第8話 離婚裁判へ
二度目となる離婚調停は二〇〇九年二月から開かれた。調停員は前回と同様、年配の男女二名である。
達也は今回も調停員がエリカの借金を戒めて、反省を引き出すような調停をしてくれるものと期待していた。前回の和解調書に記された、これ以上の借金を慎むとの和解条項が反故にされている以上、非難されるべきはエリカの約束違反であることは明らかだと思ったからである。
だが、その期待はまったくあてが外れた。横柄な態度で押しの強そうな男性の調停員が開口一番、放った言葉は、
「あなたたちはこれが二度目の調停のようですが、本当に離婚するつもりがあるのですか。そうだとしたら離婚に伴う財産分与を決めなければならないので、次回まで自宅不動産の債務残高を証明するものを持ってきてください。」
どうやら、エリカの借金の反省を促して和解に導くような調停ではないようである。エリカが、今回は徹底的に争う姿勢を見せたことも影響しているようであった。
そしてその一ヶ月後に開かれた調停二回目では、前回の調停で双方が合意した和解条項の履行義務違反を達也が指摘しても、
「それはあなたの言い分で、奥さんには別の言い分がある。我々も忙しいので、いつまでも調停を続ける訳にはいかない。
次回まで、取り下げるかどうか決めてもらえますか?」
と突き放したのである。
家庭裁判所の離婚調停で、双方が取り決めた合意事項の遵守義務とはこれほど軽いものだったのか。達也は、三年前の時とはあまりにかけ離れた調停員の対応の落差に言葉を失った。結局、期待が裏目に出た離婚調停はその二ヶ月後には取り下げるしかなく、ただ、ただ無力感だけを味わって、達也は裁判所を後にした。
達也は気持ちを切り替えなければと、自身に言い聞かせた。これまでは離婚のことだけを考えてエリカに接してきたが、頼みとしていた調停を取り下げた以上、しばらくは現在の夫婦関係を甘受しなければなるまい。エリカの許しがたい背信行為の数々を考えれば、それは決して容易いことではないが、麻奈美のために耐えるしかないと思った。
憂鬱な気分のまま自宅に戻った達也は、母マサ子から配達証明付きの大きめの封筒が配達されているのを受け取った。差出人は仙台簡易裁判所となっていて、同じものがエリカ宛にも届いているという。
訝しげに封を切り内容を読み始めると、紙を持つ手が震えてきた。それはエリカが購入した幼児向け英語教材のローン、五四万円が支払い不能となったため、配偶者である達也に対して民法に定める日常家事連帯債務義務により支払いを求めるとの内容であった。
この債務は、当時まだ三歳だった麻奈美にそれほど高額な英語教材を買い与えるなどとんでもないと、相談された達也は取り合わなかったのだったが、エリカが勝手に割賦契約を結んでしまい、結局、支払いを滞納してしまったものである。
読み終えてカーッと頭に血が上り、エリカに対する怒りが頂点に達した。達也は、ただちに花沢弁護士に電話を入れる。
「それなら離婚理由に該当するかもしれないわね。すぐ事務所で相談しましょう。」
それにしても、離婚調停を取り下げた当日にこの忌まわしい郵便物が届くとは…。やはりエリカとは離婚しかないという宿命なのだろうか。つい数時間前までは離婚を断念するしかないと気持を切り替えたはずの達也は、頭の中で早鐘がなっているように混乱していたが、落ち着かなければと思った。
とりあえず同じ郵便物を受け取ったエリカの反応を見てみよう。何故このようなことになったのか、達也にかけた迷惑を詫びるつもりであれば話しを聞こうではないかと様子をみていたのだが、エリカの口からは言い訳の一言も発せられることはなかった。
達也は決断せざるを得なかった。数日後、花沢弁護士を代理人とする委任契約書に署名し、離婚訴訟という未知の領域に足を踏み入れることになったのである。
まさかそれが、もがいても、もがいても這いあがることのできないアリ地獄に落ちてしまったかのような苦しみを達也に与え、のみならず麻奈美の将来をも危機に陥れることになろうとは、そのときは思ってもみないことであった。
二〇〇九年五月、達也を原告とし妻エリカを被告とする訴状が花沢弁護士によって仙台家庭裁判所に届けられた。
請求の趣旨
一.原告と被告は離婚する。
二.原告と被告間の長女麻奈美の親権者を原告とする。
三.訴訟費用は被告の負担とする。
訴状と一緒に証拠書面として揃えた資料の中には、達也がつけていた日記と共に、自身がパソコンでタイプした陳述書も付された。
陳述書
一.八年間の婚姻期間中、妻の借金壁は改まることなく、それは夫婦の間に長女麻奈美を授かってからも同様でした。妻にとって最も優先すべき事柄は、フィリピンの親族に対しての仕送りであり、私との結婚の目的も、日本で働いてその収入を送金することにあったとの結論しか見出すことはできません。
二. 長女の将来、私の老後を考えた場合、上記のような状況がこの先も続くことは容認できるものではありません。
現在、妻は自ら成した借り入れや消費行動でつくった返済債務のために自己破産寸前の状況にあり、金銭管理能力を著しく欠いた妻に長女の親権を渡すことは長女の福祉にとって大きな禍根を残すことになります。今後は私が長女の親権を行使し、責任をもって育てていきたい。
平気で嘘をつく、他人の忠言にもすぐ激高する、長女にきちんとした躾ができないなど、妻との婚姻生活を続けることで、長女の将来に及ぼす悪影響が強く懸念されます。まだ四歳を過ぎたばかりの今、母親と生活を切り離すことができればその悪影響も最小化できると考えます。
妻は長女を自らの一部と考えているようであり、子どもは社会の財産と考える私の養育方針とは相いれません。妻の長女に対する愛情は、真に長女の将来を考えたものなどでは決してなく、自らの支配欲を満足させるためのものでしかありません。
母子が過度に依存しあうことによってもたらされるといわれている、親子共依存関係が及ぼす長女への将来にわたる精神的な悪影響さえ懸念されます。
私の兄弟や親族との関係が、妻の非常識な言動によって著しく毀損されてしまいました。それを修復するためにも、離婚しか道は残されていません。 以上
花沢の作戦はエリカが代理人をつける前に速攻で決着をつけようというものだった。だが達也はその方針に戸惑いを感じていた。一つは、相手の無知に付け込んだこのようなやり方が、公正であるべき法廷の場で通用するのかという、裁判などにはこれまで無縁の存在だった素人としての率直な疑問である。ましてやエリカは難解な法律用語など理解できない外国人である。
もう一つは、達也にはまだ会社での勤務があり、実際に離婚が成立した後の麻奈美の身上保全を確保できるのかとの懸念である。
例え思惑通りに判決で達也が親権者として指定されたとしても、エリカはだまし討ちにあったと恨み、対抗手段として家から麻奈美を連れ去ろうとするかもしれない。嘘の紛失届で新たに発給された麻奈美のパスポートを手にしていることから、一緒にフィリピンに連れ帰ることだってできる。
エリカがそのような行動に出た場合でも勤務先での仕事があり、四六時中、麻奈美の傍にいるわけにはいかない達也には、それを完全に阻止することなどできはしない。
場合によっては、エリカから引き離すために、麻奈美を一時的に遠く離れた親戚の家に預けるようなことも本気で考えなければならないのでは、とまで思案した。
しかし花沢としては、確実に親権を獲得できる方法を考えた末の苦肉の策だったと思われる。相手に弁護士がつけば互角の争いどころか、親権争いでは母親有利という家庭裁判所の慣例からすれば、達也側が不利になると考えたのであろう。
それは達也とても同じ思いであった。この裁判は、とにかく勝たなければ意味がない。訴訟に及んだそもそもの目的を達するためにも、何よりも確実に親権をとることを第一に考えるべきだと自分に言い聞かせた。結局、達也は花沢の方針に従うことにする。
達也の不安をよそに、花沢の作戦は当初、成功するかに見えた。日本語の読み書きが不得手なエリカは、家庭裁判所から送られてきた訴状を、簡易裁判所からの借金催告通知と勘違いしたらしく、そのままほったらかしにしていた。
そのため、第一回目の呼び出しには出廷せず、第二回目の期日も欠席すればそこで判決が言い渡されるという当日になり、裁判所からの確認の電話を受けてようやく事の重大さに気がついたのである。エリカは開廷時間ぎりぎりになって法廷に駆け込んできた。
法服を着けた女性判事の宮本が既に裁判官席に着き、達也も花沢に伴われて原告席に座っていた。
裁判官から訴状の内容について改めて説明を受けたエリカは、達也側に弁護士がついているのに、自分が単独で裁判に臨まなければならないのはアンフェアーだと訴えた。
外国人の口から発せられたアンフェアーという言葉に突き動かされたのか、宮本は、エリカの日本語が不十分なために訴状を理解できなかったことに乗じて被告欠席のまま判決に持ち込もうとした花沢の方に咎めるような視線を送る。達也には、この時の怒りを含んだ宮本の視線が強く印象に残った。
宮本にしてみれば、危うく過誤による欠席裁判のまま判決を下してしまうことになりかねなかったのであるから、達也側に悪い心証を抱いたのも当然であろう。このことが裁判の行方に影響がなければ良いが、と達也は願った。
宮本はエリカの傍らに歩み寄り、心配いらないからと語りかけ、「法テラス」によって弁護士をつける方途があることを耳元で囁いた。
「法テラス」とは、経済的に弁護士費用が負担できないような弱者でも公平な裁判を受ける権利を保障すること等を目的として、国が設立した日本司法支援センターの俗称である。これを利用すれば弁護士費用の立て替え制度を利用し、月五千円程度の分割払いとすることができる。
その方策を授けられたエリカは、その後「法テラス」仙台事務所の紹介により、若手の金谷弁護士を代理人として選任した。
通常、離婚調停・裁判は妻側から申し立てられることが件数的にみても大半を占める。離婚成立に伴う慰謝料、財産分与などは収入のある夫側から妻側に対して支払われることが多いためで、代理人はその何パーセントかを報酬として受け取ることができる。
夫側の弁護を引き受けてもそのような実入りは期待できず、法律事務所もビジネスである以上、市場原理が働くのはやむを得ない。代理人を引き受けた金谷にしてみれば、家庭裁判所裁判官の口添えで「法テラス」から紹介があったのであるから、なおさら勝訴の見込みが高いと踏んだのであろう。
依頼を受けた金谷は即刻、反撃を開始し、家庭裁判所に反訴状を提出する。反訴が提起されたことにより、花沢が企図した速攻での決着という目論見が外れ、達也が離婚訴訟を取り下げたいと思ってもエリカが同意しない限り、裁判は離婚の確定を見るまで延々と続くことになった。
反訴請求の主な趣旨は、離婚に伴う麻奈美の親権者を母親エリカとすること、達也の名義である自宅の土地、建物を含め、婚姻期間に応じた財産分与を要求するものであった。また、制度ができて間もない年金分割も当然のことながら請求に含まれていた。
最大の争点は、いうまでもなく麻奈美の親権をどちらが執るかである。麻奈美の将来を案じて悩んだ末に、経済観念のないエリカは母親としての適性を著しく欠いていると主張して訴訟に及んだのであるから、達也にとっては親権を譲ることなど絶対にできない。裁判は混迷を極めることが予想された。
達也が離婚訴訟を起こしたことにより、当然のことながら、家庭内でも夫婦間の対立は決定的なものとなる。エリカはこのときから寝室を分けるようになり、客間として普段は使われることのない和室に布団を敷き、麻奈美と二人だけで寝るようになったのである。
それまでは、広い寝室にベッドを二台並べて親子三人で川の字になって寝ていた。
あの家出騒動以来、両親の仲が悪くなったことを幼いなりに感じることができるようになってからでも、真ん中に寝ていた麻奈美は両親の手を引っぱって握らせようとしたようなこともあった。
また両親の間で激しい諍いが始まると、小さな体で二人の間に割って入り、
「けんかしないで!もうやめて!」
大粒の涙を流しながら口論を収めさせようとしたようなことも、何度かあった。達也はそんな麻奈美の優しい心に愛しさを感じ、それがことさら不憫であった。
季節は夏から秋へと変わっていた。
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