第72話 早乙女、名前で呼んでもいい?

72話 早乙女、名前で呼んでもいい?



「んで、今週末の焼肉の日程はズラしてほしいと」


「ああ、頼む。ほら月曜日オフだし、そん時で」


「しゃあねぇなぁ……ま、いいけどよ。それよりお前、日曜日って普通に午後から部活のはずだが。夢崎ちゃんとのデートで休むなんて部長に言ったら、比喩無しで埋められるぞ?」


「うっ!? やっべ、何も考えてなかった」


「貸し一だな。本当は言ってお前がどんな目にあうか見たいところだが、親友のよしみで黙っといてやるよ」


「ありがとう……」


 さらっと弱みを握られたことに恐怖を覚えつつも、夏斗は肩を撫で下ろす。


「おっはよー! 何々、密談かにゃ?」


「あ、柚木。おはよう」


「……早乙女? 約束、忘れたの? 私今回のテスト、全教科赤点回避したんだけどなー」


「ま、マジで呼ばなきゃダメか?」


「マジでダメだよ。そのために頑張ったんだもん」


 さぁ、さぁ、と煽る紗奈に、夏斗は下を向く。


 紗奈のことを、下の名前で呼ぶ。今回のテストで目標を達成したら与えるご褒美として約束していたものだ。


 約束は守らなければならない。だが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしかった。


「おい夏斗。約束破る男は最低だぞ」


「そーだ! サイテーだぞー!」


「わ、分かった。分かったから!」


 すぅ、と小さく息を吸って、呼吸を整える。


 覚悟を決めないわけにはいかないだろう。約束してしまったものは仕方がないし、何より紗奈は死ぬほど努力してこれまでのテストが嘘だったかのような点数を弾き出した。応えなければ、それこそ男じゃない。


「紗奈……」


「っうぉ!? も、もう一回!」


「紗奈! これからはお前のこと、紗奈って呼ぶ!!」


「っっっっっっう!!!」


 紗奈は、噛み締めるような。それでいて、満足げに。一度握り拳を作ってから、顔を背けた。


 ニヤニヤとした視線を夏斗にではなく、紗奈に送る悠里。思い切って言ったはいいものの、やはり恥ずかしくて硬直する夏斗。……後ろを向いて、これまでにないほど赤面する紗奈。


 この場を楽しんでいたのは悠里だけで、当事者二人の情緒は大惨事であった。


 しかしこれから授業は始まっていくわけで。ここから逃げることもできず、紗奈は鞄で顔を隠しながら着席。それに続くように、後ろで夏斗も自分の席に座った。


「二人して乙女だねぇ。あと夏斗、お前が大声で叫んだせいでクラス中が噂を始めたぞ。けっけっけ、いいザマだなぁ?」


「おま、他人事だと思って!」


「他人事だから面白いんじゃねぇか。一年生の中で一番可愛い女の子とあれだけ親しくしておいて同じクラスの隠れ人気高い女まで狙うとは。罪な男だ」


「ね、狙ってないが!? マジで誤解招くこと言うのやめろ!?」


 慌てふためく夏斗を完全無視し、悠里は立ち上がって柚木の前へと回る。


 未だ顔は茹蛸のように赤いが、それを隠す隙は与えない。悠里は面と向かって、言った。


「柚木、お前はそんだけでいいのか? せっかく名前で呼んでもらえたんだ。お前も、名前で呼びたくないか? 夏斗〜、夏斗〜って」


「へっ!?」


「オイ悠里、何ゆ……紗奈と内緒話してるんだよ? 何言った!?」


「お前は入ってくんじゃねえ。な、柚木。どうだ? きっと夏斗はお前のこと、もっと意識してくれるようになるぞ?」


「わ、私は別に……意識して欲しい、なんて……」


「嘘が下手だなぁ。いいか、お前は今ただでさえ負けてんだ。踏み込んでいかねえと、何もできないままあの子に掻っ攫われちまうぞ?」


「……」


 ピクリ。悠里の挑発に、紗奈の身体が小さく反応する。


 恥ずかしかった。でも、ここで攻めなければ悠里の言う通り。何もできないまま、負けてしまうと思ったから。


「あの、早乙女……」


「な、なんだ?」


「私、も……夏斗って、呼んでも……いい?」


 ぎゅっ、と前に作って合わせた二つの手のひらを握り、懇願するように。夏斗に向けて、放った。


 夏斗にとっては、一人の女の子として魅力的な存在となりつつ彼女の、遅い歩み。えると比べ何もかもが遅れており、負けている彼女の精一杯の一歩。


 そんな彼女の姿の心中を知らないながらも、夏斗は。どこか懸命な部分を感じとり、頷いた。


「さ、紗奈さえ、いいなら……」


「えへへ、やった。夏斗っ……夏斗っ……ふふっ」


 だが、彼女は知らない。そんな夏斗とえるの関係が、つい先日遥かに進んでしまったことを。


 そして、今週末。その関係は更に進展し、確固なるものとなってしまうことも。



 知ってしまうのは、まだ先の話。

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