安眠スイッチ
モルフェ
1/8
安眠スイッチ。
それは小さな都市伝説から始まった。
『とある医者が開発したもの』で、そのスイッチを押せば『安らかに眠るように死ねる』そうだ。
お金を積めば手術をしてもらえる。
首の後ろに神経とつないだ小さな装置を埋め込み、それに対応するスイッチを受け取る。
名刺入れほどのサイズで、ロックがかかっており、パスワードを入力して起動する。
一瞬で極楽へ行ける魔法のスイッチ。
痛みはない。
そんな夢のような都市伝説。
誰も本気にしてはいなかったが、もしそんなものがあるなら、と空想する者は多かった。
その噂の出どころは様々だった。
刑事の知り合いから聞いた。
医者の知り合いから聞いた。
ネットで見た。
最近ニュースになった不審死の若者の手にスイッチが握られていたらしい。
などなど。
安眠スイッチの存在が広く知られるようになったのは、あるネット中継が始まりだった。
この一件で、安眠スイッチは都市伝説ではなく実在する、という認識が広まった。
『安眠スイッチによる自殺を生中継します』
そんな不気味な催しが、とある深夜にネット上で行われたのだ。
少年がPCに設置されたカメラの前に座っている。
取り立てて特徴のない、ごく普通の少年だった。
みな興味本位で集った。
否定的なコメントも数多く寄せられた。
「どうせインチキに決まってる」
「最後は『やっぱり死ぬのやめます、みんなありがとう』でエンドだろ?」
「本当に安眠できるのか? 血がぶしゃーなスプラッタとかにならないか?」
「期待」
「支援」
「早く死ね」
みんな好き勝手な言葉を投げかける中、その少年は無表情で丁寧に返事を返していた。
「手術はどこで?」
『それは……ちょっと詳しくは言えません』
「いくらかかったの」
『だいたい百万円です』
「そんな金があんなら死ぬ必要ねーじゃん」
『大金がかかってでも、やり直したいんですよ、人生を』
「死んだら生まれ変わる保証なんてねーぞ」
「自殺したら地獄行きだろ、どうせ」
『でも、楽にこの人生を終わらせられたら、と思いまして』
壮絶ないじめ体験の告白と、細部をぼかした「都市伝説の裏側」談が、見る者を夢中にさせた。
やがて少年が指定した時間が来て、少年はスイッチに指をかけた。
『百万円で、安眠が得られること、証明できたらいいですね』
少年は一切の不安を持っていなかった。
多くの人間が見守る中、少年はスイッチを押した。
『おやすみなさい』
そう言って、少年は画面の向こう側でうつぶせになった。
本当に、居眠りを始めたようにしか、見えなかった。
少年は最期の瞬間まで笑っていた。
その笑顔が、見る者すべての脳裏に焼き付いていた。
次の日の朝まで、その中継は続いていた。
じっと動かない少年。
窓の外が明るくなり、小鳥のさえずりが聞こえてくる時間になった。
「どうせ寝ただけだろ、俺も限界、寝る」
「突然起きだして俺たちを驚かせるオチに1000円かける」
「時間の無駄だったな」
「そのうち中継が切れて、ハイおしまい、だろ」
そう言って視聴者はどんどん減ったが、それでも最後まで見続けた者たちがいた。
そして、扉から彼の母親らしき女性が入ってきたことで、状況が動く。
『またこんなところで寝ちゃって……だらしないんだからもう』
『ほら、起きなさい、もう起きないと遅刻するわよ』
『ちょっと、もう、起きなさいって』
母親がいくらゆすっても、彼は起きなかった。
その時、彼の顔がよく映った。
本当に、寝ているような安らかな顔。
しかし、その顔色は死者の物だった。
息子の息がないことを知った母親はパニックになり、部屋中を動き回った。
それは決して、演技ではなかった。
この時間まで付き合っていた視聴者は、その場面を目撃して眠気も吹っ飛んだだろう。
リアルタイムで見られたことに、興奮していただろう。
PCのカメラが繋がっていることに気づいた母親は、電源を落とすことを忘れなかった。
その瞬間、この不気味な自殺中継が幕を閉じた。
しかし、「安眠スイッチ」の物語は、ここから始まってしまったのだ。
「安眠スイッチは存在する」
このネット中継を見たものは、そのことを疑わなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます