第2話
「ニコラスの動きがどうも怪しい」
スーツにバーカウンターで手巻き煙草をふかしてているエドは一見、昼間は証券会社であくせく働くサラリーマンか何かのようだ。実際に真っ当に働いていた時期があるのかもしれない。
真面目な勤め人でもマリファナを吸うことぐらいあるだろうし。実際そういう客も多い。そういう見かけのまともっぽさと、もちろん目上の人間であるという事実の両方で俺はエドのことが割と苦手だった。
目上の人間にもまともな人間にもちゃんと好かれたためしがない。エドには少なくともあからさまには嫌われていないが、ローディのオマケもしくは窓口だと思われている節はある。間違いとも言い切れないが。
深夜のバー自体にはちらほら人がいたが、俺たちのいるカウンターには誰も寄り付かない。エドが「そう」だととっくのとうに常連にはバレているからだし、それでなくても今日は妙にくたびれた場違いな風体の目つきの悪い男がふたりもいる。
「怪しいというと」
ニコラスは昔の俺たちのようにエドの下で売り子連中の面倒を任されているやつで、何度か会ったことがある。俺より一つか二つ年下で、瞼と唇の薄い、ヘビかトカゲのような男だ。
「妙に羽振りがいいから売り上げガメてるのかとも思ってたがな、そうでもなさそうでな。少し調べさせた」
俺の隣でモヒートを啜っているローディはすっかり話は俺に任せるという態度だ。置いてくればよかった。
ただローディはエドに気に入られているし、ローディもわりとエドの下にいるのを気に入っている。
「どうも『トルメンタ』あたりのメキシコ系の連中とつるんでるんじゃないかと」
横でローディの肩がピクリと小さく、だが明確に動いた。
「それは穏やかじゃないですね」
「だろう。縄張り争いのためにヘリコプターに機関銃まで持ち出すような加減を知らない連中だ。と言ってもまだ証拠を掴んだわけじゃない。憶測でバラすにはもったいない奴ではあるしな、お前たちに始末をつけてもらわなきゃならないときにはまた連絡する」
手巻き煙草の煙を大きく吸い込んで、エドは「吸うか?」と笑った。
「この後運転するんで」
「真面目だなあ」
マリファナが回ってきたのか意味もなく機嫌よさげなエドは、ローディの二杯目のモヒートの金までしっかり払ってくれた。
話に一度も混ざらなかったくせにやたら愛想よく「ありがとうございました」と微笑んだローディの頭を、エドの背中を見送りながら軽く小突く。
「何だよ」
「お前、ニコラスとなにかあったか」
「何も」
大噓つきだ。だが経験上こいつがシラを切っているところから吐かせるのは難しい。他人が折れて当然だと思っているのだ。
仕事は出来るが組織の人間として難があるこいつをよくもまあエドは上手く操縦しているものだと思う。まあローディがやらない仕事を俺がやっているということもあるのだが。
「帰るか」
「なんだよハンク、やきもちか」
「抜かせ」
「心配しなくてもお前が一番お気に入りだよ」
へらへら笑って肩をぶつけてくる。モヒート二杯で酔っぱらうタマでなし、素でこれだと思うと腹が立ってしょうがない。
甘ったれの末っ子はどんな形でも好意を示せば必ず返ってくるものと信じ切っている。
「拗ねるな拗ねるな、サービスしてやる」
「へえ、具体的には?」
「舐めてほしいとこ全部舐めてやる」
「壁でも靴でも?」
「ああ、壁でも靴でも」
ローディが今笑うのは俺が本当に靴を舐めろとは言わないと思っているからだ。馬鹿にしていやがる。
口に出せないようなところを舐めさせてやる、とこっちがやり返そうとするそれすらも思うつぼだろうと悔しくなる。
何も言えずに助手席に蹴り込む仕草をしてやると、ローディは大げさに「いてえ!」と笑ってから、運転席に座った俺の首にキスをした。歯型が付きそうなくらい強く。
夜中、息苦しくて目が覚めた。身動きが取れない。ベッドの中でがっちりと裸のままのローディに抱きつかれているのだ。筋肉質な腕は剥がそうとしても剥がれない。
考えあぐねて、やたら気持ちよさそうな寝顔の、半開きの口の中に人差し指と薬指をまとめて突っ込む。指先が喉の入口の粘膜をぬるりと撫でた瞬間、びくっと眠っているローディの体が跳ねてごぼごぼ咳きこみ、腕に力がこもってぎゅうぎゅうと体を締め付けられる。
苦しさの中で「そういやヘビって全身筋肉で出来てるってテレビで言ってたな」と思いながらどうにか口から手を引っこ抜いた。
状況が理解できていない顏で軽くえずきながら、ローディはあたりを見回す。そして唾液まみれの俺の手を見て事の次第を悟ったのか、抱き着いたまま俺の肩に噛みついた。
「何考えてんだよ!」
「腕」
「いいじゃねえかこのくらい」
「寝苦しくてしょうがないんだよ」
ふうん、と鼻で笑って、ローディは俺を抱えるのを止めて俺の手を掴んだ。唾液でてらてら光っているそこに、ゆっくりいやらしく舌を這わせる。
「まだ舐めてもらい足りないのかと思った」
舌のどろりとした熱とくすぐるみたいな動きに、眠りにつく前に体中触れられて熱を煽られた記憶がよみがえる。
「……もう十分だよ」
一瞬、ほんの一瞬「明日別に早起きするわけでもないしな」と思ってしまったが、今日は色々あって、というより主にエドに会ったことによる気疲れのせいでさすがにくたびれている。汗だくになって猿みたいに一日中耽っていられたころに比べたらだいぶ年を取った。
ローディも本気じゃなかったのか、「まあな」と笑ってから俺の隣にごろんと寝転がって目を閉じる。寝顔のあどけなさと無防備さは昔から変わらない。瞬く間に寝息が聞こえるのは気が許されているからだ。俺はそれが結局のところ嬉しいし、いじらしいように思う。
愛とは注いだ以上に返されるものだとでも言うようにローディが振舞うのは信条ではなく信仰なのだろう。世界がそうなら嬉しいという話だ。
それをなるべく叶えてやりたいと思うくらいには、俺はこいつのお気に入りでいたい。
寝返りを打ってローディの体が離れていく。俺はベッドを抜け出して、エドの電話番号を押した。
エドに再び呼び出されたのはその一週間後だった。今度はバーではなくエドの持つオフィス兼セカンドハウスの一つで、オールブラックの調度に囲まれたしらふのエドはいよいよもってまともな人間に見える。
まともな人間と話すのは気後れする。見た目だけであっても。
「ニコラスの件だがな、この間持ってきたスマートフォンとかがあっただろう、あれが中々役に立った」
「あいつ、ニコラスと繋がってましたか」
「ニコラスに任せていた以外の区画についての情報を集めさせていたらしいな。スマートフォンの方は、通信記録は飛ばしの携帯相手ばかりだったが、通話時刻がいずれもニコラスのアリバイに引っかからない」
「アリバイって、探偵でも雇いましたか」
「部下はお前たち以外にもいるんだ。適材適所ってわけだな。それで適材適所ついでにUSBの中身を調べさせた。暗号化されていてまだ完全には解読できていないようだが、ある程度の中身はつかめた」
「どんな?」
聞いているのかいないのか分からないような態度でオフィスを眺めまわしていたローディが不意に口を開く。
「お前たちにはちと話せないような内容だな。当然ニコラスにも」
笑って答えるエドの目が冷たくて、その真っ当でなさが俺には落ち着く。ローディはやんちゃで気を引けて満足した子供のように口元をにやつかせてまた静かになった。
「ほぼ黒だろうがな、決定的な証拠とまではいえない。小賢しい野郎だよ」
「もうしばらく泳がせますか」
「いや、ローディ、お前を囮にする」
「は?」
ローディの心底驚いた顔はなかなか珍しくて小気味いい。たれ目がぐっと開いて眉がぴくぴくしている。俺がまじまじと観察しているのにすら気づかない辺り本当に驚いているのだろう。
「ニコラスに直接探りを入れろ。それなりに親しいんだろう?」
「親しいってほどじゃ、」
「親しいとは言ってないですよ。『なにかあったようだ』とは言いましたけど」
俺が横から注釈をつけると、我に返ったらしいローディは俺の向こう脛を蹴り飛ばした。痛いが手加減は感じられるあたり、それなりに負い目もあったらしい。
「決まりだな」
涼しい顔でエドが言う。ほとんど聞こえないくらいの小さな声でローディが「はい」と言ったのがおかしかったが、これ以上は本気で蹴られるだろうから必死で笑いをこらえた。
「悪い子だ、ハンク」
「いかにもその通り」
帰りの車のハンドルは何を言う前からローディが握った。発進もカーブも何もかも荒い。最悪心中する羽目になるな、と思いながら眺める夕方の街並みはなかなか綺麗でよかった。
「チクり魔め」
「何とでも言え」
「今日こそはサービスしてもらわなきゃ割に合わない」
「へえ、俺に秘密でニコラスとつるんでおいて」
赤信号を見てほとんど事故みたいな唐突さでブレーキを踏むと、ローディはポケットからキャンディの袋を取り出して引きちぎる勢いで開封した。袋から飛び出した赤いキャンディが座席の下に転がっていく。
横目で俺を見る視線がどろどろ燃えているように感じられた。死体を焼くときの重く生臭い煙をまとった、怒りの目。
よく人を殺すような目というけれど、ローディや俺にとっては人を殺すときは仕事だから、殺したくても殺せないときの方がよっぽど怖い目をしている。
「ハンク、俺のことが嫌いか?」
「いやまったく」
何でそんな結論にたどり着いてしまうのか、俺にはさっぱり理解できない。
こいつが俺を蹴っ飛ばしておいて勝手に気に入りやがったあの日から、俺はこいつを嫌いだと思ったことは無い。厄介で面倒で許しがたい甘ったれだが、嫌いになるのは違う。
俺は俺を気に入っている人間を嫌いになれるほど、人に好かれてこなかった。
手のひらを差し出して「くれ」のジェスチャーをする。
キャンディを置かれる代わりに爪を立てられた。
「いてえな」
「どういうつもりだよ」
「やきもちだぜ、一番のお気に入りのご機嫌取る気も無いのか」
必要以上に不機嫌な声を作ってやると、じっとりした目つきのローディは深くため息を吐く。
「悪い子だ」
ローディは自分の口に飴を放り込んで、それから思いきり俺の首を引き寄せて唇を合わせてくる。
勝手に興奮しているのかどろどろした唾液に、甘ったるい砂糖の味と作り物のフルーツの味が混ざる。四六時中甘いものを食っているやつは唇も舌も甘い。砂糖漬けの不健康な甘さだ。
そして大抵、不健康な物の方が美味いし中毒性も高い。
後続車のクラクションの音で信号が青に変わっていることに気付いた。中指を立ててからローディがハンドルを握りなおす。発進はさっきより幾分かスムーズだった。
「うまいか」
「最高」
「これでチャラになるくらい?」
「考えておく」
「調子乗りやがって」
声にはまだ少し棘があるが、目つきはいつものそれだった。あんまりお手軽なのがちょっと不憫なぐらいだ。
家に帰ったら今度はこっちがサービスしてやらなきゃならないだろう。俺はお気に入りでいる努力を怠らないたちなのだ、これでも。
「ニコラスはエドに紹介されたんだ」
不憫なローディは浮気を白状するときみたいな、なるべく茶化して罪状を軽くしたい意図が見え見えの話し方で切り出した。親父がたびたびお袋にしていた話し方に似ている。
「あの調子じゃ当人は忘れてるかたいした話だと思ってないかのどっちかだが。ニコラスは結構頭の切れるやつだから、気に入って誰彼と引き合わせてたのかもな」
「気に入ってるわりにはあっさり切り捨てるんだな」
「そりゃ役に立つところが良かったんだから。ま、それで向こうは何を思ったかすっかり俺と組んで仕事する気になってたが、そうはならなかった。いまだに諦めちゃいないらしいが」
だからな、と何かを弁明しようとしているらしいローディに「大丈夫、分かってる」と先回りして何も言えなくしてしまう。
「大丈夫」
エンジン音に紛れるぐらいの音量で、言い聞かせるように繰り返す。ローディというよりも自分自身に。
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