第15話

 津々木(つづき)さんが三十分後に来てくれた時、私は公園の茂みの中に身を隠していた。

「どうしたんだい。急に」

 私のメールに慌てて来てくれたのだろう。津々木(つづき)さんも額に大粒の汗を流しながら息を弾ませていた。

 私が大辻(おおつじ)君に頼らなかったのは、大辻(おおつじ)君に負担を与えたくなかったからだ。私も女だから、彼氏に頼りたい、甘えたい気はある。でも、大切な彼氏をこんな騒ぎに巻き込みたくも無い。大辻(おおつじ)君が私を見る目は、私が大辻(おおつじ)君を見る目と同じでいて欲しいからだ。

 それに、津々木(つづき)さんなら何か解決策を出してくれるかもしれない。それが難しくても、大人の人なりの助けをしてくれる期待もあった。

 でも、津々木(つづき)さんを前にした時の安心感がこんなに大きいとは思わなかった。これが大辻(おおつじ)君なら、まだ未成年ふたりという不安があっただろう。

 只、お金だけの繋がりだった筈なのに、都合の良い相手でしか無かった筈なのに、私は津々木(つづき)さんの顔を見て、涙が溢れるのを我慢出来無かった。


 目の前で泣きじゃくる私を何とか宥めた津々木(つづき)さんは、仕方無く、駅前のファミレスに連れて行ってくれた。

 なるべく、人目の付かない席を選んで私達は向かい合わせに座った。

「大丈夫?」

 私は、俯き加減でウーロン茶を少しずつ飲んだ。

「今日は、良い天気だったね。でも、俺は汗っ掻きだから、辛いんだよね」

 津々木(つづき)さんは、押し黙ったままの私に気を使うように当たり障りの無い話をしてくれた。

「そろそろ八月も終わるね。夏休みの宿題はした? 俺は、やる気の無い人間だったから、いつも直前にならないとしなかったなー。今思えば、もう少し頑張れば、良い大学に行けたかもしれないなー。俺は、テレビっ子でね。いつか、テレビの収録現場に行って、生で番組を観たいなって思ってたんだ。だから、東京の大学に憧れていたんだけど、成績が悪かったから、地元のショボい大学にしか行けなくてね。ほんとに後悔しか残らなかったね」

「東京で就職しなかったんですか?」

 私は、冷たいウーロン茶を両手で抱えながら聞いた。

「うん。その頃には、母親の具合が悪くなっていてね。就職は地元の会社しか考えられなくなっていたね」

「それは、後悔しました?」

「そうだなー、難しいな。今が幸せなのかは分からないね。将来の夢が無かった俺は、いつもその場その場で簡単な方を選んで来たからね。高校生の時、ちゃんとした目的を持って勉強すれば、東京に行けたかもしれない。良い大学に入っていれば、良い会社に就職出来たかもしれない。何が幸せかは俺には分からない。でも、今の生活に少しでも不満があるなら、それは失敗なのかもしれない。人生って一回しか経験出来無いじゃない? ゲームのようにやり直しは効かない。全て、最高の選択が出来る訳じゃ無いから、ほとんどの人にとって、自分の人生が本当に幸せだったとは言えないんじゃないかな。隣りの芝生は青いって言うじゃない? どんなに幸せそうな人でも、何かしら不満はあるよ。みんな、百%満足はしてないよ。でもね、誰でも、その中で自分なりに頑張る事は出来る。もし、不幸な家庭環境に生まれたとしても、全力で足掻けば、まだマシな人生を送れるかもしれない。俺としては、その可能性を自ら閉ざす事はして欲しく無いって事だね」

 前までは、そんな話をされたって聞いて無かっただろう。何の希望も無い自分の人生のどこにそんな希望があるのか、と。

 でも、今は、津々木(つづき)さんと会い、大辻(おおつじ)君と会い、澤木(さわき)さんと会った。今まで、考えもしなかった事が目の前に起きて来た。

 自分が一歩踏み出しさえすれば、選択肢は変わって来るんだと気付かされた。

 あの母親の呪縛に囚われたままなら、あっけなくあの男に捕まっていただろう。あの母親に抵抗するという事は無かっただろう。

 あの女の思い通りにさせたくない。このまま、自分が我慢し続けて、空しく人生を終えるのは御免だ。

 私は、意を決して今日襲われそうになった事、いや、襲われた事をぽつぽつと話し始めた。私は、常に目線をウーロン茶に向けていたから、津々木(つづき)さんの表情は分からなかったが、その言葉からは多少の憤りが感じられた。

「その……、どうする? 家に戻るのは危険じゃない? まだ、そいつがいるかもしれないよね。それに、警察にも行かないといけないね」

「警察には行きません。今までもネグレクトされていた時、近所の人が何度か警察に通報してくれたんですけど、その度に母親が上手く言い繕うし、親戚も事件性にしたくないから、叔母さんに私の事を丸投げにしたんです」

 津々木(つづき)さんは、大きく息を吐いた。

「どうする?」

「家には帰らないといけないと思います。他に住む所が無いので……」

「だよね。でも、気を付けないといけないよ」

「はい。しばらく、叔母さんの家にお邪魔させて貰おうかなと思ってるんですけど。でも、いつまでも居る訳にはいかないので……」

「そうね。叔母さんにもちゃんと言って、お母さんの事をどうにかして貰った方が良いよね」

「叔母さんは、何もしません。もう、親戚の人達には期待してないです」

 私のきっぱりとした口調に津々木(つづき)さんは、一瞬止まった。

「俺は、どうすれば雫(しずく)ちゃんにとって良いのか分からないから、余計な事は言わないよ。でも、雫(しずく)ちゃんの希望に近付けるように協力する事は出来るよ。だから、何をしたいのか、して欲しいのかは遠慮無く言ってね。俺の出来る範囲で手伝うから」

 そうだ。津々木(つづき)さんは家族でも血が繋がっている訳でも無い。世間的には只の他人。私の若さをお金で買う人。でも、津々木(つづき)さんが本気で言ってるのは分かってる。今までも、私に寄り添うようにいてくれた。津々木(つづき)さん自身の欲望がある筈なのに、強く迫って来る事も無く、長い間私の気持ちが変わるまで付き合ってくれた。

 その事を感謝するのはおかしい事かしら。

「今夜は、もう遅いから、叔母さんの家にはいけないんです」

「うん。そうだね。でも、朝までここでずっと起きてるのもキツイだろう?」

「大丈夫です。家に帰るよりマシですから」

「ひと晩だけなら、近くのホテルに泊まったらどうだい? 宿泊代くらい出すよ」

「ほんとですか?」

「ああ。そのくらいならいいよ。今は、シティホテルも大分安いからね」

 私は、津々木(つづき)さんの言葉に甘える事にした。神経が過敏になっているから、寝れるか分からないけど、体だけでも休める場所が欲しかった。

 津々木(つづき)さんは、車でホテルまで送ってくれた。

 数年前に建てられて、まだ綺麗なホテルだった。小中高の修学旅行で雑魚寝同然の宿泊をした以外でホテルに泊まるのは初めてだったから、受付は津々木(つづき)さんが全部してくれた。

「後は大丈夫?」

 部屋の鍵を渡しながら、津々木(つづき)さんは聞いてくれた。

「はい。わざわざありがとうございます」

「もし、分からない事あったら、いつでもメールして来てね」

「はい」

 部屋は狭かったけど、汚れもほとんど無くてアメニティも充実していて、快適だった。

 私は、思ったよりも疲れていたのか、布団に潜るとすぐに寝入ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る