第22話 女神様は残酷

 

「私、魔王様のお名前をお呼びすることはありません。この先もずっと、絶対に」


 セリーヌの手を握るルシアンの手に、ぎゅっと力が込められた。

 力が入っているから分かりにくいが、その手が僅かに震えているのがセリーヌにまで伝わる。



「……セリーヌ」

「ずっとお待たせしていたのに、期待に応えられなくてごめんなさい」

「セリーヌ、」

「私きっと、随分思わせぶりでしたよね? なかなか言い出しにくくて」


「セリーヌ!」


 動揺してしまわないように、心が揺れてしまわないように、必死で意識して。セリーヌはなおも微笑んだまま首を傾げた。


「なんですか?」


 ブルーグレーの瞳が揺れている。


「それは……僕とは、絶対に結ばれる気はないということ?」

「はい、そうです」


 セリーヌはきっぱりと答えた。

 ルシアンの顔はもはや真っ青で、その表情は抜け落ちてしまったようだった。


「僕は、今更引き返せないと言った」

「儀式の時ですね」

「いつまでも待つけど、手放してはやらないとも言った」

「覚えています」

「だったら、いつか君の気持ちが変わるまで、何年でも僕は──」

「何年待たれても、絶対に変わらないと気づいたんです」


 セリーヌを縋るように見つめるその瞳が、いつのまにか潤んでいる。

 それに一瞬動揺しそうになるが、なんとか平静を装った。


「……セリーヌは、僕が嫌い?」

「嫌いではありませんよ」

「っそれなら!」

「嫌うほど興味がありません」

「……っ!」


 今までにないほど冷たいセリーヌの答えに、ルシアンが震えた。


「それに、魔王城も正直、居心地が悪くって。皆さんよくしてくれますけど、やっぱり私は人間でしょう? どうにも肌に合わないといいますか……」


 嘘だ。こんなにも温かで幸せな場所をセリーヌは知らない。


「……例えばここを出て、どうするつもりなんだ?」

「そうですね……考えついたら、出ていこうと思います」


 城下にはセリーヌの顔は知られてしまっている。

 きっと優しいルシアンは、セリーヌが彼からもらったプレゼントを売り渡してお金に換えても、怒ることはしないだろう。そうすれば当面の生活費は工面できる。たくさん悲しませてしまうだろうけれど。

 最後までその優しさに漬け込む罪悪感がないわけではないが、もうそんなことを言っている場合ではないのだ。


 資金を作り、離れた場所で、田舎の小さな村にでもたどり着けたらと考えている。そしてそこでどうにか暮らしていける仕事を探すのだ。最悪の場合、貴族令嬢の嗜みとして身につけた刺繍もお金にはなるだろう。

 どうせ人間界には戻れないし、戻れたとしてそれこそセリーヌの居場所などないのだから。


 こうして恩知らずにも酷い態度をとっていれば、ルシアンもさすがにセリーヌに対して嫌気が指すはずだ。

 自分が出て行ったあと、探そうなんて気を持つこともなくなっていればいい。セリーヌはそう考えていた。


「僕は諦めない」

「本音を言うと、そういうのもいい加減うんざりなんです」


 酷い言葉を言うたびに、胸が張り裂けそうに痛む。

 しかしセリーヌはそんなことはおくびにも出さず、少しも微笑みを崩さずに淡々とした態度をとり続けた。


「……今日は戻るよ、部屋まで送る」

「結構です」

「明日また話そう、少し落ち着いて」

「結構です」

「……メリムを呼ぶ」


 嫌な受け答えを続けているのに、どうしてルシアンはこんなに優しいのだろう。


(ああ、でも、そういう人だからこんなに好きになってしまったんだわ……)


 セリーヌの手を握っていたルシアンの温もりが離れていく。

 彼は緩慢な動きで立ち上がり、扉を開くと、最後にもう一度振り向いた。


「僕は、それでも君を愛してる」


 絞り出すような言葉とともに、ついにブルーグレーの瞳から涙が一粒こぼれた。

 そのままルシアンは部屋を後にする。


 ゆっくり閉じていく扉がパタン、と閉じ切った瞬間、セリーヌは体が引き裂かれるような痛みを味わった。


(魔王様を、泣かせてしまった)


 まさか、泣くなんて。

 失望される覚悟はしていたけれど、それよりもよほど辛い反応だった。


(でも、こうするしかない。私は絶対に、魔王様と結ばれてはいけないのだから……)


 例えば自分が聖女であることを打ち明けて、万が一それでもいいと彼が言った場合にはもう取り返しがつかない。

 軽い口づけの積み重ねで目に見えて効果が現れ始めてしまったルシアンの体。

 もしも、何かの弾みでその先に進んでしまったら?


(魔王様は、確実にあなたを落としてしまう)


 そうじゃなくとも、そばにいるだけでいいからと望まれてしまったら?

 きっと、それも辛いだろう。

 ルシアンは魔王だ。いつか後継の子供を持つために他に妃を持つことになるはずだ。


(そんなのは耐えられない)


 それならば嫌われて、二度と会えなくなる方がいい。

 心の中でずっと、ルシアンを愛し、綺麗な思い出にして生きていくのだ。


 どうするか思いついたら出て行く、とは言ったが、セリーヌはすぐにでも魔王城を出ようと思っていた。

 城内は安全で、身を守ることを考える必要もない。

 魔界のことをほとんど知らないセリーヌが一人で出て行くなど無謀だということもわかっている。


 けれど、ルシアンを死なせてしまうくらいならば、自分は魔物に食われて死んでも構わないと思っていた。



 ティールームにメリムが入ってきた。きっとルシアンが呼んでくれたのだろう。


(本当に優しい人。怒ってもおかしくないようなことばかり言ったのに)


「セリーヌ様? ルシアン様と何かあった……?」


 いつも元気で明るいその声も今にも泣きそうだ。


「……いいえ、大丈夫ですよ」

「でもっ」

「仕方ないことだから、気にしないでください」

「……メリム、何かあっても絶対絶対セリーヌ様の味方だからねっ!」


 どうしてメリムはこんなにも自分のことを慕ってくれるのか、セリーヌには不思議でならない。

 どちらにしろこの純粋で可愛い妖艶美女とももうすぐお別れなのだ。


(きっと私が黙って出て行けば魔王様だけじゃなくメリムやみんなのことも傷つけてしまうよね。だけど、どうか許して……)



 何があっても、どれだけ傷付けても、セリーヌはルシアンを殺したくないのだ。


(愛する人を心のまま愛したらその人を殺してしまうなんて、女神様は残酷だわ……)


 どうしてセリーヌが聖女に選ばれてしまったのだろう。

 こんなことならば、温かさなど知らずに本当にただの生贄として死ねたならよかったのに。


 そんなことを思いながら、ふらつく体が倒れてしまわないように、一歩一歩踏み締めて、セリーヌは部屋へ戻っていったのだった。



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