第2話 あげたノートの使い方は

 ロレンツォは煙草を燻らせた。

 一日の終わりに煙草に火を点ける。これは幼い頃からの習慣だ。

 ノルトの村では畑仕事が終わると、男達が集会を開いた。と言っても大仰なものではなく、集まって雑談をするだけだ。

 煙草を吸いながら大人達は、あの女の抱き心地がどうだの、こういう口説き文句が覿面てきめんだの、そんな事ばかりを煙草を吸いながら話すのだ。夜這いの仕方もその集会で習った。ロレンツォの友人のアルヴィンは、興味がないためかほとんどそれに参加した事はないが、ロレンツォはよく仲間に加えてもらっていた。

 そういう話を常に聞いて育って来たせいか、初体験は早かった。村を出る時には、年頃の独身女性のほぼ全員と関係を持っていた程だ。トレインチェに来てからは勉強ずくめだったので少し控えてはいるが、女性と話をする事は基本的に好きである。


 あのコリーンという女の子は、どうしているかな。


 こうして一日の終わりに女のことを考えるのは、日課なのだ。煙草はふかすだけで、ほとんど吸わない。灰だけが少しずつ伸びて、ポトリと灰皿に落ちて行く。

 やがて煙草が短くなると、灰皿にそれを押し付けて火を消した。掛けっぱなしだった黒縁の大きな眼鏡を外すと、先ほどまで勉強していた本の上に置く。

 ロレンツォは十七歳になっていた。剣の腕前はめきめきと上がっていて、兵士団ではそれなりの地位を築けた。だが、それだけでは足りない。ロレンツォの目的は騎士団のトップクラスに上り詰め、団長アーダルベルトの右腕となることなのだから。


 そんなある日の事だった。ロレンツォが出勤するためにアパートから出ると、そこにはいつかの少女が震えて座っていた。そう、別の国にいるはずのコリーンである。

 その格好はあの時と変わらず、身綺麗とは言い難い。素足で靴も履かず、髪の毛はどろどろのばさばさだ。

 少女はロレンツォを見て、一瞬体を震わせた。


「お前……コリーン、か?」


 しかしロレンツォがそう問うと、コリーンは思い出したかのように顔を上げた。


「ロレ……?」

「ロレンツォだ。覚えているか?」

「ロレンツォ!」


 自身の名を告げると、コリーンは思い出したかのようにその名を嬉しそうに叫んだ。


「どうした、何があった? どうしてファレンテインにいるんだ?」

「ロレンツォ、ロレンツォ、ロレンツォ!」

「コリーン?」


 そう言えば、言葉が通じなかったかと腕を組む。何があったか分からないが、とりあえずは保護するしか無いだろう。


「うちに来て、ご飯食べるか? 大した物はないが……分かるか、ご飯」


 物を食べる仕草をして見せると、コリーンは頷きを見せた。

 家に連れ帰ってパンにチーズとバターを塗って焼く。焼きあがるとその上にノルト産の野菜をたっぷり乗せて、コリーンに差し出した。


「これを食べてくれ。悪いが俺は仕事で、一緒にいてやれないんだ。俺が帰って来るまで、ここにいてくれよ」


 コリーンはやはり首を傾げた。言葉が通じないというのは、大変不便である。


「悪いな。出世のためには遅刻するわけにも、休むわけにもいかないんだ」


 そう言うとコリーンは「イヤールイケレ」と、ロレンツォの分からぬ言葉を口にして、パンを口に運んだ。恐らくは礼か、いただきますというような事を言ってくれたのだろう。


「じゃあな、行ってくる」


 そう言って玄関を出ようとした時、コリーンは慌ててしがみ付いてきた。その瞳が行かないでと訴えている。ロレンツォは、安心させるためにコリーンの頭を撫でた。


「大丈夫だ、ちゃんと戻ってくる」


 その目元に軽くキスしてやり、ロレンツォは家を出た。

 騎士団本署に着くと、一人の女性が保護されていた。身なりはコリーンのように薄汚れた格好をしている。何事かと、ロレンツォは周りの兵士に尋ねた。


「人身売買だと。バイヤーから逃げてきたらしい」

「人身売買……」


 ファレンテインでは奴隷制度は無い。よって表立って取り引きは出来ない。闇の業者によるものだ。


「人身売買で取り引きされた者は、どうなる?」

「さあなぁ。でもまぁ、買い取られた先で幸せに暮らすってこたぁねぇだろうな。良くて召使い、悪くて玩具扱い。女なら娼館行きかもな」


 コリーンもそのバイヤーから逃げて来たのだろうか。可能性は高い。ならば上に報告して、保護をしてもらわなくてはなるまい。


「その彼女は、どうなるんだ?」

「そりゃ、本国に送り返されるだろうよ。ま、彼女の村は貧しくて、結局似たような人生を歩まざるを得ないだろうけどな」


 となると、奴隷かそれに類する職業に就くしかないという事だ。奴隷が職業と呼べるかどうかは、甚だ疑問だが。


「この街で暮らせるような支援はないのか?」

「はぁ? ある訳ねぇだろ。この国は、異国人には厳しい土地だ。支援どころか、余所者からはガッポリ取り立てるシステムになっているからな。本国に強制送還、後は知らねぇ、がファレンテイン貴族共和国のやり方だ。あの子を救ってやりてぇんなら、結婚でもしてやれよ。それしか道はないね」


 ロレンツォは黙った。自身はファレンテイン人なので特に気に留めていなかったが、異国人はここに滞在するだけでお金は吸い取られて行くのだ。一般的には宿代や家賃から徴収されて行く。そのお金が無いものは町中や森で野宿しているが、騎士団が目を光らせて厳しく取り締まりをしているため、その目を掻い潜るのは至難の技だ。


 ロレンツォは、自分が保護した少女を思い浮かべた。恐らく彼女も、本国へ送り返された所で似たような事の繰り返しだろう。人攫いに遭うか、自分から身売りするか、それとも行き倒れるか。

 悩んだが、コリーンの事を上司に報告するのはやめた。ロレンツォはあの日の彼女を見ている。戦争という不当なもので両親が殺され、茫然自失となっている彼女の姿を。

 あの時は何も出来なかった。手持ちのチョコレートをあげただけだ。その行為も同行していた周りの者には見咎められてしまったが、何かをしてあげたいという感情を持ったのは、その時からである。

 どういう巡り合わせかこうしてトレインチェで再会できた今、少なくとも何かをしてあげられる立場にある。


 その日ロレンツォは仕事を終わらせると、服屋で女性物の服を数点と、Sサイズのミュールをひとつ購入した。帰りがけに北水チーズ店の悪ガキ、ヘイカーを見つけてチーズの追加注文をお願いした。北水チーズ店のチーズは高いがその分味は最高だ。ロレンツォ唯一の贅沢である。


 家に帰ると、コリーンが走り寄ってきた。悲しそうな、すがるような瞳で。さながら、捨てられた子犬のようだった。


「ただいま、コリーン。良かった、ちゃんと居てくれたな」


 今にも泣きそうな彼女の頭を優しく撫でる。不安で仕方なかったのだろう。小刻みに震えていた。

 一緒に居てやれば良かったかな、という思いが頭を過る。いきなり言葉も通じぬ国に連れて来られて、さぞ怖かった事だろう。しかしロレンツォにしても、急に仕事を休む訳にはいかなかった。


「腹が減っただろう。だがその前に風呂に入れてやろうか」


 彼女の体からはおよそ良くない匂いが漂っている。それではご飯を食べても美味しくはあるまい。お腹は空いているだろうが、ロレンツォは先に風呂を優先した。

 風呂に連れて行って服を脱がせてやろうとすると、さすがにコリーンは阻止してきた。少女とはいえ、女だなとふと笑みが漏れる。


「自分で入れるか? 熱かったらこっちのたらいの水でうめてくれ。あんまり温くし過ぎないでくれよ。俺も後で入るんだから」


 おそらく通じていないだろうが、コリーンは風呂桶とたらいの両方に手をつけ、こくこくと頷いた。

 彼女がお風呂に入ると、ロレンツォはバスタオルと買ってきた服を置いて、食事の準備に取り掛かる。あの国ではどういう物を主食としているかは分からないが、野菜ならどの国でも食べられているだろうと、野菜サラダを作った。残りはロレンツォの好みでミネストローネとロールパン、それに北水チーズ店特製、クミンシードのゴーダチーズを切って並べただけの、簡素な食事。

 用意をし終わった所で、ちょうどコリーンが出てきた。ロレンツォが買った服を着て、どこか嬉しそうだ。


「今、ご飯が出来たところだ。座ってくれ」

「イヤールイケレ」


 少女は再びそう言って頭を下げた。やはり礼の言葉に違いない。


「イヤールイケレっていうのか。それはな、こっちの言葉でありがとうって言うんだ。分かるか? ありがとう。イヤールイケレは、ありがとう」

「あり、が、とう? イヤールイケレ、ありがとう?」

「そう、ありがとうっていうんだ。字は書けるか? 忘れないように書いておくといい」


 そう言ってロレンツォは、まだ使っていない真新しいノートと鉛筆を貸してやった。その意味を理解したのか、コリーンはそのノートに、ロレンツォの分からぬ文字で字を書き始める。


「ご飯にしよう。座って」

「ご、はん」


 朝に聞いたその言葉も理解していたのか、またも書き取っていた。

 そして席に着き、食事をとり始める。どれもこれも美味しそうに食べてくれていたコリーンだったが、チーズを食べた時のコリーンの表情が、一段と明るくなった。


「パラアン、パラアン!」


 ほっぺをとろけさせながら、嬉しそうにロレンツォに訴えるコリーン。言葉が分からなくても、その表情で何を言っているかくらい、分かる。


「うまいか。そりゃ良かった。パラアンは、おいしい、だ。おいしい」

「おいしい、おいしい」


 コリーンはそう言いながら、自分の分のゴーダチーズをペロリと平らげ、物欲しそうにロレンツォのゴーダチーズを見ている。

 ロレンツォは苦笑いして、自分のゴーダチーズをコリーンの皿の上に置いてやった。


「ありがとう。ロレンツォ」

「どういたしまして」

「ネルプルトゥ? ネルプルトゥ?」


 チーズを指を差しながら、必死に聞いてくるコリーン。


「これは、チーズだ」

「これはチーズ。ネルプルトゥ?」

「これはレタス」

「これはレタス。ネルプルトゥ?」

「これはレモン」

「これはレモン。ネルプルトゥ?」

「これはお皿」

「これはお皿。これは?」


 突然ファレンテインの公用語を使われて、ロレンツォは驚く。これは、というのが、ネルプルトゥの代わりになると、わずか数回のやり取りで気付いたのだろう。


「これは、フォーク」

「フォーク。これは?」


 繰り返されるやり取り。その度に彼女はノートに書き留めていく。かなりの勉強家のようだ。

 ロレンツォは質問攻めにあい、それが終わる頃にはすっかり遅くなっていた。

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