第5話

 今日は、疲れた。

 あの超絶ヒマバイトの二、三時間で精神体力削られる事なんて無いのだけど、初めましての内気な口数少ない新人後輩の指導が全身に堪えている。

 大辻(おおつじ)君は、身長一七〇センチのスリム体型。チビの私からしたら、首が疲れる大男なんだけど、始終目をキョロキョロさせて何かにビクつく様子を見たら、体が大きくなっただけの幼児ってとこ。素直なだけ、まだマシか。

 見てくれは悪くないんじゃないかしら。もっと、表情が引き締まればハンサムの部類に入るんじゃないかな。別に、私に彼氏を作る権利なんて無いのだけど。

 まずは、マジいらない親がどうにかなってくれないと、普通の生活なんて送れやしない。ましてや、幸せな人生を望むだけ無駄。

 いっそ、あのおかしな母親が精神病院にでも入ってくれれば、このストレスから解放されるのだけど。

 チャンスはあった。

 男に金を貢ぎ過ぎた為、知り合いから返金を迫られ、うちで取っ組み合いの喧嘩になった時。警察沙汰になって、親戚内で、これ以上問題起こされても困るから病院に入れようかという話になったらしい。でも、世間の目を恐れて、うやむやに。

 結局、私がババを引き続ける羽目になった。

 大人の都合には、子供の生き死には関係無いんだと悟った。

 生温い風が頬を撫でる。

 陽が落ちても体感気温は変わらない。

 いつものベンチに座り、いつも変わらない乗降風景をぼんやり見詰める。

 公園の灯りが地味に点滅して田舎感を演出している。

 空を見上げれば、小さな月がほのかに千切れ雲を照らしている。

 でも、私に季節を楽しむ余裕は無い。

 今日、口にしたのは、バイトの休憩に食べさせて貰える軽食だけ。喫茶店では、休憩中に軽食を頂ける為、バイトがある日は昼食は食べないようにしている。

体力を使いたくない。目の端を飛び回る小さな虫を払う元気さえも無い。

「あの……。大丈夫かい?」

 落ち着いたトーンの静かな声が耳に届いた。突然の事に、一瞬体がビクついた。

 顔を上げると、少し離れた所にスーツ姿の中年男性が立っていた。歳の頃は三十代だろうか。

 体に緊張が走った。今までなら、声を掛けて来るのは五十や六十歳以降の話好きな女性ばかりだった。ひとり寂しく座っている私を良い話相手と思って近付くといった感じで。時にいやらしげなジジイもいるけれど。

 中年男性は初めてだったから、どうすればいいのか判断に迷ってしまった。痴漢とか変態の可能性はあったが、そうじゃないかもしれない。ここで、突然立ち去ったら、相手も好い気はしないだろう。第一、純粋に私の心配をしてくれているかもしれないのに。

 時間を掛けて考えている内に待てなかったのか、男性が先に口を開いた。

「ごめんね。突然話し掛けて……」

 男性は、少しにこやかに言った。

「いつも、ここでひとりで座っているから、何か困っているのかなって思ってね。手伝える事があればと思ってね」

「別に、無いです」

 まともに顔を見れない。こういう時どうすればいいのだろう。

「そう?」

 ここは、無視するに限る。徹底的に相手にしなければ、諦めて帰るだろう。

「あ、じゃあさ。俺が困っている事あるから、ちょっと助けて貰えないかな?」

 うん? どゆこと?

「何ですか?」

 返事をしてしまった。

「うん。今、ちょっと暇しててね。少しだけ話相手をしてくれないかなーって思ってね」

 そう来るか。結局そのパターン。

「私、家に帰らないといけないので……」

「ほんの少しの間だけでいいんだよ。あそこの店でお茶でもしないかな。もし、まだだったら晩ご飯奢るよ」

 ご飯……。

 その一瞬の隙を見透かされたか、その男性は「ご飯くらいだったら、構わないんじゃない? 人の目もあるから、変な事も出来無いよ」と優しく付け加える。「それか、変な男に見えるかな?」

 私がそれでも返事をしないと、男性は先に向きを変えて、「さあ、行こう」と呼び掛けて来た。

 それでも、私は腰を上げなかった。

 この消極的な態度が相手に攻め手を与えていたのかもしれない。本当に嫌なら、さっさとその場を離れる筈だから。

「大丈夫だって。ご飯だけなら、誰も文句言わないだろ?」

 空腹が理性的な思考を失っていたのかもしれない。それと、無理矢理感を出さない優しそうな雰囲気が私の心の壁を下げたのかもしれない。

 無言のまま、私は立ち上がって男性について行った。いつでも逃げれるという警戒は忘れずに。

 駅前で食べる所と言えば、古い喫茶店と昔ながらのそば屋、定番のラーメン屋、そして、昭和感の抜けないファミレス。

 かつて、幼かった頃、一回だけ来た覚えがある。まだ、家族が家族を演じる気力があった頃。

 その時から、全く代わり映えしない外観。いや、外観だけじゃない。

 ガクーンと唸りを上げながら動く自動ドア。私達は、あまり人目に付かない奥のテーブル席に座った。綻びに苦しむ革の長椅子、透明の丸い伝票立て、大きなガラス窓から見える小さな駅舎。

 キョロキョロと視線を泳がす私の前に差し出されるメニュー。

「さ、何食べる?」

 明るい電灯の下で見る男性は、少し白髪交じりのやや薄い頭を丁寧に整えている。思っていたよりも年上かもしれない。

 それ程威圧的で無く、無理強いせず、黙って私がメニューをめくる様子を見詰めている。

「何食べるんですか?」

「俺は、飲み物だけだよ。ほら、このドリンクバーのね」

 正直、何を頼めばいいか分からない。ファミレスとは言え、あまり高い物を頼むのも気が引けてしまう。

 そんな私を見かねてか、男性は、「お肉は好きかい?」とリードしてくれた。

「はい」

 微かに頷く私に、男性はメインの肉料理メニューのページを開いてくれた。

「この特製サーロインのセットはいいんじゃない?」

 一番高い奴。二千円もする。

「食べれるでしょ?」

「あの、私、野菜とか苦手で……」

 添え物にジャガイモとニンジンがある。

 今までの食生活で健康的な物を食べて来なかった為、野菜や海鮮はほとんど食べれない。独特の臭いや味が受け付けない。

「食べれなかったら、残せばいいよ。大丈夫」

 え? 残していいの?

 食べ物を残していいなんて贅沢には慣れてない。驚いてしまった。

 飲み放題メニューも付けて、びっくりの二千三五〇円。私史上最高の晩ご飯。

 男性がドリンクバーに向かう。

「俺は、コーヒーにするけど、何飲む?」

「オレンジジュースで」

「おけー」と言い、立ち上がろうとする私を「良いよ。座っていて」と制する。

手際良く氷とオレンジジュースをグラスに入れて、先に私の前に持って来た。

「はい」

 私は、思わず軽く頭を下げた。

 こんな事されたの初めてだから、どうすればいいのか分からない。

「いやー。それにしても暑いね」

 コーヒーにミルクと砂糖を入れている。

「そうですね」

「来週は、天気が崩れるらしいね。暑い上に湿度が高くなると、俺、汗っかきだから、スーツの下が汗だくになって敵わなくなる」

「私も、汗かく方なので、夏は苦手です」

「そう? だよねー」

 相手の笑顔につられて、私もつい口角を上げてしまった。

 男性の名前は、津々木(つづき)さんと言った。

 外回りの営業をしているらしく、この近くに得意先があるから、時々私の姿を目にしていたらしい。

「遠目で見て、寂しそうにしているから、つい声を掛けたんだよ。まあ、怪しいおっさんが近付いたら逃げられるかなって思ったけど、何か気になってね」

「バイト終わりにあそこで時間を潰す事が多いんです」

「どうして? 危ないから、すぐ家に帰った方がいいよ」

「うちは……。あまり、帰りたいとは思わなくて……。ちょっと、親と色々あって……」

「ふーん……」

 津々木(つづき)さんは、それ以上突っ込んで聞く事はしなかった。

 ステーキは、私の前で光り輝いていた。大袈裟かもしれないけど、本当に輝いていた。それは、私にとって、まさに宝石。

「早く食べなよ」

 津々木(つづき)さんが楽し気に私を見ている。力の無い穏やかな表情。何か、見守られてるって感じ。

 これ以上、手を止めていたら、私の生活状況を悟られるかもしれない。こんなステーキをこの年齢で食べるのが初めてなのは、私だけかしら。私は、すぐにナイフとフォークを手に取り、平気な素振りでお肉を切り始めた。

 ん?

 意外と切りにくい。私の力が無いせいなのか。フォークをぶっ刺して、ナイフを前後に動かすが、上手くいかない。

 私が手こずっているのを見て、津々木(つづき)さんが「貸してみ」と私の手からナイフとフォークを取り上げる。

「ファミレスの肉だからね。筋張って切りにくいんだよね」

 ひと口大に切り分けて貰ったステーキは、安物とは思えない程美味しかった。牛肉を口にしたのは、いつ以来だろうか。少なくとも高校の間に食べた事は無かった。いや、中学でもそうかもしれない。あれ? 修学旅行で食べたかな。

 私が言葉少ないのを見て、津々木(つづき)さんは色々と話してくれた。テレビの話、趣味の話、旅行の話。でも、家族や会社の事には触れなかった。それはそうよね。私が何者かも分からないのに、身バレするような事はしないよね。私もそうだけど。

「はい。これ」

 食事が終わると、津々木(つづき)さんはおもむろに一万円札を私の前に差し出した。

「これ、何ですか?」

「俺の話し相手になってくれたお礼だよ」

 私は、お札に目を落としながら心で叫んでいた。

 これって……。

パパ活―!?

 私の脳内の神経伝達回路が珍しく活発化する。

「あ、あの。私、そういうつもりじゃ……」

 私は、一万円札を津々木(つづき)さんに突き返そうとした。

 でも、津々木(つづき)さんも両手を上げて受け取らない。

「それなら、次も俺の相手をしてくれるかな? これは、その約束代として、貰ってくれればいいじゃない?」

「え? 次も会うんですか?」

「うん。雫(しずく)ちゃんとお喋りして、楽しかったから、次も会いたいと思ってるんだよ」

 私といて、楽しかった? どこが?

 この人、Mっ気でもあるのか?

 私は、相当なコミュ障だ。つまり、人付き合いが極めて苦手。初対面でも友達でも、まともに挨拶出来無いし、声が小さいし、表情はいつも強張ってるし、気配りは無いし。

 ひっくるめて言えば、付き合い辛い人間という事。だから、もう一度会いたいなんて言われるとは思ってもみなかった。

「それ、本当ですか?」

「本当だよ。雫(しずく)ちゃん可愛いしね」

 それも、超絶初耳だった。この人、目が悪いのか。

 こんな無表情女を捕まえて、どこに魅力を感じるのだろうか。後々、私の気を引こうと言うリップサービスだったのかと思った。

 ここで、私も『そんな事無いですよ』とか、『え~、どこがですか』なんて気の利いた返しが出来ればいいのだろうけど、それさえも出来無い。只、固まって動かない頭で今言われた意味を受け止めるのに精一杯だった。

「どう? 次も会えるかな?」

「……はい」

 つい出てしまった。

 正直、お小遣いに目が眩んだのも理由のひとつにはあるが。ていうか、かなり大きな理由にはなった。だって、喫茶店の時給を考えたら、超効率的な稼ぎ方。みんながパパ活するのも頷ける。

 まあ、そんなに悪い人じゃ無さそうだし、こういうご飯ならいいか。

「そう? ありがとう。じゃあ、連絡先を交換しようか」

 津々木(つづき)さんが喜んで携帯を出した。そんなに喜ばれるような私なのかな。逆に、申し訳無い。

「あ。お願いがあるんですけど……」

「え? 何かな?」

「その……。このお店は知り合いに見られるかもしれないので、他のお店にして欲しいのですけど……」

「あー、そうだよね。分かった。じゃあ、次は少し離れた店に行こう」

 津々木(つづき)さんは、そう言うと親指を立てて微笑んだ。

 終始、穏やかな人だった。圧のある人が苦手な私には、珍しく恐怖感の感じない人だった。

 それにしても、このお金どこにしまっておこう。

 こんな大金。母親に見付かったら、問い詰められるに決まっている。そうなると、母親への恐怖に口を開いてしまいかねない。

 私は、津々木(つづき)さんと別れると、そのまま自転車で従兄弟の家に向かった。

 小さい頃から従兄弟の家で遊ぶ事が多かった。だから、家の造りもよく知っている。

 小さな一軒家の周りを塀が囲んでいる。家の足元には、床下に通じる換気口がある。換気口には、金属製の蓋があるけど、その蓋が緩くなっているのは前から分かっていた。時々、従兄弟の家に泊めさせて貰っていたけど、友達のいない私は、従兄弟が帰るまで家の側で時間を潰していた。

 従兄弟の家に着いた私は、小銭入れにしていた小さな百均のポーチから小銭を出して、その代わりに津々木(つづき)さんに貰ったお金を入れた。

 ここなら、私しか知らない。

 私はポーチを換気口に入れ、動かないように手頃な石を上に乗せた。

 自分にとって安心出来る所は、最早ここしか無かった。


 家に帰る。勿論、母親はまだ帰ってない。

いつも、ひとりで寝る。いつからだろう。ひとりで寝るようになったのは。でも、酔っぱらって散々暴れ倒されるよりもいい。あの恐怖の時間が少しでも少ない方がいい。

 布団に入っても不安が込み上げて、なかなか寝れない。

 いつ、母親が帰って来るか、これからの生活、津々木(つづき)さんとの事。

 その時、携帯が鳴った。見ると、津々木(つづき)さんからのメールだった。

『今日はお疲れさま。雫(しずく)ちゃんのお陰で楽しい時間を過ごせたよ。ありがとうね』

 初めて会った人との食事。緊張しない訳は無い。でも、津々木(つづき)さんは、私に気を使ってくれる人だった。大人の人にそんなに優しくされた事無かったから、意外と気分良く過ごせた。あんなに安心出来る人なのに、ご飯を奢って貰って、お金をくれる。

『ありがとうございました。また、会えたら嬉しいです』

 すぐに返事が来た。

『ほんと? 分かった。また連絡するね』

 パパ活って、あまり良いイメージが無かったけど、このくらいなら、別に構わないかな。

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