真夜中、扉を叩く音

傘立て

真夜中、扉を叩く音

 扉を叩く遠慮がちな音がする。小さな細い手で、叩くというよりほとんど擦っていると言った方が正しいぐらいのかすかな音が、やけにしつこく繰り返されている。

 またか、と読書の手を止めて玄関のほうに目をやった。もうすぐ日付が変わろうという時間、独居用の1Kの狭い部屋は静まりかえっている。小さい筈の乾いた音が壁に反響して妙に響いた。先月の終わりに引っ越してきてから、ずっとそうだ。夜中になると誰かが扉を叩く。

 奇妙なのはそれが玄関の扉ではなく、その内側、通路兼キッチンと居室を隔てる薄い扉を叩く音であることだ。そこが叩かれるということは何者かに侵入されていると考えるのが自然だが、玄関には鍵もチェーンも掛けてあるし、ノックの音の前後に近づくなり立ち去るなりの足音もしない。そこに誰かが「いる」気配もない。ただ、毎夜、その音だけが鳴り響く。

 読んでいた本は手の中で開いたまま、扉を見つめて耳を澄ます。小さかった音はしばらくすると次第に大きくなり、それがノックだとはっきり分かるようになる。コンコンと指の関節で叩くような音が続いて、やがてふっつりと止まった。どれだけ意識を集中させても、やはり足音などは聞こえない。扉を開けると、暗闇の中、足元に白い花が一輪だけ落ちている。

 

「なにそれ、危ないやつじゃん。警察行ったほうがいいんじゃないの」

 電話口で友人が本気で心配そうな声を出した。大抵のことはノリで済ますこの女の声が曇っているということは、やっぱり異常なのかもしれない。

「いや、でも誰かいるってわけでもなさそうなんだよね。人の気配がしなくて」

「いや、怖。余計に怖い。お願いだから管理会社か警察に相談して。室内で惨殺された会社員女性28歳のニュースとか見たくないから」

 ううん、まあ、そうだよね、と返事をしながら暗い窓に目を向ける。原因不明の日照時間の減少のせいで、このところ、外は常に薄暗い。日の出が遅くなって、この国では起こる筈のない白夜のような状況が続いているのだ。日が差さないせいで気温が下がり、本来なら初夏の時期なのに暖房が必要だし、外に出るにはコートが手放せない。とりわけ農作物への被害は甚大で、食糧危機が危惧されている。

「なんかさ、気象がおかしいからメンタルやられてる人も多いじゃん。変な事故とか犯罪も増えてるし」

 頼むから誰かに相談して、と説得され、心配させて悪かったなと思いながら了承して電話を切った。切ったと同時に扉のほうから小さいノックの音が聞こえてきた。午後11時35分。以前はほぼ日付が変わるぐらいの時間に始まっていたのに、最近は少しずつ早まってきている。

 扉を叩く音はいつもどおり20分ほど続き、唐突に止んだ。扉を開けた先の床にはやはり白い花が一輪落ちている。アサガオにも似た掌より大きいぐらいのその花は、調べたところヨルガオというらしい。闇に溶けそうな薄い花を拾い上げると、その動きで縁がふわふわと揺れ、顔に近づけるとほんのり甘い香りがした。

 

 音の主が人間かどうかも分からないまま警察に行くのも気が引けて、とりあえず管理人に連絡してみた。鍵の不具合や侵入経路になりそうな開口部がないかを調べてもらったが、いずれも異常はなく、ほかの部屋の音が配管を伝って聞こえているのかもしれません、という回答だった。

「配管を通して意外な部屋の音が聞こえてしまう場合もあるからねえ……、どうしても気になるようであればまた連絡してください」

 顔も声ものんびりした管理人は首を捻りながら部屋のあちこちを見まわした。通りいっぺんの言葉に、こちらも「分かりました。様子を見てみます」と決まり文句の返事をする。結局原因は分からずじまいだ。夜になればあいかわらずノックの音がして、扉を開ければ花が落ちている。扉を開け放しておけば何も起こらないのではないかとも思ったが、そのせいで見てはいけないものを見てしまうのも嫌だった。

 毎夜毎夜ノックの音がして、鳴り終わるのを待って扉を開け、落ちている花を拾う。不審者か霊障かと気にするのにも飽きて、いつの間にかそれは日々の習慣になった。音の主はそれ以上何かしてくることはないし、花はいつも楚々とした香りを漂わせている。慣れてしまえばそれほど危険なことでもないような気がして、私はそれ以上追求することをやめた。

 

 梅雨を前にしたその日、いつもと違う行動をとってしまったのは、仕事で思わぬ失敗をして気が立っていたせいかもしれないし、社会問題になってきていたように日照時間の影響で気持ちのバランスが崩れてきていたのかもしれない。落ち込みながら帰って鞄を投げだしたと同時にその音が鳴り始めたとき、たしかに私は苛立った。一度気になると、途端に憎らしくなる。ポソポソという音を聞きながら無性に腹が立ち、そもそもストレスの原因は毎夜毎夜のこの音ではないか、音の主がいるなら見て懲らしめてやろう、と突然思い立った。

 音はいつものように少しずつ大きくなってきていた。気取られないようこっそりと近づき、音が鳴っているのは扉のだいたい中央であろうとあたりをつけた。息を殺して扉に耳を付けてみたが、音は私の動きに気づいていないのか気づいても気にしていないのか、乱れることなく鳴り続けている。いける、と思った。

 そっとドアノブに手をかけ、一気に回しながら引く。同時に反対側の手を扉の裏側に突っ込んだ。

「ああっ……」

 何かを掴んだ、と思ったと同時に扉の板の向こうで思いがけない悲鳴が上がり、心臓が跳ねあがった。誰か、いる。

 掴んだのは残念ながら手首ではなく、服の裾か何かのようだった。本体を捕らえられなかったので、すり抜けられないよう握った手に思いきり力を入れた。

「……あの、すみません、離してもらえませんか」

 悲鳴の主、ノックの音の主が、弱々しい声で訴えてきた。

「いや、離すわけないでしょう。何なんですか、あなた……」

「あの、夜を、流さないといけないんです」

「何ですって?」

「夜、夜をですね、通さないと、ちゃんと流れなくなるから」

 捕まえた布がバタバタ暴れている。無秩序にあちこちの方向へ引っ張られるので、逃げられてはたまらないと力を入れ直す。人間というよりは小型犬か小さめの猫ぐらいのものが動きまわっているような軽い感触だ。扉越しに叫ぶように返事をする。

「ちょっと、何言ってるのか全然分からないんですけど」

「あの、毎晩、ノックしているでしょう。夜の通り道なんです、ここ。ふつうのものは通り抜けられるんですけど、ここの扉に使ってある木、ちょっと特殊で、通れなくって。通れないと、夜がちゃんと流れなくて、だから、最近夜が終わらなくて、きちんと朝にならないんです。薄い夜がずっと続いてて。それで、あの、この扉を開けておくか、扉の木を替えてもらいたくて。そうしてもらえたら、夜が、滞らないようになります」

「ヨルガオの花を落としてるのも、あなた?」

「はい、そう、そうです。すみません。気づいてもらえるかなと思って」

 そんなもので気づくか。舌打ちしながら手を離した。力加減や動き方からして人間ではなさそうだし、あんまり暴れるのでちょっと可哀想になったのだ。

「この扉が駄目ってこと?」

「はい。すみません、信じてもらえないかもしれないんですけど。この扉が閉まってなければ、ちゃんと朝日が昇るようになります」

 扉の向こうの声が少し安心したような響きになった。対話ができる相手だと見なされたようだった。

「全然信じられないし、あなたが何なのかも分からないんだけど」

「すみません。私は夜をまわす役目で」

「うん、やっぱり全然分からないわ」

「そうですか……」

 声があからさまに落胆の響きになった。信用していいのか判断がつかないが、ちょっと可愛いと思ったし、同情が湧いた。

「あなたは夜の時間を滞りなくまわす仕事をしていて、この扉のせいでそれがうまくいかなくて困ってるってことで、合ってる?」

「はい、そう、そうです!」

 声が少しだけ明るくなった。やっぱり可愛い奴なのかもしれない。

「ええっとね、まだこっちも飲み込めていないんだけど、扉をつけ替えるとなると時間がかかるから、明日からはここは開けておく。それでいい?」

「はい、はい。それで大丈夫です。お願いします」

 そういえば今も腕一本分の隙間が開いているだけだ。開け放ってしまえば良いのだが、姿を見てしまうのはいけない気がして、思いとどまった。

「迷惑をかけてすみません。気づいてもらえてよかったです。では、失礼します」

 扉の隙間に一瞬だけ、白いものが翻るのが見えて、そのまま暗がりに消えていった。声の主が去ったのだろう。消える間際に、あのふんわりとした香りが鼻を掠めた。

 扉を開けると、そこはただの電気をつけないままの暗闇で、ヨルガオの花は落ちていなかった。

 

「ああ、この扉ね。たしか前の入居者が大きい傷を作っちゃって取り替えたんだよね。業者が持ってきたのがこれで、他の部屋と違うから気にはなってたんだけど、やっぱり駄目でしたか。もとの素材でつけ直してもらうから、ちょっと待っててくださいね」

 説明に迷った挙句、扉は壊した。壊した上で、弁償するから扉をつけ替えてほしいと連絡をしたら、あいかわらずのんびりした顔の管理人がやってきて、やはりのんびりした声でそんなことを言われた。業者が妙な扉を持ちこんだのが、そもそもの原因らしい。業者のミスがあったなら修理代も免除になるかと期待をしたが、それは通らなかったらしく、修理代はきっちり請求された。まあ、これで夜と昼がきちんと循環するのであれば、多少の負担ぐらい許す。というより、自分が扉を閉めていたせいで循環が狂ったと思えば、せめてもの罪滅ぼしだ。

 

 季節は少しだけ進み、夏になった。あの夜以来、ノックの音はしないし、ヨルガオの花が落ちていることもなくなった。日の出の時間は少しずつもとに戻り、世の中は日常を取り戻しつつある。新しい扉は閉めていても問題なさそうだ。ただ農作物への影響はすぐには取り戻せないので、今年は色々なものが不作になるらしい。農業従事者への支援が急がれている、と夜のニュースでも言っていた。

 窓を開けて、真夜中のベランダに出る。ぬるい風にあたっていると、どこからか、嗅ぎ慣れたあの甘い香りが漂ってきて、思わず部屋を振り返った。つけ替えられたばかりの新しい扉はしんと静まっている。ヨルガオは本来、夏の夜に咲く花だ。どこかで咲いた花の香りが、風にのってここまで運ばれてきたのだろう。夏の夜が、甘い香りをのせて、静かに更けていく。

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