第10話 法的に

 戦争が終わって数週間後。コリーンがファレンテイン市民権を手に入れられる時がきた。

 結婚十周年を迎えたのだ。

 過ぎてしまえば長いようで短い。感慨深いと同時に寂しくもある。法的に、ロレンツォとは家族ではなくなる……そう、とうとうロレンツォと離婚する時がきたのだ。

 ロレンツォもコリーンも、滞ることなく離婚届けにサインをした。

 寂しい胸の内を打ち明けると、これからも変わらず家族だと言ってくれて嬉しかった。

 ロレンツォはイースト地区に借りてある己の家へと、出て行った。


「やっぱり、寂しいな……でも、しっかりしなきゃ」


 月に六万で遣り繰りしないといけない。ヴィダル弓具専門店を辞めたくはあったが、ディーナを放っておくことはできなかった。苦しい時こそ人助けだ。ロレンツォだって生活が苦しい時でも、コリーンを見捨てたりはしなかった。コリーンもディーナを見捨てたりはしたくない。

 店が安定するまで。もしくはディーナが文字を覚え、簡単な計算ができるようになるまでは、ここでがんばろうと心に決めた。

 コリーンは、ディーナが文字を習いたいと言い始めた時から、彼女に合わせたカリキュラムを作っている。その作業がとても楽しい。

 人に物を教えられるような偉い人物ではないとわかっているが、ディーナが少しずつ理解し、文字を覚えていく姿を見るのは、深い喜びがあった。


 教師って、こんな感じなのかな……。


 一瞬過ぎった教師という職業。しかしコリーンはそれを振り払った。もう勉強の期間は終了している。これからは働く期間なのだ。

 教師になるには、専門の大学に通う必要がある。そんなお金も時間もあるわけがない。


 でも……でもいつか、お金を貯めて、資格を取りに通いたいな。


 コリーンは密かに夢を持ち、そしてまたディーナのためにテキストを作っていた。


 翌朝、コリーンが出勤のためウエスト地区に入ると、コリーンは変な男が近寄ってきて話し掛けられた。


「おはようございます! ヴィダル弓具専門店で働いている方ですよね?!」

「……ええ、そうですけど、あなたは?」

「僕は新聞記者のミケレと申します。あなたに少し、ウェルス様とディーナさんの関係をお伺いしたいのですが」


 コリーンは、ウェルスとディーナが密かに交際していることを知っている。なぜ隠す必要があるのかはわからないが、それをペラペラとリークするつもりはない。


「すみませんが、わかりません」

「ウェルス様が、ヴィダル弓具店に出入りしているというのは?」

「存じません」

「おかしいですね、ウェルス様はあそこの顧客でしょう?」

「私は毎日帳簿と睨めっこですから、知りません」


 コリーンは足止めをくらい、抜け出そうとするも中々許してくれない。

 しかしなにも言わないコリーンに見切りをつけたのか、ミケレは途中で去って行った。コリーンはホッと胸を撫で下ろす。


 もう、遅刻しちゃうじゃないっ!

 なんなの、あの記者っ!


 ぷりぷり怒りながら店に入ろうとして、コリーンは扉の前で立ち止まった。中に、あのウェルスがいる。二人の声が、扉を挟んでかすかに聞こえてくる。


「あたし、ウェルスとずっと一緒にいたいよ。ウェルスと対等でいたいよ。ファレンテイン人になりたいよ。ウェルスの……お嫁さんに、なりたいよ……!」

「ディーナ……」

「困らせて、ごめん!でもあたし、ウェルスが好きで好きで大好きで、どうしようもないんだ!」

「ディーナ、私もだ」


 ウェルスとディーナは互いを抱き締め、貪るようにその唇を奪い合い始めた。

 こんな所をさっきの記者に見られては言い訳できない。コリーンは慌てて中に入った。しかし二人は気付きもせず、そのまま互いの唇に夢中になっている。


「こ、こほん」


 ちょっとわざとらしい咳払いをしてみると、二人はようやくその唇を離してくれた。


「あ、おはようコリーン」

「おはようございます……遅れてすみません。変な記者に追いかけられまして」


 コリーンは自分の顔が赤くなっているのを感じた。あんなキスを見せつけられては、こちらまで変な気分になってしまいそうだ。


「変な記者……そいつ、なんて言ってた?」

「ディーナさんとウェルス様の関係について聞かれました。知らぬ存ぜぬで押し通しましたが」

「そっか、ごめんね。ありがとう」

「そんなに好き合っているなら、どうどうと交際宣言すればいかがですか? そうすれば記者に追われることもないと思うんですが」


 コリーンが疑問を口にすると、ディーナはつらそうに眉を寄せた。


「言ってなかったね。あたし、奴隷だったんだよ。奴隷をファレンテイン人にしたくない奴らがいてさ。結婚でもしちゃったら、ウェルスは騎士の地位を剥奪されかねないんだ」

「なるほど……」


 ファレンテイン人であるウェルスが、ディーナと結婚をするということは、ディーナもファレンテイン人になるということだ。おそらく、奴隷がファレンテイン人になるという前例がないのだろう。ロレンツォも年齢が若いというだけで、兵士から騎士になるのに苦労していたし、融通の利かない者が中央官庁には多数いるようだ。


「でも、結婚にこだわる必要はありませんよね?」

「え?」


 コリーンの言葉に、ディーナは首を傾げている。コリーンはその理由を続けた。


「だってそうじゃないですか。結婚していても、心の伴わない夫婦なんてざらにいますよ。互いを縛り付けるだけの結婚に、なんの意味がありますか? お二人なら結婚せずとも、幸せに暮らせると思いますよ」


 勝手なことを言っているな、とコリーンは自分でわかっていた。しかし、なぜか止められなかった。

 言葉を詰まらせて思い悩むディーナに、苛立ちさえ感じていた。


「贅沢ですよ。互いに好き合っていて、これ以上なにを望むんですか?」


 ロレンツォとコリーンの結婚生活は、互いを縛るものだった。

 そのせいでコリーンはアクセルと別れることになってしまったし、ロレンツォもリゼットと別れたのだろうと思っている。

 ウェルスとディーナとは、ロレンツォとコリーンとは状況が違う。それをコリーンは理解しているのに、二人に当たるような物言いをしてしまった。

 そう、コリーンは、愛し合う二人の姿に嫉妬していた。ただ、羨ましかったのだ。

 そんなコリーンの苛立ちの問いに、ディーナは頷かざるを得なかったようである。


「そうだね。その通りだ。あたし、幸せに慣れてきちゃってたんだな。本来なら、奴隷として戦わずに済んでるだけでも、幸せだってのにさ」


 ディーナは笑顔を見せた。しかしそれは、無理に作った力のない笑顔だということは、コリーンにもわかる。


「ウェルス。あたし、ウェルスのこと、ずっと好きでいてていいかな」


 ディーナの言葉に、ウェルスは深い頷きを見せている。


「ウェルスもあたしのこと、好きでいてくれる?」

「もちろんだ」

「ありがとう、十分だよ。お嫁さんになりたいだなんてわがまま言っちゃって、ごめん」

「いや、嬉しかった。私もディーナを嫁にもらいたかった……すまない」

「ウェルス、大好きっ」

「私もだ。結婚はできなくとも、心はいつも共にいよう」

「うん!」


 チュッチュとキスが始まってしまった。こほんと咳払いをするも、今度はキスが止む気配はない。


 も、もう~っ

 記者に見られたら、どうするのよっ


 コリーンは急いでカーテンを閉め、扉の表に臨時休業と書かれた紙を貼り付けた。後ろを見ると、二人はいよいよ抱き合おうとしている。

 急いで外に出ると鍵を締める。そしてひとつ息を吐き、ぶらぶらと家に帰った。


「今日は、ロレンツォ来るかなぁ」


 コリーンと離婚し、家を出て行ったロレンツォだったが、二日と空けずロレンツォはコリーンのいるこの家に泊まって行く。

 ロレンツォは、離婚しても変わらず家族だと言ってくれた。その言葉は、コリーンにとってなにより嬉しいものである。が、法的にはもう家族ではない。


「ごめん、ディーナさん……」


 コリーンは、誰もいない部屋でディーナに謝った。

 本当は、ディーナの気持ちが痛いほどわかる。

 法的に縛り合う関係だったとしても。そこには家族の証がある。共に暮らして良い理由がある。それはつまり、安心だ。ディーナは、安心を得たいに違いない。そして彼女がファレンテイン市民権を得たい気持ちも、コリーンは誰よりわかっていた。


「ロレンツォ、来る……かな」


 コリーンは、不安定な家族の名を呼んだ。今はほぼ毎日来てくれている。が、もういつ来なくなるかもわからないのだ。

 もしロレンツォに新しい恋人ができたり、結婚でもしてしまえば、コリーンの元には来なくなるに違いない。

 それはわかっていたことだった。なのに、やはり寂しい。今までは誰の元に行っても、必ず家に帰って来る保証があった。今は、その保証がなくなったのだ。


「ロレンツォ……」


 その日、ロレンツォは来なかった。

 明日は来てくれるだろうか。明後日は、その次は。

 不安で押し潰されそうになる。やはり、ディーナが羨ましい。少なくとも、彼女はウェルスに愛されている。


 ロレンツォは、あんな風に私を思ってはくれない……っ


 コリーンはディーナとウェルスのキスシーンを思い返す。

 アクセルとは、あんなキスをした。互いに好きで好きで大好きで。

 でも、ロレンツォとあんなキスはしない。誰よりも大切で、かけがえのない人だと言えるのに。


「な、んで? 家族、だから?」


 はぁ、と熱い息が漏れた。

 ロレンツォを抱き締めて、キスがしたい。

 そう思うのはおかしなことなのだろうか。

 なぜロレンツォは、自分にキスをしないのだろうか。


「ロレンツォ、何で……」


 コリーン自身、そんなことを考えるのは初めてだった。

 きっとこんなことを考えるのは、ウェルスとディーナのキスを見てしまったからに違いない。

 そう結論付けながら、コリーンは自分を慰めていた。

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