卒業して初めてのことだった。
「女の子への贈り物は、素敵で可愛らしいものがいいわ」
「はあ……」
「なによその気のない返事は。まさかその年で付き合ったこともないの?」
僕は周りの目を気にしながら「う、うん……」と認めた。
彼女は馬鹿にしたように「そうだと思ったわ」と鼻を鳴らした。
さっき事情を話したら、買い物に付き合ってくれるようになった。
僕もよく分からないまま彼女の後ろをついていく。
「遠くにいる妹への贈り物なら、これがいいわ」
彼女が立ち止まったのは香水の店だった。
高級感溢れる店構えだった。目抜き通りの一等地に建てられているのだから当然だけど。
彼女は慣れたように入ろうとする。自分でも分からないけど、何気なくドアを開けて「どうぞ」と促した。
「あら。女性に対しての気遣いはあるのね」
「ええと、ほんの少しは」
「弁えてもいるようね」
女性が入った後に僕も中に入る。
良い匂いが混ざり合った店内。甘ったるくて刺激的だった。
きょろきょろ見渡していると男の店員さんが「いらっしゃいませ」とやってきた。
「お目当ての物をお探しですか?」
「実はこの人の妹に贈る香水を探してて。十四才の田舎娘よ」
「さようでございますか。ちなみにその方は初めてでございますか?」
初めて、とは香水を付けるのが初めてという意味だろう。
僕は緊張のあまり何度も頷いた。
「でしたら初心者向けの『月明りシリーズ』はいかがでしょうか?」
「うーん。十四の小娘が付けるには大人過ぎない?」
「こちらの香水などは似合いになられると思いますが」
小瓶から香水を一滴、ハンカチに垂らして振って、彼女に差し出す。
鼻をくんくんさせて「悪くないわね」と言って僕にも嗅ぐように示した。
「……くしゅん!」
慣れていないせいで思いっきり吸ってしまった。
くしゃみが出てしまう。
「馬鹿ね。軽く嗅ぐのよ」
「ご、ごめん……いい匂いだね」
改めて嗅ぐと夜の原っぱみたいな静かな匂いがした。
ルシルは喜んでくれるだろうかと考えていると、不意に懐かしい匂いがした。
そっちのほうへ向かうと、青い小瓶に『海辺の夢』と書かれた香水があった。
「これ……いい匂いがする。故郷の匂いだ……」
「……あなた、香水の匂い分かるの?」
彼女が少し驚いた顔をしている。
店員さんも目をぱちくりしている。
どうしたんだろう?
「うん。故郷の海を思い出すよ。潮の匂いみたいだ」
「お客様は良い鼻をお持ちのようですね」
感心している店員さんは、慣れた手つきで新しいハンカチにその香水を一滴付けて彼女に手渡す。彼女は嗅ぎながら「小瓶に入っている香水なんて分からないわよ」と言う。
「距離もあって他の香水もあるのに、良く嗅ぎ分けられたわね」
「昔から音と臭いに敏感だったから。そのせいかも」
「……その香水にするの?」
彼女が神妙な顔で僕に問う。
駄目かなと思いつつ「妹も好きな匂いだと思うから」と言う。
「海辺育ちで潮の匂いはいつも嗅いでいるから、珍しくないけどさ」
「いえ。それでいいと思うわ」
彼女は店員さんに「それいくらなの?」と問う。
ちょうど手持ちで買える程度だった。
「じゃあこれください」
「ありがとうございます。よろしければ配送いたしますが」
「あ、お願いします」
配送の料金も支払って、僕と彼女は店から出た。
「ねえ。買い物終わったんだから、私の用事にも付き合いなさいよ」
「え? いいけど、どこに行くの?」
彼女はにやりと悪そうに笑った。
「蠱惑と魅惑、そして誘惑の店よ」
◆◇◆◇
彼女に連れてこられたのはケーキ屋さんだった。
大皿で運ばれたアップルパイと紅茶一杯入ったポット。
それを彼女は実に美味しそうに食べる。
「うーん! 美味しいわねえ! この店は帝都の誇りよ!」
大げさな表現だけど、これまた一等地にある由緒正しいお店だから、あながち間違っていないみたいだ。身なりのいい紳士や淑女が出入りしている。
僕はショートケーキを頼んだ。香水と違った意味でいい匂いで味も抜群だった。
「そういえば、あなたの名前、聞いていなかったわね」
大皿にあったアップルパイが半分になった頃に、彼女がようやく僕の名前を訪ねてきた。
「僕はエドワードです。君は?」
「私? 私はアリスよ」
何となくだけど可愛らしい女の子である彼女に似合う名前だった。
僕は「アリス。さっきはありがとう」と頭を下げた。
「妹も満足してくれそうだ」
「くれそう、じゃなくてするわよ」
「どうして?」
「だって、あなたが選んだ香水だもの」
はっきりとそう言われてしまうと気恥ずかしくなる。
それからアリスは「あなた、何歳なの?」とさらに訊ねてきた。
「十六歳だけど」
「なんだ私と五個も違うのね」
「まさか……十一才?」
見た目より大人びいているんだなあと思うと、アリスは顔を紅茶より真っ赤にして「私は二十一よ!」とテーブルを叩いた。
周りの客がこっちを見てくる。店員さんもなんだろうと見ている。
「ご、ごめん。女の子の年齢、よく分からなくて」
「……まあ女の子と付き合ったことない朴念仁だから、仕方ないわね」
ひどい物言いだったけど、僕が悪いのだから飲み込んだ。
アリスは視線を気にせず「あなた、元軍人さんって言っていたけど」と言う。
「エドワードはどうして除隊したの?」
「……除隊というか、処分された。それで軍人をやめることになった」
「へえ。それは詳しく訊いていい話?」
「あまり訊いてほしくない話」
「なら訊かないわ」
「アリスはどうして、軍人が嫌いなの?」
アリスは紅茶を啜った後「人を殺すから」と短く答えた。
僕は何も言えなかった。
「好き好んで軍隊に入る気持ちが分からないわ」
「…………」
「あら。気に障ったかしら?」
「ううん。僕も同じ気持ちだよ」
僕が軍人になることを喜んだのはルシルだけだ。
本音を言えば軍人なんてなりたくなかった。
真実を話せば軍隊なんて入りたくなかった。
「だけど、軍人になるしか道が無かった。貧しい農民の家に生まれた僕には、選択肢が無かった」
「……選択肢がない、か。少しだけ分かるわ」
アリスは真剣な表情で頷いてくれた。
そしてこう言った。
「限られた自由で生きるのは息苦しいわ」
「うん。僕もそう思うよ」
「だけど羽を広げられるときは思いっきり羽ばたくの」
アリスの素性は分からないけど。
何故か説得力のある言葉だった。
ケーキ屋さんを出た後、アリスは「また会えるかしら?」と僕に上目遣いで言う。
その仕草に少しだけどきりとして「どうしたの?」と言ってしまった。
「あなた、結構面白そうだから。話し足りないし」
「そうだね。休日のときはここら辺を歩くことにするから。出会えたらまた話そうよ」
「……ちょっとだけロマンチックね」
笑ったアリスは子供と大人の両方の魅力を備えていて。
その笑顔に見惚れてしまった自分がいた。
「あら? どうかした?」
「ううん。なんでもない。それより日が暮れそうだよ」
空は黄昏の色に染まっている。
アリスは残念そうに「また会えたら嬉しいわ」と言う。
「エドワードに会える偶然を楽しみにしているわ」
「ありがとう。僕もアリスに会える偶然を楽しみにしているね」
次に会う約束はしなかったけど。
また会える予感がした。
「じゃあまたね」
真紅のドレス姿のアリス。夕暮れに溶けてしまいそう。
僕は姿が見えなくなるまで見送って。
それからルーモアへ帰っていく。
よく分からないけど、アリスと別れたら心が淋しくなった。
だけど今日のことを思い出すと、暖かくなる。
どうしてだろう?
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