第29話 殴り込んで来たのは
騎士団本署の厩舎に馬を繋げると、ロレンツォは北水チーズ店に立ち寄った。
もう夜の九時を回っていたが、北水チーズ店は配達メインなので、実は店舗がない。ロレンツォのように注文しておいて取りに行くというケースは稀なのだ。
ロレンツォは受け取り口の窓をコンコンと叩いた。すると、中からヘイカーが顔を見せる。
「よう、ヘイカー。頼んでた物を頼む」
「……ああ」
ロレンツォがここに来た当初はクソガキだったヘイカーも、大きくなった。背が伸び、声変わりをし、クソガキではなくなった。まだどこか子どもっぽさは残るが、それでも大人の男と言えなくはない。もうこの春からは騎士団に入団することも決まっているようだ。
「ロレンツォが帰ってきたってことは、リゼットも……?」
「ああ、さっき一緒に帰ってきた。少し用事をしてから帰ると言っていたから、まだ帰ってないかもしれんが」
「ふぅん」
そう言いながらヘイカーはチーズの入った袋を渡してくれ、ロレンツォは代金を払った。
それを持って、ロレンツォは急いでコリーンのいる家に帰る。
すっかり遅くなってしまったな。
最近は滅多に時間外労働なんてなかったから、コリーンの奴心配してなきゃいいが……
しかし家に帰るとコリーンはやはり心配していたようで、駆け寄ってきた。
正直、事情を話そうかどうか迷った。コリーンは明日、受験だ。アクセルの子どもとその母親を救うために奔走していたと言って、無意味にコリーンの心を掻き乱したりしてしまわないだろうか。
そう思ったが、ロレンツォは結局は真実を告げた。いつかは知ってしまう事だ。変に隠すよりはすっきりするかもしれない。
「……そっか。アクセルに……子ども……」
「……大丈夫か、コリーン」
「なにが? 全然なんともないよ。なんていうか、ちょっと……時は流れてるんだなって思って」
コリーンはなぜかリゼットと同じ言葉を言って、少し笑っていた。その真意は、ロレンツォには計りかねた。
ゆっくりと風呂に浸かると、ロレンツォは疲れ果てた体を癒した。
ザブンと風呂から上がってキッチンに向かうと、コリーンがなにやらテーブルの上の紙をじっと見つめている。なにを見ているのだろうと、ロレンツォはその後ろからそっと覗いた。
「えっ!? ロレンツォ!?」
コリーンはロレンツォにようやく気付き、慌ててその紙をノートに挟んで閉じようとする。しかしあまりに勢いよく閉じ過ぎたため、その紙はふわりと宙を舞った。それをロレンツォがパシリと手に取る。
「あっ! 返して!!」
「なんだ? 馬券?」
夏にアルバンに行った時の馬券だと、すぐに気付いた。当然ハズレ馬券だと思っていたロレンツォは、その馬券を見て、目を丸める。
「……アクセルの馬券も、買っていたんだな……」
当たりの馬券は換金されると破棄される。持ったままだということは、換金しなかったのだろう。思い出として馬券を取っておきたかったに違いない。その意味を考え、ロレンツォはそっとその馬券をコリーンに返した。
「あの……これは、その……」
「明日は入試だってのに、アクセルに子どもができたなんて言うんじゃなかったな。すまん」
「……」
コリーンはなにも言わずに馬券をノートに挟んでいる。
そして彼女が何事かを言わんとして、口を開いたその時だった。
ドンドンドンッ
「おい、ロレンツォッ! 開けろっ!!」
荒々しいノックの音がし、ヘイカーの声が聞こえた。ロレンツォは驚きながらも扉の鍵を開ける。
すると憤怒の表情を見せて、ヘイカーが上がり込んできた。
「ロレンツォ! てめ……」
と言いかけて、ヘイカーはコリーンの存在に気付く。コリーンは何事かわからず、おたおたしている。なぜかヘイカーはそんなコリーンを見て、怒りで顔を赤くさせていた。
「女と暮らしてたのかよ!! てめぇって男は……っ!!」
ヘイカーはいきなり大きく振りかぶって、拳を突き出してきた。と同時に、ロレンツォはついカウンターを入れてしまう。ヘイカーの左頬を殴り、よろけただけのヘイカーに連携でボディブローをきめる。殴りかかってきたヘイカーを逆に殴り倒し、ドタンと見事な音を立てて彼は床に倒れた。
「きゃ、きゃーーーーーーっ!?」
「なんなんだ。お前は、いきなり」
「っぐ、げほっ!げほっ!」
コリーンは慌てながらも、いつかロレンツォにしてくれたように布を濡らして持ってきた。尻餅をついているヘイカーの頬に、その布を当てようとしている。
「放っておけ、コリーン」
「でも……」
「俺の拳なんて、スティーグ殿に比べれば大したことないさ」
手加減なしで殴ってしまったので、相当の痛みはあるだろうがと心で付け足しながら言った。しかしロレンツォにしても、いきなり殴りかかられて気分のいいはずもない。
ヘイカーはしばらく息ができなかったようで、顔を歪めて動けずにいる。
「だ、大丈夫?」
コリーンはやはりヘイカーを気に掛けている。しばらくそのままでいたヘイカーは、のっそりと起き上がり、再びロレンツォを睨んだ。
「コリーン、そいつから離れろ」
「でも」
「いいから」
コリーンはヘイカーから離れると同時に、ロレンツォの後ろまで下がってくれた。
「さて、人の家に上がり込んできていきなり殴りかかるとは、どういう了見だ? 理由を聞かせてもらおうか」
到って冷静なロレンツォに、ヘイカーの方は苛立ちを隠せていない。隠すつもりもなかったようだが。
「ロレンツォ、あんた、心当たりがないってのか!?」
「ああ、ない」
「よくもヌケヌケと……ッ! リゼットが今、どんな思いでいるのか、わかんねーのかよ!!」
「……リゼット?」
予想外の者の名を出され、ロレンツォは眉を寄せた。
「リゼットが、どうかしたのか」
「リゼットとの約束を、すっかり忘れやがって! どれだけ傷付いてると思ってんだ!」
「約……束……」
なにを約束したのだったか、さっぱり思い出せない。今日リゼットが、酷く傷付いた顔をしたことと関係があるのは確かだろうが。
「まだ思い出せないってのか!?」
「……ああ」
「じゃあ、俺が教えてやるよ! あんたはリゼットにこう約束したんだ! ウェルス様とその恋人が幸せになった時、互いに特定の人物がいなければもう一度付き合おうって!」
ロレンツォの記憶が一瞬にして蘇り、当時の光景を思い出す。
言った。確かに言った。なぜすっかり忘れていたのか。
ウェルスの結婚式の日、なにか言いたそうだったリゼットは、これを伝えたかったに違いない。
どうして気付けなかったのか。なぜ思い出せなかったのか。
「なのに! あんたは! 恋人はいないとか言ってリゼットに期待を持たせといて! なんだよ、女と暮らしてんじゃねーかよ!」
「あの、私は……」
「黙ってろ、コリーン。わかった、ヘイカー。もう一度リゼットと話をする。それでいいか」
「……っえ」
ヘイカーと、そしてなぜかコリーンも固まっている。ヘイカーは明らかに動揺して、焦り始めた。
「も、もう終わったことなんだろ?」
「約束を反故にするつもりはなかった。恋人がいないのは本当だ。今後のことを、ちゃんとリゼットと話し合って決めたい」
「……」
「……」
ヘイカーは絶句し、コリーンはその会話を見守るように聞いている。そんな二人を見て、「いいな?」と確認すると、ヘイカーは横を向きながらも頷いていた。
「……帰る」
そのヘイカーの言葉を受けて動いたのはコリーンだ。
「送ってくる」
コリーンの言葉に驚いたのは、男二人である。
「いらねーよ」
「必要ない」
「でも頭を殴られてるし、途中で倒れちゃいけないから。ロレンツォは送りたくないだろうし、あなたも送られたくないでしょ?」
フラつくヘイカーにコリーンは手を差し伸べる。ヘイカーもこの状態で帰るのは危険と判断したのか、首肯していた。
そのヘイカーの態度に、ロレンツォは明らかに苛立つのを感じる。
「コリーン、行かなくていい」
「そういうわけにはいかないよ。すぐ帰って来るから。いってきます」
そう言ってコリーンはヘイカーと共にアパートを出ていった。
部屋に残ったのは、顔に苦みを見せたままの、ロレンツォだけだった。
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