第2話 船旅日和

 今、俺たちはクルーザーの船首に立ち、潮風を浴びている。

 なんという贅沢。


 大学の民俗学の浜口教授が音頭を取り、ゼミ生の一人である大里君が自分の父親からこのクルーザー船を借り出すことに成功したのだ。

 定員六人のサロンクルーザーで内装は相当豪華だ。エンジン駆動で帆は張れるようにはできていない。これ一台で数億円というところか。まあ世の中にはお金持ちがいるものだ。


 今回の旅の表向きの理由は近接した漁村群での文化的異方性の調査、その実はゼミ恒例の夏休み小旅行だ。船を提供して貰えるかわりに大里君にはゼミの単位が無条件で与えられることになっている。俺と鬼口は二人の小間使いという扱いだが、文句はない。

 吉村が密航していたことだけは計算外だったが。

「ボクをね。置いて行こうたってそうはいかないよ」

 吉村が口を尖らせて抗議した。

 ・・そのまま海に投げ込んで始末しようかと思ったことは秘密だ。

「まあ乗ってしまったからには仕方ない。特別研修生という扱いにしておこう。中山君だちと同じ扱いになるがいいね?」

 浜口教授が眼鏡の奥の瞳に興味深そうな光を浮かべて提案したのでそれで決まりだ。

 このときの決断を教授は後で後悔することになるだろうなとは思ったが、それも秘密だ。


 その日のうちに漁港を三つほど回った。

 やるのは地道な聞き取り調査だ。一つの村につき一時間ほど。無作為に飛び込んだ各家からあらかじめ決められたアンケートを取って回る。最初は戸惑ったがすぐに慣れた。

 鬼口のケースはちょっと困った。なにしろ鬼口は体が大きくて顔がいかつい。訪問した先の家の人がすわ強盗かと身構えてしまうのだ。吉村が鬼口の額に『調査員です』と赤マジックで描き加えてからはそれも収まったが。

 夜はお楽しみの時間だ。昼間に買い込んでおいた酒とツマミを出して、対岸の街の灯りを見ながら海上で宴会をやる。

 騒いでいる俺たちの横で、浜口教授は集めたアンケートに目を通している。教授はビールを少し飲むぐらいだ。騒ぐということはまったくしないし、まさに紳士の鑑とでも言うべき態度だ。

「ああ、吉村君。ちょっとこのアンケートを見てくれ。君が聞いてきたやつだ」

 浜口教授はアンケートの一枚を差し出した。

「ここに申告された生年月日によると、この回答者のお婆さんは年齢が百八十歳を越えることになるねえ」

 吉村は一瞬きょとんとした顔をしていたが、すぐに何のことか気づいて説明を始めた。

「あ、それ。聞き取りしたお婆さん、死んだときには八十一歳だって言っていたよ」

「おどれは幽霊にアンケートとったんかい!」

 俺は手近にあった硬いもので吉村の頭をど突いた。

 大丈夫だ。こいつはこれぐらいでは死なない。死ぬような人間だったらどれだけよいことか。

「中山君。暴力は慎みたまえ」

 浜口教授が俺を押しとどめた。

「うむ。大変に興味深い。幽霊の回答か」

 教授はアンケート用紙に何かを赤ペンで書き込む。

「内容も興味深い。昔この辺りに出現したという船幽霊の伝承だな。

 まず夜の海に船で出ると、いきなり霧が湧く・・」

 生臭い風がキャビンに吹き込んできた。

「・・船頭が陸を見失い困っていると霧はますます濃くなり・・」

 俺ははっとキャビンの外を見た。いつの間にか濃い霧が船の周りを取り囲んでいる。船のアンテナ棒に取り付けられた灯りが霧に吸い込まれて頼りない光を投げかけている。こんな霧、先ほどまではまったく出ていなかったぞ。

「教授」

 俺は言った。浜口教授は俺の呼びかけが聞こえなかったかのように先を続けた。

「・・すると霧の中から船が一艘近づいてくる。櫓を漕ぐ音をさせながら・・」

 ギィ。

 音がした。

 霧の奥から櫓を漕ぐ音が近づいてくる。

「教授」

 俺はかすれた声で言った。

「・・すると波を蹴立てるでもなくすうっと進んできた船が横付けをする・・」

 ギィギィと音をさせながら、霧の中から船が姿を現せた。数人乗りの手漕ぎ船だ。霧の中なのにその姿だけがはっきりと見える。船の中には髪を乱した女性が一人、櫓を握って立っている。その片腕には赤ん坊が抱かれていた。

「・・船の中に立った幽霊がひしゃくを・・」

「教授! 浜口教授! 止めてください」

「うむ。止めよう。説明するより見た方が早いからな」

 教授はアンケートをファイルにしまうと宣言した。

「これより民俗学の実地研修に移る。全員、甲板に出るように」

「きょうじゅうううううう!」

 俺の悲鳴は無視された。

 否も応もない。浜口教授がこうと決めたら誰も逆らえない。逆らったら留年が待っている。留年なんかしたら親族中で笑いものにされるし、何よりせっかくできた彼女に振られてしまう。

 俺たちが甲板に出たところで、女の船幽霊もすうっと垂直に上がってきた。重力無視かいと突っ込みを入れようと思ったが止めておいた。幽霊が重力に義理立てする理由などない。

「この子を頼みます」

 女船幽霊が抱いていた赤ん坊を差し出す。鬼口がついと受け取ってしまった。

 鬼口の馬鹿野郎。俺は毒づいた。

「柄杓をください」

 柄杓なんかないぞ。俺は救いを求めて辺りを見回した。それに柄杓を渡したら船は沈められる。俺でもそのぐらいのことは知っている。いや、日本人なら誰でもその結末は知っている。

「ふむ。産女型の船幽霊か。実に興味深い。たしか現代民話考にこの話が収録されていたな。

 中山君。何か柄杓の代わりになるものを探しなさい。こういった場合、柄杓を渡さないとルール違反になりさらに悪い結果を引き起こす」

 浜口教授はそう説明すると、自分でバケツを一つ見つけ出して女船幽霊に渡した。

「教授。それ、底を抜かないと」

「ん? ああ、しまった」

 女船幽霊がバケツを手にすると海中から無数の手が涌いて出た。その手のそれぞれがなぜか同じバケツを持ち、海水を俺たちのクルーザーに汲み入れ始めた。

「ヤバイ。鬼口なんとかしろ」

「なんとかしろって言われても」

 鬼口は幽霊の赤ん坊を抱いたまま答えた。

「赤子を下ろして水を掻い出すんだ」

「できない」鬼口が困ったように言った。

「どうして」つい悲鳴になってしまった。

「こいつ、しがみついて外れないんだ」

 見ると幽霊赤子は鬼口の腕に手を食い込ませている。赤ん坊にしがみつかれた鬼口の腕が紫色になっている。

「しかも重い。どんどん重くなる」

「ふむ。そういった所も産女伝説と同じか」

 呑気な口調で浜口教授が指摘した。

「実に興味深い」

 鬼口の立っている床がメリメリと音を立て始めた。ぐらりとクルーザーが鬼口を中心にして斜めに傾き始める。いったいその赤子どれだけ重いんだ。

 鬼口はダメだ。見捨てよう。俺はバケツをもう一つ見つけて、船に流れ込む海水を汲みだし始めた。だが多勢に無勢。このままでは沈む。

「吉村! お前も手伝え!」俺は叫んだ。

「やだもんね。ボク、肉体労働は苦手」

 吉村は唇を突き出した。

「お前はああ!」

 怒りに任せて俺は吉村を船から蹴り落した。

「わあ、何するんだ」

 吉村は喚くと、船にしがみついた。船幽霊の船に。

 吉村の手が船幽霊の船の中にあった柄杓に触れた。たちまちにして海中から柄杓を持った無数の手が涌きだした。どれも吉村の手だ。俺は呆れた。船幽霊の技を使うとは。吉村はここまで変態なのか。

 吉村の手の群れは海水を船幽霊の船へと流しこみ始める。

「止めて! 船が沈んじゃう」

 女船幽霊が抗議したがそれも空しく、やがて船幽霊の船は沈没した。それと共に女船幽霊も消えた。

「ボクの勝ち」

 吉村が高らかにそう宣言するとクルーザーに上がってこようとした。

 限界に達していた鬼口が何かを喚くと、奴の手にしがみ付いていた幽霊赤子を引きはがし、吉村の顔にぶつけた。赤子に抱きつかれたまま、吉村が海中に没していった。

「危機は去った」俺は宣言した。そうあれと願いながら。

「それはどうかな。通常、船幽霊に遭った場合にはその後も何らかの危難が起こる」

 浜口教授は解説した。まるで他人事だ。

「止めてください。きょうじゅうううう!」

 俺は叫んだが、無駄だった。



 その晩、海は大荒れに荒れた。俺たちのクルーザーはエンジンが止まり、無線も壊れ、どことも知れぬ場所へと流されてしまった。



 まず食料が真っ先に尽きた。そもそもそれほどの量は最初から積んでいない。あくまでも沿岸での調査が最初の目的だったのだから。

「これはヤバイな」と俺。

「うん、ヤバイ」と大里。船が動かなくなって以来、大里は元気がない。

「腹減った」鬼口が言わなくてもいいことを言った。

「困ったね」口をモグモグさせながら吉村が言った。

「何を食っとる~」

 全員で吉村を押さえつけて口の中のものを吐き出させた。黒くて小さいものがざらっと床に転がる。

 ネジだ。ネジだ。何本ものネジが吉村の口から零れ落ちた。

「何てえものを食ってるんだ。お前は」

 ほとほと呆れた。

「それは違うよ。食わず嫌いはよくないよ。ネジが食べられないなんて思うのは常識にとらわれているからだよ」吉村が力説した。

「ほら、フグだって何だって最初は誰かがチャレンジして見つけて来たんだよ。食べられる物だけが食べ物ってわけじゃないんだ。嫌がらずに食べてみれば、その美味しさがわかるのに」

「わかってたまるかああぁぁ!」

 俺の言葉を無視するかのように吉村はポリポリとネジを噛んでいる。鬼口がその口元を穴が開くほど見つめている。

「ほら、あげる」吉村がネジを数本、鬼口の手の中に落とした。

「止めろ。鬼口。吉村の口車に乗るな」

「俺は腹が減った。このままじゃ皆を食べてしまいそうだ」

 鬼口が物騒なことを言ったので、俺は動きを止めた。鬼口は勢いよく口を開けるとネジをその中に放り込んで咀嚼した。

 ボリボリガリガリバキンバキンという耳を覆いたくなるような音がした。ここはどこかの鉄工所か。

「うげええええええ」

 鬼口がネジの残骸を吐き出して、それから感想を述べた。

「まずい」

 極めて当たり前のことを言った。

「馬鹿野郎。吉村の言葉を信じる奴がいるか!」

「すまん」

 鬼口は一言だけ返すとまた吐いた。

「はっはっは。君たちに教えたことがあったかな。ネジは食べ物じゃない」

 デッキにリクライニングチェアを引き出して本を読んでいた浜口教授が指摘した。この人も何も食べていないはずなのにどうしてここまで余裕がある?

「教授は平気なんですか? 何も食べていないですよね」

「うん、そうだね。ここで君たちに心温まる知識を一つ授けてあげよう」

「なんです?」

 うん、嫌な予感しかしない。

「人間というものはだね、三か月は食べなくても死なないということだ。近年の記録では英国の大地震の際に瓦礫の下に埋まった人間がなんと九十二日間経ってから救助されたことがある」

 聞くんじゃなかった。俺はうんざりした。もっとも俺たちはそれだけの日にちが経つより先に、腹を空かせた鬼口に喰われて死にそうだが。

「ネジなんか食べるよりも魚でも取ったらどうかね。その方がずっと健康的だ」

「釣り道具がないんです」

「あの旗竿を折りたまえ」

 浜口教授は操縦席の上に突き出ているアンテナ棒を指さしながら言った。

「それで突き竿ができる。撃ち出すためのゴムかなんかが欲しいところだが、なに、練習すれば手打ちでも十分に魚は突ける」

 俺たちは慌ててその助言に従った。どのみち無線は故障して使えないからアンテナなんかただの無用の長物だ。手間どったが粗削りのそれなりの長さの突き竿ができた。小さなペットボトルをつけて水に浮くように工夫する。

 それを持ってまず鬼口が海に飛び込んだ。

 海中で何やらやっていたが、じきに上がって来た。その手は空っぽ。獲物はなしだ。

「なんにも取れなかった」

 もぐもぐと口を動かしながら鬼口が言った。それから幸せそうなゲップを一つついた。

「こいつはダメだあああぁぁぁ」俺と大里が叫んだ。

「ええい、突き竿を貸せ。次は俺が行く」

 俺は突き竿を持って飛び込んだ。う~、魚、魚。

 背中に何かが張り付いて、俺はあやうく水中で叫びそうになった。この感触はすぐわかる。吉村だ。

「ボクを置いていっちゃ、ダメ」

 水中でどうやって発声しているのかわからないが吉村が言った。

「馬鹿、放せ。溺れる」

 俺の言葉の方は言葉にならず、ただの泡となって水中を立ち上った。

 しばらくごぼがばした後に、俺と吉村は水面に浮かび上がった。

「お前は俺を殺しにきたのかあああ」

 息が戻ると、俺は吉村に叫んだ。

「あのね。ボクが中山君の背中に乗って、魚を突くっていうのどう?」

「お断りだ」

 俺は吉村から離れようとした。そのとき鬼口の叫び声が聞こえた。

「サメだ!」

 その言葉と共に海面に三角の背びれが現れた。

「サメえ!?」

「きっとイルカだよ。ボクが保証する」と吉村。

 がっつりした死亡フラグだ。

 俺は全力でクルーザー目掛けて泳ぎ始めた。吉村がそういうなら絶対にイルカなんかじゃない。

 背後でサメが飛びあがり、また潜る。まるで黒いガラス玉のような目。やっぱりサメだ。しかも物凄く大きい。人食いザメだと確信した。クルーザーにたどり着くにはまだまだ遠い。

 近寄って来る三角の背ビレを見ながら、吉村が言った。

「ね、ね、こんな話知っている?」

 おれは返事をしなかった。吉村のおしゃべりを止めようとするだけ無駄だからだ。

「サメが近寄って来たときに、最初の距離からみて、もう半分になってしまったと思うのが悲観主義者、まだ半分あると思うのが楽観主義者だって」

 吉村はけらけらと笑った。

「人間って心の持ちようだね」

「お前はアホだあああああ!」

 くそっ。もう逃げるには間に合わない。俺は突き竿を構えた。

 そのときだ。俺の横に派手に水しぶきが上がり、鬼口が飛び込んできた。鬼口はその太い腕で俺を掴むと、クルーザーの上に投げ上げた。何という怪力。

「次はお前だあ!」

 鬼口はそう叫ぶと、もう一方の腕で吉村の襟首を引っ掴み、サメの方に投げ付けた。

 サメの動きは素早かった。さっと鼻面を水面に表すと、飛んで来た吉村に噛みついたのだ。ずらりと並んだノコギリの歯が露になる。

 吉村の動きも素早かった。空中でいやらしく体をくねらすと、吉村にしかできない動きで、サメの顎の下をかいくぐった。

 がちんと堅い音がして、噛み合わせたサメの歯の間から火花が飛び散る。

「くそっ! しくじったか」

 鬼口が喚くと、海面に浮いていた突き竿をひったくりサメの体に突き刺した。

 しばらくは死闘が続いたように思う。海の中で大騒ぎしながら大ザメと鬼口が戦いあう。突き竿は当の昔に折れ、鬼口はサメの体にしがみついて噛みついていた。

 気が付くとクルーザーの上にサメの死体が転がり、俺と大里と鬼口はそれを囲んで見ていた。

「大物だね」浜口教授が本を読みながら感想を述べた。

「はやく肉にバラして海水で洗うんだ。サメは時間が経つと体内にアンモニアが蓄積して臭くなる。せっかくの獲物が台無しになるよ」

 大里君がどこかから包丁を持ってきてサメの解体を始めた。胃袋を切り裂くと中から胃液やガラクタと共に吉村が出てきた。

 いったいいつの間にサメに食われたんだ? こいつ。


 それからしばらくはサメの肉でしのげた。

 他に使えるものがないかとクルーザーの中を大捜索して、長いロープを見つけた。大里君の提案でロープの先にサメの残りものをつけて海に投げ込んでみた。

 これに引っかかるような大物は困るが、もしかしたらタコ辺りが食いついてくるかもしれない。そう思ったのだ。

 いきなりガツンと手ごたえがあった。

 目の色変えた鬼口がロープをたぐり上げる。何か大きなものが上がって来た。

 大ウミガメだ。口の端にロープが絡んでいる。

「ご馳走だ!」

 鬼口は叫ぶと大ウミガメの体を掴んで引き上げた。その重量でクルーザーがぐらりと揺れる。

 ええい、化け物鬼口め。いったいどれだけ怪力なんだ。

「ウミガメって食えるんだろ?」と大里。

「ふむ。これはアオウミガメだな」浜口教授が解説した。「肉が旨いので過去に乱獲されて絶滅危惧種になっているやつだ。スープにすると絶品という話だな。ルイス・キャロルの不思議の国のアリスの中に偽ウミガメという生き物が出るが、このウミガメに絡んだジョークなんだよ」

「ええと。料理するには甲羅を剥がすんですよね。それとも首を落とすのが先かな」

 もう全員涎を垂らさんばかりだ。みんなサメの肉は飽きている。

 それを聞いて大ウミガメが首をぶんぶんと横に振った。

「お願いです。食べないでください」

「クソ! 吉村。変な声色を出すな」俺は喚いた。

「ボク? ボクは何も言っていないよ」俺の背後で吉村が答えた。

「じゃあ、今の声は?」

「私を解放してください。お礼に竜宮城にお連れします」

 大ウミガメが言った。

「竜宮城に飯はあるのか?」鬼口が訪ねる。

 こら、鬼口、当たり前のようにウミガメと話すな。これは幻覚だ。つまり鬼口は幻覚とお話している変な人だ。

「それはもうあらゆる珍味が山ほど。あなた方が見たこともない大ご馳走。それに金銀財宝などのお土産もざっくざく。絶世の美女たちもてんこ盛りです。おまけにこれらは全部タダ」

 今にもクーポン券を配りそうな勢いでウミガメが竜宮城の解説をした。

「その話、乗った」鬼口は即決した。吉村はすでに大ウミガメの背中に乗っている。

 俺と大里はしばらく相談した末にこの招待に応じることにした。こんな明日をも知れぬ船の上にいるよりずいぶんとマシかもしれないと結論づけたのだ。

 正直、この限界状態でみんな少しおかしくなっていたのは認める。

「教授は?」

 浜口教授はリクライニングチェアから動かなかった。まだ本を読んでいる。本の名は『深海からの呼び声』。

「私は遠慮するよ。海の底というのはどうも性に合わないのでね。では諸君、三百年後にまた会おう」

「え?」

「浦島太郎の話を知らないのかね?」

 思い出した。浦島太郎は有名な昔話だ。助けた亀に竜宮城に連れていかれて、帰って来たときは地上では三百年経っていた。

「ひえええぇぇぇ」変な声が出た。

 俺たちは慌てて大ウミガメの背中から飛び降りた。

 吉村の脱出は間に合わなかった。大ウミガメはウミガメらしからぬ動きで一つジャンプすると吉村ごと海の底に消えた。

「ふむ。ウミガメを釣ったというよりウミガメに釣られたが正しいな」

 浜口教授が感想を漏らした。


 吉村がいなくなってから判明したことが一つある。吉村が食べていたネジはエンジンから抜き取っていたものだったのだ。大里君が必死で頑張り、かなり変な調子だがエンジンが復活した。残念ながら壊れた無線の修理までは手が届かなかったが、そうそう贅沢は言っていられない。俺たちは久々にクルーザーを動かし、海の上を進んだ。

 やがて前方に島が見えてきた。


 あまりにもベタだとは思いながらも俺たちはその言葉を発するのを止めることはできなかった。

「島だ!」ハモった。

 大里が舵に飛びつき、俺と鬼口は船の舳先で島影を見つめた。浜口教授は相も変わらず読書三昧だ。

 島影は徐々に大きくなり、やがて海の上に浮かぶ緑の新天地へと変じた。

「建物は見えるか? 船は見えるか?」俺は叫んだ。

「見えるのは普通の海岸だけだ」鬼口が目を皿のようにして叫んだ。

 鬼口の目はかっと見開かれ血走っている。正直これを真正面から見たら怖いだろうとは思ったが、賢いことに俺はそれを口にしなかった。

「無人島か?」

「いや、島の向こう側だと思うが何かの煙が上がっている」

「太平洋上には無数の島があってな」俺たちの会話に浜口教授が口を挟んだ。「特にこの辺りには文明に触れたことがない部族も多いと聞いたことがある。孤立部族と言うらしい。そういった孤立部族の中には危険な連中もいてな、例えば有名なセンチネル族などは部外者を見つけ次第殺害するので有名なのだ」

「怖い話は止めてください。教授」俺は悲鳴をあげた。

 クルーザーが浜に乗り上げた。

「エンジンがついにくたばった。もう動けんぞ」操縦席から出て来た大里君が宣言した。「どこかで電話を見つけろ」

「電話ボックスらしきものは無い」鬼口が断言した。携帯の電波ももちろん死んでいる。

 俺たちは上陸した。浜口教授もやっと本を閉じると俺たちに同行する。

 ゴミ一つ漂着していない真っ白な砂浜だ。こんな状況で無ければ素敵な海の午後になったのに。俺は残念がった。

「家に帰ったら、俺、娘に会いに行くんだ」

 大里がつぶやいた。

「娘? 大里、お前、結婚していたのか?」

「あれ、変だな。俺どうしてこんなこと言っちゃったんだ?」

「俺はこの仕事終わったら引退して農場を買うんだ」と鬼口。

「まて、鬼口。何か変なことを言っているぞ!」

「はっはっはっ」浜口教授が笑った。「うむ。これはきっと死亡フラグを立てようという無意識の行いだな。そもそもほとんどの人間には軽い予知能力があるとの研究結果がある」

 その言葉を合図とするかのように、森の中から男たちが飛び出してきた。

 ボサボサの頭に何かの飾りをつけて、それぞれが手に装飾された木の盾を持っている。もう一方の手に持っているのは木の槍だ。先端は石器でできている。

 そして一番の特徴は上半身を木の葉を綴って作った服を着ていること、さらには彼らの下半身がことごとくハダカということだ。

「ほう、ペニスケースを使う部族は多いが、それの逆とは珍しい」

 浜口教授は目を細めていった。そして言わなくてもいいことを言った。

「しかし小さいな」

 それを聞いて原住民たちが怒号を上げた。間違いなく言葉は通じていないはずなのに。

「待って待って」

 原住民たちの中から小柄な人影が飛び出した。彼らと同じ格好をしている。

 吉村だ。

「吉村!」俺は叫んだ。「どうしてここに」

「あのね。ボク、竜宮城、逃げ出してきたの。ご馳走するって、あれ、ボクたちをご馳走にするって意味だったの」

「ボクたちじゃない。ボク、単体だろ。それでどうしてお前はそこにいる」

「ボクね。心が通じたの。言葉は通じないけど」

 ううむ。俺は唇をかんだ。変態は変態を知る。なるほど吉村ならありそうな話だ。

「それでね。それでね」吉村は続けた。

「みんなこう言っているの。余所者は皆殺しにするって」

「ば、馬鹿野郎。吉村。何とか言いくるめろ」

「ボク、馬鹿じゃないもん」

 それを合図に彼らは襲い掛かってきた。鬼口が何かおめき声を上げ、周囲の原住民を捕まえては投げ捕まえては投げをし始めた。鬼口偉いと叫びながら、俺と大里は襲い掛かってくる奴らから棍棒を取り上げると振り回した。だが多勢に無勢、徐々に包囲の輪は縮まり始めた。その輪の中心にいる浜口教授だけは何もせずにただニコニコとほほ笑んでいる。うん、この人はどこかネジがぶっとんでいる。

 吉村が一声叫ぶと、鬼口の後頭部に棍棒を振り下ろした。硬い音がして棍棒は折れたが同時に鬼口も倒れた。くそ、吉村め、こいつ完全に原住民に取り込まれている。

 万時休す。

「教授。逃げてください」

 大勢の手に掴まれながら俺は叫んだ。

「逃げろだって? 違うよ。中山君。逃げるのは彼らの方だ」

 浜口教授は海の方を指さした。

 地平線の彼方にいくつもの黒い点が浮かび上がった。それはどんどん大きくなり、爆音を轟かす軍用ヘリへと変じた。どこからともなく涌きだした船の群れが海岸に押し寄せると武装した兵士を一山吐き出した。それを見て原住民は蜘蛛の子を散らすかのように逃げていった。

 兵士たちの中から高官と思える一人がやってくると浜口教授に敬礼をした。

「プロフェッサー・ハマグチ? 大統領命令で捜索に当たっておりましたネイビーであります」

「やあやあ、ご苦労さん」とニコニコ顔の浜口教授。

「ひいふうみいと、これでゼミ生は全部だね。さあ、みんな、迎えがきたようだから帰ろう」


 帰りはさすがに軍の船なので早かった。沖合で待っていた大艦隊に合流すると、全員で日本までエスコートしてくれたのには驚いた。

 帰った後に大里君は両親にひどく怒られたそうだが、それでも保険でクルーザーの損失はカバーできたという話なので一安心。

 俺と鬼口は狂った実地調査の予定を間に合わせるので大わらわ。何かを忘れているという意識はあったが深く考えなかった。


 ある日、テレビを見ていると太平洋で新たに見つかった孤立部族のニュースをやっていた。実に排他的な部族で調査船は近づけなかったとの話だ。その映像の中に、部族に交じって槍を投げている吉村の姿が映っていた。俺はやっと何を忘れていたのかに気づいたが、何も見なかったことにした。


 だから今も奴はあそこに居る。

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