第12話 いたって普通の彼に

 次の日、ロレンツォはノース地区からの出勤である。


「行ってらっしゃい、ロレンツォ」

「ああ。あ、今日は貴族のパーティに出るから、おそらくここには帰って来ないぞ」

「ん、分かった」

「九時を過ぎたらちゃんと鍵を閉めておけよ」

「はーい」


 そう言ってロレンツォは出て行った。最近のロレンツォは、なぜか過保護だ。

 家族と思ってくれているのは嬉しいが、晩御飯まで作ってもらったりして、なんだか少し申し訳ない気分になる。

 そんなことを思いながら、コリーンも出勤した。そこには嬉しそうなディーナの姿があり、コリーンも微笑む。


「おはようございます、ディーナさん」

「おはよう、コリーン! なぁ、ちょっと見てくれよ!」


 ディーナに言われて、コリーンは彼女の手元を覗き込んだ。

 ディーナの手の中には、濃い藍色の小さな箱が握り締められてある。それを、ディーナはそっと開いた。


「うわぁ!」

「昨日、ウェルスが買ってくれたんだ!」


 そこにはウェルスの髪と同じ、紫がかった青い宝石が煌めいている。


「これはブルースピネルですね。これだけ濃い色は珍しいですよ」

「そうなのか? ウェルスと同じ髪の色の宝石がなかなかなくてさ。これって、高い物?」

「一緒に買いに行ったんではないんですか?」

「値段は、あたしには教えてもらえなかったんだ」


 三カラットはあるし、土台もプラチナだ。そう安いものではないのは確かだろう。


「この店の売り上げ、三ヶ月分ってところでしょうか」

「ええ!? そんなに!? どどどうしよう! 貰っちゃっていいのかな?!」

「返すなんて言ったら、ウェルス様が悲しみますよ」

「そ、そっか、そうだよね……」


 慌てるディーナに、コリーンは続ける。


「とある国では、指輪ではなく腕輪を交換します。それは、オーダーメイドで作られたこの世に一対しかない腕輪なんです。互いがこの世に存在する唯一無二の存在として、その腕輪を身に付けます。ディーナさんのその指輪も同じですよ。ブルースピネルでも同じ輝きを放つものはありません。ディーナさんが選んだウェルス様の象徴とも言える指輪は、身に付けてこそ価値があると思いますよ」


 コリーンの長い説教に、ディーナはこくこくと首を縦に振りながら聞いていた。


「うん、ちゃんとつけるよ。その……ウェルスに、つけてもらうね!」

「そうですね、それがいいです」


 照れ臭そうに笑うディーナに、コリーンも嬉しくて笑みを見せた。

 結婚式場を探しに行くというディーナに代わって、この日もコリーンは一人で店番をした。

 午後八時になり、店に鍵を掛けて帰る。家の鍵は掛かっていて、コリーンは自宅の鍵を取り出した。


「今日ロレンツォは、貴族のパーティだっけか。……ロレンツォ、貴族と結婚する気かな……」


 準貴族であるロレンツォは、貴族と結婚しても十分に釣り合う。今頃ロレンツォは、貴族の女性達と優雅に踊ったりしているのだろうか。

 嘆息しながらコリーンは鍋を取り出した。なにを作ろうかと悩むも、メニューが思い浮かばない。


「もうお風呂に入って寝よっかな……」


 トマトだけをがぶりと齧って風呂に入った。

 ロレンツォがいない日は、なにもやる気が起きない。

 いつもしている勉強も捗らない。

 コリーンはベッドに塞ぎ込む。


「なんでいないの……寂しいよ、ロレンツォ……ッ!」


 いいようのない寂しさが溢れた。

 ロレンツォのいない日は、精神が不安定になる。ロレンツォが煙草を燻らせる姿を見ないと、中々寝つけない。

 ディーナが羨ましい。これから毎日毎日、愛する家族と共にいられるのだ。

 自分は違う。

 愛する家族は、いつかどこかに行ってしまう。

 コリーンとは違う家族を作って、彼はいずれ自分のことなど忘れてしまう。

 ただいまも、おかえりも。

 ロレンツォは、コリーンではない別の誰かに言うことになるのだ。


「やだ、ロレンツォ……誰とも結婚、しないでよ……私の家族でいてよ……っ」


 こんなのは、ただのやきもちだとわかっていた。大事な兄が結婚する、妹の心境に近いだろうか。しかしコリーンとロレンツォは血の繋がりなどない他人だ。彼が結婚すれば、会うことなどほとんどなくなってしまうに違いない。


「ずるい……ディーナさん、ずるい……っ」


 家族が一生傍にいるという安心感。それを彼女は得られたのだ。


 ディーナさんは今頃、ウェルス様の家で……


 コリーンは、二人が交わしていた口付けを思い出す。


「は、やだ、もう……」


 彼女らのキスは濃厚で、記憶を辿るたび、コリーンを興奮させる。


「アクセル……」


 コリーンはかつて、愛し合った人の名を呼んだ。

 どうして彼を選ばなかったのか。ディーナはなにがあっても、ウェルスだけを愛し続けた。

 もし自分もそうであったなら、今頃は彼女のように幸せな毎日を過ごしていたのかもしれない。

 ロレンツォを選んだのは、打算だ。早く永久的市民権を得たいがゆえの。


「……ん」


 コリーンは、かつてアクセルに挿れられた箇所を触った。が、虚しさだけが募る。


「ロレンツォ……ロレンツォ……ッ寂しいよ……慰めてよぉっ」


 アクセルがもうコリーンに想いを寄せてくれることはない。あの青年は、前だけを見る男なのだ。もうコリーンなど、過去のことだと割り切ってしまっているに違いない。


「ロレンツォ……助けて……、寂しい、寂しい……っ」


 この心の空虚を埋めてくれるのは、ロレンツォしかいない。

 コリーンはロレンツォの顔を思い浮かべながら、己を慰め続けた。


「っはぁ、ロレ、ンツォ……ロレンツォッ」


 ロレンツォを想像して、達しようとしたその時。


「コリーン! 大丈夫かっ!?」


 バタンッと音がして、扉が開け放たれる。

 頭をもたげて足元の方の扉を見ると。


「ロレン………っ!?」

「…………」


 そこには、ロレンツォが立っていた。

 頭が真っ白になる。どう言い訳していいのか分からず固まっていると、ロレンツォは驚いた顔のままそっと後ずさり、そして扉を閉めて出て行った。なにも言わずに。


 うそ……見られたっ!

 聞かれた……!?


 コリーンは起き上がり、乱れた服を正す。

 出て行こうか、どうしようか。しかしロレンツォは風呂に入り始めたようだ。泊まっていく気だろう。


 もしかして、ロレンツォ……私とするつもり?


 顔がカアッと熱くなった。だが、嫌ではなかった。以前ならロレンツォと体を重ねるなど、考えられなかったことだが。今のコリーンは、むしろ。


 私……ロレンツォと、したいんだ。


 あんな恥辱を見せてしまったこともあるだろう。体を重ねる事でその羞恥を掻き消したい気持ちがあった。

 ロレンツォが風呂から出て来ると、コリーンは息を潜めて自室で待つ。

 しかし彼はダイニングキッチンでいつものように煙草を燻らせ、そして隣の部屋へと入って行ったようだ。

 ロレンツォは、コリーンの部屋には来なかった。


「……」


 ロレンツォは、自分にそのような感情を抱いていないのだろうか。

 コリーンの女の部分を見て、なにも思わなかったのだろうか。

 ロレンツォともあろう男が。

 その日コリーンは、布団を被って無理矢理眠った。


 翌朝、ジュージューという耳慣れた音で目を覚ました。ベーコンの焼けるいい香りが漂ってくる。

 ロレンツォと顔を合わせづらい。が、気まずくなって一生ギクシャクする方がよっぽど嫌である。コリーンは意を決して、自室の扉を開けた。


「おはよう、コリーン」


 ロレンツォは、いたって普通であった。


「ロレンツォ……おはよう……」

「昨日はすまなかったな」


 コリーンはカァっと顔が熱くなって俯いた。やはり、恥ずかしいものは恥ずかしい。


「昨日は、パーティだから来ないって……」

「まぁ、癖でついこっちに来てしまってな。あんまり恥ずかしがるなよ。ここはコリーンの家なんだから、してて当然だろ? これからは気をつけるよ」


 苦笑いしながらロレンツォは頭をポンポンと叩いてくる。彼はこういうことに関して、すごく寛容だ。しかしロレンツォの名を呼んでいたのに、聞いていなかったのだろうか。


「……聞いて、ないの?」

「ん? なにをだ?」


 コリーンはほっとする。自分を慰める相手にロレンツォを使ったなどと知られたら、さすがのロレンツォも引いてしまうに違いない。


「なんでもない」


 次からは気を付けよう。


 そう思ったコリーンは、また彼を使う気でいる自分に気付く。

 コリーンは朝食をテーブルに出してくれているロレンツォを見上げた。


「どうした? コリーン」


 高鳴る鼓動。どうしてロレンツォに、こんな感情を抱いてしまっているのか。


「……ううん。今日は、来るの?」

「いや、イースト地区の家に帰る」

「また、来るよね……?」


 もう来ないつもりかもしれないと思い、コリーンは青ざめた。そんなコリーンを見て、ロレンツォは困ったように笑っている。


「来るさ。だからそんな顔をするな」

「……うん」


 ロレンツォはそう約束して、出勤して行った。


 コリーンも出勤し、ヴィダル弓具専門店に着いた途端、店の主人のディーナにある物を手渡される。

 それは明日に行われる、結婚式の招待状だった。

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