第10話 今この時の想いに触れる

 惨劇を目の当たりにしてから一週間が経過した。二人が和解した様子は当然見受けられず、なぜか俺の日常だけが色濃く変化を遂げている。スマホに届く通知がやたらと増え、顔を合わせる度に優しく微笑まれてドキッとする日々。そう、これらの大半は元カノではなく、人妻によって起こされた変容である。


 バイト同士のほとんどはシフト交代などの緊急時に備えて、あらかじめ連絡先を交換済み。貴船さんのデータも形式上入っていたけど、使う機会はなかった。それが今や彼女とのチャットルームはだいぶ賑わっている。『新しいレシピ上手くいったから、今度持ってく!』とか『疲れた顔してたけどだいじょぶかー?』なんて、ほんの些細な内容が一日に何件も送られてくるのだ。

 正直俺の理想はこれ。言われなきゃどうでもいいのに、言われると嬉しくなるような、そんなやり取りに胸躍らせるのが幸せだと思う。ただし相手はフリーの女性に限るんだけど。


 学生達が夏休みに突入し、慣れた夕勤シフトは駆け込むように若者の名で塗られた。時間の融通が利くフリーターは肩身が狭く、空白を潰す手段にされることも珍しくない。よって俺はしばらく早番勤務となり、月曜の8時前に眠い目を擦ってコンビニに赴いたわけだ。


 

「おっ、石切くんおはよーっ♪」


「おろ、ひふねふぁん、おふぁよ〜ごひゃいまふ」


「大あくびしちゃって眠そうだね〜。まぁいつもなら寝てる時間だもんね」


「ずびばぜん……」


 

 駐輪場にチャリを停めてる頃、ちょうど貴船さんが裏の方から顔を出し、爽やかに挨拶をしてくれる。対する俺はあくびが止まらず、呂律ろれつも回らない。見兼ねた彼女は軽快に駆け寄ってくると、俺の肩をぽんぽんと叩いた。


 

「今日はあたしも日勤だからさ、気楽にやろうよ♪」


「え、朝勤じゃないんすか? ってことは17時まで?」


「うん♪ 入り出勤上がり退勤も一緒って初めてだね!」


「家事もあるのに頑張りますなぁ。ご主人に心配されるのでは?」


「うちの人は出張でいない日も多いし、やることやれば文句無いって感じなんだ〜」


 

 やっぱり貴船夫婦って冷めた関係なのかも。だから寂しくて構ってくるって考えれば、辻褄も合う。前に似たようなこと言われたし。

 彼女について少し分かった気がした俺は、正面からの熱い眼差しに酔いそうになった。


 

「ねぇ石切くん、今日もご飯食べに来ない?」


「……それ仕事後っすよね? さすがに夜はマズいですって」


「んー、気が引けるならしょーがないけどね〜。じゃあ今晩も独りで食べるかぁ〜」


「へっ? ご主人は出張ですか?」


「今日明日はそーだねー。でも早く帰ってくる日の方が少ないし、どこで何やってんのかも干渉できないからね」


「……はい?」

 


 深いため息を漏らす彼女に心打たれそうになった時、もう一人の早番メンバーが現れる。

 


「おっはよー二人ともー! お店の外で何やってんのー?」


「はよー浅間さん。まだ頭が寝惚けてっから、外の空気吸ってたんだよ」


「あははっ♪ 夜型の石切さんにはツラいね〜!」


 

 バンドのボーカルらしいピンク色のサイドテールを揺らし、颯爽と登場した同い年のバイト仲間。彼女も普段は夕勤専門だけど、通ってる音楽学校にも夏休みがあるのだとか。

 浅間さんが来たことで貴船さんにも明るさが戻り、とりあえず一安心。しかし昼のピーク対策が一段落した直後、レジにいる俺は唐突に掻き乱されてしまう。


 

「晩ご飯どうする? 来てくれるなら、石切くんの好きなメニュー作るけど」


「えぇっ!? 俺はむしろ貴船さんの得意料理が——って、ガチで大丈夫なんすかっ!?」


「うん。キミが誘惑してこなければぜーんぜん平気っ♪」


「今まさに誘惑されてんの俺なんすけど……」


「あ〜、なんか下心でもあるんだなぁ?」


「あのねぇ……鏡をよく見てくださいよ」


「鏡? あたしの顔になんかついてる?」


「これじゃ通じないのかぁ! えっとですね、あなたはとても美しくて魅力的な女性なんです。もしパートナーがいなければ、自宅に招かれた時点で獣になる自信があります!」


 

 これだけ露骨に表現すれば、多少は危機感を持つだろう。案の定キョトンとした顔で、目をパチクリさせる貴船さん。嫌われても仕方ない。大きな問題に発展するよりは幾分マシ。

 胸の奥で半べそかきつつ自分に言い聞かせてると、彼女はニンマリと口角を上げた。

 


「へぇ〜、キミが獣になるんだ〜♡」


「えっ? いや、あの、これは単なる比喩でして、童貞の俺には実際どうなるか検討もつかないと言いますか——」


「ぷっ! あっははははっ! そんな必死にならなくていいって〜!」


「………貴船さん、俺のことからかってますよね?」


「だってキミ、本当に可愛いんだもん♡」


「あーもうっ、分かりましたよ! 行きますけど、後悔したって知りませんよ!?」


「キミが傷つかない限り、何が起きてもあたしは後悔しない。だから大丈夫だよ♡」


 

 鼓動が尋常ではない強さで叩きつけてくる。耳元での甘い囁きは、どう捉えれば誘い文句以外に解釈できるのだろう。また悪ふざけだとか、そのくらいに思ってないと仕事も手につかない。

 レジ列を捌いては商品整理をして、またレジに入る。これを繰り返すこと約1時間。ようやく店内が落ち着きを取り戻した頃、隣の1レジでは女性二人がお喋りに夢中になっていた。チラッと興味深い内容が聞こえてきて、浅間さんの声に聞き耳を立てる。

 


「貴船さん、結構前からこの店来てたよね? 別のコンビニも近くにあるけど、そっちは行かなかったの?」


「去年の秋まではそっちが多かったんだけどね〜。ここでしか買えなかった物をキッカケに、こっちしか来なくなったんだー」


「ここでしか買えない物?」

 


 去年の秋と聞いて、俺には心当たりがあった。彼女が来るキッカケとまでは知らなかったけど、話の流れ的に間違いなさそう。


 

「それって期間限定で販売した、自社プライベートブランドのチョコですよね?」


「やっぱり石切くん、覚えてたんだ♪」


「え〜、なになにー? 私それ初耳かも!」


「あぁーそっか。貴船さんが買い物に来てたのって夕方前の時間だったから、初期の頃は浅間さんと顔合わせてなかったのかも」

 

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