第7話  決断の時


 暮れも押し迫ったその時期に、またもめごとが起きる。今度はエリカと、達也の姪との間に起きたトラブルだった。

 母マサ子は達也と一緒に暮らすようになる前、三人の孫娘の面倒を見るために、郷里の山形で長男家族と暮らしていた時期がある。

 なかでもマサ子が最も目をかけて可愛がった幸子は大学卒業後、大手の設計事務所に就職し、九州の福岡に赴任していた。そして実家のある山形に帰省の途中、幸子が幼いときに育ててくれたマサ子に顔を見せるために仙台に立ち寄ったのである。

 子ども好きな幸子に麻奈美はすぐになつき、あやとりや折り紙を教えてもらったりして楽しく遊んだ後、エリカが夜勤の仕事に出たこともあって、その晩は幸子と一緒の布団で寝た。

 翌朝、食卓テーブルを囲んで四人で朝食を摂っていたところに、エリカが夜の仕事から戻ってきた。そして、玄関に出迎えた娘におやつのチョコレートを渡したため、麻奈美は朝食を中断してそれを食べ始める。

 その様子を見ていた幸子が口を挟んだ。他人であれば余計なお世話であるには違いないが、身内という意識があったのだろう。

「エリカさん、ご飯を食べているときにお菓子をあげるようなことは、麻奈美の躾のためにも良くないんじゃないの?」

 幸子は、常日頃にもこのような説教口調でものを言う性格である。その一言に対して、エリカが猛然と反発した。

「あんたに言われたくないよ、子どもを育てたこともないくせに。」

 夜の仕事で疲れて帰って来たところに、未婚でしかも年下の幸子から気に障ることを言われたことが面白くなかったのであろう。それに対して幸子も更に理屈っぽく言い返したため、口論はますますエスカレートしていった。

 こうなるとエリカは自制が利かなくなる気性の激しさを持っている。ラテン系である母方譲りの、血の気の多い遺伝子を受け継いでいるのであろう。幸子が、まともに議論できる相手ではないと冷静さを取り戻し、口論を終わりにするためにマサ子の部屋に引っ込んでからも、エリカは大声で罵声を浴びせ続けた。

「早くこのうちから出て行け!それまで、止めないからね!」

 達也もマサ子も何とか落ち着かせようとしたのだが、エリカの暴走はとどまるところを知らない。麻奈美は昨日からなついていた幸子にエリカがどなり続けるのを目の当たりにし、床に突っ伏して泣き始めた。

 結局、幸子はいたたまれなくなって予定を繰り上げ、その日のうちに郷里の山形に発つことを余儀なくされる。遠い九州からせっかく来てくれた幸子に対して申し訳ない気持ちでいっぱいであったが、マサ子はそれ以上に悲嘆に暮れていた。

 達也は、いかに幸子の一言に差し出がましさがあったにしても、自分の親族に対しての常軌を逸した今日のエリカの暴言を、絶対に許すことができないと思ったのである。


 暮れの騒動のためにひどく不愉快な正月を過ごし、エリカに対する嫌悪感をますます募らせた達也は、年明けを待って以前から気にかかっていたある不安を払しょくするための行動をとった。

 それは二年前に麻奈美がフィリピンに連れ去られるのを防ぐ手段として発給を受けたパスポートが、勝手に更新されないようにすることである。

 県庁のパスポートセンターに、次のような内容のメールを送った。

「現在離婚調停中ですが、二年前に発給を受けた長女のパスポートについて、私の配偶者が子どもの海外連れ去りを目的として再発行を申請する恐れがあるため、そのような申出があった場合には受理しないようにご配慮いただきたい。」

 それに対してパスポートセンターの担当者から、メールの返信ではなく達也の携帯に電話が入った。

「お話したいことがあるので、至急ご来所いただきたい。」

 電話の声にただならぬ気配を感じ、達也は勤務時間中であるにもかかわらず外出許可をもらって駆けつけた。パスポートセンターでは、男女二名の担当者が応対した。そして告げられた言葉に、達也は茫然とする。

「実は奥様から旧パスポートの紛失届が出され、既にお子さんの新たなパスポートが発給されています。」

 その時期は前年の十一月、何と二ヶ月前のことだという。

「元のパスポートは紛失などしていない!

 今も銀行の貸金庫に厳重に保管してあります。その新しいパスポートは、明らかに嘘の紛失届により交付されたものですから、直ちに取り消していただきたい。」

 気が動転していて、それだけ言うのがやっとだった。しかし応対者は、

「紛失届に際しては必要な書類もすべて整っていて、こちらとしては受理しない訳にはまいりませんでした。

 そして一度発給されたものを取り消すこともできません。ただし、ご両親の同意があれば別ですが。」

 達也の裏をかいてまでつくったパスポートの取り消しにエリカが応じる訳などないではないか。こんな事態を招いたのも、先の入国管理局同様、お役所仕事のマニュアル化による弊害にほかならないと思った。エリカはそれを巧妙に利用したのである。

 相手の狡猾さにもっと注意を払うべきだったと達也は悔いたが、それで諦めるわけにはいかない。最悪の場合麻奈美がフィリピンに連れ去られてしまう。もしそのようなことになれば連れ戻す手立てがなくなってしまう。父親が子どもに会いたい一心でのこのことフィリピンに渡航し、金銭をとられたうえに殺害されるといった類の事件は現実に起きている。彼の国では、わずかな金銭で殺人を請け負う輩などいくらでも存在するのである。

 日本の新聞には、外国で日本人が巻き込まれた不運な事件として小さな囲み記事で報じられるだけであるが、そのような背景を持っている事件が少なからず含まれていると聞かされていた。

 達也は家に戻るとパソコンで外務省のホームページを開き、パスポート関連の部署を探しだす。そこに問い合わせ用のフォームを見つけると、パスポートセンターでのいきさつについてメール文を打ち込んだ。

「子どもが海外に連れ去られ場合、ハーグ条約を批准していない我国は、相手国に対して子どもの引き渡しを要求することはできません。日本人子女の将来が危機にさらされているため、何とか善処いただきたい。」

 それに対して外務省からは、達也にではなくパスポートセンターに連絡があったようである。担当者からは、次のようなメールが送られてきた。

「外務省の担当官から連絡がありました。お子様のパスポートの失効手続きに際しては、離婚後の親権が記載された戸籍謄本をご持参願います。」

 パスポートを失効させるには、親権を勝ち取ってからお出で下さいと言っているようなものではないか。

 達也は、天を仰いだ。この危機的状況に、一人で対応するにはあまりにも荷が重すぎる。離婚問題の専門家である弁護士に相談してみるしかあるまい。

 悩みに悩んだ末、達也は仙台でも名の通った、ある弁護士事務所に電話を入れた。あくる日、相談に訪れた達也を迎えたのは、花沢と名乗るベテランの女性弁護士である。花沢はひとしきり達也の話を聞くとつぶやいた。

「永住資格取得やお嬢様のパスポートの件は、親権争いにはほとんど影響しないと思うの。とすれば、奥さんの借金癖という材料だけで離婚裁判を提訴するのはリスクが大きすぎるわね。

 家庭裁判所は女性の駆け込み寺と揶揄されているくらい、母親の味方なのよ。父親が親権を勝ち取るためには、それ以上の説得材料が必要だわ。」

 どうやら、期日の迫った離婚調停には達也一人で臨むほかないようである。

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