ママの恋人

鞘村ちえ

第1話

 これはわたしだけの秘密。ママには恋人がいる。


 わたしの家は「ボシカテイ」といって、お父さんがいない。別に仲が悪いわけじゃないから、時々会うこともある。だけどいつもお父さんが家にいるわけじゃないから、友達の家とは違う。ママとお父さんが離婚したのは、私が小学校にあがってすぐの頃だった。何年も前のことだから薄っすらとした記憶しかないけれど、よく二人が喧嘩していたことはなぜか覚えている。ママは怒っている感情が声や顔によく出るタイプで、お父さんは口数が少ない代わりにとにかく言葉や物を投げることで怒りのパワーを発散させるタイプ。確かに、そんな二人ならお別れしても仕方ないと、中学生になった今のわたしなら分かるような気がする。


 昨日はわたしの中学校の入学式だった。新しい制服のブラウスに袖を通して、スカートに縫われた糸をぱつんぱつんと切っていった。学校へ行く前に、アパートの玄関前で制服姿の写真を撮った。お父さんに送るらしい。ママとお父さんは定期的にやり取りしているし、別れてからのほうが仲良しなのだと、昨日の夜にお酒を飲んだママが言っていた。友達との距離感と同じ感じだろうか。近すぎてもダメだし、遠すぎてもダメ。

 新入生のわたしは先に学校へ向かう。ママは玄関前で、わたしが見えなくなるまで手を振っていた。何度振り返っても手を振っているから少し面白い。お父さんはママのこういうところが好きだったんだろうか。一瞬そんなことがよぎったけれど、新しい生活への緊張で、そんな考えは泡のようにぱっと消えた。


 ママに恋人がいると分かったのは、ついこの前だ。わたしは小学校を卒業して、のんびりと春休みを楽しんでいた。朝はゆっくり10時まで寝て、フルーツグラノーラに牛乳をかけたものを食べながら漫画を読む。ママには「はやく起きなー」と言われたけれど、起きているよーと返事をして二度寝した。

 その日のお昼、ママは「今日ちょっと友達と飲みに行ってくるわ」と言った。土曜日や日曜日になると、ときどきこういうことはある。「おっけー、いってらっしゃーい」と言うために玄関へ行くと、普段はしない香水の匂いがふわふわと漂っていた。甘くて女の子っぽい、ドン・キホーテの香水売り場で嗅いだことのあるようないい匂いだった。ママが香水をつけるなんて滅多にない。少し不思議に思ったけど、まぁお友達と遊ぶときだからかな、とリビングへ戻った。

 夕方になるまでゴロゴロしていたら、気付けば窓の外が暗くなっていた。カーテンを閉めなさい、といつもママに怒られているので、しゃっと勢いよくカーテンを閉めた。しばらくして、ママが帰ってくる足音がした。トン、カ、トン、カ。アパートの二階へ上る階段は錆びていて、明るい音がするから帰ってきたことがわかりやすい。ママもこの前「アンタが帰ってきたらすぐわかるから、おかえりを言う準備してるんだよねー」と笑っていた。おかえりを言う準備ってなんだよ、とツッコむともっと笑っていた。ママの笑顔は可愛い。

「じゃあね、さくら。また」

 ママの足音に紛れて、男の人の声がした。さくらはママの名前だ。お父さんの声でも、よく荷物を運んでくれる宅急便の人でもなかった。一言だけ聞こえたその声は、ママを笑顔にして帰してくれたようだった。

「たっだいまー」

「おかえりー」

 何も聞いていないふりをする。恋人? 婚約者? 愛人? ずっと頭のなかでぐるぐる考えたけれど、思いあたるような男の人はいなかった。

「誰と会ってきたのー? マイさん?」

 マイさんはママの職場の人だ。ママは家の近くのスーパーでバイトをしている。疲れ果てたときにお惣菜が社割で買えるから助かる、と言っていた。とぼけたふりをして訊いてみる。ママは一瞬迷ってから「ともだちー」と言った。ともだち。知らない友達だ。わたしの知らないママが世界のどこかにいるのだと知って、その日の夜は布団の中でこっそり泣いた。

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