第2話 はにかむようなその笑顔に
ロレンツォとの生活は、順調に続いた。
彼は、コリーンに強制労働をさせることはなかった。強制的な勉強をさせられることはあったが、それは自分を思ってのことだというくらいはわかる。
ロレンツォは兵士ということもあり、いきなりいなくなって何日も帰らないという日もあった。コリーンはそのたびに、自分が捨てられたのではないかと、震えた。
しかしロレンツォは必ず帰って来てくれたので、そんな心配はしなくなった。代わりに、ロレンツォの無事を祈っていつも震えていたが。
ある日、ロレンツォに夫婦になっていることを聞かされた。その時は正直驚いたが、ファレンテイン人になるため、また永久的市民権を得るために十年もの制約を強いてしまったことに罪悪感があった。
ロレンツォは二十七歳になるまで、誰とも結婚できないのだ。申し訳なくて、頭を下げる他なかった。
詳しくはわからないが、生活もかなり困窮していたように思う。
食卓にチーズが出なかった頃は、ロレンツォもかなり痩せこけてしまっていた。
ロレンツォの知り合いの子にもらったアイスという食べ物や、初めて出会った時にもらったチョコレートというお菓子を、街で見かけるたびに食べたい衝動に駆られた。しかし、ロレンツォには言えなかった。
言えば買ってくれると分かっていたから、余計に言えなかったのだ。
口を開けばロレンツォは勉強という言葉を口にし、生活が苦しくともノートがなくなれば買い与えてくれ、必要なテキストがあれば喜んでお金をくれた。
ロレンツォ自身も、物凄い勉強家だった。
いつも風呂上がりには生乾きの髪を垂れさせ、大きな黒縁の眼鏡をかけて、本を捲りながら必要箇所をノートに書き写していく。彼のする勉強は、軍術や法や歴史の勉強が多かった。騎士になるために必要だからと言って。
そしてロレンツォは、勉強が終わると煙草を燻らせるのが日課だ。
コリーンはそんなロレンツォを見るのが好きだった。
必死に勉強している姿もいいが、何を考えているのかぼけっと煙草を燻らす姿は、とてもリラックスしているように見える。
きっちりと髪をセットし、きりりとした眉に飄々とした目、口元には常に浮かべられる微笑。そんな昼間のロレンツォは、コリーンにはとても無理をしているように感じられた。だからこそ、一日の終わりに煙草を燻らせる時の表情が、一番好きだ。
ロレンツォが騎士になると、生活は格段に良くなった。コリーンにはお小遣いが支給され、食卓にもチーズが上る。三交代で夜勤が多かった兵士時代に比べて、朝と夜はほぼ毎日一緒にいられるようになった。休みも日曜が多く、予定も立てやすい。
そんなロレンツォにリゼットという彼女ができた時、コリーンは素直に喜んだ。彼女らしき者はそれまでも何人かいたが、彼が本気で人を好きになるのは初めてだ。しかしコリーンはロレンツォを応援すると同時に、申し訳なく思った。
どんなに好きでも、ロレンツォは結婚できないのだ。コリーンと別れない限り。
もしロレンツォがリゼットと結婚したいと言い出した時は、すぐに別れようと心に決めた。そこまで迷惑は掛けられない。
ロレンツォの言う通り、ちゃんと勉強しなきゃ。
ファレンテイン人じゃなくなったら、居住費が月に九万ジェイア上乗せされる。
ってことは、家賃だけで十二万……最低でも月に十五万、出来れば十七万稼ぎたい……
兵士職でもそんなに稼げない事をコリーンは知っている。余程良い職業に就かない限り、自立は無理だ。かと言ってリゼットと結婚したロレンツォに、金銭での負担を強いるつもりはない。
私も、誰かと結婚して……
そんな人はいない。が、最終手段として頭に入れておかなくてはいけないだろう。意に沿わない結婚でも、奴隷になったり娼婦になるよりはマシだ。
そんな風に考えていたある日、コリーンがいつものように図書館で勉強していた時のこと。
司書が大仰に頭を下げている姿が見えた。
「これはこれはユーバシャール様! いつも図書の寄贈を有難うございます!」
「いや。俺が読んでいた本も混じっている。もし状態が悪ければ、そちらで処分しておいてくれるか」
「わかりました。今まで戴いた本で、状態の悪い物など、一冊もございませんが」
多くの新しい本が入ってきて、コリーンはなんとなく覗いてみた。
絵本や童話、小説など、真新しい本が並んでいる。新品でない物も確かに混ざっていたが、綺麗に使われているので読むのに全く問題はない。ロレンツォが見れば借りるであろう、ファレンテインの歴史の本や法に関する著書もあった。
ロレンツォに教えてあげようと思いつつ、自分のための本を探す。欲しいと思っていたテキストは置いてなかった。またロレンツォに買って貰わなければいけないと思うと、自然と溜め息が漏れる。
「借りたい本はなかったか?」
急に話しかけられて、コリーンはビクリと振り向いた。今、本を寄贈した若い金髪の男性である。ロレンツォとはまた違った感じの男前だ。
「うん、ない」
コリーンは首肯しながら、素直に答えた。
「そうか、どんな本が読みたいんだ?」
「経済学の本。できれば、オルコド社出版の」
「わかった。今から買ってこよう」
男の言葉に、コリーンは目を丸めた。喜びもあったが、驚きの方が大きかった。
「え、でも……」
「なにがいいのか、いつも選ぶのに四苦八苦するんだ。確実に役立てる本を買えるのは、嬉しい。もしよければ、他の本も見繕ってくれないか? 別の目で見た方が、本のバリエーションも増える」
「選ぶの? 私が? いいの?」
「ああ。もし時間があるなら、今から本を買うのを付き合ってくれ」
勉強以外にやることのないコリーンには、時間はたっぷりある。コリーンは彼に付き合うことにした。
「ありがとう、助かる。俺はアクセル・ユーバシャール。ミハエルの騎士だ。君は?」
「私はコリーン」
「コリーンは学生か? 高校はどこだ?」
「高校は……私、こう見えても二十一歳だから」
法律上は、と心の中で付け足す。実年齢はまだ十五歳である。さすがに無理があるだろうか。
「俺と同い年か! どの区の小学校だった? 中学は?」
あまり詳しく言うと、ボロが出そうだ。どうにか誤魔化さなくては。
「私はノルト出身で、こっちの学校には通ってないから」
「ノルトか。同僚のロレンツォという男と同郷だな。知っているか? ロレンツォを」
知っているもなにも、一緒に暮らしていて、しかも法的には夫婦だ。しかし言えるはずもなく、「見かけたことはある」と言うに留まった。
「どこかに勤めているのか?」
「家事手伝い、かな。いつかはちゃんと働くつもりだけど、今は色々と勉強中で」
「それで経済学の本か。他にも必要な本があるならいくつでも遠慮せず、買ってくれ」
「……なんか、悪いよ」
「図書館に寄贈するんだから、コリーンが呵責する必要はない」
言われてみればその通りだ。コリーンはそう言われることで、欲しいと思っていた本を遠慮なく選んでいった。ロレンツォに負担を掛けずに済むと思うと、それだけでほっとする。
「色んなことを幅広く勉強しているんだな。欲しい本が図書館にない時は教えてくれ。また図書館の方に顔を出そう」
「ありがとう、アクセル」
「こちらこそ、本を選んでくれてありがとう、コリーン」
特に気にしていなかったが、男前がはにかむように笑うのは、胸にくるものがある。同じ男前でも、ロレンツォにこの表情はできないだろう。
いつの間にかコリーンは、その表情に見とれていた。
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