さだめと知って舟を漕ぐ

@kyoubokumeikin

さだめと知って舟を漕ぐ

 場内アナウンスが少女の名前を呼ぶと、演奏ホール内はにわかに騒然としだした。客席の人影は、本来であれば奏者を拍手でむかえるところを、皆そろって席を立ち、舞台袖からあらわれた少女に背中をむけてホールをあとにする。そのなかには審査員の姿さえある。

 少女はすぐれた奏者ではけっしてなかった。コンクールへの出場も、まだ小学生のころに、地方の予選会に一度でたきりである。そのときも別段賞をとるなどの活躍もしなかった。しかし、そのたった一度の演奏で、少女の名前は世間に記憶された。

 いま中学生になった少女は、あのときよりもだいぶ背が伸びていた。真新しい制服に身をつつみ、ほとんど空になった客席に臆するようすも見せず、ヴァイオリンと弓を提げ、舞台の中央にまっすぐに立っている。むしろ顔をひきつらせているのは席に残った審査員たちのほうだった。

 伴奏者はよわい七十とも八十とも見える老婆で、少女のあとからよちよちとでてきた。ひどく腰がまがっている。ピアノの前の椅子につくと、あからさまに肩でふうと息をした。そうして礼をして肩越しにちらと振りむいた少女と目を見交わすこともせず、勝手に弾きだした。曲はザイツの協奏曲第四番第三楽章である。

 ヴァイオリンの演奏がはじまってすぐ、審査員たちは顔面蒼白になった。つづいて頭をかかえて苦悶の声をあげ、しまいには悲鳴をあげてホールから飛びだして行った。

 ついに観客がだれひとりいなくなったのを見て、少女は演奏を中止した。

「――もういいのかい」

 と、伴奏の老婆は、額の脂汗をハンカチで拭きながら少女の背中にたずねた。

「ええ」

 少女は、無人の真っ暗な客席を見つめながらこたえた。

「もういいの。もうわかったわ。――閉ざしてしまえばいい。なにもかも」

 その平坦な口調に、老婆は目を伏せるばかりだった。




 なにしろ郷里から一人で行くのはさみしいだろうし、土地も不案内で困るだろうから、あなたは学寮に入りなさい。いまの時分の転入というのは窮屈な身分だろうけど、寮母さんと花宮の娘さんとが事情を承知してくれているはずだから、ちゃんとよろしく挨拶して、面倒がらずに交流しなさい。不便があったら気後れしても相談しなさい。あなたがこの方々と交際すると私も安心です。あなたは生来人の話を聞かぬうえにお世辞口上も達者でないのだから、誤解されぬようよくよく注意して暮らさないといけませんよ。

 ここまで母の言葉をおもいだして、真帆は

 ――そうだ、花宮さんだ、花宮さん……

 と、前を歩くショートカットの少女の名前を、心のなかでくりかえした。

 ――花宮さん、花宮さん、この人は花宮凛さん……

 じめじめした梅雨がようやくあけて、太陽が夏の顔に変わりはじめる六月下旬。新幹線と船とタクシーとを乗りついで、はるばる行き着いた転校先の私立高校。その門をやっとくぐったところだというのに、真帆は、眉間にしわの寄るほど、かえって気を張っていた。

 花宮凛の母と真帆の母とは、高校時代は仲のいい先輩後輩だったという。真帆の母が卒業と同時に海外の美術大学へ進学したため、離ればなれになってしまったが、手紙などで親交はつづいていたそうだ。二人が出会い、高校生活を共にしたのが、これから真帆の転入する高等学校である。

 学校を案内してくれるという凛と正門ではじめて会ったとき、真帆は、なんてかっこいい女の子だろうとおもった。

 背が高く、笑顔は屈託なく、口ぶりはちっとも嫌味を感じさせない。真帆より一学年上で、音楽科で声楽をやっているという話だが、はつらつと動く長い手足と、ジーンズにシャツという服装を目のあたりにしていると、むしろ専攻はスポーツなのではとおもえてくる。

 正門から校舎へ伸びる、やたら長い石道を半分あたりまで来たときである。その上級生の名前を心でぶつぶつやっていると、ふいに彼女が振りかえった。

「なあに?」

「えっ」

「え、って。いま私を呼んだでしょ?」

 真帆は、どうやら無意識に口にしてしまっていたらしいことに気がついた。

「すみません。私人の名前を覚えるのが苦手で……それでいま花宮さんを覚えようと一生懸命になっていたら、つい声にだしていたみたいです」

 真帆があわてて頭をさげると、凛はあははと笑った。そして真帆のとなりに来ると、並んで歩きだした。

「小倉さんは美術科だよね。絵をやるの? それとも彫刻とか?」

「絵です、一応……」

「そっか。それじゃあいいモチーフがあるよ」

 そういって凛は、左手を日射しにかざした。そうして、石道の両側につらなり、競うように枝を張り、濃い緑を密に繁らせながら地面にまだらな葉影をうつす桜のはるか向こうを指さした。

 真帆は凛の横顔を見あげ、ついそのまま見つづけた。たいそうくっきりした顎である。第一角度がいい。顎の先端から落ちかかる汗の粒や、その汗がたどった頬の痕や、頬にわずかある産毛もよかった。皆日を受けて黄金にきらめいている。

「向こうの森がひろがるなかに、白い建物が見えるでしょ?」

「ええ、はい」

 真帆はまだ顔を見ている。

「あれ、シャロットの塔」

 ――シャロット?

 ここで真帆は、おもむろに凛の目線をたどった。

「アーサー王伝説だよ。ええと、ウィリアム・ウォーターハウス」

「あ、シャロットって、The Lady of Shalott?」

「うん。本当は音楽棟なんだけどね。手前に小川もあるからさ、今度あそびに行こうよ」

 ひょっと本命はそちらではとその言葉に振りあおぐと、凛はちらと舌をだして笑った。

 二人は石道を校舎の前まで行き詰め、そこを左にまがった。寮への道はそっちらしい。校舎は正門と同じ赤レンガ造りだった。休日なのでひとけがない。一度立ちどまって校舎全体をながめたとき、凛は

「立派でしょ」

 といった。

 真帆は立派だとうなずいた。やはりこのときも凛の顔を見ていた。

 学校の敷地はやたら広大で、木と、風と、清潔な空気とに満ちていた。それから、どこへ行き着くとも知れない道がたくさんある。目的地まで見通せるのは正門から伸びている石道くらいじゃないかと真帆はおもった。

「近道しよう。こっちから行くほうが木陰も多いし」

 という凛の後ろについて歩くうち、道はいろいろ変わった。変わるたびにせまくなったりうねったりする。真帆が、学校を出歩くには地図と水筒が要るというと、凛はまた笑った。真帆は、凛を笑わせるのをそろそろ得意になりかけていた。

 やがて道がひらけた。凛が、行く手にあるくすんだ建物群を指し示した。

「おつかれさま。あれが寮だよ」

 真帆と凛が、寮舎の玄関でスリッパにはきかえていると

「おかえりなさい」

 と、奥からお婆さんがぬっと顔をだした。

 凛がただいまとお婆さんに片手を振る。するとお婆さんのほうでは「おかえり」と両手で振り返す。すこぶる懇意と見える。

 二人は何度かかわるがわるやりあったのち

「こちら寮母の蛍さん」

 と、凛が真帆に紹介した。真帆は

「これからなにかとお世話になります……」

 と丁寧にお辞儀した。

 蛍さんもまあまあとしきりに腰を折る。蛍さんは白髪で六十歳くらいの顔つきなのに、背筋は定規をいれたようにぴんと張っている。なんだか一直線な人だと真帆はおもった。

「そういえば、凛ちゃん、松本さんから電話があったよ」

「えっ、先生から? なんだろう」

「なんだろうもなにも、今日はレッスンがあるんでしょう。うちの花宮の行方を知りませんかって、電話口でえらい剣幕だったよ」

 たちまち凛の表情がかたまった。しかしつぎの瞬間にはその場を飛びだし、ついさっき脱いだばかりの靴に足を突っ込んでいた。

「ごめんね小倉さん。学校案内はまた後日にさせてっ」

 そういい置いて玄関から駆け去っていった。

 あとには真帆と蛍さんとが残った。急に静かである。

 真帆は困った。さっきの挨拶は前々から用意していたものなので易かったが、こうなるとどう展開していいものだかわからない。

「まったく、にぎやかな子だね」

 そういって蛍さんが、ニヤリと真帆に笑いかけた。真帆はその顔をじっと見かえした。

「お茶でも飲みましょう」

 といって、蛍さんは、一階の角部屋に真帆を招じいれた。部屋の真ん中に黒いテーブルがあり、その三方を囲うように花柄のソファーがある。蛍さんは、その一つに真帆を座らせてからキッチンのなかに姿を消した。

 真帆は

「どうぞお構いなく」

 とキッチンのほうに声をかけたが、それをいい終わるか終わらないかのうちに、丸い木皿を持った蛍さんがでてきた。木皿には茶菓子の小袋がいろいろある。お茶はそのすこしあとにでてきた。

 蛍さんは、真帆の、テーブルを挟んで向かいのソファーに腰かけた。

 どうぞといわれたので「いただきます」と真帆はお茶を口にした。ずいぶん香りの高い紅茶でおいしい。

「お菓子も」

 とすすめられるままに、茶菓子のクッキーも食べた。これもおいしかった。真帆が食べているあいだじゅう、蛍さんはずっと朗らかな表情をうかべていた。蛍さんは、お茶を二口ばかり飲んだとき

「難儀な道中だったでしょう」

 と聞いた。

「ええ」

 と真帆はこたえ、お茶を一口飲んだ。蛍さんもまた飲んだ。

 真帆は窓の外を見た。空の高いところを鳥が飛んでいる。

 真帆はまた飲もうとしたが、カップの中身がすっかりなくなっていた。真帆がカップを置き

「なにしろ遠路でした」

 というと、蛍さんは身を乗りだし

「そうでしょう。よく来てくれました」

 とにっこり笑った。

「ここでのびのび創作に励んでください」

 真帆は、カップの底に落ちかかった視線を、意識して窓から外の遠いところに投げた。

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