ボヘミアン・ブレット
きゃらめる中尉
序章
第1話
日が落ちた後も熱気が残る盛夏であれば、山中の方が居心地が良いのだろうか。
静かな森にひっそりとたたずむ山小屋を観察しながら、サラ・サブノックは考える。
水もなければ電気もない。ひび割れの目立つ小路がかろうじて繋がっているだけの辺境だ。そんな場所に別荘を持つなど、避暑が目的でなければ正気を疑う。古いとはいえ小洒落た造りの建物を選ぶ人間が、そう気の狂った人物でないことは確かだった。
とはいえ誠実に生きる真人間かといえば、決してそうではないのだろうが。
小屋の周りは物騒な小銃を携えた歩哨で固められている。警察の身辺警護とは明らかに装備が異なるあたり、PMCまがいの警備会社とでも契約しているのだろう。
真っ当な人間ならそんなサービスに金を注ぎ込みはしない。サラのように「殺し」を生業とする人間とも、関わり合いにならなかったはずだ。
背を預けた木立の裏から辺りを探る。
もとは山狩りの拠点だったと思しき小屋の壁は、ところどころ漆喰が剥がれ落ちて煉瓦積みがあらわになっている。複層ガラスの窓は換気のためにかわずかに開かれているが、ここから屋内に入るのは難しいだろう。特に監視の目があるうちは。
まずは与しやすい歩哨を制圧するのが先決に思えた。このまま放置しておいたところで、こちらに利することは何もない。
足元から適当に小石を拾い上げ、小屋に向かって放る。剥き出しの煉瓦と石がぶつかる小さな音に、近くを歩いていた兵士――もとい警備員が耳聡く反応した。
視線が壁に釘付けになる。その瞬間、サラは下半身のバネで
男の視界の外に回り込み、左手で口を塞ぐ。その手を思い切り引き寄せて体軸を崩し、右手に持った白刃を男の首に突き立てる。喉を掻き切り、次に頸動脈を断つ。
「――――っ……」
微かに呻くような声にならない悲鳴と、
まず一人。今回の
次の行動に移るため、サラは踵を返す――と、その足が何かを軽く蹴飛ばした。
暗闇に紛れた艶消しの黒。兵士が抱えていた自動小銃、
そこはかとなく裏も感じるが……まあ、政治家の身辺警護を委託されるような企業だ。何らかの便宜を図られていても不思議ではない。
そう飲み下すことにしてスリングに手をかける。今回の携行品に嵩張るライフルは加えていなかった。ナイフや拳銃だけでも武装としては十分なのだが、より強力な武器があれば心強い。
追い剥ぎさながら、死体からライフルを奪い取る。しかし固く握り締められた手はスリングを掴んで離さなかった。ため息を一つ。
(まだ死後硬直には早すぎるぞ)
心の中でぼやき、その手を振り解くべく力を込める――が、死体が銃を手放すより先に聴覚がもう一つの足音を捉えた。さほど離れていない。SR-16は諦めて耳を研ぎ澄ます。
足音とは5メートル程度の距離か。身を乗り出せば即座に反応される。
そんなことになったとしても簡単に殺されてやるつもりは毛頭ないが、警備は歩哨の他に屋内にも一人残っているはずだった。下手なことをして警戒させると、後が面倒になる。
息を潜め、敵が手の届く範囲に入る瞬間を待つ。
草と砂利を踏む足音が徐々に近付く。そろそろ手が届く距離か。黒いブーツの爪先が壁の向こうから覗いた瞬間、サラは右足を大きく踏み込んだ。
突如として現れた不審者に歩哨は目を剥いている。その右腕を自分の右手で掴み、左手は首根にあてがう。そのまま右脚を軸にして身体を振り回し、膂力に遠心力を加えて漆喰の壁に叩きつける。
あまりに唐突な暴力の連鎖に、歩哨は理解が追い付かない様子だった。したたかに頭を打ち付け朦朧とした意識の下で、咳き込むように息を吐く。その隙をサラは見逃さなかった。
身体を壁から離そうとする歩哨を再び漆喰に押し付ける。ちょうど壁に張り付いたヤモリのような恰好。そのまま歩哨の急所を背中から刺し貫く。
どさり、と地面に倒れたのは若い男だった。
顔立ちからして恐らくアメリカ人。高額の報酬に釣られて海兵隊やそこらから鞍替えしたのだろうか。PMCが即戦力を迎え入れるためにしばしば使う手口だ。
結果としては、異郷の地で誰とも知れぬ女に刺し殺されるという非業の死を遂げたわけだが。これならアフガンあたりで英雄的に戦死していた方がマシだったろう。
心が痛まないわけではない。行きついた先こそ違えど、同じような道をたどって没落した人間をよく知っている。だからと言って、同情する気にもなれなかった。
とにかく、これで外の警備は完全に沈黙させたはずだ。あとは小屋の中で主人に
ナイフに付いた血糊を拭い、懐に収める。ここからは隠密行動も必要ない。正面から堂々と押し入ったとしても、止められる者は存在しないだろう。
冬にはこの辺りを吹き荒れる寒風が吹き込まないようにという配慮なのか、南に向けて造られた玄関の扉を強く叩く。
ぱたぱたと、重厚なオーク材の向こうからかすかな足音が聞こえた。ドアスコープなどという気の利いたものは取り付けられていない。いまこの扉の向こうにいる人間は、外にいるのは気心の知れた同僚だけだと思い込んでいるはずだ。
ヒップホルスターから拳銃――P226 LEGIONを抜く。
かちゃり、とドアチェーンが外される音がした。続いて厚い木材の扉が軋む音。そして最後に銃声。
胸部に二発、頭に一発。
いかにも秘書らしく紺のスーツを着込んだ、若い女の骸が
(悪く思うなよ)
妙齢の女が出てきたことは少し驚いたが、想定外というほどでもない。この程度は些末なことだ。その身体が樺材のフローリングに崩れ落ちるより先に、サラは室内に滑り込む。
小屋の中は間取りこそ1LDKのようだが、外見から想像していたより狭い。断熱を重視した厚い壁が面積を食っているのだろう。この分では、ライフルを奪っていたところで大して役には立ちそうになかった。
薪の束と水タンクが置かれたキッチンを通り抜けて居室に踏み入る。どこかの城の一室をそのまま移築したような豪奢なインテリアの只中で、分別盛りの五十男が化け物でも見たかのように目を見開いていた。
何の前触れもなく護衛が制圧され、部屋に踏み込んできたのは黒いスーツに身を包んだ長身の女。状況が状況だけに霊的現象を疑いたくなる気持ちも分からないではないのだが。
それでも直後には硬直から抜け出した男は、傍らの黒電話に手を伸ばす――が、それよりも早くサラは引き金を絞っていた。
狭い室内に破裂音が反響し、銃弾が電話機を穿つ。この小屋に電話線は引かれていなかったはずだ。ということは、衛星電話か無線機の
ガラクタと化した黒電話から銃口を外し、男の額をポイントする。
「お会いできて光栄だ、代議士殿」
女性としてはやや低めなサラの声は、代議士と呼ばれた男――アルフレッド・ベルガーには死神の声のように聞こえたことだろう。息を呑んだまま声を上げようともしない。政治家というやたら弁の立つ種族でも、暴力の前には無力と見えた。
やや間があってようやく代議士は声を絞り出す。
「お前は……誰だ? 自分のやっていることが分かっているのか?」
散々溜めを作っておきながら捻り出した言葉は結局それか。実に下らない。
サラは黙って引き金を絞る。しかし、いざ撃鉄が落ちようというその寸前になって、ベルガーは右に跳んだ。武術の心得などまったく無いのであろう直線的な動き。当然、その程度のことで照準が狂うはずはない。
たった一つ、少しだけ意表を突かれたのは……男がそのまま逃げるのではなく、ダイニングテーブルのバスケットに手を突っ込んだこと。引き抜かれたその手には果物ナイフが握られていた。
「いや、もはやお前が誰であろうと関係ない。私は善良なる民衆から国政を託された政治家だ。理不尽な暴力には屈しないぞ!」
そんな演説じみた台詞で男は声を張り上げるが、それが虚勢であることは明白だ。腕は震え、脚には力が入っていない。
しかしこの期に及んで「理不尽」とは。この男は自分がなぜ殺されるのか理解できないらしい。自分を客観視できない人間の、哀れな姿がそこにあった。
「ネオナチ気取りを代議院に置いておくと困る人間が大勢いた。それだけの話だ」
サラの言葉に男の顔が露骨に引き
「選民思想に手足を生やしたような奴の居場所は、どうやらこの国には無いらしい。因果と思って諦めることだな」
「誰の差し金かは知らないが、どこまで愚かなことを……」
「愚かさに関してはお互い様だろう? 貴様に説教される謂れはない」
「……あぁ、確かに私には政敵も多い……人の恨みを買うこともあっただろう。だがそれは政道にある者の宿命なのだ。何より、それを論ずるのは国民の代表たる議会以外の何者でもない! 一体何の権利があって――」
「権利云々の話を私にされても困るな。私は
口の達者な代議士が言葉に詰まる。「依頼人」と「契約」。そんな商売じみた単語の登場が、よほど意外だったのだろう。お喋りもこの辺りでお終いだ。
「10万ドル。これの金が何か分かるか?」
男は何も答えない。結局、虚しい沈黙を破ったのはサラの方だった。
「答えはこの依頼の報酬――お前の命の金額だ。随分と貧相な値付けをされたものだな、代議士殿」
「待て、待ちたまえ! 金が入り用ならいくらでも出そう、爾後のことも君の邪魔にならないよう取り計らう! 私にはまだやるべきことがあるんだ、だから――」
躊躇なくP226の引き金を引く。再び室内に轟音が反響した。今度は黒電話の破片ではなく、赤黒い脳漿が煌びやかな家具に飛び散った。肉塊と成り果てた代議士が絨毯にのめり、その血が凝った装飾を侵蝕してゆく。
念のためもう一度頭に銃弾を撃ち込むが、当然ながら反応なし。それを確認する頃にはサラは骸への興味を失っていた。
この男は最後の最後に金で取引をしようとした。自らの命の価値を、自ら水増ししようとした。金に囚われた愚かな人間。そして報酬欲しさに他人に痛みを押し付ける人間。飽きるほど見てきた構図だ。
踵を返して居室を出で、玄関で崩れている秘書の死体を跨ぐ。体当たりのように開け放った扉の先には、変わらず鬱蒼とした森が広がっていた。木々に紛れる人の気配もなく、些細な殺生など丸ごと飲み込んでしまいそうなほど静かな森だ。
木々の匂いが肺を満たす。全身のあらゆる布地にこびりついた血と硝煙の臭いを、生暖かい風が洗い落してゆくようだった。
「……帰るか」
独り言ち、来た時と同じように木々の隙間に分け入る。大して険しい山でもないが、この藪の中をスーツで下るのには少しだけ気が滅入った。
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