桜の如し

裕理

 昭和四年の初春の頃であった。世間は一昨年に起きた恐慌の影響で重く暗い靄が掛かっていた。そのような中である事件が起きた。男女の心中事件である。それは関西の然る色街で起きた。娼館の娼婦と男衆が夜半に抜け出し、つぼみを赤く膨らませつつある桜の木の下で互いの手首を切り果てていた。娼婦と男衆の恋は当然許されるものではない。もし駆け落ちしたならば、彼らは捕らえられ惨たらしい尋問を受ける羽目になる。そうでなくとも、密通が露呈したならば、無事では済まない。この密かな恋愛は二人を駆り立てるには十分であった。二人は密かに燃え上がる恋の炎に焚き付けられた。そして終わりへとひた走った。


 彼らの悲恋とその結末を新聞は扇情的に書き立てた。物書き達は触発され、二人を主題とした小説や戯曲がいくつも著した。ほんの一時に燃え上がり散り去った彼らの恋を桜の如しと評した随筆エッセイが発表され、反響を呼んだ。


 これほどまでにこの事件が世の中を席巻した原因に、亡くなった男女が見目麗しい若者であることもある。亡くなった娼婦は色街でも随一とされていた。艶々とした肌をした娘で、目元には男を惑わす色香を湛えていた。小ぶりな唇は桜を思わせた。彼女の美貌に多くの客が魅了された。ある客は彼女を身請けする為に己の財産の殆どを捧げようとした。また別の客は長年連れ添った妻と離縁して彼女を迎え入れようとした。男の方は、細面の秀麗な顔立ちをしていた。女と見紛う容姿をしており、あまりの美貌に娼婦達が見とれてしまわぬ様、顔を隠して過ごしていたという。そのような美しい若者が皆が寝静まった夜に、堂々たる姿を見せんとする桜の下で事切れていたのだ。


 暗い世情に咲いた花の様に見えた為であろうか。亡くなった男女の恋の花が美しく咲き誇ったからであろうか。何れにせよ、多くの若者達は魅了された。魅了された者達は次第に彼らを模倣するようになった。閉塞した世の中で生き永らえるより、夢のような一瞬を追い求めたのである。つまり、亡くなった娼婦と男衆のように心中を図る若者が現れたのである。中には西洋の悲劇を真似し、自身を悲劇の主人公になぞらえて、服毒自殺を図った男女もいた。桜の木の下で心中したならば、今世では結ばれなくとも来世では結ばれるなどと言われる様になっていた。各地の桜の木の下には、昼夜を問わず心中を望む切ない男女が集まっていた。

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