ミネラルウォーターナイフ
あっぷるピエロ
第1話
1
進学校でも専門校でもない普通科のこの高校は、適度に息抜きの出来るゆるい校風をしている。
制服はブレザー。けど、暦はすでに六月に入って衣替えは終わり、生徒の上半身はみんな白いカッターシャツに変わっていた。
おれもブレザーを脱いでネクタイをはずし、みんなと同じように、真面目そうにも不真面目にも見えない程度に、シャツのボタンを開けたり、ベルトを二つ穴が並んだダブルピンベルトで締めたりと服装を変えた。一部アホなやつがシャツ全開に柄シャツでばっちり決め賑やかなことになっているが、あれは極致だ。その筆頭を行くクラスメイトは隠そうともせずアクセを見せびらかし「篠宮、おまえはもうちょっとなんかしねぇの?」と染めた髪をかき上げてみせた。趣味じゃねえよと丁重にお断りする。
断っておくとここまで派手なやつはこいつだけで、たいていは単に夏服へチェンジしたやつばかりだ。ゆるいといっても真面目な生徒の方が比率は多い。
真面目なやつと聞いておれが真っ先に思い浮かべるのはつかさの姿だ。男子はざっくばらんに豪快かつ適当に夏らしくし、女子だってスカートの丈を短くしたりリボンを取ったりと衣替えを工夫しているのに、つかさは一切そういったゆるみがない。シャツのボタンは常に上まで留めているし、そのシャツの裾はしっかりぴしっとスラックスの中にインされており、ベルトだってプレーンなやつから変えたことがない。そこまでしているのに暑苦しくなく、逆に涼しげに見えるのは、つかさ自身が整ったクールな表情を崩さないせいだろうか。きっちり。その文字がよく合う姿だが、別の意味で目立つので真面目とはやや方向性が違うのかもしれない。
衣替えの通達があった週、実のところおれはつかさがどのような衣替えをするのかが一番気になっていた。半袖に替えるのは当然として――いや、もしかしたら長袖で過ごすのかも知れない。さすがに上着を着ることはないだろうが、ベストやパーカーでも羽織るのだろうか。ネクタイはつけるのか? とるのか? そして――スカートなのか、スラックスなのか。
可能性としてはもちろんスラックスで半袖ネクタイあたりが一番オッズが高い。が、可能性としてスカートというのもあり得なくはない。あえてジャージで来るなんてことは……さすがにないだろう。ベストを着ている可能性もけっこうある。
どれも似合うというか、はまって見えるから困る。
そんな馬鹿なことをもだもだ考えながら暑い日差しのなか学校へ行き、教室へ入って、つかさの所在を確認した。
つかさは始業十分前に来るおれと違って、四十分以上前から学校に来ている。学校に焦って来るのが嫌だかららしい。この日も代わり映えなく学校に到着したようで、暑さにもの申したげな憂い顔で窓側最後尾の席に頬杖をついていた。
まず、細いという印象がくる細身の体型。おれよりやや長いがうなじの見えるベリーショートに、目鼻立ちの整った端正な容姿。気配がそうさせているのかきつい印象を持たれることが多いが、はっきりと強い印象が残るわけではなく、どこか背景にとけ込むような輪郭の淡い顔立ちをしている。見て、あとからああそうだ美人だなと気づくようなタイプ。世の中には意外とそういう人間は多い。
観察し終えて予想の採点。つかさは拍子抜けするほどあっさりと服装を変えていた。
白い半袖のカッターシャツ。中にTシャツでも着ているのかやけに白く、それだけ。ネクタイがないのだけ予想外れ。プレーンなベルトにスラックスをはいた足もいつも通り机の下で軽く交差させている。
浦川つかさ。
出席番号十八番。総勢三十人規模のクラスで、男子は十五番まで。十六番からは女子の列。
ベリーショートにスラックス姿だが、つまり浦川つかさは、男子制服で男装した、れっきとした女子生徒だ。
「……」
予想通りの彼女の姿を頭からつま先まで三度眺めて、平然とした様子を取り繕ってつかさの前の席につく。
「おはよう、浦川」
「ん。おはよ」
教室窓側最後尾、その前後に並ぶ席で短い挨拶を交わして机にカバンを置いた。
「なあ、数学の宿題やってきたか? 答え合わせさせてくれ」
「僕のノートは高いよ」
「チュッパチャップスをやろう。何味がいい?」
オレンジとグレープとピーチ味。カバンから引き抜き指に挟んで並べて見せたそれを七秒見つめて、つかさはオレンジを取った。
残った二つからグレープを選んで紙をはがし、そのまま口に放り込む。甘いぶどうの匂いが香った。
「フルーツ味はハズレがないだろ?」
「最高に美味しいラムネ味を否定する気?」
「ラムネは瓶で飲んでこそだ。ガラス瓶がいい」
「飲んだことあるのかい? それすら怪しいね」
同じようにチュッパチャップスの紙を剥がしてオレンジを口にくわえたつかさは、それは様になる動作で数学のノートを差し出してきた。礼をいって自分のノートと同時進行でめくる。背中で足を組み直す音が聞こえた。声はそのままだが口調までそっくり男ものにしているから、元の口調に戻ったつかさを想像するのは難しかった。同じように、本来の格好をしている姿も想像しがたい。
実のところ一年の時も同じことを考えて同じ結果だったので、二年目にして変わるわけはないと思っていた。けれど何かふとしたきっかけで彼女が女生徒の姿に戻りはしないかと期待していたのだ。
まあ、予想通りだったけど。
少し――残念だった。
つかさを見ればたいていの人がクールな麗人だと思ってくれるが、あいつは実際にはかなりの激情家だ。
顕著な例が、入学してしばらく続いた好奇心の目相手の威嚇だろう。入学当初はクラスメイトに、その週には学年に、さらに次の週には先輩につかさのことは知れ渡っていた。
当たり前か。何せ男装の麗人である。とけ込んだように見えても少し違和感を覚えればわかる程度には浮いている。
その頃にはすでにつかさが男口調で話していることも知られていて、それが例えばそういう趣向の女子が演劇よろしく振る舞っているのであれば彼女は人気者になっていただろう。女子が振る舞う男子の図は理想を詰め込んで綺麗でスマートだ。
しかしクラスメイトの期待をよくも悪くも裏切って、彼女は一切外部との交流を蹴って孤高の座に君臨していた。表情が凍てつくように凍ったままなのも挨拶や雑談にも応じない姿はクールと言えば聞こえがいいけれど、取り付く島がない態度と雰囲気はクラスメイトから声をかけあぐねさせるには十分だった。すなわち好奇心を丸出しにして声をかけてきたのは隣クラスの男子や先輩方である。
「何で男子の制服着てンの?」「男なの? 女の子好きなの?」
ちょっと楽しい反応でもあればいいなという程度のからかいだったのだろう、入学してまもなく先輩男子に廊下で声をかけられたつかさは、道を塞がれた苛立ちで冷えた眼差しを食らわせ「邪魔」と吐き捨てた。それでもじゃれあいと笑ってどかない障害物を排除するため、次いで傍でロッカーを開ける女子に「殺虫剤ない?」と声をかける。有名人に声をかけられた女子は緊張した様子で「さ、殺虫剤……?」と狼狽える。
「羽虫に煩いなんて言っても無駄だからね、かけたほうが早いでしょ」
そう言ってつかさは彼女のロッカーにあった制汗スプレーを鷲掴み、それを即座に先輩方に噴射した。鋭角で。
咽返る彼らと充満するスプレーといい香りと咳と何やらで地獄だったらしい、とは目撃者の情報。何するんだと当然のように怒る先輩方にスプレーをカシャカシャと振りながらつかさは身を丸める彼らを見下ろし「ライターがあればよかったな」と素っ気なく間違った使用法を嘯いた。
「何、僕がこんな格好してる理由聞かないと死ぬの? 死ぬ病気なの? それはおめでたいことだね、喜んで死刑宣告してやるよさっさと死ね」
諦めの悪そうな彼らに容赦なくペンケースからシャープペンを引き抜いて「身につけられる武器は便利だね」と指先でペンを回す。学生が当たり前に持っているはずの文具に身の危険を感じたのか、先輩方は今にも喉に噛みつかんばかりのつかさの凶悪な眼光からそそくさと退散した。
あとから聞いた話、絡まれたのは一度や二度だけではなかったらしい。
それをすべてつかさは『刺されたら刺し返す』と心に決めた顔で応対し、すべてを撃退した。
一番まろやかな対応がこんな感じである。
「なぁ、なんで男子の制服着てんの?」
「君に関係あんの?」
絶対零度の一瞥をくらって撃沈すればまだいい、そこで「いや……」なんて躊躇い撤退際を誤ると吐き捨てるように一言。
「じゃあ話しかけるな」
一刀両断され、落ち込んだ様子で「ごめん……」と引き下がっているクラスメイトを見たときにはちょっと同情したが、デリカシーの足りない男子の尋ね方を思えば当然の反応だ。みんなと仲良くなりたい系女子も負けじと何度か話しかけていたが、結果はほとんど変わらなかった。
その辛辣な発言が轟くようになってから、瞬く間につかさは「男装した変わった女子生徒」から「敵に回すと恐ろしい相手」だと噂になり、つかさにその手の話題を振ることは禁句になり、「取り扱い危険人物」として学校中に認識された。
初日をして打ち解けてしまったおれはしばらくの間その認識を知らなかったが、刺々しい威嚇には気づいていたし、それに触れなければ安全だとも理解していた。どこからともなくナイフを取りだしても似合いそう、といわれているのを聞いたのは入学ひと月後だ。
ナイフ。うむ、これほどまでにつかさに似合う小道具もなさそうだ。
容姿、言動、視線、言葉すべてが刃物のようなものだ。人に紹介するときに「ナイフのような人」と形容しても構わないだろう。格好いいし似合うなと本人に告げたら、「君は僕を銃刀法違反で逮捕させたいのか?」と苦笑された。まんざらでもないらしい。
そうなると代わりに、唯一平然と自然に会話をしているおれの方にも注目が集まった。
「いったいおまえどうやって仲良くなったんだよ?」
おれに聞かれても困る。
「好きそうな話題とかわからないの?」
クラスの女子にも尋ねられたが、そんなことはおれも知りたい。何について喋っているかなんて自分だってわかりやしない。
「どうにか仲良くしてやってくれなー」
担任にまで言われた。そこまで危険人物じゃないだろう。何でおれに頼むんだ。
つかさは騒がれた分初期の段階でふつうとはちょっと違う平穏を手に入れていたし、自分も逆に堂々と話しかけていても違和感がなくなったことは歓迎できたが、ここまで期待されるとおれが何もしてないのにすごい人間みたいになるからやめてくれ。
初夏。
といわれるわりに、この日は朝から弱い雨がしとしとと降っていた。
二時間目と三時間目の間の十分休みに、おれは後ろの席にいるつかさに振り向いて、文庫カバーのかかったうすい文庫本を読んでいることに気づいて声をかけるのをやめた。
「雨の日の一番の関心事ってなんだと思う?」
なのに、先に声をかけてきたのはページをめくるつかさだった。独り言かもと思ったが一瞬目を上げたつかさが間違いなくこちらを見ていたので考える。
「……やっぱ、服が濡れることかな」
雨の日のイメージ。しっとり。びしゃびしゃ。曇り空で気分が下がる。濡れるからと嫌がる人も多いし、マイナスのイメージは強い。雨自体は嫌いじゃないがおれも足下が濡れるのは嫌いだ。
「僕は傘だと思うんだ」
「傘?」
「そう。高校生になると黒や紺、やっすいビニール傘のやつばっかだけど、実際にはもっといろんな色があっていいはずなんだ。もっとカラフルに。みんな違う色を持っててさ。その方が華やかで綺麗だし、見た目もいい。雨の日にぞろぞろ行く通行人がみんな黒かビニールなんてまるで葬式だ。赤、緑、ピンク、水色バラ色すみれ色。個性がある方がずっといい。その方が楽しいだろ?」
「……なるほど」話はわかるので頷く。「ちなみに今の傘は?」
「紺色だ。残念なことに」
目線で君は? と問うてくる。
「おれは深緑」
「……明度が足らないね」
本を閉じてつかさは頬杖をついた。
「今の傘は中学時代から使っていてね。色はともかく大きくて丈夫だから気に入ってるんだけど、新しい傘も欲しいね」
「何色?」
「うーん……ライムか、オレンジ……すみれ色でもいいかな」
でもライムオレンジは小学生っぽいな、とぼやく。中間色ばっかだな。
「原色は嫌いだ、目に痛いから。見る分にはかまわないけど、自分で持ち歩きたいと思わない」
「水色は?」
「ありきたりで嫌。知ってる? 小、中にかけて女子って女の子らしい物にうんざりして六割が青系統を好きだと言うんだよ」
「そう……なのか? ピンクとかは?」
「女の子らしさの象徴。嫌いだね。色が、じゃなくて、そういうイメージが嫌いだ」
ふむ。確かに幼少期に買い与えられていた服は青や緑、黄色ばっかの「らしい」服だった気がする。特に好きでも嫌いでもないが。
そういえば前にも色について話したことがあったな。赤と青ならたいていが赤を女、青を男と判断するけど、戦隊もののリーダーはいつだって赤だよね、赤を女の子らしさっていうならそんなのに憧れる男なんてみんな男らしさ皆無だよね(失笑)……みたいなことをとつとつと目の前の人物が語ってくれたことがある。ようするにつかさはシンボルとしてのモチーフは好ましいと思っているけど、イメージで人の人格を決められるのに我慢ならないらしい。
まあ、今のつかさの姿は人一倍勝手なイメージを向けられがちだから、余計にそう思うんだろう。
「雨の日は悪くないけど、カバンを持って制服着てるときにはちょっと厄介だな」
ざーざーというほどでもない、さあさあと静かな音がする窓を見てつかさは呟いた。つられておれも外を眺める。目をこらすと白い線が細かく風景を千切りにしているのが見える。土砂降りの日には視界が白く曇って見えるから、雨というのは白いのかも知れないとたわけたことを思う。まあ、ただ単に空気を含んだ部分が白く見えるだけなんだろうけど。それとも摩擦だろうか。
梅雨時期の雨はむしむしするのであまり好きではないが、夏の夕立は好きだ。七月に入ったし、そろそろ入道雲が発達してくることだろう。
「そういやさ、浦川」
つかさが顔を戻す。
「うち、湿気ひどくて湿度計とかあっていつも快適にしようってされてるけど、実際湿度って何なんだ? 湿度一〇〇パーってありえるの?」
つかさは片眉を上げて考え込んだ。
「雨の日でも湿度計ってせいぜい七〇パーとかだよね」
「空気中の水分が飽和して雨になるんだろ? そのときって空気中は一〇〇パーセント水ってことにならないの?」
「一〇〇パーセント水になったらそれはもう空気中じゃなくて水中だよ。湿度って水の中でも計れるの? 水の中は常に一〇〇パーでいいの?」
「水とは別物か。じゃあ、結露したら一〇〇パーにならないのか?」
「その結露で教室が水に沈めば一〇〇パーなんじゃない?」
つかさが窓に指を伸ばして曇りガラスに線を描いた。一本の平坦な線。
「でも結露すんのって雨と一緒で飽和してるんだろ? 飽和してるってことは限界突破して一〇〇パー越えてるんじゃ?」
「じゃあ雨の日の湿度何パーの残りって何? 乾燥してるの?」
「雨の日に?」
「もし一〇〇パーいったら紙とかひどいことになるんじゃない? しわくちゃのべったべた」
「やっぱ水没するの?」
「……?」「……?」
そろって首を傾げて、詳しく正しいことを調べようともせず棚上げにする。正解が知りたいわけではない、思考実験のようなものだ。話すことを楽しんでいるだけ。
「浦川くん」
話題が一区切りついたところで女子生徒がパタパタと走ってきた。二言三言、つかさに「担任に呼ばれている」ようなことを伝えて立ち去っていく。立ち上がったつかさに「行ってらっしゃい」と声をかけると、手をひらりと振り返して教室を出ていった。
男子は鮮烈なつかさの言動に戦いているようだが、女子は逆に「浦川くん」と呼んで慕っている人が多い。理由を聞くと八割方「(全体的に)格好いいから」と返してくれる。つかさの人気に少しだけ嫉妬しそうだ。
「あいかわらずだなー」
いいながら寄ってきたのはクラスメイトの古坂太陽だ。髪を茶色に染めてピアスをつけ、カッターシャツを全開にした彼は、おしゃれに関心のないおれと違ってずいぶんオープンに青春を楽しんでいる。テンションが高いのが付き合うときに一番気にかかるところだが、その明るさはときどき恋しくなる程度におれの救いだ。つかさを気が合う親友と呼ぶなら、古坂はノリの合う親友だろうか。
古坂はつかさの姿がないのを確認してから、こそっと聞いてきた。
「篠宮、おまえ浦川が何であのカッコしてんのか聞いた?」
「いいや?」
聞く気もない。
ふぅんとつまらなさそうに頷いて、古坂は窓枠に腰掛けガラスにもたれかかった。
「おまえらって何で仲いいんだ?」
「趣味が合うから?」
「何で疑問系?」
古坂はため息をついて肩をすくめた。目が好奇心に輝く。言われることが予測できて、先にお節介だなと思い浮かんだ。自分の関心が向くときに人は自分の労力を顧みない。
「好きなのか?」
つかさが嫌いそうな質問だ。あいつは他人に思考を決めつけられることを何より嫌う。「好き」という言葉ほど、自分一人で考え悩まなければいけないものに対してなら尚更。
おれを介してつかさと古坂はそこそこに面識があるが、ふたりで話しているところはあまり見ない。他の生徒と違って一線を置いているわけではなく、互いにどう扱った方がいいものか距離を測っているところなのだろう。人付き合いの薄いつかさに対して、特に積極的に友人を紹介する必要性を感じていないおれが何もしないせいかもしれないが。
「好きか嫌いかでいえば好きだけど、もうちょい特別かな」
「特別? それは好きってことじゃないのか?」
ただおれがいう好きという単語だけを求めているような反応に、どう返したらいいものかちょっと悩む。
「おれがじゃなくてさ、あいつが、人から男として見られたいのか女として見られたいのかわからないんだよ」
きっと、悩んでいるのは、言葉にしてしまえばこの程度だ。
つかさを初めて見たのはもちろん高校の入学式の時だった。
この学校では男女別の出席番号で分けられていて、前半が男子、後半が女子で指定されている新入生用の座席につかさは女子の列端から三番目に腰掛けていた。男子の制服姿で。学校指定の紺色のブレザーにチェック柄のスラックス、白いカッターシャツにネクタイ。はためから見ても肩は小さいし、小柄で全体的に細く、女であることは容易にわかる。だけどそれをなお上回るレベルで男かもと思ってしまう、怜悧で鋭い容姿をしていた。
先に来た人から自分の席に座って待機ということで、後から来た女子が誰しも一瞬ぎょっとした目をつかさに向けてどうしようとあたりを見渡しのち、おそるおそる席に着いていた。近くの人が話しかけようにも完全に無視する姿勢を貫いているので、話しかけようとする勇気もへし折れる状態だったらしい。
式が始まる前にも終わった後にも、周りから浴びせられる注目を鉄壁の精神でクールに無視しきったつかさは、愛想を振りまく気もないようで、終始無表情で前の席のスチール椅子をじっと見つめたままだった。
入学式後、各クラスへ入れられた生徒たちはその休み時間内に少しでもグループを作ろうと教室内に散らばり、気の合いそうな人を見つけて話しかけていた。
そんな空気をまるっと無視して出席番号順に並んだ机に座り、本を読んでいる男装生徒を気にしている目もちらほらとあるが、さすがに初っぱなで声をかける勇気のある者はなく、つかさは遠巻きに見られているだけだった。おれはといえば席が近かった男子メンバーで個人情報のやりとりをしているところで、そこまでつかさに注意を払ってはいなかった。気になるが、当事者になろうとは思わないのがおれのスタンスだ。
正直に言って、親しくなれるなんて欠片も思っていなかった。
集まっていた男子グループが連れ立ってトイレに行ったりロッカーを見に行ったりするのについていかず、机の上に分厚く重ねられた教科書を手にとってぱらぱらとめくる。初日にして教科書ではなく本を読んでいる男装少女の胆力に尊敬しつつ何食わぬ顔で様子を窺って。
何気なくタイトルに目を滑らせて知っている本だと嬉しくなり、見たことない表紙だと目を疑った。
「え!?」
大声につかさがびっくりして顔を上げたところに急き込んで身を乗り出し、本を指さす。
「それ、もう新刊出てたの? いつ発売?」
「え、これ? 二ヶ月前に出てたけど……」
「嘘ッ? いつもチェックしてたのに……何で気づかなかったんだろー……。うわー、ショックだぁー」
ため息をついて額を抑え、肩を落としてがっくりする。好きな本で新刊を追っていただけに、発売に気づかなかったという現実はとてつもないショックだ。思った以上にダメージがでかい。やばい。家だったら叫んでいるところだ。
よし、今日の帰り本屋に寄ろうと固く心に誓うと、相手がくすっと笑ったような気がした。目を向けると、ページに指を挟んで閉じた本を見せ、驚いたことに微笑んで尋ねてきた。
「これ好きなの?」
ごく一般的なレーベルから出ている文庫本。鮮やかでもなく華やかでもない、透明な印象のイラストとリボンを巻いたようなタイトル表記が特徴的な本で、シンプルな内容のわりに難しいたとえ話が混ざっていて考えさせられる、お気に入りの本だった。
「うん。一巻発売の時から一目惚れして。表紙も中身も綺麗だし」
「わかるよ。他の本ではない、色や物の描写がいい」
「素敵だよな、その表現の仕方がさ。空とか、ラムネの瓶とか、ようかんとか。わざわざ描写するんだなーって気がしてたけど、その空気がいい。間っていうのかな」
特に異論はないようで、相手はまったくその通りだというように頷いた。
「確かに、表現が独特だよね。あとは主人公の性格がいい」
「そうか? でもなんか違和感あるな、主人公は。おれ、一番好きなのは親友なんだけど」
「ああ、彼ね。確かに、一番好感度が高いのは親友かな」
ストーリーはこうだ。高校生の主人公たちの元にやってくる、ちょっと不思議で意味のわからない依頼。主人公は誰かが幸せになるなら、と頑張ってその依頼について調べ、解決しようとする。それを妨害する人たちのことさえ、幸せになればいいと願って奮闘する。十分ファンタジーだけど、少年漫画みたいな展開はない。雰囲気や主人公とヒロインの性格が独特なせいか、身近で知っている人はほとんどいなかった。
でも、とつかさは繋げ。
「ヒロインと主人公の間柄はいいね。最後まで彼らは好きだっていう明確な言葉を交わさなかったけど、お互いが一番大事だって認識してる。どうでもいい会話が楽しめてる」
こんな風に、大切な人とどうでもいい会話が出来るといい。
今思えばわかる、つかさなりの十分に愛のこもった褒め言葉だった。
自分の机の上にあるクラス名簿を取って机の数を数え、番号と名前を照らし合わせる。これは……つかさ、かな?
「浦川さん?」
目の前の少女か少年か判断しづらい美人に確認を求めて尋ねると、片眉を上げて沈黙した後、背もたれに寄りかかって腕を組んだ。栞も挟まず閉じられた本のページが気になった。
「浦川さんと呼ばれるのは嫌いだ」
「浦川くん?」
「浦川でいい」
「了解。おれは篠宮つみき」
「つみき? かわいい名前だね」
「よく言われる」
「訂正しよう。珍しい名前だね」
「何で今訂正した?」
「大多数と同じ感想を持ったなんて不愉快だ」
その、あまり聞かない言い訳を聞いて。
そのときおれは、この子、おもしろいな、と思った。
こうしてファーストコンタクトに(予期せず)成功したおれは、何の打算もなくつかさと話せるようになり、またつかさも話しかけてくるようになったのだ。
「お、戻ってきた」
廊下をつかさが歩いてくるのを見て、逃げるように古坂はじゃ、と言い残し離れていった。仕方ないのでその場で彼女が戻ってくるのを待つ。
「ただいま」
「おかえり。用事なんだったの?」
「学内行事の組み分け。先生に念のために女子でいいんだよなって確認された」
「何だそりゃ。別に男になりたい訳じゃないんだろ、浦川は」
「当たり前だ。体育だって女子組でやってるだろ」
確かに。男装しているとはいえジャージは女物だし、男女別の時にはきちんと女組だ。先生も取る必要性はないとわかっていながら聞かざるを得ないのは、立ち振る舞いが男っぽい仕草に準拠しているためだろうか。
「先生も大変だな」
「大変なのは僕だよ」
だったらやめればいいじゃないか、とは言わない。
「それもそうだな」
頷いておく。
おれは今も、つかさが何故男装しているのか知らない。聞きたがってるやつがいることも知っているが、そんなに簡単に聞いてしまったら何か終わってしまうんじゃないかという気がするのだ。特別興味があるわけでもないし、知らなくても問題ない。だから関心のない態度でスルーする。いつかつかさが自分から話してくれないかと期待して。
外はまだ雨が降っている。学内行事の日は晴れるだろうか。
2
あるときは学校からの帰り道、こんな話をした。
「車をさぁ……」
横断歩道を渡りながら、ふと目に止めた光景から思いついて口を開くと、隣を歩くつかさが顔を上げた。
彼女はさすがに靴を底上げする気はないらしく、普通のローファーを履いている。そのため身長にごまかしがなく、目線は低い。差二十センチといったところか。
頭一つ分ほど下にあるつかさの顔を見ながら続ける。
「座席一つ分のバイクみたいな小さい車にして、みんなで移動するときだけ合体できたら便利じゃないかな、駐車スペースも小さく済むし」
四角い箱みたいな乗り物がポコポコと合体するところを想像しながら言うと、聞き終えたつかさがスポーツ飲料だと思って飲んだらカルピス原液だったような顔をしてから笑い出した。
「何でそんなこと思いついたの?」
「いや、ほらあの工場とかさ」
道の向こう側に見える白い建物。何の工場かはわからないが、校舎ぐらいの建物に対して駐車場はその三倍くらいありそう。あれを見て、
「建物より駐車スペースの方が広いってもったいなくね? あそこにとめても、外には誰もいないんだ。合体しちゃえばその土地は半分ですむのに」
工場を眺めやったつかさは、なるほど、呟いてから指を立てた。
「でもさ、その場合各車にエンジンとハンドルが必要なんじゃないかな。ブレーキとかも。合体したら邪魔だし、配線とかシステムどうするわけ?」
予想外の切り返しだった。
「え。……えーとその場合は……折りたためるんだよ! 運転席以外収納可能!」
「燃料は? 各ボックスに入れるのと合体したときってタンク容量の差とか出るんじゃない?」
「合体します! 全部チューブに繋ぐとかさ、あの、飛行機の燃料タンクみたいに」
飛行機の燃料は翼に入っていて、スイッチ一つで全部繋げたり区分けたり出来るシステムがあったと思いうろ覚えの知識でいったのだが、さすがというか、つかさに意味は伝わったようだった。頷いて意味ありげに笑うと、新しい疑問に切り替えてくる。
タイヤや装甲、窓についてなどにも矢継ぎ早に質問が飛び、かなり苦しい言い逃れや思いつきで答え続けるにも限界が来て、おれが悲鳴を上げて白旗を掲げると、つかさはまた笑って話題を閉じた。思考実験の終わり。
自慢話や話の広がらない話題は相手が誰であっても鼻で笑って無視するが、どうでもいいことには真剣に答えてくれるやつなのである。おれが投げたどうでもいい話題は割とお気に召すらしく、楽しそうに話に乗ってくれるのはありがたい。
おれが大げさに肩を落としたところで、つかさが前方に目を止めて「あ」ともらした。
「コンビニ寄っていい?」
「どうぞ」
話題が唐突に終わるのもいつものことだ。世の中の会話は、半分以上雑談でできている。
コンビニのブランドデザートを眺めるのが、コンビニへ寄ったときのつかさの癖だった。買わないときの方が多いが、「食べたい」より「見た目が気になる」ことの方が多くて惹かれるらしい。この日も夏シーズンだからこその涼しげなラインナップを並べる冷房のかかった棚の前で腕を組み、親の敵を見るような目で真剣にデザートを観察していた。おれはといえば、隣でアイスでも買おうかなと考えていただけだ。
「お菓子を作りたい」
「うん」
「作りたい」
作れと強要しているようにも聞こえたが気のせいだろう。
「作れるのか?」
「そりゃ作ろうと思えば作れるけど、面倒だ。なんていうか、作ろうと思うこと自体が面倒だよね」
「おい」
「でもお菓子は作りたい。っていうか食べたい」
組んだ腕を半分ほどいて、細い指先で唇に触れる。買おうかどうしようか迷っているらしい。視線は水まんじゅうやゼリーが並ぶ棚の、マンゴージュレに固定されている。
「食べたいっていうか作りたいって思って器を用意したらその場に作りたてが出てきたらいい」
「出てきたらそれをどうするんだ?」
「そりゃもちろん、こう持って、君に『僕の手作りだよ』っていって食べさせるけど」
「……手作り要素が一つもないぞ」
「僕が食べたいと考えて作りたいなと思った結果出来たんだから僕の手作りさ」
「……おれ、おまえのそういうところ好きだな」
「ありがとう」
涼しげにつかさは笑う。こういった些細なやりとりも気兼ねなく出来るようになったのは最近だ。どこまで相手が許容するかの線引きを見極めるのは難しい。
「今の発想が面白かったから、特別に百円のものなら奢ってやろうかな」
「おや、太っ腹だねお兄さん。じゃあこのジュレ」
「二十円オーバーしてますけど」
「二十円ぐらい自分で出すよ」
二十円を渋るというのも何ともいえない格好悪さを感じたのでそれを断り、自分用のアイスと一緒にレジへ持っていく。
おれは棒付きアイスを、つかさはカップに入ったジュレを食べながら駅まで歩く。熱気のせいですぐに溶けてくるアイスを必死になだめて片付けていると、つかさが落下防止にカップのふたをくれた。またどうでもいい会話をしながら同じ帰り道を行く。
だいたいいつも、こんな感じだ。
3
浦川つかさとおれがどんな関係かというのは説明すると少し難しい。
ふつうに互いの家へ遊びに行くこともあるし、買い物に付き合うこともある。
単純な男女関係であればもう少し甘酸っぱかったりぎくしゃくしたりしたのだろうが、何せ男装少女である。心まで男というわけじゃないが、ふつうの女性として扱われることに若干の抵抗があるらしい。彼女の特性は既に知れ渡っていて、おれも周りもわざわざ逆鱗に触れようとは思わない。
それとつかさは、自分以外のすべてを敵だと思っている節がある。人との対応は礼儀正しく敬語が反射的に出る教育の良さを窺わせるが、それは徹底した他者の排除、パーソナルスペースの侵略を断固拒否するという意思表示の一種だ。特に話の通じない相手、学校のような閉鎖的な空間、意見を押しつけてくる教師の順に嫌悪と怒りをあらわにする。
過去に何があったのか、推し量るなんてこと十七年しか生きていないおれができるはずもない。
そういうときの解決法は、受け入れてしまうか受け流してしまうことだ。悪く言えば何も考えないことだと思っている。格好とか、性格とか、性別とか、何があったのかとかをまるごと「どうでもいい」箱に入れてしまい、何も考えずに接する。友だち相手ならふつうにやっていること。
その付き合い方がまた丁度良かったのか、つかさはこれまで何の拒否反応も見せずに付き合ってくれている。
梅雨明け宣言がされた週末、つかさの家に遊びに行く約束があった。待ち合わせ時間の午前十一時、十分前の礼儀を把握しておきながら丁度にたどり着くよう計算してしまうおれが待ち合わせ場所に到着すると、つかさはすでにこちらを見つけて待っていた。手を振って駆けよる。
「おはよう、待たせたか?」
「いや。いつも通りだ」
おはよう、と人が来たら反応して開く自動ドアみたいに正しく挨拶が返ってくる。ここまでの会話も、いつも通り。
そのときつかさの私服はどうなっているかといえば、特に何の驚きも与えてくれないストライプのワイシャツにしゃれたネクタイ、飴色の固いベスト。色以外学校で見るのと変わらない姿だった。
まあよく似合っているんだけど。
最寄り駅まで迎えに来てもらって歩く道すがら、前々から気になっていることがあり、ふと尋ねてみた。
「家でも男のカッコしてんのか?」
つかさはおれをちらりと一瞥し、
「まあね」
と短く答えた。
今までのつかさの様子を見るに趣味でしているようではなさそう、ただしこだわりはちゃんとする、という感じだったのだが、家でもしているというのは一体どうなんだろう。気を抜くことが出来なかったりするのだろうか。
「もう女のカッコはしないの?」
「さあ。一応女子の制服も持ってるけど」
待ってみたけど、「けど」の続きはなかった。もう着ないと決めているわけでもなさそうだ。
「男物とかどうやって選んでるんだ?」
「兄のお下がりだよ。サイズは自分で合わせてるけど、最近は自分でぽく見えるのを選んでる」
「兄さんがいるのか。何人?」
「二人。三人兄弟でね。君は?」
「妹が一人。中学生」
青春してるよとぼやくと老人みたいだねとすかさず返ってきた。
余計なお世話だと言い返しても老後は盆栽育てながら猫を飼うのが理想の君にはぴったりだろう、けなしるわけじゃないよと半秒で反撃が来る。
何で知ってるんだ。
つかさの部屋はシンプルだ。
四角い部屋にベッドと棚とテーブルと。クッションや本が積み重なっている以外は何の注目も集めない部屋。小物で統一したり壁にポスターを貼ったりというのが一切ない。だがまあ、部屋に転がるアイテムは女の子っぽい。マスコット時計とかリボンのついたカバンボックス、キーホルダーなんかはやっぱりあるなしじゃ違う。初めて訪れたときには緊張したが、今では慣れたものだ。引き出しを覗くとか、常識に反したことをしなければ世界は平和である。
「ほい、これ土産。冷やしておくと尚いい」
「水ようかんと見た」
「おまえエスパーか?」
家から下げてきた紙袋を手渡し、つかさが冷蔵庫にしまいに行く間に借りていたCDや本を取りだす。氷入りの麦茶を一つだけ入れて戻ってきたつかさに三枚と八冊を返すと、代わりに四冊返ってきた。一応、目的はこれで終了になる。
「篠宮。念のために聞くけどお茶飲むかい?」
「いや、いいよ。水持ってきたから」
自分用に持ってきた麦茶の氷をからから鳴らすつかさに首を振って、自分の鞄からミネラルウォーターのボトルを取りだす。定例の会話。封を切り、喉に流し込んだ水が涼しい味を残して奥に消える。相向かいでつかさも麦茶をあおっていた。
おれはジュースの類全般が苦手だ。炭酸を始め、果汁ジュースに珈琲、紅茶、ゼリー系のものまで買って飲むことができない。飲めるのは自分の家の慣れた味だけで、お茶の類さえ家の味との違いに苦しんで飲もうと思えない。
だったらおれが外で何を飲むか? 消去法でたいていがミネラルウォーターになる。
そしてその習慣に難癖を付けるのがつかさの専売特許だ。
「君のその考え自体は別に構わないんだけどね。むしろ感心するよ。けど、行き着く先に選ぶのが水ってというのはどういうことなんだろうね、そこは僕納得できないよ」
だって水なんか買う必要ないじゃない、この水源国で。それに味が変わらないとかいうけど水こそ一番味の変わる飲料だろ? 水道水と井戸水の違いだって激しいのに何でわざわざ水なんだ。
「水を買うっていっても、おれ安定指向だからいつも同じのしか買わないよ。味の違いについてはまあ……反論すべきことはない」
「何で水なんだ……せめて家の味に似てるお茶でいいじゃないか」
「水の方が安い」
「家で蛇口をひねればタダだよ」
非効率なやり方を見て呆れているような声音だった。だがこうして遊びに来るたび水を持参するおれに対して、水を用意した方がいいかと尋ねてくれるぐらいには優しいやつなのである。ありがたいがおれだけのために用意して貰うのも申し訳ないので辞退しておいた。
「はい。今期の生物プリントまとめ。コピーする?」
「いや、穴空いてる部分埋めれればいいから今やってく。ほい、これこの前の数学テスト。直しの部分赤いから」
「ありがと。おお、結構いい点数じゃない」
「公式ど忘れしたら終わりだよ」
「全くだ」
目的はすでに終わったが、ここからはついでだ。眠気に襲われてメモし損ねたプリントを借りる代わりに、テストの直しを見せるという契約。ふたりとも成績は中の上ぐらいで、おれは暗記系、つかさは思考系が得意と分かれており、その分だけ得点が入れ替わる。勉強会なんてものじゃない。つかさは普段から勉強し直してるし、おれは真逆の一夜漬け派だ。勉強なんてようするにやる気の問題だから人とやるよりは自分のペースがあった方がいい。
つかさの部屋にあるガラステーブルを借りて、そこからしばらくシャーペンと赤ペンを動かす音だけが続いた。
つかさが作ってくれたオムライスの昼食を挟んで、用が済んだのは一時過ぎだった。テーブルの上を片付け、つかさが食器やコップを片付けに行く間にプリントをしまう。壁にかけられた時計を確認、四時にはひきあげる予定だったからまだ時間がある。先に片付いてしまったので転がっていた雑誌を手に取った。たびたび共通の話題になるゲーム雑誌だ。
気がつくとつかさは隣に戻っていて、テーブルの上には冷えた水ようかんが二切れずつ皿に並んでいた。
つかさも床に座ったままベッドにもたれかかり、何もせずにぼうっとしている。まったく会話がないというのもたまにあることで、最初こそ沈黙に立たされるとどうしようかと不安になったが、今じゃ慣れて逆に落ち着く。特に不満の声も上がらない。
時計の針が半周したところで、つかさがふと口を開いた。
「つみき」
呟くような声にん? と生返事を返す。
「つみきっていい名前だよね」
「そうか? 小さい頃からおもちゃの名前だってよくからかわれてたけどなぁ」
「木目がそろった、綺麗で優しい木のおもちゃを連想させる。丁寧にやすりで磨かれて、滑らかになったすべすべの三角形だよ。色の塗られてない自然体の色……そのままの木の状態というのはとてもいいものだ」
ベッドから体を起こし、つかさはカラーボックスから一冊の本を取りだした。フルカラーの写真が載った雑誌のようだ。
「木で作られたものはいいね。価値観が上がる。日本の木の利用性の高さは尊敬するし鼻が高い」
見て、と一ページ目が開かれた雑誌を渡される。読んでいた雑誌を閉じて見ると、一ページ目はページ全体に行き渡るカラーの写真と目次だ。どうやら木製の日用品について書かれたものらしい。販売雑誌ではなく専門の特集で、いろんな木製品について作り方から載っている。
トップの写真は、木の削りかすが降り積もった木の板の上に、たった今磨き終わったというていで置かれた木のスプーン。すべすべとした感触が写真越しにもわかる。ほう、と無意識に息をつく。
こういうときに、人は
「きれいじゃない?」
――綺麗だというんだろう。
顔を上げると、つかさはさらにページをめくった。パラパラと過ぎるページの端が視界の隅に残る。スプーン。フォーク。お皿。お椀。ボール。はし。何人もの職人が造ったのが並ぶ一覧。人によって作った形が違う。
「これ」
つかさがようやくページを止める。
バターケースとバターナイフの写真だった。
継ぎ目がないと思えるほどに丁寧にやすりがかけられた木製の箱。持ち手と刃の境目まで計算されて削られたナイフ。両方とも明るい色の木で、揃いのセット。
「驚いたんだよね、これ。だってさ、ふつう買ってきたバターとかそのまま箱で使うじゃない? うちはそうだよ。簡単に傷まないからバターナイフなんていつから使われてるかわからない銀色のナイフ。それはそれでステキだけど、まさかバターナイフとケースを木で作っちゃうなんてさ。そのまま使えるのに、わざわざ入れ替えるんだ、作るんだ、って感心したんだ」
このナイフの形がいいね、と刃の付け根にあえて残されたなだらかなふくらみ線をなぞってつかさは楽しそうにする。決して声を上げたり、オーバーなアクションは取らないけど、十分にわかる。
「確かに、いいな、欲しいのか?」
「ちょっとね。でも、使うのなら全部統一したいね」
言われてふと食器や小物まで木製でそろえたところを思い浮かべた。自然体の色。優しい温度とこつんと軽快な音のする生活品たち。木製のボール、木のスプーン。中に採れたてシャキシャキのサラダが入っていて、隣にスープが満たされた幹色のマグカップが並ぶ。そのテーブルの後ろには木で作られた写真立てや小物入れが姿勢を正しているのだ。焼きたてのトーストが乗った丸くて平たい木のお皿。隣に写真で見たままのバターケースが揃っている情景。……それはおれもちょっと憧れる。
プレゼントにどうかなと一瞬考えてみたが、高校生の誕生日プレゼントに木製のバターナイフとケースってどんなんだと脳内でツッコミが入った。もう一人の自分からだろうか。
そういえば、友人にプレゼントをあげるなんてことしばらくしてないな。
「なあ、例えばさ」
つかさが顔を上げる。返事より視線を優先するその動作はどこか曖昧で遠回しだ。
「友だちがいないと不安になったりしないか?」
世間から見て、つかさは友だちがいない。クラスで話す人も、分類してしまえば「友人」ではなく「知人」か「クラスメイト」に分けられるだろうなとわかる。つかさの格好のせいではなく、本人が必要以上に親しくなろうとしないからだ。
つかさは警戒を始めたうさぎのように少しだけ眉をひそめた。
「君はなるの?」
「なるよ。おれ一人取り残されて悲しくなってくる」
「その場にいないと存在が揺らぐものなの? 心の支えなら昔の友だちとかいるでしょ」
「いるのか?」
「いないよ」
つかさは天気予報を見て明日は雨だねというように答えた。
「昔、小学生の頃はね、クラスメイトというものは全員友だちだと思っていたんだ。人数も少なかったし、学年全員の名前を覚えていたし、学年で行動するのが当たり前だったから。けど、中学になってからクラスの一人にそれは違うといわれて驚いたんだ。そうだね、確かに違った。一度も喋ったことがないやつはいたし、嫌いなやつも苦手なやつもいた。友だちと自分が呼んでいるのは数人だけだった。当たり前だ、いてもいなくてもどうでもいい存在を指して、人は友だちとは呼ばない」
そこでぴたりと饒舌な語りが止まった。おれもつられて自分の小学・中学時代を思い出して、不思議な同級生がいたなと少し懐かしく思った。情報屋にトラブルメーカーに魔法使い。あだ名だけ聞くとどこのファンタジーだと思うメンバー。癖の強い彼らは今でも印象に残っている。
少しだけためらったあと尋ねてみる。
「その友だちとは?」
「高校が別れたらおしまいさ。――別に交友関係が終わった訳じゃない。連絡を取る方法はあるし、いつでも取れる。けど、取る必要がないから取らない。調子はどう? なんて聞くような間柄じゃない」
おれとは真逆だな、と思った。親しかったやつからは今でも頻繁にメールが来るし、何人もで遊びに行くこともある。学校が違ってもある程度は時間も話題も合うし、馬鹿な話で盛り上がれるのは男子の特権だ。
「でもおれは、やっぱり傍に友だちがいないとちょっと不安かな……」
すぐに頼れないというのは迷路の行き止まりに来てしまったような心境だ。どんな些細なレベルでも、言葉も交わさずすぐにペアが組める関係性は心地よい。
「僕の友だちなら君がいる」
その言葉は透明な水のような透きとおった音だった。
「君は僕の友だちだろ?」
その問いに目を上げると、隣で真摯な目がじっと見ていた。珍しい色に動揺しそうになる。
否定するわけがない。
「ならそれで十分さ」
首を縦に振るおれをみて、彼女は表情を和らげ、嬉しそうに微笑んだ。
その日の夜、自室で宿題を片付けていたおれ宛てに自宅の電話が鳴った。
『よぉミスター! 元気か?』
「あれ、佐竹か? 珍しいな」
母から受け継いだ受話器から開口一番テンションの高い声がして、すぐにそれが誰だかわかるとおれは驚きつつも苦笑した。同級生からの電話と聞いたときにはすでに相手が予想出来ていた。家電にかけてくる同級生など彼一人しか思いつかない。
中学の同窓生、佐竹。そこまで親しい仲ではなかったが、相手がこの通り分け隔てなく声をかける性質のため、呼ばれれば遊びにいく間柄だ。電話がかかってくるのは、これで二度目。
佐竹は適度にテンションを調整すると、明るい声で世間話を挟んでから本題に入った。
『えーとな、中学の連中が同窓会やりたいんだってよ。それで全員の住所とか連絡先わからんから人づてに回してんだ』
「同窓会って……まだ卒業してから二年しか経ってないのに……」
今は高校二年の夏だ。同窓会というと、ふつうは十年後とかでやるものじゃないのだろうか。呆れるおれに対して乗り気でもないが否定的でもなさそうに佐竹が応える。
『暇なときに集まっときたいんだろ。まあまず連絡回すだけだ。わかるやつだけでいいんだけど、頼めるか?』
「ん、わかった。……あれ? でも佐竹、おまえいつもの情報通は頼らないのか?」
『あー、こいつなー。コイツ噂やおおざっぱな情報を集めんのは得意なんだけど、住所とか連絡先みたいな細かい情報集めんの苦手なんだ。細かいこと覚えられねーんだと』
ゴスッという音に重ねて『ぐあっ』と佐竹の悲鳴が聞こえた。
「……ああ、そこにいるのか……わかった。とりあえず知ってる奴にだけ回してみるよ」
『おお、悪いな』
一度も自分から名乗りはしなかったものの、情報屋の名で通っていた同級生も傍らにいるようだ。彼らはそろって中学時代の有名人だったが、一緒にいるとは珍しい。その有名人も集まるとなれば、おもしろ半分に顔を出す奴も増えるだろう。
ふと、彼らの顔の広さと情報網が頭をよぎって、なんとなく、期待半分でおれは疑問を口に出してみた。
「……佐竹。浦川つかさって知ってるか?」
『浦川つかさ? 名前だけじゃわかんねえな。どんな奴だ? 何かしたのか?』
「いや、同級生というか、前後の席なんだ。友だちで……えっと、まあ、男の格好をしてる女の子。いつからその格好してるかわからないけど、高校の入学式の時にはしてた」
『男の格好? そりゃまた……』
感心したような調子で感想をこぼしかけた佐竹の声が一瞬フェードアウトし、間を挟んでから声がやや真面目になった。
『情報屋が知ってるようだ。男装ってのは中学の頃からみたいだな。こっから駅二つの隣の市の中学出身。その格好でもふつうに出歩いてたからか、目撃証言は多いみたいだぜ。――それまでの評判は悪くなく、典型的な「いい子」で、真面目で目立たない大人しい子だったらしい。その格好になってから性格が変わったのか? そりゃ目立つだろうなぁ……』
「……」
想像できなかった。
「……よく知ってるな」
『知り合いに同中のやつがいるんだと。――あと、関連があるかわからんが、その格好をし始める前に、同学年の生徒が一人亡くなっている』
「亡くなって……?」
『事故らしい。ニュースにもならんような不幸な事故だ。階段から落ちたようだな』
思わず口をつぐんだおれに何の茶化しも入れず、淡々とレポートを読み上げるように佐竹が続ける。
『で、男装以後性格は激変、誰に対してもほとんど口をきかなくなり、孤立状態だったみたいだな。その格好をし始めたのが二年の冬だそうだ。今もしてるってことはよっぽどの理由があるんだな。なんかの証明とか、決意表明みたいなもんなんだろ』
「……そうか。……確かに、そうじゃないかなとは思ってるけど」
つかさが言いたがらない、あるいは本当に言う必要性がないと思っているのかもしれないそのよっぽどの理由がなんなのか、今もまだ謎のままだ。古坂なんかは興味(だけは)津々だが、おれとしては特別暴きたいことでもない。
『友だちっつったっけ? 今もそのまんまなのか?』
「うーん……まあ? かなり激しい性格はしてると思う。ナトリウムに水ぶっかけた感じ」
『そりゃすげぇな! 予想以上に激しい気性だわ!』
「予測ができないと言う意味では佐竹の上はいってないけどな」
『んん? ちょっと意味がわからないな。何のことかな』
「佐竹が突然宇宙人だとカミングアウトしても信じてあげられるという意味だ」
『何だと。ついにばれたか』
「たぶんみんな知ってるよ」
『マジか』
その応酬に思わず笑い声を漏らすと、佐竹はわざとらしく口笛を吹いてごまかした。いや、全然ごまかしてない。
「その適当な発言も相変わらずだな」
『あっはっは! まかせろ!』
「まかせたくない自信だな!」
向こうで彼がからからと明るく笑った。適当なことを思いつくままに言う彼の癖は少しおれにも移っている。
『んで? その彼女がどうした?』
つかさを正しく人に紹介するのは難しいので、エピソードを付け加えて説明しようと思っていたのだが、凄まじい感応能力で納得した佐竹はあっさりと話題を次に繋いでしまった。
「あ、いや。なんとなくそいつのことを知ってるかなーと思って聞いただけだよ。すまん、特に用があった訳じゃない」
『そうか? 何か調べたいことがあるなら協力してやるけど?』
一瞬自分の動きが止まったのが自覚できた。
――それはつまり、彼女があの格好をしている理由を知れるという意味で――
エスプレッソのブラックを飲んだみたいに苦い味がして、おれは無理やりのどの奥にその塊を飲みこんだ。
浅く息をついて呼吸を整える間、受話器の向こう側の相手はじっと沈黙を保っていた。
「……彼女の過去を調べたいわけじゃないんだ」
『だろうな。おまえはそういう優しい奴だ。……ん、情報屋から続報が入った』
そのタイミングを狙ったのかそうじゃないのか、結局電話口に一度も声を届かせなかった情報屋は、おれにとって幸か不幸かわからない、端的な一つの事実を教えてくれた。
『さっきの事故な。――その彼女の友達が死んでいる』
「…………」
挨拶を終えて通話の切れた受話器をしばらく見下ろしていたおれは、居心地の悪い罪悪感と共にため息をついて電話を置いた。
思いもよらず情報がいっぱい入ってきてしまったが、本当に、なんとなく尋ねてみただけなのだ。望んでいた反応は「ああ、噂の男装少女か。聞いたことがあるぞ」程度だったのに。迂闊に振った話題が(核心部分はなかったとはいえ)ほとんど調べ上げたに等しいことになってしまった。
「うわー、あー、なんかこれ嫌だなぁ……。何これどうすりゃいいの……? 絶対あいつに知られたら怒られるわ……。抉られる……。殴られるの方がいいなぁ……」
罪悪感にさいなまれて電話の前で座り込み顔を覆っていると、母親に「何やってるの?」と首を傾げられた。適当に誤魔化して部屋に逃げた。
この日は満月に近い夜らしかった。電気を切ったまま部屋に入っても外が明るいことに気づいて、おれは扉を閉めるとカーテンと窓を開け、椅子を引っ張ってきて背もたれに体を預けた。
空気が生温い。だが、吹き込んでくる風は少しだけ涼しい。大きな窓から月の光が差していて、足下がひどく明るい。
「……」
何ともいえない気分を転がしてため息をつき、まあ仕方ないかとそれまでの情報をすべて心の中の箱にしまう。考えない。これで一つすっきりと片がつく。
ふと思いついて携帯端末を拾い上げ、メモリーを呼び出した。
六コール目で相手が出た。
『何』
簡潔すぎる問いだった。もう何も語ることなく彼女の特性のすべてを物語っている。ほとんど電話などしないおれたちの間柄だが、出た電話の一言目がこれとは恐れ入る。
「あー、すまん。くだらん用事だけどいい?」
『何』
二度目の何は若干優しかった。そんなことに気づくのはおれだけなのだろうかと、自慢とも自嘲ともとれない疑問が浮かんだ。もちろん口には出さない。
「なあ、暇で暇でしょうがなくて死にそうなときはないか?」
例えばやることすべてやりきって、時間が余ってしまった休日の午後。出かける用事も話し相手も何もない日の数時間なんか。
『……まあ、あるけど』
「そんな時には連絡くれ。なるべくなら晴れてる日が……いや、雨でもいいな。台風の時でも構わんけど」
『台風の日に暇で暇で死にそうになるわけないだろ。テンション高くて傘も持たずに外に飛び出すわ』
「おまえのそういうところ大好き」
電話の向こうでフンと鼻を鳴らす音が聞こえた。例えようもなくそういうところが素敵すぎて思わず笑ってしまう。
顔が見えないのは残念だ。もしかして照れているかもしれないし、苦虫をかみつぶしたような顔をしているのかもしれない。経験として後者はないことがわかっているし、前者ではなくても苦笑しているくらいはするだろう。
ついでのように日常のくだらない会話を重ねて、おれたちはまるでかき氷みたいなふわふわきらきらした会話を楽しんで通話を終える。くすぐったそうに喉の奥で笑うつかさの声が耳に残っていて、月を見上げながら頬を緩める。その約束がいつくるのか、来なくてもそれはそれで別にいいという気はした。
その翌週からテストに向けて授業内容が変わり。
同時進行で文化祭の準備を始める動きが出た。
おれたちのクラスは展示とお座敷でのお茶喫茶(?)になり、テスト週間に入るまでの短い期間、準備に追われて放課後も残ることが多くなった。
「うわー、もう真っ暗じゃん!」
三々五々片付けが終わったメンバーから散っていく校舎を中盤組で出ると、タイミングがそろったのか古坂とつかさ、おれの三人組になった。帰り道はバス停か駅で分かれるものの、途中まではどうあっても道はおんなじだ。
真夏の夜八時過ぎ。さすがに日が暮れた一面の夜空に、星がはっきり見える。空気は冷たくないが、暑いというほどでもない。作業が終わったことを喜ぶように古坂が腕を広げて空に向かって叫んでいるのを、つかさが冷めた目で見ている。相変わらずだ。
「古坂、おまえ今日はバスか?」
騒ぐ古坂を黙らせる目的もあって尋ねる。駅から家までが微妙な距離だというこいつは、時間帯によって足を変える。夜遅くなった場合はたいていバスだ。
「いーや、残念ながら迎えだ。バス停に親が帰り通りかかるっていうからよ、乗せてもらうのだ」
「へえ、いいな」
「ふふふ、おまえらの邪魔はしねーよ。遅い時間帯だ、人もいねーしいちゃついて帰れよ。お似合いのお二人さん♪」
バカみたいな顔で古坂が笑い声をあげる。いつものからかいだ。つかさの様子をうかがいながらおれは内心ためいきをついた。
普段の様子を見ていれば想像がつきそうなものだが、つかさはその手のからかいを嫌っている。
たびたびこうして(たいてい古坂に)からかわれるように、つかさとおれの関係は異性同士としてはかなり近い、と思う。一番仲がいいと思われているという意味ではその評価は悪くない。
けど、正直に言ってからかわれること自体はひどく迷惑だった。そういうやつは大抵「からかう」という目的以外に理由がないし、相手の心情や感情を無視して面白いからと手出ししてくるだけだ。「好きなのか」「付き合わないのか」と言いつつくっつけてやろうというお節介な誠意すら見えない。それで機嫌が悪くなったつかさから苛立ちや八つ当たり被害を受けるのはおれだ。まったく止めて欲しい。
あたりさわりない返答を返しながらつかさの反応を見たおれは正直今すぐにダッシュで帰りたくなった。
「…………」
一言すら発さないその気配で空気の重さがわかる。もう、表情が凍っている。
怒っている。むしろ、不機嫌というのか。
プレッシャーじみたこの空気で不穏な雰囲気などすぐにわかるというのに、古坂は気づかないのか。あほか。こいつ空気読めないやつなのか。だから彼女できないんだよ。
どさくさに紛れてついた悪態に気づく様子もなく、古坂は友達相手なら受けるが恋人相手には受けないだろうチョイスのバカ話を繰り広げながら先頭を歩いていく。あとに続くのはおれしかいないが、後ろの距離も把握しておかないとつかさが勝手に離脱してひとりで帰りかねない。今のところそうなったことはないが、残されたおれの心が折れるので是非とも防ぎたい事態だ。
「浦川。次の電車逃したら三十分待ちだから、いこうぜ」
内心とても気を使った代わり映えのない言葉を投げると、つかさは鋼鉄でも貫きそうな鋭い視線を遠い地面に落としたまま無言でうなずいた。その視線に貫かれるのが古坂であることを期待する。
そんな気遣いを知らぬ存ぜぬで、古坂が得意のおしゃべりを始めている。
「でも今回の文化祭、男いらなくね? お座敷に浴衣って、女子がやるって盛り上がってるじゃん」
「男子は裏方だろ」
「男が茶や菓子を用意できるかー? 何にもできないんじゃねーの?」
「お茶入れて菓子を皿に出すこともできないやつってなんなんだよ……男が男がっていうの、ただのさぼりの口実だぞ。カップラーメンに湯が注げないっていってるようなもんだろ」
「あーそうなのか? そうかねー……。あっ! 女子が男子に茶出して、男子は女子に茶出せばよくね? 出血大サービス、男子も浴衣!」
「……提案してみれば?」
相槌を打つのも疲れてきたので投げやりに答える。古坂はひとりで盛り上がって叫んでいた。
「…………」
ななめ後ろを振り返ればまだ沈黙したままのつかさが一定ペースでちゃんとついてきていた。そういえば、こいつは文化祭どうするんだろう。女子組ということになれば、つかさも浴衣を着て給仕に立つことになるが。
「……何?」
邪なことを考えていたのがばれないよう、平坦なつかさの問いに「なんでもない」と答えておいた。初めて見られる(かもしれない)つかさの女性姿が浴衣だという発想は、テンションが上がるくらいにはおれの夢と希望がつまっている。こんな考えばれたら怒られる。
つかさは訝しげな目を向けていたが、気にかかることではなかったらしくすぐに興味をそらした。
学校から大通りまでの路地を抜けて、信号が誰も走っていない道路で働いているのが見えてくると、古坂が歩調を緩めた。あの交差点で駅組は渡り、バス組は横に折れる。歩道の信号が今赤になった。
「あーあ、やれやれここでお別れです! 邪魔者は消えますよーっと。ふたりで仲良く帰れよ~」
交差点につくと同時に、古坂が爆弾を落とした。あたりさわりのない言葉でもこの状況下で言われたらそういう意味を含めた発言にしか聞こえず、おれはぎょっとして反射的に口をつぐんだ。つかさにそっと目を向ける。
「…………」
帰り道にまだ一言しか発していないつかさの目が、氷の色から冷えた鉛の色に変わるのをおれは見た。
「……うっとうしい」
低くぼそりとつぶやかれた言葉は、幸か不幸かおれにしか聞こえなかった。
「古坂太陽」
おれは先にわかってしまった。つかさが何を言おうとしているか。でも、青ざめるばかりで何も口出しできない。
「君のようなタイプは好かれるだろうし、人種としては好意的だったけど、はっきり言おう」
他人事のように能天気な顔をしている古坂へ、つかさは。
「僕は、君が嫌いだ。二度と話題に上げるな」
死刑宣告、をした。
古坂が目を見開く。つかさは彼の反応を見ることなく踵を返し、青に変わった信号に飛び出していった。
「おい、浦川!」
そのあとを追いかけようとして、反応に困っている古坂に鈍い奴だなと舌打ちして叫ぶ。
「あのなぁ、そういうからかいを頻繁にされて喜ぶやついると思ってんのか? はっきりいって超迷惑! あいつ怒らせたいならほかの方法でやれ!」
つかさはすでに横断歩道を渡りきって右に曲がっている。後を追って道路に飛び出しながらついでにもう一撃。
「今回ばかりはおまえにドン引きだ! 空気読めタコ!」
楽しむばかりで相手のこと考えなかった古坂が全面的に悪い。フォローする必要もないし、今おれがフォローしなくてはならないのは前を走る男装の麗人だ。
「浦川!」
煮えたぎっているだろう腹の内をどうにか収めないと、つかさは止まってくれない。
こんな会話をしたことがある。
「告白というものがね、何ともいえない気持ち悪さを感じて嫌なんだ」
「え?」
ありきたりな少女マンガの話題から、今つきあっているらしい同級生の話題になって、どう違いがあるんだろうという話をしていたところだ。
ざっくりとした感想故に渋い顔が印象に残って、何かショックを感じた覚えがある。
「……そういう発言を聞くのは初めてだな」
「いや、誤解しないでくれ、正直に言うと恋愛自体に興味はある。ただ、「好き」と言われて意識し始めるというのはある話だけど、僕は逆もあると思うんだ。「好き」と言われたことで逆に嫌いになることがある。意識されていると言うことを意識するのが嫌なんだ」
意識されていることを意識するのが嫌。わからないでもない。でも、考えたことはない。
「……難しい話だな」
「まあ、僕の生理的嫌悪みたいなものだよ。マンガみたいに、即座に「好きです」「嫌いです」といえたらいいんだけどね。現実、周りの人間なんてほとんどが『どうでもいい』んだ。好きか嫌いかでとっさに判断できない。どちらかを決断する情報が圧倒的に不足している。それならそれで断ればいいんだろうに、もったいなくて悩む人だっているだろう? 告白されるってことは、それだけ惹かれる分の魅力はあるということだから」
だから、ひとめぼれみたいに圧倒的に感情が傾く恋のほうが便利だ。
確か、一年の終わりの頃にした話だ。恋愛のきっかけを便利と言い切るその発想に驚いていたおれに構わず、言った本人は机に頬杖をついて気だるげだった。それはつかさの恋愛観の片鱗を覗かせた発言であり、踏み込めば地雷だとわかる程度に慎重に触れなければならない話題だと悟った。
このとき、おれは、彼女に嫌われたくないという感情を初めて自覚した。
牽制だとわかられては困る牽制。明確に言われたわけではないが、おれとつかさの関係は親友というのが一番似合っているんだろう。諦めるという選択肢に包んだ感情は静かに折りたたんだ。
「浦川、」
追いかけていると知らせるために名前を叫ぶ。ななめに道路をショートカットして、前の背中を捕まえようと
タイヤを道路に噛ませる鋭いブレーキ音が鼓膜に突き刺さった。飛び出してすぐ。向こう側の歩道まであと半分。ブレーキを踏むのが遅かった車が緩めきれなかった速度で曲がってくる。前に転がるようにして歩道へ飛び込んだ、
景色がかき消えた。体全体がすくいあげられて体が横へ吹き飛ぶ。ドンッ、という鈍い衝撃はタイムラグを起こしてあとから聞こえた。
視界が一度途切れ、次に視界がつながったときに見えたのは点滅している歩道の信号機。振り返った格好の、蒼白のつかさ。
がつん、と痛みか何かわからないものが肩を打つ。感覚のない自分の腕が体について目の前に落ちたのが視界に入る。体が軋んで動かない。向こうのほうに中途半端な角度で止まった車が見えた。頭がこちらを向いている。ヘッドライトが眩しい。
頬がついた地面、アスファルトが熱い。日中の熱を吸収して焼けた道路がまだ熱を持っている。額から地面に向かって、たらりと何かが流れて行った。息を吸い込もうとした肺が空気の熱だけ吸い込んでのどを焼く。熱の匂い。熱い。痛い。視界を灼くライトが――
ああ……、眩しいなぁ。
ぶつん、と意識が途切れた。
事故の瞬間はわずか二秒。帰宅途中の通学路。眩しいヘッドライトが、おれが最期に見たものだった。
七月十二日午後八時四十三分、車にはねられ、病院に運ばれたものの。
翌、七月十三日午前三時十七分。
病院のベッドの上、集中治療室の中で、おれは死んだ。
4
ふと気がつくと夜の校舎にいた。
自分の席にきちんと腰掛けていて、放課後を寝過ごしたのかとびっくりして教室の時計を見る。八時四十三分。外は真っ暗だ。
一拍おいて直前の記憶を思い出し、椅子を蹴って教室を見渡す。綺麗に並んだ机、整頓された教室のがらんどうで静まりかえっている。
自分で蹴った椅子の音が、やけに長く反響して消えていった。
「死んだ、のか……?」
未練があって学校に来たのだろうか。まて、そもそも今の自分はどうなってるんだ?
自分の手を見下ろす。全身見ても、透けているようなところはない。教室の空気がややぬるいということはわかるし、机に触れた冷たさも感じとれる。
「……夢か?」
本格的に寝落ちて、誰にも気づかれずに放課後を過ごしてしまったのだろうか。だけど机にカバンがかかっていない。それに何故か室内でいつものスニーカーを履いている。
何が起きた? 何が起こった? 何が――どうなった?
反射的にうしろを振り返るが、いつもそこにいた友人はいない。冷めた言葉も、呆れた目線も返ってこない。
同時に先程の衝撃をもっと詳しく思い出そうとする。
平日の帰り。迎えが来るという古坂と交差点で別れ、つかさと駅に向かおうとして。夜になって車通りが減った信号を青で渡り、歩行者道路をいつも通り歩いていたはずだ。
いや――違う。渡ろうとして。つかさを追いかけて。そこへ飛び込んできた――二つのヘッドライト。衝撃と視界のぶれで記憶は途切れる。自分の体が動かそうとしても動かなかったことは感覚が覚えていた。ぞわ、と恐怖が背筋を這い上がる。
深呼吸して恐怖を払い、次にため息をつく。天井を仰いで、諦めるように。
「そうか。――おれは死んだのか」
受け入れられないことは、一度受け入れてしまえばいい。そのまんま、どうでもいいことのように受け流してしまえばいい。
教室から見る窓の外は、真っ暗な校舎よりもよほど明るく見えた。
何食わぬ顔で教室を出て、校門の外でつかさに会った。
彼女はいつもの制服のまま門の前に立ち、校舎を見上げていた。氷塊から削りだした氷像のような――鋭く凍てついた気配だった。まるで凍えたナイフのような。触れたら指先が裂けてしまいそうで、一瞬だけナイフを手に斬りかかられる場面を夢想した。
まさか本当に傷つきはしないだろうと、何気なく声をかける。
「つかさ?」
「……篠宮?」
おれに気づいたつかさは目を見開き、幻かどうか確かめるように自分の拳を握りしめた。手の中に爪の跡が残るところを想像して、痛ましいなと顔をしかめる。
目を真っ赤に腫らして、それでも唇を噛んで泣くことを拒否した彼女は今にも泣きそうな強ばった表情でこちらを見ていた。そこへ近づいていく。つかさは逃げなかった。
いつもの距離で立ち止まる。およそ五十センチ。入学式で出会ってから今まで縮めてきた、友情か恋愛かもわからない距離。
つかさはケンカを売るように顎を上げた。
「君、死んだんじゃなかったの」
「うん。そうだと思うけど」
気がついたらここにいたんだ、と校舎を振り返る。二人で夜の校舎を少しの間眺めてから、視線を外す。
「どういう、状況になってるのかな」
今はいつで。一体何が起こって。つかさはどうしてここにいて。おれはどうしてここにいるのか。
つかさは目元に手を当て、
「……今朝、君が亡くなったと連絡があった」
目を瞬いて彼女を見ると、つかさは顔を伏せたまま、
「昨日、君が車にはねられてから……病院に運ばれて、集中治療室に入ったけど……朝早く、息を引き取ったって。今日、君の家で……たぶん今、通夜が……」
言葉というのは耳が聞こえれば通じると思っていたが、実際にはきちんと脳が働いて理解しないと意味さえわからないんだな、とぼんやり考えた。遠くに見える横断歩道が青になり、点滅して赤になるまでのあいだに気の利いた応えを出そうと脳内で検索をかけてみたが候補が見つからない。
おれはどういったものか悩んで。
「そうか」
としか言えなかった。馬鹿みたいだ。
話しているのは自分のことで、今言い渡されたのも自分のことだ。自分の――本当に?
自分のことかどうかイマイチわからない。
「おまえは、通夜に出たのか?」
つかさは首を振った。聞いておいて、通夜に出る友人の方が珍しいと思い当たる。けどつかさは別の言葉を付け足した。
「君の……家に、行く勇気がなくて」
今までにないほど小さく声が震えている。組んだ腕をほどき、胸元を掴んで、必死に息苦しさか何かに耐えている姿はいつもより小さく見えた。強がりが透けて見えるほど弱々しい。こいつは、こんな弱々しかったっけ? 伏せた顔がどんな表情をしているのか、ここからではうかがい知ることが出来ない。それでも、事故とは別の衝撃が胸に刻まれた。
それほどに胸を刺す、脆くて、今にも崩れてしまいそうな態度だった。
実感はまだ湧かないけど。むしろつかさの方が心配になってしまうけど。
やっぱり――おれは死んだのか。
九時を告げるサイレンが鳴り響いた。昔はふるさとの曲だったのが今ではシンプルがチャイムだ。つまらない。
さすがに男の格好をしているとはいえ女性、どのみち未成年でこの時間帯は十分危険だ。何時からいたのかわからないがつかさを家に帰すべきだと判断して動きたそうにないのを説得し、学校を離れる。
家まで送るよ、と提案してやっと動き出すくらい、つかさはいろんなところを消耗させているようだった。
「どうして学校にいたんだ?」
「……それは、僕の方が聞きたい」
「おれは気づいたらいたんだ。おれだって何で学校なのか聞きたいよ」
「……」
つかさはこっちが不安になるぐらいふらふらした足取りでゆっくりと歩く。押せば崩れてしまう積み木の城のようで怖い。
「……行くところが、なくて」
「そのままじゃ倒れる。家帰って寝ろ」
腕を掴んで――掴めたことに自分でびっくりしたが――そのまま歩き出す。掴んだ瞬間につかさも驚いた顔をしたが、文句はなかった。まだこの時間なら電車は通っている。まず家に連絡を入れさせるべきかも知れないが、つかさが「死んだはずの篠宮といるんだ」とでも口走ったら大事だ。それはたぶんまずい。
一体どういうことなのかさっぱりわからないが、つかさのあまりのやつれ具合に考えることを放棄した。考えないようにするのが得意でよかった。
「君の家に……連れて行ってくれないか」
震える声で、腕を引かれたつかさが呟いた。足を止めかけ、振り向かずに「ああ」と答える。
無理しないで欲しい。気を遣う相手が逆転しているのかもしれないけど、つかさが倒れないことだけ祈って、おれは彼女の手を引き続けた。
我が家の前は、誰かが亡くなったことを示す白と黒の幕が掛かけられ、玄関にぼんやりと明かりが灯っていた。車が路肩にぽつぽつと停まっている。
「…………」
つかさは何度か訪れたことがあるおれの家を見て、緊張が切れたのか強ばっていた肩の力を抜いた。おれはぼんやりと別の家になってしまったような篠宮家を眺めていた。
誰の通夜だろう。ここに、おれはいるのに。
道の上で立ち止まったおれたちに気付いてくれる人はいなくて、少しだけ人の気配が漏れてきている家の前で立ちつくす。
倒れそうな顔をしていたつかさが、いつの間にかこちらを不安そうに窺っていることに気付いて苦笑する。気を遣わせてしまったな、と無理して笑う。
「いこう」
無意識に差し出した手を、ためらいなくつかさは掴んだ。
開け放たれた縁側に、人が集まっていた。急いで駆けつけるためにとりあえず合わせた様子の黒っぽい服を着た人が四割、喪服が六割の大勢が、ひかえた声量で言葉を交わしている。見知った顔がいくつもあった。室内へ上がる男女。あれは親類だ。年の離れたいとこの姿もある。
「つかささん」
着の身着のままで準備をしたのだろう、私服の母親がつかさを見つけて声をかけてきた。印象が変わっていて驚く。泣いた跡がはっきりわかる、ひどく疲れた顔をしている。気丈に笑う、というのか、笑っているのに泣いているようだった。
「昨日は、つきそってくれてありがとう。どうぞ、中に上がっていって……?」
つかさは目だけ動かしておれを見、拳を握りしめて頷いた。おれに一瞥もくれなかった母はつかさを案内して中に上がっていく。つかさの後に続いて、おれも一日ぶりに――体感的にはいつもと変わりないが――家へ帰った。
縁側の廊下を歩く。ぎしりと古い床板が小さく鳴る。足音は三人分。誰も何も言わない。
普段は使われない奥の間に、一組ふとんが敷かれていた。白い。客間の畳の上に、知った顔や誰かわからない顔が並んで腰掛けている。ささやき声で会話をしていた彼らは、つかさに気付くと誰だろうと目を向け、すぐに顔を背けた。
廊下から客間に入る一歩手前で立ち止まったつかさに構わず、母は奥の間へ歩いていってふとんの足下に膝を折った。
「……なんか、片付いたな」
つかさの隣に立って、おれは物珍しげに家の中を見回した。街中と言っても古い一軒家、中はわりと広い。昨日まで散らかっていた物がまとめてなくなっているのは不思議な気持ちがした。あわてて掃除したのだろう。こういうところ、感情をさしおいて準備しなければならない現実はシビアだ。
「……」
奥の間をしばらく見つめていたつかさは、おれにはわからないタイミングでいきなり足を踏み出し、奥の間まで歩いていった。あとを追う。部屋の隅に、近所のおばさんと親兄弟の親戚、そして妹がいた。
黒く長い髪をふたつに結い分けた妹は、背筋を伸ばして顔を上げていた。今まで見たことがない透きとおった表情で、まっすぐ目の前の空間を見つめている。泣きはらして感情を全て出し切ったあとなのか、水を残らずまいたミネラルウォーターのボトルみたいに空っぽの心でそこに座っている。
「……」
妹になんと声をかけていいのかわからなくて立ちつくしている間に、母親が枕元に動いて、顔の上にかぶせられていた布を取った。
みし、と誰かの足先に力が入って畳が鳴る。
立ち止まったままのつかさを置いて、中に入る。母の肩越しにのぞき込んだ布団の中には、奇妙なことにおれ自身が寝ていた。顔が白い。眠っているかのように目を閉じていて、頬やあごにひどい擦過傷があった。道路で擦ったのだろう。その傷は、もう治らない。
「かあさん」
声に出す。母は反応しない。くたびれた様子で背中を丸め、布団の上で眠るおれを見ている。その目がうるんでいく。咄嗟に出した手で母の肩を掴む。掴んで、いるのに。
母親はまったく反応しなかった。すり抜けるわけでもなく、感触がないわけでもない。おれには母の体温までわかるというのに! 母さんは気付いてくれなかった。
ゆるゆると腕を引く。母から一歩下がって、無意識に止めていた息を吐いた。
畳がきしむ音がする。つかさが、気遣うように隣に立ってくれていた。
「おれは……ホントに死んだんだな」
何回口に出しても、受け入れた振りして飲みこんでも、全然実感なんて湧かなかったけど。
通夜だ葬式だと言われても、みんなの、家族の反応を見てもどこか別世界のことのように思えていたけど。
――誰にも気付かれない。そんな扱いをされないとわからないなんてひどく間が抜けている。
自分が死んだことを自分で悲しむなんて変な感じだ。
「君は」
――隣で唇を引き結び、ふとんの上のおれを見ていたつかさが唐突に口を開いた。
「こんな状況になっても、僕を責めてはくれないんだね」
おれだけではなく聞こえる範囲にいた全員が顔を上げ、つかさの発言に声を詰まらせた。
「……おれが浦川を責める理由なんてないよ」
「つかささん」
おれが言うと同時に、母が立ち上がってつかさの背にそっと手を添えた。耳元で何事か囁く。内容は聞こえなかったが、つかさはややあって頷いた。母が目頭を押さえて、それでも微笑む。母は強い。慰める余裕はないが、励ます優しさはある。
つかさが動いて、おれの体の隣に座った。硝子人形のような美しい横顔が、静かに眠るおれを見る。手が動きかけ、怯えたように後退して膝の上で白くなるほど強く握りしめられた。
「浦川……」
声をかけると、つかさはきちんとおれの言葉に反応した。きしりきしりと軋む音がしそうな動作でおれを見上げ、また布団の上に目をやり、唇を噛みしめて立ち上がった。泣くかもしれないと思ったが、彼女がこんなところで泣くわけがなかった。感情が回りに回って、逆に凄みのある雰囲気で目を閉じたおれを見下ろし、今にもナイフを持って飛びかかりそうな気配で他人からの慰めを拒絶している。こんな状況でも、彼女が自分にかした枷は泣くことを許さない。
「帰ります。お邪魔しました」
「つかささん、送っていくわ。もう夜遅いし……」
「いえ、帰れます。夜分遅くに失礼しました」
「送っていこうか? 浦川」
つかさは母の後ろに立つおれを見て「傍にいてあげてください」と言い母に目を移した。ちょっと迷ったが、頷くだけにした。
つかさは丁寧に頭を下げ、他の客人に対しても頭を下げながら部屋を出て行った。母がそのあとを追いかけていったのを見送り、おれは妹の方を振り返った。彼女は顔を伏せて両手を握りしめている。つかさと妹が会うのは初めてだったはずだ。でも、ひょっとしたら病院かどこかで顔を合わせているかもしれない。ぜひ、あいつと会ったら感想を聞いてみたかったんだが。
「なあ、あいつに会ってどうだ? おれが言ったとおり、格好いいやつだろ?」
声をかけてみたけど、妹は気付いた様子がない。「お兄ちゃん……」一言こぼし、指先まで隠れたそでで滲んだ涙をぬぐう、その頭を撫でてやる。自慢の黒髪は相も変わらずさらさらしていたけど、おれがいくら撫でても反応はない。さみしいなぁ、よく撫でてやったのに。
「おまえにいっつも抜けてるって言われてたもんな……。ごめんな、ドジして」
事故がどんな風に伝わっているのか気になった。あれは青信号と言いつつもななめに渡っていたおれのせいでもあるし、相手がブレーキをかけ損ねていたせいでもある。家族はそれをどんな風に受け止めたのか。馬鹿だな、と笑ってくれたらそれが一番だけど。
親友が立ち去った方を振り向く。つかさを責めるという発想はなかった。だから、どんな勘違いをしても家族につかさを責めて欲しくはない。それに。
「おれが、おまえを責めるわけないだろ……つかさ」
呟いた声に反応してくれる人が、この場にいるわけもなかった。
空が泣いている、という表現は好きだ。でも、実際に空が泣いているイメージは湧いてこない。空はいつだって奔放でわがままだ。誰かの心情に惹かれたりしない。
その日は式典日和といえるほど朝から綺麗な晴れだった。午前八時、出棺。葬式の流れやマナーなどわからない部分が多かったが、人はめまぐるしく動いていく。いつも楽しげな笑顔だった父が参列者に肩を張って話をしているのが印象に残った。嗚咽をかみ殺した結果、あんなに無理してつくったみたいな厳つい顔になっているのか。途中でぼろぼろとこぼれた涙に、似合わないと後ろの方でひとり笑ってしまう。
ふと窓の外を見ると、家の向かいで塀にもたれて立つ制服姿の人間を見つけた。棺の中にお別れを告げる親族遺族に背を向け、玄関から飛び出す。
「浦川」
夏の日差し直下では暑いだろうに、きちんと制服のブレザーを羽織って、いつも通りの男子制服姿で彼女は篠宮家を見つめていた。声をかけると、瞬きを挟んでこちらに反応する。ほっと胸をなで下ろした。よかった、声が聞こえて。
「入らないのか?」
「いや。僕は招かれてないから」
「招かれてないって……」
「いいんだ」
いいんだ。
おれが言いかけた言葉を押しとどめるように、つかさは押し殺した声で繰り返した。葬式は押しかけるものだ。けど、本人がいいと言っているのだからそれ以上重ねて言うわけにもいかず、沈黙したまま隣に立つことになった。
礼服の黒で一色になった人の中を、刺繍も複雑な布がかけられた立派な棺桶が運ばれていく。白い花に囲まれた自分はなんとか見れたが、ふたの窓から見るのだけは恐ろしくてできなかった。おれはここにいるのに。もう一人のおれは向こうにいて、閉じこめられて、もう出ることは出来ない。それを想像するのが怖かった。だからこんなに遠くで見送っている。
棺が黒と金の装飾が目立つ霊柩車に乗せられ、出発していった。他の人も車で移動する。泣きじゃくる娘の背を押し、ハンカチで涙を押さえていた母とつかさの目が合う。つかさは会釈だけで挨拶をすませた。
車が何台も去っていくのを見送ってしばらく経ってから、つかさはおれを見上げて眉を寄せた。
「家族といなくていいのか」
「昨日ずっと一緒にいたよ。気付いてもらえなかったけど」
ドアを開けても、音を立てて歩いても、物を持っても気づかれない。物を動かしても、動いている最中には絶対に気付かない。動かし終わったあとに「あれ?」と不思議そうな顔をする。おれの姿だけ目が滑っていって、気づかれないんだ。おかしいよな、妹のほっぺたつねったって虫に刺されたみたいな反応するし、まるで透明マントでもかぶった気持ちだよ。
部屋は片付けられていなかったので、そのままベッドで眠った。幽霊も眠れるんだと初めて知った。
腕を組んだつかさの指先に力が入った。制服にしわが寄る。
「……君が見えているのは、僕だけか」
「そうだな。今のところは」ふと思いついた顔があった。「あれから、古坂には?」
「会ってない」
返答がそっけない。そういえばこいつらは(というかつかさが一方的に)絶交宣言をしたのだった。これは……事故のせいでぐちゃぐちゃになった割にはうやむやにならず、まだ許せるレベルに変わっていないらしい。
「……まあ、誰にも見えないとか寂しすぎるから有り難いけどな」
「君が僕の妄想の産物じゃない限りはね」
自分のことだというのに手厳しいことをいうやつだった。いや、この場合他人(おれ)に厳しいのか? 思わず渋い顔になる。
家を任された近所の人や親戚筋が篠宮家の中に引っ込んでしまい、車も人通りもはけて静かになった道路で立ちつくすこと五分。つかさが踵を返す。話題が途切れてから沈黙が続いた場合、動きたい方が勝手に動くことにしている。自然にそのあとを追って歩く。
「学校は?」
「さぼり」
家へと帰る道を辿るつかさに尋ねると、堂々とした簡潔な返事が返ってきた。今からいけば二限には間に合いそうだが、行く気はなさそうだ。
「じゃあ送っていこうかな」
どうせ家族は夕方まで帰ってこない。お経をあげるところに興味はないので、送るとかこつけて暇つぶしについていくことにする。嘘だ。本音は、重苦しい家にいると息が詰まってつらいからだ。原因は自分だけど。心を読んだわけでもないのにつかさは呆れた顔をしたが、ついてくるなとは言わなかった。
真夏の日に当てられると、幽霊の体でも汗をかくらしい。歩き出してすぐにじんわりと浮き上がってきた汗をぬぐい、額に腕をのせて空を仰ぐ。目の前を歩くつかさはブレザーを着こんだままだ。
「暑くないのか? 浦川」
無言で歩き続けていたつかさはおれの言葉にぴたりと足を止めると険しい形相で振り向いた。
「暑い」
「……熱射病になる前に脱げよ」
「荷物になるんだよね」
と言いつつ、つかさは紺色のブレザーを勢いよく脱いだ。ちぎるようにネクタイをはずし、丁寧とはいえない手つきでまとめて脇に抱える。長袖の白いシャツが日差しに眩しい。そのシャツが少しだけ透けて、うっすらと肌の色が見えていた。健康的な肌の色。生きている証。
出勤時間を過ぎた誰もいない道を歩く。通りがかりに自販機を見つけた。
「浦川、何か飲まないか?」
「……おごってくれるの?」
「いいよ」
自販機の前に立ったところで財布を持っていないことに気づいた。制服のポケットに入っていたのは定期入れだけだ。誰にも見えていなくても、場違いなのが居心地悪くて制服になったのだが、その効果はこれだけだった。
「……自分で買うよ」
チャージも出来る定期に果たしてお金は入っていただろうかと悩んでいる間に、つかさが自分の財布から取りだした小銭を投入した。そう言えばそもそも買うことが出来ないのかと遅れて気づく。間の抜けた思考のおれをよそに、つかさは首を傾げて自販機を眺めている。迷っているらしい。
「…………」
二十秒の長考の末に、つかさは最上段の一番隅にあるペットボトルを選んだ。おれが驚いている隙に、がたんと落ちてきた透明な冷たい容器をかがんで掴みあげる。
「浦川、それ」
彼女は何食わぬ顔でボトルのキャップを開けた。口を付ける。透明な、何の味もついていない飲料が流れ込み、白いのどがごくりと嚥下するのが見える。それから、目だけ上げてこちらを見た。
「何」
「……いや。何で、水?」
全国的に普及しているはずの有名なパッケージがついたミネラルウォーター。それを飲むのはおればかりで、そもそもつかさは水を買うことに対して否定的だったのに。
「……別に。感傷に浸ってるだけ」
べこりと、他の飲料水に比べてやわらかいペットボトルがつかさの指先でへこんだ。意外な答えに、おれは言葉を失う。
「……やっぱり、何の味もしないや」
ボトルから口を離したつかさが、夢から覚めてしまったことを知った子どものように儚く呟いた。ボトルの中でたった泡が、きらきらと揺れながら消えていく。日差しを反射して、あるいは拡散させて、水の透きとおった影が地面に落ちている。
ふと、つかさはミネラルウォーターみたいなやつだなと思った。どこまでも真っ直ぐで、どこまでも真剣で、どこまでも純粋な考えの持ち主。いろんな見方があれど、おれにとっては透明で透きとおった、綺麗なものの象徴。ナイフ以外にも似合いそうな例えを見つけておれは満足し、思いつきを心の中にしまった。
「水って君みたいだよね」
と思ったら、つかさが同じようなことを言い出した。
「え、おれが? ……どこが?」
「考えてることがわかりやすそうで、実際何を考えてるかわからないところ。水みたいに、掴み所がないところ」
「……。そうか?」
「そうさ」
こんな時でさえ、何を考えているのかわからない。
そう呟いてつかさはまたミネラルウォーターをあおった。どう反応しようか逡巡した合間にうっかりチャンスを逃してしまい、どうしようもないので自販機とにらめっこして時間経過を待つ。ボトルの中の水は、どんどんとかさを減らしていた。冷たい水は、日差しを通して地面の上にゆらゆらと模様を落とす。それがプールの底、海の波間のようで、ふと連想が働く。水辺に立つナイフを持った少女。おれはかつてつかさを人魚姫だと称した同級生を思い出していた。
つかさの存在が浸透するにつれ、多くの生徒が下手を打つまいと遠巻きにし、または空気のように非干渉であろうとする層ができた頃。おれは橋渡し役としてすでに認識されていて、つかさへ用がある人はおれに声をかける人も多かった。つかさが席を外している休み時間に話しかけてきた彼女もそうだった。
「篠宮くん」
おずおずと声をかけてきたクラスの女子は、つかさがいないのを確認してこれを浦川さんに渡して欲しいと薄紅の包装紙でラッピングされた小さな包みを差し出した。
「渡しておけばいいの?」
土産物のような装丁だったのを意外に思いながらとりあえず受け取ると、彼女は首を振った。渡すなと?
「あの……いいタイミングで。渡せる機会があったら渡してほしいの。篠宮くんなら大丈夫だと思う」
めちゃくちゃ高度なことを要求されている気がする。いいタイミングってなんだ?
女子生徒は控えめに目を伏せて肩にかかった毛先をつまみながら、説明する単語を選んでいるようだった。息をひとつ吸うと、目が上を向く。目が合う。
「わたし、浦川さんと同じ学校だったから」
「――」
そういえば、つかさを浦川さんと呼ぶ人は珍しい。本人が嫌がるからだ。直接でなくそう口に馴染んでいるのは元の知り合いだからか。あいつは一切知り合いについて口に出さないから、何となく同中はいないのかと思っていた。つかさを知っている人間はあまり関わらないようにしているのだろう。
「あのね、」
「待って」思わず飛び出した言葉に自分で驚きながら、おれは相手の発言を制止できたことにほっとした。「……人から聞きたくない。あいつ、そういうの嫌がるだろ」
女子生徒は目を瞬いて口をつぐみ、毛先をいじりながら胸もとで指を絡め、そっと微笑んだ。儚い笑顔だ。
「篠宮くんは本当に浦川さんと仲がいいんだね」
彼女はおれの知らないつかさを知っている。罠だとわかりきった宝箱を前にしたような、そら恐ろしい気持ちになった。武装して、そうでありたいと願う今のつかさを簡単に剥いでしまえる存在。それは今のおれたちの関係も壊しそうな諸刃の剣に見えたのだ。
「でも、わたしもあんまり知らないの。……これ。あの子の友達から預かってたんだ。渡しそびれて、ここまできちゃって」
「……自分で渡さないのか?」
「篠宮くんがどこまで知ってるかわかんないけど……その子、もういなくて。一緒に買い物したときに預かって、そのままだったの」
「あー……タイミング逃すって」
「それもあるけど」言い淀んだおれの言葉をきちんと読み取って、その上で女子生徒は首を振った。さらさらと髪が流れる。癖のない髪。つかさとは対照的な。「……その時期、カノジョ、結構荒れてて」
「そんなに暴れたの? 想像……はつくけど」
マシンガンを撃ちまくるような荒れだったのかと想像する。けれどまた彼女は首を振った。
「今じゃそんな風に見えないかもしれないけど、あの子があんなに怒鳴ってるの初めて見た。……カッターで髪を切ったんだよ」
「え」
「自分の髪だよ」
浦川さんがああなったのは、それから。
雫がそっと落ちるようなささやき。何かがあったことは明白だった。おれが言わないでくれと頼んだから彼女は大体のことを伏せてくれたようだ。それは別の意味でおれの胸に深い杭を打ち込むことになったけれど。
「これ、髪飾りなの。友達が浦川さんに似合うだろうって買った。でも、今のあの子には嫌がられちゃうかもしれないから」
おれの手にひらに渡ってしまった思っていたより重たい贈り物は、年月が経ってギフト用の金色のシールが浮き始めていた。逆さにすれば簡単に滑り出てきてしまいそうな。
「……ナイフの方が喜びそうだもんな」
どうにか下降しがちな空気をあげようと軽口を叩くと、女子生徒はつられるように微笑んでくれた。
「今の浦川さんは『人魚姫』みたいだってみんな言ってた」
「人魚姫?」
「ナイフで、王子を刺した人魚姫」
とんでもない例えが出てきたものだ。王子に見切りをつけて自らナイフを振り上げた人魚姫。似合うな、と思ってしまったから重症だ。毒されている。
「王子が許せなかったから、あの子はああなったんじゃないかなって」
「王子、いるの?」
「うん。そういう立ち位置の人はいたよ。えと、王子ってようは人気者っていうか、みんなの中心みたいな人で、でもちょっと……。わたしも浦川さんも苦手にしてたな。あんまり好きじゃなかった。浦川さんは、我慢の限界を越えたんだろうね」
「……刺したの?」
さすがに、と彼女は苦笑する。そこまでしていたらもっと騒ぎになるか。そっと胸をなでおろす。でも、と女子生徒は続ける。
「……本当に魔法のナイフがあれば、よかったのかもしれないね」
女子生徒が立ち去ってから、手の中に残った包みに目を落とす。思案の末袋をさかさにするとかさりと中身は滑り出てきた。
貝と、ヒトデと、珊瑚や真珠をモチーフにしたチャームが連なるヘアゴムだった。先程聞いた話と重ねてしまう。今のつかさはおとぎ話のような恋した娘ではなく、王子を殺すために足の痛みも受け入れた燃えたぎる人魚に違いなかった。
結局つかさが戻る前におれはそれをしまい、未だ渡せていない。あの女子生徒には悪いことをした。
「……なあ。明日は学校に行くのか?」
「ああ」
「そう。じゃあおれも行くよ」
空になったペットボトルを逆さに振って、ゴミ箱に投げ入れ、つかさはおれを振り返った。何を考えているのか、推し量ろうとする目。
「ちゃんと行く。お前にしか見えなくても、お前にも見えなくなっても」
つかさの瞳が揺れた。何か言いたそうな唇を待つと、深呼吸三回分の時間のあとに神妙な顔で確認を取ってきた。
「……本当に?」
「うん。本当に」
彼女も不安になっているのだと気づいて、安心させるためにおれは笑う。おれだって忘れられたくはない。一人で、消えたくはない。
疑り深い相手に思いつきで指切りを強要し、明日は学校で会うと約束する。つかさは小指を見つめたあと、おれを睨むようにして頷いた。これは約束を破ったらタダじゃおかないと考えてる顔だ。……もとより破る気などない。
それよりおれとしては、試しに提案してみた指切りが成立してしまったことの方が重大だ。連れだって歩き出しながら考える。不安につけこんだような気もするが、これぐらいのことを役得と考えるのもおれくらいのものだろう。
翌日。
校門の前で、事故に遭う前となんら変わらない格好で待っていると、いつもよりやや遅い時間につかさが来た。ほっと胸をなで下ろすと同時に、相手がおれに気づく。
「……篠宮」
「おはよう、浦川」
つかさが不安そうに瞳を揺らして、ぽつぽつとある校門前の生徒たちの背中を目だけで追った。そこへタイミングよくクラスメイトが駆け込んできて「よーっす、いつも仲いいなーお二人さん!」とおれの肩を叩き生徒玄関へ走っていった。ぽかんと背中を見送ってからつかさに視線を戻すと、まじまじとこれはカルピスなのか米のとぎ汁なのか見極めようとする目でおれを睨み付けていた。気持ちはわかるが怖いからやめてくれ。
「……君、生きてるの?」
「それはおれが知りたいんだが……」
入ろう、と身振りで示して校門をくぐる。緩慢な速度で歩きながら切り出す。
「浦川にだけ見えてるもんだと思ってたんだけどな。夕べ、近所うろついても気づかれなかったし」
「今は……?」
「なんか、学校では見えてるみたいだな」
どんな超法則だ。
クラスへ到着すると、「珍しいな、ふたり揃ってって」と古坂が大声で挨拶してきた。視線からしてここでも見えないなんてことはないらしい。つかさの目が一瞬剣呑になったが相手からの反応は無し。
「古坂。三日ぐらい前に誰かクラスで事故しなかった?」
「は?」
古坂は首を傾げ、茶色い頭をかいた。
「いや。そんな話聞いてないな。何だ? 誰か捕まったのか?」
にしし、と人悪い顔で笑って教えろよと肘でつついてくる。鬱陶しかったので問答無用で頭を引っぱたく。おまえが捕まれ。
「ひっでえの! で? で? 誰が事故ったんだ?」
苦い顔をするつかさを背中にかばいつつ目線を送る。おれの陰に隠れて古坂を避けたつかさは頷いて眉を顰めた。古坂は、あの日のことを覚えていない。忘れていると言っていいのかわからないレベルで話がちぐはぐだ。むしろ、学校では事故そのものがなくなっているのか。
いったいおれたちはどこに迷い込んだんだ。
「古坂、もしおれが事故ってたらどうしてくれる」
「あっはっは! ドジってメールを愉快な絵文字付きで送りつけてやるよ」
「ありがたくねぇな……高級菓子もって見舞いにいってやろうという気になれんのか」
「しかたねーな、十円ガム十個分持ってってやるから、感謝しとけ?」
「おまえが事故ったら植木鉢で見舞い花持ってってやるかな、覚悟しとけよ」
わざとらしくぎゃーと悲鳴を上げて古坂は廊下へ逃げ出していった。
放課後、町を歩いてみてわかったことがある。
学校を出て少しして、町の人がおれに関心を払わなくなった。
学校から離れれば離れるほど、おれの姿が見えなくなるのかと思ったらそうでもないらしい。顔を知っている店先のおばさんや知り合いには見向きもされないが、まったく知らない相手からはきちんと挨拶されたり道を譲られたりした。つまり、死んでいるという事実をリアルに知っている人間からはおれは見えなくなり、逆にまったく知らないと見えるらしい。
学校はそういう意味では接触者がたくさんいるはずだが、一番見えない場所である家から遠いからかもしれない、と言うほか結論がでなかった。ちなみに、学校で会話したはずのクラスメイトは外で会うと認識してくれなかった。外ではおれが死んだということもちゃんとわかっている。学校に来たときその矛盾はどうなっているのかが気になったが、都合よく解釈されているんだろうなと考えるのをやめた。
つかさはどこまで行ってもおれの姿が見えるようだが、理由はわからない。
この状況に慣れるまで、つかさは表面上はともかくところどころ不安定だった。普段通りに話をしているのに、少し席を外すとまずおれの姿を探す。目を離した一瞬にどこかへ消えてないかというように。言葉を拾い損ね、会話はぼろぼろにすり切れた布のようだった。五日目あたりから軽い冗談にぎこちなく微笑むくらい回復してきて、一週間経ってようやく元のような調子を取り戻した。時々痛いくらいに腕を掴んでくることをのぞいて、元通り。意外に思われるかも知れないがつかさはかなり繊細だ。友人がいるいないという話をしたときにも傲然と腕を組んでいたが、友だちがいないと不安がっているのは実はつかさの方だ。注目を浴びる彼女だからこそ、盾となる仲間を欲しがっていた。けれどその「弱さ」を変につけ込まれるわけにはいかないから、肩肘を張って耐えていたのだ。
そんな強がりなやつの傍にいていい許可を貰っている唯一のおれが死んだことになっているのだから、彼女の胸中は酷く混沌としたものになっているだろう。それを慰めているのもまたおれなのだから、さっぱり不思議というか、意味不明としか言えない。
この状況をどうにかしようなんてまったく思わず、学校の中では生きていて、学校の外では死んだことになっている不思議な生活を送りながらも、相変わらずおれはつかさと一緒にいた。
一週間と三日ぐらい経ったある日、帰りのホームルームが終わったあとでつかさの姿を見失った。鞄は置いてあるのに教室付近には見あたらず、何か用でもあるのかとおれは自主的につかさを待つことに決めた。クラスメイトが帰っていくのを見送り、空っぽの教室で一人席について彼女が戻るのを待つ。
なのに、一向につかさが帰ってくる気配はなかった。
おれと同じく帰宅部員のあいつが放課後に学校に残る用事はないし、日直や当番でもないはず。何も言わず(鞄も置いて)帰るようなやつでもない。ここ最近は特に。
まだ十分に明るいけれど、傾き始めた日に不安を覚えて、おれは二人分の鞄を持って教室を出た。
一番可能性の高い図書室。いない。部活棟。いない。中庭。いない。
隣のクラスや理科室みたいな特別教室まで足を伸ばしてみたけど、どこにもつかさの姿を見つけられなかった。すれ違った同級生に行方を尋ねてもみたけど、彼女たちもそろって首を横に振った。
つかさが好きそうなところ。静かで、人通りの少ない、綺麗なところ。この学校に屋上があったのなら十中八九そこにいただろうが、現実に屋上が開放されている学校は少ない。保健室や体育館にいるはずもない。地道に探すしかなかった。
のんびりと歩きながら、言葉ではなく思考でつかさの心境を追う。この学校にいる誰よりもつかさについて詳しいつもりだが、考えていることすべてがわかるわけじゃない。一つひとつの要素を拾い上げて、こうではないかな、と予想するだけ。
死んだ友人。でも傍にいる友だち。いつ姿を消すのかわからない親友。おれが傍にいることで、あいつは救われているのか責められているのか。弱みを見せまいとする細い肩を思い出す。
その姿を見つけたのは、渡り廊下の上だった。グラウンドへ降りる外階段。その最上段に、悄然とつかさは座りこんでいた。
遠目に見えるその横顔は、まるで迷子になって帰る家を諦めた猫のようだった。それを見て、おれは遠くから声をかけることを止めた。
夕陽に照らされた頬がオレンジ色に照っている。足音は聞こえているはずだが、反応はない。
「浦川」
隣に立って声をかけると、ようやく彼女は目を瞬かせてゆっくりと顔をこちらに向けた。
何か言うのを待ってみたが、口を開く素振りも見えない。鞄を下ろして、おれも階段に腰掛けた。
広いグラウンドで、運動部が声を張って活動しているのが聞こえてくる。
「どうした?」
そっと尋ねる。
つかさは長くかぼそい息を吐いて顔を伏せた。伸びてきた髪の合間から白いうなじがのぞく。今のところおれはこの髪の長さ以外見たことはない。この髪も直に切ってしまうんだろうな、とぼんやり思う。
前振りなくつかさが口を開いた。
「幽霊について考えたことがある」
いきなりだな。
「幽霊と人との違いは何か。怪談や怨霊みたいなものじゃなくて、ファンタジーや感動系のドラマにあるみたいな幽霊の話を読んで、不思議に思ったんだ。しゃべるし笑うし言葉も通じるのに、何で幽霊ってだけで拒絶されなきゃいけないのか。簡単だね。そりゃあ人間とは違うから。幽霊は透けてるしすり抜けるし、ものは食べないし年は取らないし、触れられると冷たいっていう。そんなもんかな、って今まで流してたけど、じゃあ、もし体温があって、透けないしすり抜けないし、ものは食べるし年を取る幽霊がいたら、人間と何が違うんだろう? どうやって見分けるんだろう? 違いなんて何もないはずなのに。傷ついたら痛くて、眠かったら寝て、遊ぶことは楽しくて――。その人は、人間じゃないのか? そこまでできて、生きてはいないのか?」
何が違うの? 何で違うの?
いつもの饒舌な語りだったが、おれを仰いだ目は絶望しかけた囚われの姫のように陰っていた。
つかさが今語ったそれは、まるで今のおれじゃないか? だったらその違いは?
つかさは疲れたような顔で曖昧に笑って膝を抱えた。
「――そんな幽霊がいたとしたら、最大の違いは、死んでるかどうかだ」
篠宮つみきは死んでいる。生者との違いはたったそれだけだ。
病院に運ばれ、その数時間後に死んだ。
体温があっても、食事を必要としても、すり抜けないし透けてなくても、これからこの先年を取っていったとしても。死んでいる事実は変わらない。その一点で、おれは人間とは違う別物になってしまったというわけだ。
生者と死者の境界線。よく似ていても、両者は存在する世界が違う。まるでパラレルワールドみたいに位相はずれて、交わらないはず世界線。
「そうか」
あまり衝撃は受けなかった。すでに事故が起こったあとすぐ死んだものだと受け入れてしまったせいだろうか。自分は死んだもので、その名残や残留思念なんかが人生の続きをしている。そう考えるとしっくりする。
何か世界の流れのようなものがあったとして、おれはどこかで肉体を忘れてきたうっかり屋さんなのだ。忘れ物は取りに戻れない。しかたないから、あるものでどうにかしようと受け入れて今も流れに身を任せている。そんな状態。
頭上のまだ青い空を見上げる。不思議ではあるが、悪くはなかった。
曖昧に溶けた運動部の声が届く。遠くから夕焼けが近づいてくる。
「帰ろう? 浦川」
語り終えてまた口をつぐんでしまったつかさに、そう声をかける。
「…………うん」
長い時間黙ったあと、つかさはため息をつくように答えた。海から上がりたての人魚姫のようにふらふらと立ち上がる彼女を支え、学校を後にする。途中、こちらの顔色を気にして窺う風なつかさの視線に気づいたが、おれは気づかないふりをした。変に気を遣うつかさというのは、何だか居心地が悪い。彼女は傍若無人を装って手厳しい意見を吐くくらいが丁度いい。
その受け入れ姿勢がよかったのか悪かったのか、事故からおよそ二週間後、前々から抱えていた秘密を告白するように沈んだ声で、つかさが言い出したことがあった。
「……墓参りに、行きたいんだ」
テスト前の半日授業を終えた日に、帰る気にならないといってつかさの家の最寄り駅ではなくおれの家の方の最寄り駅まで来た理由がわかった。少し考えて、方向を変える。
驚いたつかさを十歩先から振り返って呼んだ。
「来いよ。篠宮家の墓はこっちだ」
まだ四十九日が過ぎてないせいか、お墓には綺麗な花と線香の香りが残っていた。
白い砂利を敷き詰めた地面を歩き、篠宮家の中でも一番大きな墓石の前に立つ。何年か前に建てかえられた、遺骨を納めるための集合墓だ。そんな名称はないだろうけど、すでにこの中に祖父と祖母が入っている。
実感はないが、この中におれも眠っているんだろう。
まめに母か誰かが来ているのだろう、まだ長さの残る線香の火が灯っていた。その火を見つめて突っ立っていると、横でつかさが座り込んで手を合わせた。なかなか見ない姿勢だ。
線香の煙がゆらゆらと揺れる。
蝉の声が雨のように降っているのに、それでも二人しかいない墓地はやけに静かだった。
やがて手を下ろしたつかさは、まだ新しい墓石と色とりどりの花を見上げて、――ゆっくりと、唇を震わせた。
長いまつげが上下し、瞳がうるむ。耐えかねるように顔をくしゃくしゃにして、つかさの口から嗚咽がこぼれた。あふれた涙が抑えた手からもこぼれて腕を伝い、地面に落ちてまるい染みを作る。
そうして、つかさは声を上げて泣いた。
おれはそっと目を閉じてその声に耳を澄ませた。
このために来たんだ。今日、つかさはこのためだけに墓を訪れてくれた。
彼女はさまざまな自分の弱さをプライドの高さに変えて自分を守っている。弱みを見せないこと。叩かれる前に食ってかかること。武器を持っていると牽制すること。そして、泣かないこと。泣いた方が苦しくないのに、そうと決めた彼女はここまで泣かないまま来れてしまった。泣くことは体力を使う。でも、泣きたいときに無理して抑えることはもっと体力を使う。だからもう、つかさはふらふらだった。泣けなくて。泣く場所がなくて。
でも、やっと泣けた。
自分は酷い人間だな、と他人事のように自覚して目を開ける。悲しんでいる彼女が、自分のために泣いてくれていることが嬉しい。彼女が初めて涙を人に見せた相手が、自分で嬉しい。泣く彼女を慰めようともせず、その隣に立って自分の墓石を眺めながら、言葉は滑り出た。
「つかさ。君の隣にいられなくてごめん」
言ってしまえば乾いた地面に水が染みこむように胸にしっくりと来るものがあった。喜びを引きずったさみしさ。――ああ、そうだ。
――おれは、ずっと君の隣にいたかった。
こんなことになってからしかわからないけど、幽霊になって初めに会ったのが君だったから、やっぱり未練があったんだろうな。
声が少しだけ大きくなる。
たった一人のためにたった一人が泣く声は、それからしばらくの間、蝉の音に紛れたまま続いた。
5
篠宮つみきにとって浦川つかさは特別な存在に違いなかったが、逆もそうかというと難しい。控えめに判定しても特別枠であると肯定できる関係性だと思うものの、酷い話、こうなってしまったから浦川つかさにとって篠宮つみきは特別になってしまったのかもしれない。できれば気に入りの装丁の本ぐらいの愛着で、ページをめくらずとも手に取らずとも本棚に必ず並べておくような、そんな心の寄せ方であってほしかった。幽霊になってしまった友人相手に思うことは難しいかもしれないけれど。
「なあ、浦川。ちょっと聞いてくれ」
ホームルームまでの待ち時間に帰り支度をしながら、ふと思いついて後ろの席に声をかけると、「何?」といつも通り淡泊な返事。上げた顔の涼しげな表情もいつも通りだ。
墓参りを区切りにしたのか、現状に腹をくくったのか。それからつかさは元のように調子を取り戻した。見た目や具体的にこれといった変化はないが、強いて言うなら「いつも通り」に冗談じみた雑談や課題の答え合わせをするようになったことか。
「前に見たテレビでさ、感情エネルギーを集めるっていう話が出てきたんだけど、それがちょっと気になって」
つかさはいつもの思考実験的な会話だと判断したのか、相槌を打って先を促した。
ファンタジー色の強いその話は、当たり前のように倒すべき敵とか武器や能力を持つというキャラクターが出ていて、その話の中に人間の巨大な感情を集める云々という下りが出てきたのだ。作中では方法について言及されていなかったが、願いを叶えるためとか世界を守るためとかにエネルギーが不足していて、それを強い感情のエネルギーで補っているという話だった。
感情のエネルギーを集めるという設定はわりと定番な気もするが、考えてみて思いついた。
「何をどうやって集めているのかな、と思って」
あらすじを交えて説明すると、まずそこまでは飲み込めたという印に頷いて、つかさはまず言った。
「そんなんでエネルギー不足解消できたら訳ないよね」
言うな。
「まあとにかく。『回収する』って一言で説明されてるけど、何をどうやって回収してるんだ? どうエネルギーになるのかわからない」
「まあ、確かに」
「というか、そもそもどうやって回収するんだ?」
お話の中ではスイッチを入れたら吸収するとか、いつのまにか貯まっている感じだった。でも実際目に見えないし、捕まえておくような形のあるものでもないものを、いつ何して回収すればいいのか。
「爆笑してるときとか泣いてるときにエネルギー変換スイッチとか押すの?」
「自分の手で? めんどくさいね……」
つかさも考えるのに乗っかってきた。表面には出さないが、考えるのを楽しんでいるようだ。
「しかも泣いてるときとか、そんなときに押す余裕ふつうないよね」
「うん。――あと、回収した瞬間笑いとか涙止まるのか? いきなりピタって」
言っておいて何だが思い浮かべた情景が想像以上にとんでもない。スイッチを押すといきなり笑いが止まる人なんて見たくない。
「……それはシュールな光景だな……」
チョコだと思って口に入れたらカカオだったみたいな渋い顔をしてつかさがうめく。
言いながらもおれだってこれはねーなとか思っている。
「やっぱ自動じゃない?」
とつかさは口元に手を当て考え込む素振りを見せて結論を先取りした。
ふむ。確かにそれが一番わかりやすくて手っ取り早いけど。
「でも自動だと感情が起きた瞬間に勝手に回収されちゃうから、人がみんな無感情になるんじゃないか?」
「ああ、なるほど」
「そもそも、感情ってどこまで入るんだ? 呆れとか入るかな?」
喜怒哀楽は前提だ。強い感情にもいろいろあるだろうと思って聞くと、つかさはまずそれには否定の反応を示した。
「呆れは入らないんじゃないか? 判断に微妙な感情だし」
「でも、なんかもう諦めの境地に入りそうなレベルの呆れとか消耗力すごくないか? 驚きなんかは、危険な目に遭ったとき心臓ばくばくするとか、エネルギー量すごいし。あれ実際体のエネルギーかなり消費してるらしいじゃん」
「そう言われるとそうだね……」
話をしながら鞄に荷物を片付けていたつかさがふと声を上げた。
「あれ、テスト範囲のプリントがない」
「お? コピーする?」
「いや、たぶんロッカーの中だ。取ってくる」
立ち上がったつかさが、そう言って傍を離れた。廊下に並んだロッカーは置き勉に便利な仕様で、教科書以外のいろんなものを入れている人も多い。
自分の支度を終えてホームルーム開始をぼんやり待っていると、ポケットに両手を突っ込んだ古坂が大げさな顔で話しかけてきた。
「篠宮、何にやにやしてんだよ?」
「にやにやしてたか?」
「でれでれしてたな」
「でれでれはまずいな……」
実際にそんな顔をしていたつもりはまったくないが、古坂は窓枠に腰掛けておれをからかおうと虎視眈々だ。その流れで「何かいいことあったのかよ?」と話題を振ってくる。真面目に考えているときにはこいつのノリはめんどくさいものの、受け流して会話を繋げるおれのリズムと考える前にしゃべる古坂のテンポは悪くない。
顔はともかくいいことがあって少し浮かれた気分だったのは間違いないので、「まあそれなりにな」と適当に頷いた。
「前に、浦川にちょっとしたプレゼントをもらってな。とても気に入ってすごく嬉しいのでお礼をしたいと思って、何にしようか悩んでいるところだ」
「そういう小っ恥ずかしい発言は本人にしてくれ。お礼?」
「うーん、実用的なブックカバーとかがいいかな」
しかし思いつくものがあまり貰ったものとつり合わない。考えつつ唸り続けていると、古坂が何も考えてないレベルの思いつきで言いだした。
「あえてワンピースとか贈ってみたらどーだ? もしかしたら着てくれるんじゃね?」
「言うまでもないが今のおれには未来が見えるぞ」
しかもあまりよろしくない未来だ。
そういう姿が見たいという素直な欲求には是非とも賛成したいが、人生を早まりたくはない。
「じゃ、アクセサリーとか?」
無難と言えば無難な答えだが、これもまた難しい。そもそもアクセサリーの類をあいつは好んでいるだろうか。格好いいのを選ぶのか、可愛いのでもセーフか。下手に選ぶと、
「……喧嘩を売ってることになりそうだ」
見極めが厳しすぎてそれもちょっと踏み切れない。
「好みとか知らねーのかよ?」
口外に知ってるんだろと尋ねる古坂に肩をすくめた。何となく好みはわかるが、それは傾向であって実物ではない。アクセサリーに関してはまったくの守備範囲外だ。
「インテリアを貰ったんだからインテリアでお返ししようかな」
好みというなら、つかさはシンプルなものが好きだ。ガラスの置物、小さな観葉植物、木製の小物、パステルカラーのビーズクッションなんか。
「でも、実用的なものの方がいいよなー……」
「湿度計とか?」
「おまえ浦川をなんだと思ってやがる」
即座に古坂に突っ込みつつ、つかさにもらったものを再度脳裏に思い浮かべる。同時に、貰った日のことを芋づる式に思い出した。
つかさが完全に吹っ切る数日前のことだ。幽霊になってからつかさの家に行ったことがある。
法則に則ればおれの扱いは外と代わり映えないはずで、顔見知りだったつかさの母親の反応を得られない以外は普通の人間として出入りが出来た。とはいえ、何だか居心地が悪くて(家人の認識齟齬に気を遣うせいだ)足を踏み入れたのはそのときだけだが。
思い出深いのは、以前来たときには部屋になかったものが増えていたことだ。いつも通りつかさの部屋に招かれたおれが床に腰を下ろしたところで、それに気づいた。
「これは……」
「積み木」
部屋の隅に、ただ積み重ねただけの積み木の山があった。模様も何もないシンプルな木。素っ気なくつかさが言った。
「君に嫌がらせのためにあげようかと思ってたんだ」
傍らにあった箱を拾い上げてよく見ると値段がついている。四桁。ハードカバーなら三冊は買える値段だ。バイトもしていない高校生が嫌がらせのために買うには大きすぎる買い物である。
積み木の箱を眺める。床に積み上げられた小さな城。おれの名前にかけてつかさが選んだ木製のおもちゃは、シンプルに温かみのある色をして門戸を開いている。
これを買ったときのつかさの悪戯っぽい笑みと渡された自分が笑ってしまう存在しなかった未来を思って、おれはその箱を抱いて彼女に振り向いた。
「今からでもくれる?」
「……」押し黙ったつかさは、積み木の城と箱を見て大きく息を吐き出し「かまわないよ」と呟いた。
それから一人で片付けるのが面倒な宿題を一緒に片付け、またはテレビを見て、他愛ない話で時間を過ごした。
だから、今おれの部屋にはつかさからのプレゼントがある。
それに毎日心癒されているということは、いわなくてもいいことだ。
積み木が果たしてインテリアに入るのかどうかはさておき、部屋に飾られているのだからインテリアでもおかしくない。
積み木から連想してインテリアに思いを馳せていると、そこへプリントを探し当てたつかさが戻ってきた。珍しくもなさそうな顔でおれたちを一瞥、ふいに足の方向を変えた。目を瞬かせている間におれと古坂の間までやってきて。
「ぐはぁっ、何!?」
古坂の脇腹に手刀をたたき込んだ。斬ではなく突き。クリティカルヒット。古坂が脇腹を押さえて崩れ落ちた。
「何となくむかついたから」
「どういうことよ……! 痛ぇ! 骨と骨の間が的確に抉られたんだけどッ」
涼しげな顔で訴えを無視すると、つかさは何事もなかったかのように席について鞄の中にプリントの束を入れ始めた。おれは頬杖をついて古坂のフォローに回る。
「よかったな古坂。むかついてあの程度って」
「何オレ死亡フラグが立ってたの!?」
「そういやおまえ、前に浦川キレさせたの覚えてるか? 土下座して額こすりつけて許しを請わなくていいの?」
「何だそりゃオレ一体いつええっ!?」
あわてふためくノリのいい古坂の、この部分だけ見れば憎めないんだが。
即座におれが言った言葉の意味に気づいたつかさが声を尖らせた。
「篠宮、余計なこと言うな。自覚のない人間に謝られたって見当違いで不愉快になるだけだ」
「……。それは失礼」
もっともな言い分だったので、おれもそれ以上は言わなかった。
「え……オレ本当に何したの?」
それを逆に嵐の前の静けさと受け取った古坂が怯えたように震えた声で呟いた。
「オレ……ちょっと自分を見つめ直してくるよ……」
「おう、そうしろ」
担任が教室に入ってきて、生徒に席に着けと呼びかけた。よろよろと打ちひしがれた姿で脇腹を押さえながら古坂が去るのを見送り、おれも姿勢を整える。そこに、ばたばたする教室内の騒音に紛れて、背中から囁くように声が届いた。
「……おい。何であんなこと言った」
「んー……何となくかな。ダメだった?」
「……言う意味なんてないだろう」
先生の連絡事項の声に紛れて、つかさは押し殺した声で言った。
「彼は学校を出たら、僕と目を合わせようとはしない」
まあそうだろうなと思う。古坂とつかさはおれを介して知り合いだったみたいなものだから、外で話すわけがない。
「そういう意味ではなくて、」
と思ったら、つかさは眉を微かに顰めて唇を横に引き締めた。
「忘れて謝られないのも不愉快だけど、実際謝られても不愉快だ。彼は最初から問題を取り違えている」
学校の外に出たらおれと話したことを忘れてしまうから、謝罪を要求する意味がないという意味の制止だと思ったのだがどうやら違うらしい。
意味を問うと、事故にあった数日後、帰り道で古坂に声をかけられたことがあるという。おれが席を外していた時の話だ。いたとしても古坂には見えなかっただろうけど。
駅へ続く夕暮れ前の明るい通学路は、小中学生の帰宅時間を大幅に過ぎていて、日の高さに反して人はいなかったらしい。「浦川」走ってきた足音と声の主に気づいて、つかさは頑なに振り向くことを拒絶した。
「待てよ浦川、用があるんだ」
「僕は用なんてない」
その背に追いついた古坂はどこか意を決した顔でつかさを呼び止めたが、彼女はその時点で彼の目的と先が読めていたようで、冷えた声でそれをばっさりと切った。その即答スピードに古坂が困惑する。
「怒ってるのかっ?」
「――怒ってる? 怒ってるか、だって?」
つかさの沸点は別に低いわけではない。だが激情家というのは伊達ではなく、しかもそのラインがわかりづらい。そのときは即座にラインに触れたらしく、足を止めると肩で息をする古坂に向かって斬りかかるように言葉を叩きつけた。
「僕が怒ってるように見えるんだ? へえ! 怒ってる相手をなだめる方法を知ってる!? 口を閉じて何も言わずそいつの視界に一切入らないようにすることだよ! 怒ってると思うんならさっさと失せろ! 僕は君に関わりたいなんて一切思わない!」
波紋も立っていなかった水面がいきなり嵐の津波になったような激白に古坂は気圧されたようにひるみ、一瞬だけ息を呑んだが、負けず言葉を続けた。
「浦川!」
「何だうっとうしい! 邪魔だ!」制止させようと伸ばした古坂の腕を振り払い、つかさは容赦なく噛みついた。
「っ……篠宮は死んだんだぞ!」
相手を黙らせようと咄嗟に叫んだ古坂は、不満と不安を言いたげにあえいだ。
「そうだよ君のせいでね!」
「!」
それもつかさの眼光に一睨みされて強制的に口をつぐまされた。傷ついた顔にもつかさはひるまない。
「今更何しに来たの? 僕に謝罪でもする気? それとも僕のせいだって糾弾しに来たの? へえ、言ってご覧よ、聞いて上げるさ! そうだよ、あいつは僕のせいで死んだんだ! 僕と、君のせいでね!」
「っ!」
それとわかりながら直視することを避けてきた古坂は、真正面から刺されて怯んだ。抱いた思考すべてを怒りに変えたつかさは、吐き出した業火の分荒く息をつき、ギラギラと遊色オパールより激しく乱反射する瞳で古坂を睨みつける。眼光に刃あれと、質量あれ、この意識に、この意志に刃よ宿れと願っている。殺意の重さだけ熱量が増えるならば、つかさの熱は鉄をも容易く溶かす温度に違いなかった。
「君を恨んでどうなる……」
吐くようにうめくつかさの怨嗟は、対峙している古坂にすらわからないだろう。
「どいつもこいつも……本当に……」
今更のように人通りのない通学路に声が跳ねて返ってきたことに同時に気づいたが、静まりかえって場を満たした沈黙をわざわざ壊そうとはしなかった。
息を整えつつ立ちつくしていた古坂は、だいたいの呼吸が落ち着くと悲痛な顔で同じ傷を負ったはずのクラスメイトに声をかけた。
「げ、原因がオレにあるのは認める。どうしよ、うもないことに、なったことも。だから、何も言わないのも、忘れたふりするのも、しちゃダメだろ」
ちゃらんぽらんな風でいて実直で素直な古坂は、プレッシャーを重く受け止めすぎない世渡りのうまさを持ちながら責任に関しては悩むだけ悩んだあときちんと答えを出し行動に移せるだけの胆力を持っている。そんなところは素晴らしく称賛する美点なのだけど、残念なことにつかさとの相性はおそろしく悪い。つかさは自分以外をすべて敵だと思いたいタイプなのだから。
「それで僕に謝るの? 君が? なんで? 僕はおかげさまで傷一つないけど?」
的確に抉ってくる皮肉に、そこまで直接的な敵意を受けたことが少ない古坂は青褪めて顔を歪める。お互いにほとんど友人を挟んでしかやり取りしないふたりはここで改めて合わないと解っただろう。
「君を刺し殺して満足するならとっくにやっている……」
吐く声は掠れたように低い。身体の横で握りしめた拳がぶるぶると震えている。
「君では足りないんだ……君がまだ悪意を持って明確に意図してやったなら……原型留めなくなるまで刺してやった……。ところが、どうだ? きっかけ、原因? そんなものに、なり得るか? 君が? たかが君程度が? 失策したのは僕の方だよ、あああの理不尽、許されない、ちくしょうホントにどいつもこいつも……よくも、よくも踏みにじって、そのせいで、何故篠宮が被害を被らねばならない?」
つかさの怒りを真正面からくらって怯んだものの、呪詛の先が十割十分自分ではないと気づいた古坂は逆に狼狽えて棘を開く獣相手のようにうろうろと手を彷徨わせる。
「理不尽が……あの時だって……。あんなにも……あんなにも明確な過失があったなら! 」
顔を伏せたつかさはエネルギーを使いすぎたのか、張っていた肩も、声も、力も抜け落ちて脆くなっていく。
「アイツは殺せばよかった……」
萎れたように顔を伏せてしまったつかさの様子に、様子をうかがっていた古坂は恐る恐る口を開いた。
「……オレを許さないってこと? オレが、あんなこと言ったから」
古坂がいることを今思い出したとでもいうように、顔を上げたつかさは鼻で笑ったあと苦々しげに顔を顰める。
「そんなことで怒ってると思ってるのか?」
古坂はようやくお互いが話をしようとしている論点のズレに気づいたが、入学当初の激しい気配を毛羽立たせたつかさに、反論を差し込めるはずもなかった。
「どいつもこいつも……。本当に、癪に触るやつばかりだ」
つかさは怒りで凍りついた顔のまま、素っ気なく話題に終止符を打って踵を返した。
その一連の話を聞いて、おれは少しだけ口元を緩めて笑いかけた。
「実はちょっと、後悔してるだろ」
「……」
彼女は机の上で腕を組んだままあさっての方角に目を落とし、キッとそこを睨み付けている。否定しないところに心が透けて見えた。
つかさはきっと感情エネルギーのスイッチを持っている。笑いや悲しみをすべて怒りのエネルギーに変えて生きてきた。
今更そのスイッチをとりあげて、つかさは生きていけるだろうか。
テスト期間中の昼過ぎホームルームから解放されると、ばらばらと挨拶を交わしてクラスメイトが教室から去っていく。おれとつかさも連れだって教室を出た。
「あ、浦川くん、篠宮くん、ばいばい!」
「さよなら」「おお、さよならー」
廊下をすれ違った女子が手を振ってかけていく。挨拶される程度に慕われているというつかさの姿を見ることは少しほっとする。保護者かと自分で突っ込んだがむなしいのでやめておいた。
「そういえば、魔法使いの噂を聞いた」
今のクラスメイトを見て思いだしたのか、階段を下りながら唐突につかさが言い出した。
「魔法使い?」
「女子の間ではやってるんだと。魔法使いに会う方法」
「魔法使いに? 会いに行くのか?」
「そういうおまじないだよ」
よくある女子が好きそうな話さ、とつかさは苦笑とも自嘲とも取れるあいまいな笑みを浮かべた。
困ったときに助けてくれる、願いを叶えてくれるという魔法使い。ローブ姿の老人だとか近場の高校生だとか子どもの姿をしているだとか、そんな姿さえあやふやなレベルの噂が静かにはやっているのだと。
その噂では、魔法使いに会う方法はふたつ。
「知らない路線に乗って、寝るかぼうっとするかして我を忘れた後、気づいて止まった一番近い駅で降りると魔法使いがいるって」
話しながら立てた二本の指を見せて、つかさが続ける。
「あとは、チョークとコーヒーを用意する。雨が降りそうな日、誰もいないベンチに置いて、魔法使いへって書いておくと魔法使いが会いに来て、願い事を叶えてくれるんだって」
「ふうん。不思議な話だな」
だが、何かを捧げろとか対価を求めるとかのハードルの高い話ではない。そのおまじないは不思議な要素が強くて、幾分かおれの好みだった。
「ペン回しが得意な人は魔法使いの素質があるとか」
「おれ出来ないな」
「僕は出来るけど」
「おお、魔法使い見習い」
「師匠がいないよ」
「そりゃ残念」
こらえきれず笑いをこぼすと、つかさも伸ばした指を収めてくすりと笑った。
「馬鹿馬鹿しいけど、楽しそうだ」
声が少し弾んでいる。この話が気に入っているのか、おれに話したことで気に入ったのか。どちらにしても満足げな様子で何よりだ。
「そうだな、おもしろい。もっと簡単に会えそうなのに」
おれの同意とつかさの納得には大きなズレがある。だが訂正はしない。
その魔法使いに心当たりがある。
そう言ったら、つかさはどんな顔をするだろうか。
6
平日真昼の電車の中は人が少ない。
にしても、あちこちで同じようにテストが始まっているので学生は多い。それに少し不満を思いながらドアにもたれていると、
「ねえ。暇になったらって言ってたあれ、なんだったの」
がたたん、ごととん、と電車にゆられながら、隣に立つつかさがおもむろに口を開いた。
一瞬何のことだと目を瞬いて、「あー」「電話。暇なら連絡してくれって」と付け足す声にかぶせて頷く。
「よく覚えてたな」
「まあね」
素っ気なく言ってガラス玉のような瞳を外に向ける。電車は場所によって街中や山沿いを走りながら、景色の中を滑っていく。今、窓の外は田畑と川と道路が並走する、町の端を写していた。
「電車のな」
つかさが目を上げる。もう高さと距離感を覚えてしまった角度で、彼女と目線が絡んだ。
「平日の昼間みたいな、人が少ないときに一人で乗るのが好きなんだ」
「そう」
「けど、実際には乗ったことがない」
学校が休みの時はもれなく他の生徒がいるし、平日授業をさぼるような精神もない。本来降りるはずの駅はすぐに来てしまうからたとえ一人だったとしても堪能するには短すぎるし、乗り過ごしたわけでもないのに降りる駅を無視して乗り続けているのは難しい。
「平日の昼間とか、雨の日とか、誰も乗ってない電車に二人で乗って、終点まで用事もなく行ってみたかったんだ」
電車が緩やかに止まる。反対側のドアが開く。下りの路線だけあって、降りていく人の方が多い。絶えず話し声が聞こえていた車内がややすっきりとした。発車ベルがけたたましく鳴り、まだ電車が緩やかに進み出す。
「それは素敵だね」
電車の音の隙間に、静かな声で優しい言葉が降ってきた。
「……だろう」
口元に浮かんだ笑みを、あえて隠すことはしなかった。
背中に触れる震動が、がたんがたんと時間の進みを教えてくる。
電車の中でもふつうに会話をしているが、これも何日もかけておれがどの程度見えているのか検証した結果だ。電車の中では知り合いがいない限りまず「見えない」扱いをされることはない。
正直、今は時間が有り余っているからいつ乗ってもいいと思っているが、シュチュエーションというかタイミングというか、何かきっかけがないと行けやしないのだ。
そんなことをうつらうつら考えていると、ぽんと軽く足を蹴られた。
「じゃあ行ってみる?」
「……は?」
明日の天気は晴れだよ、とでも述べるような軽い口調だった。
「端まで。改札からでなければ定期で行けるでしょ」
電車にブレーキがかかった。がくんと揺れて、手すりを掴んでいたつかさがバランスを崩しておれにぶつかる。甲高い摩擦音を振りまいて、電車は次の駅に到着した。つかさの降りる駅。
「……浦川、テスト勉強はいいのか?」
車内からまた二桁届くか程度の人が降りていき、一人乗った。
「普段からやってるからいい。君こそいいの?」
「いや、一応やってるけど。なんか今の状態で真剣にやるってのもな……」
じりじりとドアから日が差してくる。さっさと人が通り抜けていってしまった扉は、おもしろいくらいがらんと口を開いて静けさをたたえている。
早く決めないと、扉が閉まってしまう。無性にドキドキした感覚がもうないはずのおれの心臓を急かしてくる。
「じゃあ白紙で出してみてよ。一回そういうのやってみたいけど僕はごめんだから、君がやって」
「とんでもない理屈だな! 困るよ!」
学校の中でしか効力を発しないテストに本気を出して取り組むのも何か無駄な気もするが、学歴社会の常識が身についた身としては白紙で出す勇気はない。
「だろうね」
平然とつかさが頷いた。その前に鳴り始めていたベルが終わり、ドアが音を立てて閉まった。
がたん、ごとん、とゆっくり車内が揺れる。
「……」
「……」
もう通路に立っているのはおれとつかさの二人だった。まばらに空席もあるが、ふたりそろって座れる空白はまだない。つかさを見て訝しむ人もない。平穏な時間だ。
「……ま、なら時間もらっていいか?」
「いいよ。実は僕も終点まで行ったことはないんだ」
いつもはおれが降りる駅についたところで車内の人数が減った。最後尾の車両に乗ってくる人はもはやおらず、もう一駅、二駅、と続く内に人は数人になってしまった。
「座ろうか」
頷いたつかさを連れて、誰も座っていない長椅子の真ん中に並んで座る。わけのわからない提案に乗って貰った引け目と緊張で硬くなるおれをよそに、つかさは背中をもたれさせてくつろいだ態度で正面の窓を眺め始めた。
「…………」
今更緊張するのもばからしいな、と思い、頬をかいておれも背もたれに体を預けると足を投げ出して座った。
がらがらの車内に、線路の継ぎ目を走る電車の音だけが響く。
おれが死んでからおよそひと月半。
奇しくも四十九日の日だった。
前からある願いがふとした拍子に叶ってしまい、おれたちをのぞいた最後の一人が降りてしまうと、やけに長細い小部屋はがらんとして見えた。
「人、いなくなったね」
待ってましたとばかりに足を通路に伸ばし、つかさは窓辺に肘をついて初めての風景に目を滑らせ始めた。
「ああ。ここまで来ないと人いるんだな」
「広々としてていいじゃない」
「予想以上に開放感があるなぁ」
夜ではなく昼間が好みなのは日が入って明るいからだ。がらんとした最後尾は寂しげではなく、遊び飽きて子どもが走り出ていった子ども部屋を思い起こさせる。楽しさの欠片や名残が残った部屋は、少しだけ微笑ましい。
「ちょっといい?」
首を傾げるつかさに詫びて、ごろりと長い座席に横になってみる。普段は座っているばかりの電車で横になると言うのは、珍しくて不思議な気分がした。怒られるかも知れないというドキドキがあってあまり勢いよく転がれないのがおれの中途半端に臆病なところ。
つかさが上から顔をのぞき込んで不思議そうな顔をした。
「何やってるの?」
「うん。寝ころんでる」
「それは見ればわかる」
「実はやってみたかった。マナー違反になるからふつうはやれないだろ?」
何だそれ、とつかさが口元をほころばせる。その前髪にゴミがついていたので、つい手を伸ばす。何故か額を叩かれた。
車掌に見つかって怒られないといいなあと思いつつ、誰もいない車両を満喫してつかさに聞いた。
「終点まで行く?」
「端まで行くんじゃないの?」
その発言が意外だというように傲岸不遜な声音で言って、彼女は強かに笑った。
『篠宮』
誰かの声がおれの肩を叩く。
『――そろそろ満足したか?』
バチン、と目が覚めて眠っていたことに気づいた。
隣ではつかさも眠気に誘われていたらしくおれが動いた拍子に起きたようだった。きょろ、と誰もいない車内を見回すおれにつかさがどうしたの、とぼやけた声で問う。
「知った声に話しかけられた気がしたんだ。夢だったかな……」
うとうととしている間に電車は山並みや田んぼが珍しくない地域にまでおれたちを運んでいた。雲間から日が差しているのに雨が降っているようだ。
「これ、今あのおまじないが出来そうだね」
ふと、眠気と覚醒の間と行ったり来たりしてそうな平坦な声でつかさが囁いた。
「おまじない?」聞き返した後で思い出す。「魔法使いの?」
「そう。魔法使いに会いに行ける」
「会いたいのか?」
「……さあ、どうかな」
答えるつかさの横顔は本当に会いたいとも会いたく無いとも思ってなさそうな静かな表情で、果たして仮に会いたかったとして、何を願うのだろうとほのかに思った。
おれは自分が出会った場合にも、何か、魔法使いに叶えて欲しい願いがあるだろうかと自問して、対して思いつかなかったので欲がない人柄はつまらないなと苦笑した。
今この状態で何かを願うというのも変な話だ。幽霊の願いでも、魔法使いは叶えてくれるのだろうか。
「どうかした?」
上の空だったのを見抜いたつかさが不思議そうに小首を傾げる。何でもないと言いかけ、なんだか言い出せずにいた言葉を口の中で転がす。
「実は、」
そうだ、さっきの声は彼に似ている。
「その魔法使いを知っているって言ったら、どうする?」
「……知り合いなのか?」
「うん。みんなに魔法使いって呼ばれてるやつがいたんだ。たぶんね、噂の魔法使いはそいつのことだと思うんだよ」
中学の同級生だ。あまり面白い学生生活を送ってきてはいないが、魔法使いの存在は面白い方に入れてもいいと思う。ムードメーカーで人気のある人物だった。
「困ったことや相談を持ちかけるとたいてい解決してくれる何でも屋みたいな有名人。魔法を使って助けてくれたってよく噂になってて、みんなに『魔法使い』って呼ばれてた」
はあと大げさに相槌を打ってつかさは物珍しそうな顔をする。どの程度真剣に受け止めればいいか量りかねているようだ。まあ、そんな噂になるやつ滅多にいないからなぁ。
悩み事。相談。謎の原因解明。特に派手な騒ぎを起こしたものに楽しそうに関わるやつだった。その明るさのせいか人柄のせいか、みんなに頼りにされていたのは本当だ。
「たぶん、本当にいるよ。おまじないの通りに」
つかさはおれの言葉に含まれる真実と嘘の含有量について計っている素振りでじっとおれの顔を見ていたが、結局いつものどちらでもよさそうなスタンダードな麗しい顔を車内の電光掲示板に向けた。
「じゃあ、次で降りてみるかい」
「……それもいいな」
会いたいのだろうか。よくわからないけれど。
窓の外の見たことがない景色を眺めるため、つかさは背の窓に腕を乗せ美しく整った顔を外へ向ける。おれもぼんやりと我を忘れるぐらいにリラックスして向かい側の窓を眺めていた。緑色の山々が出っ張ったりへこんだりするラインを視線でなぞっていると、いきなり視界が開けてそこにちかりと珍しい光が瞬いた。
「――あ」
おれが上げた声に反応してつかさが振り向く。向かい側の窓から覗く空のアーチ。
「――虹だ」
つかさが呟く。
緑の山と山に挟まれた山稜をつなぐ儚く朧気な七色の橋。虹なんてなかなか見る機会がない。久々に見たそれにおれもつかさも口をつぐんで、指でなぞっただけで消えてしまいそうなそれを見失うまで見つめていた。視界から消え失せる瞬間、夏の日に反射した強い光が車両の中に飛び込んで、目一杯照らして過ぎ去っていった。すぐに車内放送が次の到着駅を告げる。
「――ふふ」
つかさがささやくように笑った。少しだけ笑い声をこぼすと、すぐに両手で押さえて隠してしまう。だが、くすくすというささやかな声がおれの耳をくすぐった。
「篠宮」
微笑みを口の端の残したまま、彼女は美しく微笑んだ。
「満足したかい?」
「――ああ。すっげー満足した」
心に湧き上がった泡のような感情をどう表現していいのかわからず、代わりに声にそのすべてを詰め込んだ。相手がとっくにそれを見透かしていることは、その笑顔でわかっている。
7
降りたホームは平日の昼間、加えてこの雨で人通りは完全に絶えていた。ここらは雲の切れ間がなく、つかさは白と群青のレースカーテンが降りたような駅前をぐるりと見回し、耳慣れない響きの駅名看板を眺めている。
そこで呼ばれたような気がしてふっと顔を上げ、一箇所で目を留めた。つられてつかさも振り返る。そこでさっきは気づかなかったのだろう人影に気づいた。
魔法使いの噂。会う方法その一。電車でぼうっと乗り過ごしたあと、最初の駅で降りると魔法使いがいる。
駅前のロータリーに続く階段に設置されたアルミパイプの手すりに、一人の少年が腰掛けていた。年は同じくらい、制服姿で、右手に白いチョークを構えていた。雀のしっぽのように後ろで髪をしばり、人懐っこい笑みを携えてこちらを眺めている。懐かしい顔だ。
「浦川。あれが魔法使いだ」
雨に紛れるようなささやき声で告げると、つかさは目を丸くして彼とおれを交互に見やった。そういえば、どんな姿を想像していたか聞いておけばよかった。彼はローブも杖も持っていない。
「待たせたかな?」
旧友に対して手を振ると、手すりから降りた少年はひらりと手を挙げてやってきた。先日電話で話したが、ほぼ二年ぶり。同級生、『魔法使い』佐竹。
「そうでもない、俺も丁度ついたところだ。久しぶりだな篠宮! 死んでからも元気そうだな」
「!」
「隣は何だ? えらく美人だな」
驚愕の表情で凍りつくつかさに、なんと紹介すればいいのか考えたまま後回しにしていたのを思い出した。
「浦川。こっち、おれの同級生の佐竹。噂の魔法使いだよ」
「照れるな。よろしく、浦川さん。佐竹だ」
まったく照れた様子もなく、そもそも照れる要素がわからないけれど、佐竹はそう言って手を差し出した。彼の言葉は大半がノリで出来ている。あんまり気にしないか根気よく付き合う覚悟でツッコむしかないので、つかさとの相性はあんまりよくないかもしれない。予想通りにぎゅっと眉を寄せたつかさが鞄のハンドルを握り直して挨拶を拒否する。
「……さん付けで呼ばれるのは嫌いだ」
「じゃあ対等に行こう。俺は浦川と呼ぶ。君は俺と佐竹と呼ぶ。いいだろ?」
浦川の態度を気にした様子もなく手を引き、むしろ楽しそうに受け入れて佐竹は口の端を上げた。相変わらず万人を受け入れて受け流しがち。懐が広いのが関心がないのか。
「来てるかな、と思ってたけど本当にいるとは思わなかったよ」
約束はしていない。思いついたのも突然。おまじないの条件がそろったのは偶然。魔法使いに思い当たったのもたまたまだ。ふつうなら狙って会えるわけがない。『ふつう』なら。
こんなことを言いつつ、来ていることが前提の第一声は佐竹ならいるだろうなと思っていたからだ。
「おいおい心外だな、俺はどこにでも現れるさ。久々に篠宮に会えるならなおさら」
たまたまの客人ではなくおれが来るとわかっていたような物言い。どこか人を煙に巻くような、からかい混じりの会話が佐竹の特徴だ。話すと面白いという印象はよく残る。おれと佐竹の会話を聞きつつ眉を顰めていたつかさが、おれのシャツを引いた。
「篠宮。どういう……君、彼は知ってるのか? 話したのか?」
「いや、連絡も取ってないし、取る方法がそもそもない。少なくとも、死んでから会うのは初めてだよ」
変な発言だなと思ったけど事実なのでしょうがない。佐竹は通信機器を持っていない。タイミングを見計らうにも、終着点に近い駅まで思いつきで来たおれたちの行動を読むのは不可能だ。当たり前に話しかけてくれたけれど、佐竹がなぜ今のおれの状態を知っているかはおれにもわからない。
「呼ばれたような気がしたんでね」
佐竹の方も肩をすくめて飄々と答える。なんと説明していいのかわからないので、そのまま言うことで説明に代える。
「会いたいと思ってるとどこからともなく現れるんだよ。中学時代もそうだった」
神出鬼没が彼のモットーだ。
「そりゃ、魔法使いをご所望とあらば。願い事を叶えるのが魔法使いの仕事だからな」
佐竹は不敵な笑みを浮かべ、つかさがさらに追求する前に手を叩き、てすりにかけてあった黄色の傘を取った。
「さ、自己紹介はこの辺にしようぜ。行きたい店があるんだ。行こう」
小学生が使う子どものような傘を差して、佐竹はひょいひょいと階段を下りていってしまった。あとに続こうとして、警戒と困惑で同行を躊躇っているつかさに苦笑する。
「大丈夫。変わったやつだけどいいやつだよ。すごい人なんだ」
そういって待つと、しぶしぶ降りてきて、つかさはすみれ色の傘を開いた。信号機の前で佐竹が待っている。おれも緑色の傘を差して、雨の中に飛び出した。
木製の窓枠から吹き付けてくる雨が見える。
壁に掛かっている湿度計が雨の日らしく振り切っていた。まるで水の中にいるようだ。
佐竹が案内した喫茶店の角に一対二で座って、それぞれ思い思いの飲み物を注文する。
ウィンナーコーヒーの生クリームを早速すくって口に運ぶ佐竹に、マスカットティーを選んだつかさが口火を切る。
「篠宮が死んでることを、わかってるのに驚かないのはどうしてだ」
今もこうして、動いて、話して、笑って、いきているのに。潜められた声にレモンスカッシュを頼んだはいいが一口飲んで顔をしかめていたおれは慌ててグラスをおろした。張本人が疑問を丸投げしてしまうのはよくない。
「頼まれたんだよ」
「……なにを?」
「篠宮を助けてくれって」
「誰に?」
「古坂太陽」
思いも寄らない名前に、思わずつかさと顔を見合わせる。佐竹と古坂に接点はないはずだ。でまかせで言える名前じゃない。でもあいつは確か、外ではおれの姿が見えないはずで――
「病院に運ばれて、緊急手術のあとも意識不明で重態の篠宮をどうか助けてくださいって。珍しい方向からのアピールで俺を捕まえたからよく覚えてる。魔法使いを呼ぶおまじないじゃなくて俺の親友からの紹介だった。俺より捕まえるの難しいんだぞ、あいつ」
コーヒーのセットについてきたらしいトーストを、佐竹が対面でさくさくと片付けた。せっかく出された木製のバターケースにバターは四角く入ったまま。揃いのバターナイフも所帯なさげだ。
「詳しいことは聞いてないけど、事故の引き金を引いたと思って古坂太陽は動き続けているみたいだな。……まあ、小さなことしかできないから、ふたりのお見舞いに行くとか、ノートをとってやるとかぐらいだって言ってたけど、それでも学生がやるには十分だろ」
お見舞い。ノート。日常的で当たり前に使われるその単語が、ひどく遠い、夢物語のアイテムのようなものに聞こえてくる。ちぐはぐだ。違和感ばかりだ。それはまるでおれがまだ生きているみたいな。変なふうに自信がなくなって、なにか重大な勘違いをしているのかとおれは恐る恐る尋ねる。
「おれは、死んでる、よな?」
「ここでは」
ここでは?
「シュレディンガーの猫はご存知?」
おれとつかさを置いたまま、淀みなく口を動かし魔法使いはコーヒーの上の生クリームをまたばくり。おれの目の前に置かれたグラスの中で、氷がからんと音を立てた。つかさが警戒するように腕を組んだまま答える。
「……量子実験において観測するまで生きている確率と死んでいる確率が重なった猫」
「素晴らしい」
有名な思考実験だということしかよく知らないけれど、相反する可能性を両方持っている不思議な状態だと認識している。量子実験がもうすでに何かよくわからない。生きている状態。体温があること。息をしていること。人と触れ合い、話し、人と同じ生活をしていること。死んでいる状態。人から知覚されないこと。声が届かないこと。忘れられること。心当たりがある現象だった。
「でも、さすがに佐竹にも無理だったんだよな?」
「ん?」
「さすがに死んだ人を甦らせることはできないだろ……?」
魔法使いは願い事を叶えてくれる。
噂になる魔法使いに会うためのおまじない。噂になるということは、それだけ試す人間がいるということだ。佐竹は手品のように取り出したチョークを手の中でくるりと回した。彼の手癖で、彼にとっての魔法の杖。チョークで描かれた魔法陣が目撃された次の日、必ず誰かが魔法使いに助けてもらったんだと噂する。
つかさは信じてはなさそうだけれどいつもの思考実験の会話のようにとりあえず受け入れる体を取ることにしたようだ。さすが、切り替えが早い。一方のおれは中学時代で聞き及ぶ伝記からおれの中にある「当たり前」の枠の中に「佐竹は魔法使いである」という一文がはっきりと入ってしまっているので、この感覚を説明するのは難しい。それでもさすがに、死者の復活は、夢物語がすぎるだろう。
「それでこういう、死んでからも続く世界になったの?」
「そうだな。ここはそういう可能性の世界かもしれない。証拠と言わないけど、これでどうだ」
佐竹が懐から取り出して置いたのは、見覚えのある髪飾りだった。貝とヒトデと珊瑚と真珠を模した装飾のヘアゴム。おれの喉から驚きと疑問の音が大きく飛び出した。
「な! ……んで、」
それはかつて、つかさの同級生から預かった友人からの贈り物だ。まだおれが持っていた、はず。背景を知らないつかさが首を傾げ、クラスメイトからつかさ宛に渡されたものだと説明する。
「それと、これ」
三角形の積み木のピース。反射的に気付いた。つかさが買った、おれに渡されるはずだった積み木のおもちゃだ。これにはつかさも反応した。
「借りてきた」
「誰から」
佐竹は一人の少女の名前を答えた。おれは知らない響きだったが、つかさは顔色を変えた。白くなる唇を震わせて、祈るように名前をこぼす。
「こちらのアクセサリーは渡せなかったお土産と言っていた。あちらでは、落ちたのは彼女ではないらしい。この積み木は……うーん……。未来の浦川と言ってもいいし、別世界の浦川と言ってもいい。別の世界線の一人。もしくはあったかもしれない可能性の一部かな。みんなの願い事は絡まって結構複雑でね」
これは返却するから渡せないけど、少しは信用に足るだろと積み木を撫で、伏せた目を上げた魔法使いの話は続く。佐竹は注目を集めるように腕を伸ばして指を立てた。
「袖振り合うも多生の縁というだろう。一度心霊現象に見舞われた人間は次からも引き寄せられるって聞いたことないか? 境界で分け隔てられている世界はな、引き合うんだよ。だから心霊スポットなんかで境界が薄い場所で目を付けられたら――縁がつながる限り、追ってくる。未来と過去の因果律でも、パラレルワールドの位相移動でも、量子観測時の可能性の収束でもいい。おれはそういうのと縁があって、たまたま今回は君らにうまく働いたというわけだ」
「……魔法使いというのは、そういう生き物なのか?」
「まさか。風評被害だよ。俺が怒られちまう」
怒られるだけの魔法使いの知り合いがいるのかと少し気になったが、尋ねる前に佐竹がもう一本指を立て、中指を人差し指に重ねた。クロスフィンガー。祈りの形。
「いま、本当に篠宮は生きている確率と死んでいる確率が重なってる状態なんだ。事故を起点に分岐した可能性が、分かれきれずにつながってる状態。まあわかりやすく言うと死の縁にいるって言うのかな。ほら、よく川の向こうに花畑が見えるっていうだろ。生と死の境界が曖昧になっている。篠宮が死んでいる世界に生きている篠宮が重なってしまったものだから、ここでは生身の幽霊なんて不思議な現象が起こってしまっというわけ。だから生き返らせるというよりは生きていることを思い出させるっていう方が近いかな?」
「無茶苦茶だ。だって篠宮は……死んだだろう?」
白と黒に彩られた葬儀を思い出す。沈鬱で、重たく、静かで、あんなにも心が潰れる思いをしたのに。誰にも声が届かない孤独を。誰にも気づかれない夜の恐怖さえ。それはまだ確定していない未来だというのか。
「死者が普段どおりに生活してるのにいまさら驚くことがあるかよ」
……言われてしまえばその通りだった。
「どうして、そんなことに?」
生クリームのあらかた溶けたコーヒーをかき混ぜながら、佐竹は採点されたテストの得点を読み上げるように続ける。
「もう一つ願い事が絡んできたもんでね」
「もう一つ?」
「いつも通りを」
「誰に?」
「篠宮が死んだ世界線の浦川から」
つかさの目が見開かれる。それが別世界線という話なのか今のつかさの話なのかわからず、おれは思わず隣を見た。
「さすがに覚えてないか」
「お……ぼえてるどころか、記憶にない」
「ああ、いや、あっちの浦川の話だからな」
テーブルに肘を付き、佐竹はグラスの水滴を使ってテーブルに波模様と三角形を描いた。三角の頭が人の意識だと説明を一つ。
「人の意識は深層意識でつながっているという話は知ってるか?」
「ユングの、集合的無意識?」
「話が早い」
個人の意識は深まるほど個が溶け、深層意識では人類が普遍的につながっているため、遠く離れた文化圏同士でも似た物語や同じ感じ方があるという心理学の概念だ。夢でつながっていると言うとロマンチックに過ぎるだろうか。
「溶けてしまえば相手も自分もない。境界がない。だから生きてたって死んでたって、自分の夢だろうが相手の夢だろうが、別の世界だって関係ない。篠宮が事故に遭ったあと、君は俺に会いに来た。魔法使いに会うための方法を試して」
『あっちの浦川』という存在には、幽霊でもおれがいないのだろうか。おまじないに関心のなさそうな彼女がわざわざ試すほどに縋るものを探していたのだろうか。
「願い事を尋ねたら、君はそう言った。『いつも通り、変わらない生活』を。難しいけど、優しい解決方法を考えたつもりだ」
「……篠宮を、死んだあとも生活させる方法が、優しい解決方法か?」
「いやいや、これからだ。厄介な過程を踏んだけど、魔法使いの出番だぜ」
チョークを弾きあげてキャッチするデモンストレーションのあと、かつんとチョークの先がテーブルに置かれて音を鳴らした。テーブルへの落書きを叱責する暇もなく、佐竹が滑らかに動かすチョークの先端が白い線を生み出していく。それはあっという間に図案を重ねて手のひら大の小さな魔法陣となる。反射的につかさが身構える。おれは懐かしい動作にぼんやりとそれを眺めているだけで何も言えなかった。佐竹は一度も口を付けていない水が入ったコップを魔法陣の上に置いた。
テーブルに書かれた線が一瞬まばゆくフラッシュし、反射的につむった目を開けると、魔法陣はすでに消えてなくなっていた。代わりに、空のコップの中にはべつのものが。
ナイフ。
透きとおった、透明のナイフがコップの中に刺さっている。気泡がぷくりと刃からグリップに上がっていき、消えた。ガラスじゃない。水だ。水がナイフの形を作っている。
つかさは目の前で起こった一連の流れ――魔法とナイフに対して信じられなさそうに慄いていたが、恐る恐る指を出してナイフをつついた。
「どうぞ、お手にとってください」
商売人のような口調で佐竹が手のひらを向ける。示されたつかさは面食らった顔をしたものの、おずおずとナイフをつまみ上げ、コップから引き抜いた。ゆらりと表面が光を瞬かせたのが気になってつかさの手の中を覗き込む。デザートナイフみたいに、意外と長い。
「どう?」
「冷たい。なんか……表面だけちょっと水の膜みたいな柔らかい感触がする」
「やっぱ水なのか……」
つかさが試しに柄の尻でテーブルをノックすると、コン、と硬質そうな意外に低い音がした。
「使い方はご存知かな? 人魚姫」
「……何で人魚姫?」
「古今東西、ナイフを持ったヒロインなんて人魚姫ぐらいだろ」
脳内で検索をかけてみたが、たしかに他にナイフを持ったヒロインは思い浮かばなかった。つかさをナイフのようだと言い出した人は、まさか本当にナイフを持つことになるとは思っていなかったはずだ。
つかさは佐竹を宇宙人でも見るような顔で見た後、ゆっくりとナイフのグリップを掴んだ。ナイフの表面が水面のように揺れる。
伝票を持って佐竹が立ち上がる。
「特別におごってやろう。まあ、夢の中だしな」
喫茶店を出て、佐竹は駅まで送るといい先頭を歩き始めた。ざあざあと雨は続いたままだ。足元が濡れるのを気にしながら駅につくと、構内の前で立ち止まった佐竹は指したままの傘――頭上を指差した。
「もうすぐ雨が止むから、そしたらナイフを使うといい」
「天気まで操ってるのか?」
「ああ、いいね。そういうことにしておこうか」
未だたっぷりと湿度一〇〇パーセントの湿気を含んで集まった薄灰色の空を見上げ、魔法使いはまた煙に巻くように楽しそうに曖昧なことを言う。
「じゃ、本日の魔法使いサービス、ご相談ありがとうございました。よい目覚めを」
佐竹は本気かどうかわからないことを告げてひらりと手を振り去っていく。黄色の傘がくるくると回りながら離れていく。
その背中が小さくなるまで見送ってから、おれたちは改札をくぐった。
無人のホームへ足を進め、搭乗口前に横に並んだ。きっと雨が止むまで電車は来ない。ざあざあ、ぱたぱた、とん、とん、とん、タッタッタ。雨音に囲まれながら傘をたたんだところで、そういえばいつから傘を持っていたのか思い当たらずに驚愕した。つかさはすみれ色の傘、おれは緑色の傘。電車に乗ったときは晴れていて、傘なんて持っていなかったはずだ。確率の収束も、パラレルワールドの移動も簡単なことだと魔法使いは言った。我思う故に我あり。宇宙は人間に都合よくできている。佐竹には雨が必要で、雨の日にはかさが必要だったから、持っていることになった、なんて。おれ好みの話だ。
雨が止むのを待つ間、おれは通夜の夜を思い出していた。
「髪飾りを」ぽつんと声が隣から発せられた。「持ってるのか」
顔を向けるおれと対照的に、つかさは一瞥もくれず屋根の外で濡れる線路を見ている。髪飾りは通学鞄の中に潜ませたままだ。クラスメイトから理由を含めて預かったと申告すると、名前に聞き覚えはあったのだろう、顎を引いて短く首肯した。
「そう。……驚いたな。今さらあの子から貰えるものがあるなんて」
「……友達か?」
「そう。気の弱い大人しい頃の僕を引いてくれる子だった」
「想像がつかないな」
「今も清楚で粛々としてるだろう」
「……いやまあ、確かに、否定する要素はないけど」
つかさの専売特許であるマグマのような苛烈さもない。成分不備だ。
「あの事件が起きたとき、僕は世界に負けないためにはこうなるしかないと思ったんだ」
そっとつかさは胸元のカッターシャツの表面を撫でる。細いつかさの身体はどうあがいても男の形とは程遠い。それを当時の彼女はどんな覚悟で着たのだろう。つかさの冷えた眼差しに炎が灯る。あの事件、とはつかさを変えたきっかけなのだろう。多くの人が好奇心を寄せ、彼女を知る者は沈黙を守った。謎に包まれたつかさの過去。
別にたいしたことが起こったわけではなかった。みんなが邪推するようなドラマ性のある事件なんてなかった。
男女四人のグループで、ある日口論になって、結果として人が階段から落ちただけだ。落ちただけだ。落ちただけだ。例え直前に一方に突き飛ばされたのであっても。
呪いを吐くような低い声。たいしたことではないと言い切れる物ではなかった。それでも、つかさは言い切った。素っ気なく、興味・関心がなさそうに。怒りの熱を埋めて。
「あの子が死んだことも悲しかった。それでも、僕は、それよりね、彼女も、私もバカにされたことが悔しくて。バカにされてその上命まで落として――相手に怒りを抱いたよ。どうして――どうしてどうしてどうして! 怒っている理由さえわからないあの愚か者!」
喉から続く唸り声に気圧されながらもおれは今まで伏せられていたつかさの一部をやっと理解した。これだ。ずっとつかさが世界を敵に回し、牙を剥くことにさせた常に燻ぶらせている怒りの火種。髪を切り落とし、関係性を削ぎ落とし、触れるものすべてを撃退しようとする敵意の主。名前を見えないかつての同級生。刺せばよかったとまで宣った、つかさがあらゆる感情エネルギーを変換し、いつも怒りを向けていた正体。理解できない、しようとしない他人。
「……そんなに悪い奴だったのか?」
「クラスの中心にいた人気者だね。人気者というか……魔性の人手なしだ」
女子生徒が言った王子という名称を思い出す。王子と敵がうまく結びつかずに悩んでいると、つかさは吐き捨てるように言った。
「王子っていうよりは王様だったな。自分の思う通りにならないことを、自分の意見が通らないことを嫌がる性質だった。そういうタイプが自分の求める結果にするために何をすると思う? 人を動かすんだよ。命令なんてそんな足のつくことしない。憂いを帯びた顔で、「よくないね」って言うだけ。魔性にやられた民衆は王様の懸念を取り除こうする。彼が言うことが真実だった。彼に気に入られれば権力を持って、気に障ればカースト落ち。取り巻きになりたくなかった子たちが気に入らなくて、僕たちは癇癪を起こした王様に排除された。怒りで許せなかった。王様を選ばない選択を許さない彼も、行動も性別も頭脳も好感度さえ選択を強制されるあのお城。死んでしまえばよかったのに」
自分のことだというのに、自分で出来る抵抗を必死に考えて男の格好をし続けてきた少女は、こちらがやきもきするぐらい冷淡に答えてくれる。
「……魔法使いに会って何かを願うなら、王様を消したいと願うのだと思っていた」
雨足が弱くなる。音が静かに引いていき、小雨になり、やがて雫は見えなくなった。濡れた景色を見つめたまま、その瞳に種火を隠したまま、つかさは呟いた。
「でも、君を失った世界の僕は、いつも通りを望んだんだね」
死んですぐ、幽霊となったあとに出会ったつかさが瞼に甦る。あんなに強いと思っていた彼女が今にも折れそうになっていた姿はおれに一つの決意をさせた。
「君が幽霊になって帰ってきたとき、やっとわかった。僕は侮られたくなくて、決めつけられることも、選択肢を奪われることも耐えられなかった。でも君はいつでも選択肢を僕にゆだねてくれたんだったなって。こんな扱いにくい人間相手に自由を尊重してくれてさ。君が傍にいてくれて、よかったと思ってるんだよ」
つかさは唇を噛み締めて目を閉じる。その横顔が、祈りを捧げる巡礼者のようで美しいなと思った。
「幽霊でも、寄り添うだけでも、篠宮の存在がずっとありがたかった」
「――……」
それは、おれにとって最大の幸福を意味する言葉だった。胸が膨らむ心地がする。まだこの世界のおれは死んでいるのに、心臓は弾けそうに鼓動を刻む。こんなに耳が熱いなら、死んでるなんて嘘ただ。
「浦川」
強制される選択肢をつかさは許せない。性別差。関係性。部外者が勝手に名前をつけないでくれと。
それでも、おれはこの特別だけは許されると知っている。
「ずっと友達でいてくれる?」
魔法使いに願うまでもない。篠宮つみきが願うのは、浦川つかさの傍にいることだ。
永遠を約束した間柄を特別というなら、これ以上価値のあるものはない。そして関係性に、名前はいくらでもつけられるのだ。
そして自由に選べる選択肢をつかさが選んだのなら、おれはそれに応える用意はできている。
「……うん」
顔を伏せてしまったため彼女の表情は見えなかったが、わからなくてもそれはそれでいい。知らないことを一つひとつ知っていくのも楽しいのだから。
世界を渡り、可能性を越えて、それでも尚おれを心配してくれたつかさに、万感の意を込めて言葉を贈る。
「ありがとう、浦川」
雲の合間から青空が覗き始めた。見る間に雲は柔らかい手触りを気に入った女神が取り上げたように引っ張られていってしまい、真夏にふさわしい真っ青が頭上に広がる。
つかさが鞄から取り出したミネラルウォーターのボトルを開けて傾ける。水に満たされたペットボトルを鞘代わりにするとは、とんでもないやつだった。水をこぼしながら引き抜く姿の格好いいこと。透き通ったナイフが水滴を滴らせながら現れる。
人魚姫のナイフは魔法を解く合図だ。姫の願いも、呪いも、何もかもを無にする世界の鍵。
魔法使いがさずけた、ミネラルウォーターナイフ。
佐竹のセンスに少しだけ感心した。凍りついた美しい顔に、構えたナイフがよく映える。
やっぱり、おまえにはナイフがよく似合う。
無意識に微笑んだおれに眉を顰めて、つかさがナイフを握り直す。それをまっすぐ、宙へ向って振り上げた。
王も王子も裸足で逃げ出すような見事な一閃にすぱり、と切られた世界は真っ白な隙間をこぼし、ほどけるように境界を曖昧にして、視界を白く染めていく。幾重も重なってしまった可能性が分かれ、パラレルワールドとは袂を分かち、観測通りに収束していく。生きるために。生きている世界へ。おれの意識も溶けるように離れていく。眠るように。目が覚めるように。
長い夢から覚めるときが来た。
目を覚ましたら、病院だろうか。家族に心配をかけたな。古坂を驚かせてやりたいな。それから、彼女に「ただいま」と伝えたい。そうしてまた、おとぎ話にも満たない、魔法も冒険もない世界の話をしよう。その中に、たった一つの特別、それさえあればおれは世界に向かって勝ちと叫べる、のんきな勝利者なのだ。
ミネラルウォーターナイフ あっぷるピエロ @aasa
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