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 相手に好意を持っているときの心理状態として、一緒に寝ている際に脚を絡めるというものがある。

 昔、何かの本だったかテレビだったかで得たこの情報をぼくは思い出していた。布団の中で、自分の脚を彼の脚の近くに寄せたとき、ぼくの両脚の間に彼の脚が入ってきて、ぐっと絡まった。たったそれだけのことだ。十以上も歳の離れている若い男の子が、ぼくの家で寝ていて、隣にぼくがいた。たったそれだけのことだ。それ以上でも以下でもなく、これが事実で、すべて。

 目が覚め、寝息を立てている彼を起こさないよう近くに置いてあったスマホで時間を確認すると十時近かった。眠れたような、一切眠れなかったような、宙を漂う意識をかき集めて、バレないように彼の横顔を見た。まだ髭が全然生えてきていない顎、少し残るニキビ跡、無造作な髪。母猫が仔猫を毛繕いするように彼を慈しみたいと思った。絡まった脚と、繋いだ右手が温かかった。

 どうせ寝ているのだからと無遠慮に彼の顔を見ていたら、不意に目が開いた。そのまま大きく伸びをして、宙を仰いだ手が壁に当たった。

「痛っ」

 いつもと違う部屋でいつもと違う距離感に壁があったせいでぶつけた左手を引っ込め、彼は布団を被り直した。

「もうすぐ昼になろうとしてるけど、起きる?」

「うーん」

「今日は何も予定ないの?」

「うん」

 また寝息を立てようとしている彼を残し、ぼくは顔を洗いに洗面台に向かった。髭を剃り歯を磨いて部屋に戻ると、スマホを操作していた彼はこちらを向いた。

「おはよう」

「おはよう」

 部屋に自分以外の誰かがいる光景を、何年ぶりに見ただろう。まだ三十代手前の頃はいろんな男がこの部屋に出入りしていた。一緒に朝を迎えたこともたくさんあった。何度も枕を交わした相手たちは、どちらから切り出すわけでもなく、始まりはしっかりしているのに、終わりは曖昧なまま関係を途絶えた。あの頃はそれでいいと思っていた。相手をしてくれる男はたくさんいた。その日楽しく過ごせればいいと、連絡が途絶えても、そのことすら気付かないくらい互いに互いのことを意識していなかった。

 好きとか嫌いとか、愛しているとか憎んでいるとか、そんなのただの言葉であって、そこに感情があるふりをしていた。だから誰からも心を開いてもらえなかったし、誰にも気持ちをぶつけなかった。思いっきり嫌われることも罵られることもなく、同様に、敵意を向ける相手もいなかった。

「何か飲む?」

「ん、お水」

 ぼくは冷蔵庫からミネラルウォーターを出して二つのコップに注いだ。冷蔵庫を開けたとき、帰宅途中にコンビニで買ったサンドウィッチが入っていることに気が付いた。コップを彼に手渡しつつ、

「サンドウィッチも食べる?」

「はい」

 冷蔵庫の中で冷たくなったサンドウィッチを手渡す時、指と指が触れた。

 朝食なのか昼食なのかわからない食事を済ませ、ぼくが着替えていると、彼もそれにつられるように着替え始めた。予備の歯ブラシを渡すと大人しく歯磨きを始めたのが可愛かった。

「そういえば来週誕生日なんだよね?」

 また会えるかな、という言葉を寸前のところで変換した。

「そうです」

「お店出るときにまた来週ねって言ってたけど、来週もお店行くの?」

「んー、わかんないですけど、たぶん」

「そっか、もし嫌じゃなければ来週お祝いしに行っていい」

「あ、はい」

「じゃあまたお店で」

 連絡先交換しようよ、と何度も言いかけて、知らないおっさんにそこまでされるのは迷惑かなと考え言い留まり、結局家を出て梅田に向かう道中も彼の連絡先を聞けなかった。どうしてここまで奥手になってしまったのだろう、と考える。二十代の子からすればきっと、もっとスマートに誘ってくれる歳上の方が魅力的だろう。何一つ手慣れていない、伝えたいことも言葉にできない、意気地なしな三十代後半の男性に魅力を感じることはないだろう。家に来たのだって、一つのベッドで寝たのだって、ある程度彼の中で許容できるものがあったからそうしたのに、その時間を綺麗に無駄にしてしまった。若い子に抱きつかれてドキドキしているよりも、もっと上手にそれを利用し、自分の意思をアピールできる人の方が好感が持てるはずなのに、ぼくにはそれが出来なかった。

 ゴールデンウィークは溜まっていた仕事のタスク消化で終わろうとしていた。京都で会議をしたり、web会議をしたり、プロジェクトの進捗具合の確認や、新規案件の要件まとめや、ゴールデンウィーク明けから開始する施策のテストで毎日のようにパソコンと向かい合っていたのに、頭の片隅ではずっと彼の誕生日を考えていた。

 接点なんて無いに等しい。ただ、偶然入ったゲイバーで、久しぶりに同じセクシャリティの人たちに囲まれ、たまたま隣に座った青年と話が弾み、電車の待ち時間にうちで寝ただけ。それでも、ぼくには久しぶりの高揚感で、あんなに時間が経つのがあっという間に感じたことなんて最近なく、もっと彼のことを知りたいと思ってしまうのは、ここのところ仕事しかしていなかった中年男性がこじらせてしまった結果なのだろうか。

 もし友達なら、誕生日プレゼントを用意するだろう。もし恋人なら、一緒に誕生日を過ごすだろう。けれどぼくは? ぼくは一体なんなのだろう、彼に対して何をしていいのか、何がいけないのか、果たして本当にまたお店に行っていいのか、考え出すときりがなくて途方に暮れた。

 カレンダーなんて仕事のスケジュール確認でしか用がないもので、今日が何日だとか考えるのではなく単純に曜日とタスク管理のために存在していたのに、あの日から、ただひたすら、五月六日だけを意識していた。

 当日、仕事は早々と切り上げたぼくは、またしても悩んでいた。本当にお店に会いに行ってもいいのだろうか。そして会いに行くのならやはりプレゼントを用意するべきなのだろうか。それともそもそもお店に行くこと自体が間違っているのではないだろうか。

 梅田で若い子向けのプレゼントを物色しようとロフトに向かったり、東急ハンズで何かいい感じのフェアはやっていないか、そのフェアでちょっと良さげだったからついでに買ってきたんだけど良かったらと言ってそれを差し出したらさり気なくていいのではないだろうかと、昼間からずっと梅田周辺をうろうろしていたが、やはりプレゼントを買う勇気が出なくて諦めた。

 夜になり、それでもまだゲイバーに行くかどうか迷っていた。もし行ったら変なやつだと思われないだろうか、先週偶然隣に座っただけの関係なのに、二週連続で会うなんて下心があると思われないだろうか。家で悶々としつつ、時計が十二時を回った頃、ぼくは改めてシャワーを浴び、髪をセットし、気合いが入っていないと思われるくらいの、けれど最低限の綺麗さはあるくらいの服を選び、そういえばこの前の彼の服装が全身黒っぽかったからきっと黒色が好きなのかもしれないと考え、その趣味に合うようなコーディネートをし、変に思われないか何度も鏡の前で確認して、革靴で行ったら流石にキメすぎだろうか、だとしたら黒っぽいスニーカーで雰囲気をまとめた方がカジュアルさを出せるかもしれないと玄関で吟味し、結局スニーカーで外へ出た。

 先週と同じようにビルへ行き、もし中に彼がいなかったら一杯だけ飲んで帰ろう、もし彼がいたら誕生日おめでとうと伝えて一杯奢ろう、そう決意して会員制と書かれてある大きな扉を開けた。

「いらっしゃ〜い」

 前回と同じく明るい声で迎えられ、ぼくは彼の姿を探した。手前のボックス席にはいないみたいで、カウンターを注意深く探すと、前回と同じ席に彼は座っていた。隣には先週いた子とはまた違う友達が座っており、二人でサイコロゲームをしていた。

 ぼくは隣に近づき、彼の座っている椅子の背もたれ部分を少し叩き、自分がいることを伝えた。

「誕生日おめでとう」

 振り向いた彼は髪の毛を短くカットしており、ああ、ショートで刈り上げているこの髪型も可愛いな、と思いつつ空いている隣の席に腰を下ろした。

 彼の隣で一緒にサイコロゲームをしていた男の子がこちらを向いて、はじめまして、と挨拶してくれたので、ぼくも、はじめまして、と返事をして梅酒のソーダ割りを注文した。

 そのサイコロゲームはどんなゲームなのか、いつから飲んでいるのか、誕生日はどこで祝ってもらったのか、一杯奢らせてくれないか。言いたいことは次々にあったはずなのに、いざこの場にくると、一切の言葉が消えてしまい、ぼくは出された梅酒のジョッキに口をつけることしか出来なかった。

 いつもこうだ。少しでも気になる人が現れると、その人に気軽に喋りかけることが出来なくなる。ただでさえ人見知りで仕事以外で人に話し掛けることが躊躇われる性格のくせに、それ以上に何も会話が出来なくなる。一昨年くらいにも気になる男性がいた。その時も同様に、なんとか必死に誘ったはいいが、誘ってから一緒にご飯を食べている時も、街中を歩いている時も、買い物をしている時も、必要最低限の言葉しか交わすことが出来なくて、結局、連絡をしてもだんだん返事がくることが無くなってしまった。一度返事が来なくなると、もうこれ以上連絡をしてはいけない気がして、自分に言い聞かせるのだ。時間が解決してくれる。今は寂しいと感じていても、徐々にその感情も薄れ、また元の日常に戻れる日がやってくる。そうすればもう誰かに好意を寄せて意気消沈するような感情に振り回されることもなくなる。だからもう思い出してはいけないし、誰かに出会いたいと考えてもいけないし、ましてや好きになんてなってはいけない。仕事に集中すればいいのだ。仕事で成果を出していけば、その結果は戻ってくる。人の感情に振り回されてはいけない。だから、もう、必要以上に人と関わってはいけない。

 なのに。ぼくはカウンターでタバコに火を点けながら自分を戒める。なのに何故、たった一度、時間を忘れるくらい楽しい時間を過ごし、少しの間だけうちで一緒に寝ただけの、それも歳下の男の子に、こんな気持ちになってしまったのか。やはりここに来たのは間違いだったのかもしれない。何も喋ることも出来ず、感情を表すことも出来ず、ただ黙ってここで飲めもしないお酒を飲んでいるこの時間は、生産性のない無意味な瞬間だ。

 今日の彼はお酒を前回以上に飲んでいるみたいで、かなり酔っ払っていた。何度もゲームをしては一気を繰り返している姿を見て、

「大丈夫? 酔ってない?」

「全然大丈夫」

「気持ち悪くはなってない?」

「いい感じにふわーとしてます」

 と保護者のような口調で喋ってしまった。

 そのまままた一杯奢ろうかと言い出すのはどのタイミングなのだろうかと考えていると、お店がシャンパンを用意し出した。どうやら誕生日の彼にプレゼントらしい。

 この状況に乗っかって自分からも何かボトルをプレゼントしようかとまた考えつつもじもじしていると、ぼくの前にも店子がシャンパングラスを用意してくれて、一緒に飲もうと提案された。ぼくは迷いつつ、お相伴します、とだけ返した。

「グラス要らんやろ」

 店子の一人が彼に向かって喋っていた。

「は、何言ってるん、お前がグラス要らんやろ」

「うるさい、去年のこと覚えてるんやで。あんた散々飲んでグラス要らんかったやん」

「うるさい、早く注げよ」

「グラス足りないからあんたグラス無しや、そのまま飲め」

 どうなるのか固唾を飲んで見守っていると、結局、誕生日の彼以外のみんなにはグラスが用意され、彼はシャンパンボトルから直接飲むことになっていた。

「かんぱ〜い」

 誕生日おめでとー、と次々声を浴びせられていたので、ぼくもそれに乗り、誕生日おめでとう、と告げてから差し出されたシャンパンボトルを口に含んだ。彼はボトルに半分ほど残っていたシャンパンを一気に飲み干していた。

「すごい、お酒強いね」

 今かもしれない、今ならぼくからも一杯奢らせてと言ってもいいのかもしれない。けれど、お酒をほとんど飲まないぼくは、シャンパンをこんなに飲んでいる子に対して更にお酒を強要してもいいのかどうかわからなかった。

 果たして今日のミッション、彼に一杯奢るのはクリアされるのかわからなくなり、もうすでに酔っ払っている彼は、最初から一緒にいた友人の首に腕を回しつつ、眠い眠いと言い出していた。どうしたらいいのかわからないぼくは、果てしなく自分の言動力の無さに辟易しつつトイレに立った。

 トイレの鏡の前で、すでに赤くなっている頬を確認しつつ、一杯奢るよ、それだけ言えれば大丈夫、一杯奢るよ、一杯奢るよ、何度も何度も鏡に映った自分に言い聞かせてからトイレを出た。

 カウンターの席で店子から、

「あんた禿げてるじゃん」

 といじられている彼の姿が見えた。近付くと、刈り上げた部分のことを指しているらしいことがわかった。この姿が可愛いのになと思いつつ、店子に同意を求められたので、ワカメちゃんみたいですよね、とだけ返して席に着いた。

「は、なんなんそれ」

 怒りの感情が込められた声が聞こえた。それが自分に向けられているのもだと察して振り向いた時に、彼の真っ直ぐな視線がぼくの顔を捉えていた。

「何やそれ、は、俺のこと馬鹿にしてんの」

 違う、そうじゃない。あまりに突然の雰囲気の変化に戸惑いつつ、

「ごめん、そういう意味で言ったんじゃない」

「いきなりなんなん、俺の髪型馬鹿にして面白いん」

「そう感じさせてしまったなら本当にごめんなさい。馬鹿にしようとは思ってなかった。けどそう思わせるようなことを言ってしまい申し訳ない」

「人のこと馬鹿にしておもろいんか、おい」

「ごめん」

「ふざけんなよ、俺のこと馬鹿にしやがって」

 こんなのってない。今日という日に、祝福しようと思って臨んだにも関わらず、彼を傷付けてしまった。こんな最低な人間がここにいるなんて、こんなの、彼からしたら最悪だ。

 どうにかして誤解を解かなければ、なんとか彼の機嫌を直してもらわなければ。そう思えば思うほど、ぼくの思考は鈍化していき、何も口から出てこなくなった。

 彼はぼくに背を向け、一緒に来ていた友人の肩に手を回し始めた。周りがその光景を見て、やだー、何してんの、ちょっと、ここはそういうお店じゃないんだけどー、と騒ぎ出した。もう、彼を見ることが出来なかった。自分が嫌いになった。何もかも吐き出したかった。けれど、そう思うのに、身体は動かなかった。

 しばらく隣で彼が友人と盛り上がっているのを隣で感じていた。感じていた、というのは、それを鑑賞していた周囲の客たちが、その姿を口にしながら実況していたから、見ていなくても、嫌でも耳に届いたという意味だ。

 身体が冷えてきた。冷房が効きすぎているのかもしれない。指先も冷たくなってきた。先週以上に客数の多くなった店内で、ぼくの耳は自分の鼓動にだけ集中していた。

「彼と一緒に帰るから」

 ぼそっと、けれど確実に、ぼくに聞こえるように彼は告げた。彼と一緒に帰るから。つまり、一緒に来ていた友人と、まだ電車の動いていないこの時間に、帰るのだ。どこに、わからない。どうして、わからない。ぼくは一体ここで何をしているのだろう。なんのために来たのだろう。わからない。わからなかった。もう彼の姿を見ることも、返事をすることも出来なかった。出来ないことと、わからないことだけが残ったカウンターで、ぼくは氷の溶けた梅酒を啜った。

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