第42話 密かに焦がした感情は迸る(2)
「いかないで……」
「え? 何か言いましたか?」
「橘さんのとこいかないで!」
立ち去るりっちゃんを目で追いそうになるものの、首が傾いた状態で停止してた俺は、無関係な民家をぼーっと眺めていた。正確には視界に入ってただけで、脳内には虚しい記憶が半分、もう半分は元カノの切なげな虚像が焼き付いた状態。愛華さんの訴えは、その中まで覗いたかのように思えるものだった。
左腕に押し付けられるふっくらした感触が圧力を強め、潰れてしまわないか不安になる。俺の肩に掛かる繊細な前髪を指で流し、重い色味に沈んだ彼女の瞳に、
「行くわけないじゃないですか。ちょっと申し訳ないなって思っただけです」
「……なんで? 先に傷つけられたのはキミなんだよ?」
「俺あの時、すっ転びながらも無我夢中で逃げたんすよ。気まずくて苦しくて悔しくて、手も足もガタガタ震えました。同じ思いさせるくらいなら、キッパリ拒絶すればよかったかな——と」
「そんなの、キミじゃなくて橘さんの問題だよ。何度フラれても諦めきれなかったら、悲しむのは同じなんだから」
「確かにその通りですね。愛華さんに嫌な思いさせてる時点で、最初から間違えてました。ごめんなさい」
「……じゃあ、あたしのお願い聞いてくれる?」
「えぇ、なんでも聞きますよ」
「蒼葉くんの一番好きな料理を教えて」
目線を上げた彼女の要求に、半開きの口でポカンとしてしまった。
一昨日みたいに甘えさせろとか、りっちゃんとの接し方に関する内容を想像したのに、なぜ俺の好みを尋ねられてるのだろう。嫌がらせで、苦手な食材を混ぜるなんて手もあるけど、そんな陰湿なことをするとは考えにくい。何よりここで疑うのは失礼にあたるよな。
「う〜ん、強いて言うなら
「ハンバーグが好きなの?」
「はい。肉ばっかのやつよりも、細かく刻んだ野菜が入ってて、半熟の目玉焼きが乗ってたらサイコーっす! よく母ちゃんが
「野菜かぁ、作ったことないなー……レシピ調べて練習したら、今度食べさせてあげるね♪」
「へ? わざわざ俺の為にっすか?」
「うん。だってキミの喜ぶ顔が見たいんだもん♡」
2、3歩前に進んでから髪を
愛華さんの底知れぬ愛情深さを実感した後、俺達は少し距離を取って歩き始めた。りっちゃんの忠告を素直に受け止め、彼女の提案でこうしたのだ。何回も振り返っては、俺がついて来てることに安堵した表情を浮かべる。こんなにも強く想われ、そして恐怖と戦い続ける恋人に対し、もっと俺にできることはないのだろうか。知恵を絞ってる間に自宅アパートへと到着していた。
真昼間ということもあり、軽く周囲を確認してから鍵を握った手首を捻る。扉を開くと外よりモワッとした空気が溢れ出して、エアコンをつける為に慌てて玄関を越えようとしたら、背後から抱き締められて靴も脱げない。無言のまま精いっぱい自己主張する彼女に、柔らかく問いかけた。
「久しぶりに離れて歩いたら、不安になっちゃいましたか?」
「不安……よりも、ずっとガマンしてた」
「怖いのを我慢してたんですか?」
「違う。それはキミが近くにいてくれればへーき」
「んーー、とりあえず冷房入れましょっか」
「やだ、もぉーガマンできない!! 蒼葉くん、全然あたしの気持ち分かってないよ!」
黄色くなった声に染まった否定によって、みるみる頭部の血液が撤収していく。直後に力を加えられ、半回転して尻もちをついてしまい、一緒に倒れた愛華さんが胴体の上に被さった。ハラハラしつつ背中に触れると、顔を上げた彼女は可愛らしいむくれっ面。
もしかしてこれ、不満を溜めたせいで押し倒されたのだろうか。
「むぅーっ! ……おしり、痛くなかった?」
「あれ、意外と冷静? 大丈夫っすけど」
「ん。蒼葉くんはねぇ、あたしがどれだけキミを好きか分かってないんだよ!」
「ガチっすか。これでも甘めに評価してるんすけど」
「全っ然足りない! 不安とかそんなの、キミの声聞くだけで忘れるから!」
「精神安定剤みたいな感じっすね」
「そー、それ! だからぁ——」
途端に寂しそうな目を見せて、スっと懐に寄り添う愛華さん。まるで心音を探るように右耳を当てている。
さっきまで激しく鳴ってた喉は、
「
「俺も同じです。あなたにだから言えないことがあって、内心テンパったりしてます。信頼してるのに、なんでですかね?」
「傷つけたり、ヤな思いさせたくないから……かな」
「愛華さんらしいっすね。その点俺は自分ばっかりかも。幻滅されたくないとか、そんな理由が真っ先に浮かびました」
「もちろんあたしもあるよ。はしたない女とか思われたくないもん」
「つまり、愛華さんも欲求不満ですか?」
「………うん。だって、求められたいのと同じくらい、欲しくなっちゃうし……」
「ハハ、それもおんなじかぁ。伝えてればあっさり解決してたんだな〜」
「ねぇ蒼葉くん、美里ちゃんのお家に行くまで、まだいっぱい時間あるよ……?」
困ったような顔をしたかと思えば、艶めいた唇が急接近してくる。優しく触れ合うキスをしても尚、彼女は物足りなそうに頬を赤らめていた。
熱い眼差しを
「もう……ガマンしなくてもいいよね?」
「いーや、とりあえず帰宅したら
「手洗いうが……ぷッ、あっははははっ! キミって仕事中も頻繁に手ぇ洗ってるよねーっ! 実は潔癖症とかー?」
「ううん、そんな大層なもんじゃないすよ。俺アレルギー持ちなんで、子供の頃は喘息とか結膜炎に悩まされて、綺麗にすんの癖ついたんです」
「えっ、そうだったの!? ごめん、嫌味な言い方しちゃった」
「気にしないでください。今は免疫もついて、たま〜に眼球が腫れる程度ですから」
「その件もっと詳しく! 他にもアレルギーある??」
「あの、手洗ったらイチャつくんじゃ……?」
「こっちのが重要! これから一緒に過ごすのに、知らなかったじゃ済まされないよ!」
「ムードもへったくれもねぇな……」
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