第5話 元の木阿弥
エリカに対する不信感で鬱々とした日々を送り、誰にも相談できずにいた達也は夫婦間の信頼関係が大きく損なわれつつある現状に、どこかでけじめをつけなければならないと思い詰めるほど精神的に追い込まれていた。
そして二〇〇六年一月、一大決心の思いで仙台家庭裁判所に対して離婚調停を申し立てたのである。麻奈美がまだ一歳半を過ぎたばかりの頃だった。
達也の真意は本気で離縁を迫るというよりも、夫の忠告や意見に対して全く耳を貸そうとしないエリカに対して、裁判所という外国人でも容易に理解できる厳格な場を借りて反省を促し、夫婦が協力し合うことの大切さを理解させることにあった。
調停は裁判所からの呼び出し状が双方に送られ、その後、三回に渡り開かれた。エリカは突然の裁判所からの呼び出しに相当驚いた様子だった。
一回目は、達也が調停を申し立てる理由となったエリカの借金癖について、これまでの経緯なども含めて調停員に訴えた。このままでは幼い長女を養育していくことについて、将来が大変に不安であると。初老の男女二人の調停員は親身になって達也の話に耳を傾け、その意を汲んだ内容は次に呼ばれたエリカに伝えられた。
二回目は、エリカが今までの借金を深く反省している様子なので、まだ幼い長女のことを考えて何とか離婚は回避できないかと、今度は達也が調停員から説得された。
この示された和解案を達也は前向きに理解しようとした。エリカが、自分の借金が原因で裁判所に呼び出されたことにたじろぎ、このままでは本当に離縁されてしまうのではないかとの危機感から自らを反省し、調停員に離婚はしたくないと訴えたことの裏付けだろうと理解できる。
本当にそうであるならば、そもそもの調停申し立ての目的は達することができたといってもよいのではないか。それに何よりも、会社勤めをしながら男手一つで育てていくには麻奈美はまだ幼すぎる。
調停員の説得によって次第に態度を軟化させていった達也は、三回目の調停で離婚回避の和解に応じ、和解調書が作られた。その調書には、次のような和解条項が記されていた。
一.相手方は、申立人に対し、今後、クレジット会社等からの借入を厳に慎み、現在の借入金残額等は、できる限り速やかに相手方の責任において返済することを約束する。
二.申立人と相手方は、今後お互いに協力し合って円満な家庭を築くよう努力する。
ほんの一時ではあったが、達也は心の中を覆っていたモヤが晴れたような気がした。しかし肝心のエリカが本心でどのようなことを考えていたのか、その時の達也には知る由もなかったのである。
和解成立と相前後してエリカの在留資格の更新期限が迫っていたが、エリカは前回と同じ三年間の資格延長ではなく、永住資格取得を望んでいた。
だが達也には直前に離婚調停までしているのに永住資格取得は時期尚早との思いがあり、三年間の在留資格の申請のみに必要な身元保証書に自署してエリカに渡した。
そのほかに必要な達也の在職証明書や源泉徴収票は勤務先から取り寄せて渡し、申請書の記入や入管窓口での手続きは、初めてではないから大丈夫というエリカに任せることにした。
三年の在留資格延長に限って応じたのは、もし約束した調停での和解条項に反するようなことがあれば次回は延長拒否も辞さないとの、執行猶予的な意味合いもあった。麻奈美のことを考えてとりあえず離婚は回避したが、その時点でエリカを全面的に信用する気にはとてもなれなかったのである。
ともかくも夫婦の危機をとりあえずは乗り越え、家族の関係は続くことになったのであるが、そうこうしている間にも麻奈美は二歳になろうとしていた。日に日に可愛らしさを増し、まだおむつはとれていなかったが順調な発育状況である。達也も会社から帰ると一緒に風呂に入れたり、休日になると広い公園に連れて行って遊ばせるなど積極的に育児にかかわっていた。
週に二、三日はエリカの仕事のために保育所に預けられたが、麻奈美はそうした環境の変化にもすぐに慣れてしまうほどの順能力も備えているようであった。
ただ、保育所で風邪を貰ってきたり、急に熱を出したりするのはこの年齢のほかの子どもたちと同様で、達也が仕事を早退して小児科に連れていくことも度々だった。エリカの仕事はパートではあるものの、代わりがいないので休む訳にはいかないのだという。
それほどまでして精力的に働き続け、充分な収入を得ていたのであるが、エリカの借金が減っているような兆候はまったく見受けられなかった。それどころか、借金先はそれまでのクレジット会社だけにとどまらず、新たにサラ金業者からの支払い催促と思しき郵便物や電話も頻繁に目にするようになる。
更には、麻奈美を保育所に預けて働き始めたときの大事な約束事であった、月々わずか六~八千円の保育料の支払いも一ヶ月、二ヶ月と次第に滞納することが多くなっていったのである。
エリカは、もらった給料の中から優先順位を決めて支出に回すという、まともな金銭管理能力を根本的に欠いているのではないか。これではあのときの離婚調停の和解条項など、何の意味もなさなかったことになる。
しかし、何故これほどまでにお金が足りなくなるのか。達也は結婚式でマニラを訪れたときに集まってきた、あの大勢の親族たちのことを思い起こした。もしかしたら母親に送金していた中からそれら親族たちへの再分配がなされていたのではなかったのか。そう考えれば送っていた金額は月三万円どころではなく、働いた収入だけでは足りずサラ金にまで手を出さなければならなかったことの説明はつく。
母親の死後も送金を続けるのは、貧しい国から日本に嫁いだ自らに課せられたミッションと考えているからかもしれない。もしそうだとすれば、エリカから本国への仕送りは際限のないものになってしまう。
この当時達也がパソコンに打ち込んだ日記を読み返してみると、エリカのあきれるほどルーズな金銭感覚についての記述で埋め尽くされている。また気に入らないことがあると麻奈美を家に残したまま、見え透いた嘘を口実にした深夜帰宅や無断外泊も幾度となく繰り返されたこと。更には、年老いたマサ子に対しても些細なことに激昂して暴言を浴びせるなど、エリカの傍若無人ぶりがエスカレートしていた様子が赤裸々に記されている。
達也の心の中で、家庭を顧みることもなく借金を続けるこの相手と夫婦としての信頼関係を回復することなどもはや不可能なことで、このまま婚姻生活を続けるのは将来へのリスクが大きすぎ、いずれ離婚を決断するしか途は残されていないのではないかとの思いは日に日に強くなっていった。
あとはその時期を考えるだけであった。三年後にはまたエリカの在留資格更新時期がやってくる。達也が更新に同意しなければエリカは日本に留まることができなくなるのであり、それを取引材料に使えば離婚話を容易に進められるのではないか。本国への送金を続けなければならないエリカにとって日本から出国しなければならない事態は、その原資となる収入の途を閉ざされるも同然と考えられたからである。
在留資格申請の身元保証書と引換えに、親権者を達也として離婚届けに判を押させる。離婚に際して想像に難くない親権を巡る争いから麻奈美を守るには、その方法しかないと思った。その時期であれば麻奈美も五歳近くになっているので、育児にもそれほど手がかからなくなるだろう。
将来に対する悲観的な考えに囚われ始めたこの時期に、達也は麻奈美を連れて県庁内にあるパスポートセンターを訪れている。麻奈美の身上保全のためのパスポートを作成するためである。
そのパスポートを手元で厳重に保管しておけば、エリカが無断で麻奈美を母国に連れ去ることを防止できる。フィリピン妻が子どもを勝手に母国に連れ去ってしまう事例が多いことを、達也は聞かされていたからである。
もしそのようなことになれば…。それは考えたくもない事態であった。国境を超えた子どもの奪取、連れ去りなどがあったときのために、子どもを元の国に返還することを目的として一九八〇年に採択された国際的な取り決めであるハーグ条約を、日本が先進国でありながら批准していない現状では麻奈美を連れ戻すための手だてがなくなってしまうのである。
ハーグ条約については、最近になって我国もようやく加盟が実現したが、これまで批准に慎重だったのは、日本人女性が海外で生んだ子どもを連れ帰ることへの配慮がその根底にあったためといわれている。
それらの女性たちは、外国人夫(欧米人が多い)から家庭内暴力を受け、子どもを守るために連れ帰る必要があったと主張し、外国に住む夫側からの返還要求を拒むようなことを公然と行っていた。
これに対して条約批准国からは、子どもの人権が著しく侵害されているとの懸念が示され、日本の司法が国内法を論拠に連れ去りに手を貸しているのではないのかとの批判もなされていた。
相手国側から見れば、そうした日本人妻による一方的な行動は子どもの略奪にも等しい犯罪行為そのものと映る。とりわけ自国民保護に関して極めて敏感な米国において、議会が重大な人権問題として取り上げたことにより、米政権が対応を迫られ、日本も国際的なルールに従うべきであるとの政治的圧力をことさらに強めてきたのである。
外圧がないと何も決められないのはこの国の体質なのか。現実に、米国で生まれた子どもを無断で連れ帰った日本人母親がビザの更新に訪れた先のハワイで逮捕され、その後、司法取引により子どもを父親のもとに返すことを条件に釈放されるという、国家としての恥をさらすような醜態も演じている。
そしてまったく逆のケースについて、この国は何も考えてこなかった。つまり欧米人と結婚する日本人女性よりも、中国や韓国そしてフィリピンなどのアジア人女性を妻とする日本人男性の方が数的には圧倒的に多いはずである。それら外国人妻が子どもを無断で連れ去るような行動を取ったとき、日本人夫との間にこの国で生まれた子どもたちの権利はどう守られるのか。少なくとも自国のことを棚に上げて、他国に子どもの返還を要求することなどできはしまい。
最悪のことまで考えれば、海外渡航を可能とする麻奈美のパスポートは何としても達也の手元で厳重に保管する必要があると考え、それを実行したのである。
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