桜の季節

島本 葉

第1話(完結)

 新学期の少しふわふわした教室。同じ造りの教室なのにどことなく去年と違う。机のちょっとした色の違いやキズが気になったり、時計の微妙な位置の違いが新しい季節を感じさせる。新しい顔ぶれのクラスメートもどこか浮かれた表情を覗かせながら、そこかしこで話の花を咲かせていた。

 高校三年生というのはどこか中途半端だ。大人という自覚はない。かといって子供だとも思っていないぼくらは新しい一年の始まりをとりあえず笑顔で迎えていた。

 馴染みの友人となんでもない話をしていると、ふと窓際に座った女の子が目に止まった。知らない女の子だ。椅子に浅く腰掛けて頬杖をつきながら、彼女は窓の外を眺めている。周りのにぎやかな空気と隔離されたように、そこだけが妙に静かだった。

「あの子、転入生だってさ」

 ぼくの視線を追いながら友人が少し声を落として言った。

「転入生?」

「春休みの間に転入してきたらしいよ」

「ふーん、それで」

 彼女の周りを包む雰囲気の正体、違和感の正体がわかったような気がした。彼女には安心がないのだ。新しい季節を迎えて浮ついた気持ちの中で、みんな少しずつ不安を抱えている。ぼくも友人と話すことでその不安を解消していた。けれども。

 どんな表情をしているのだろう。

 ぼくの座った位置からでは彼女の表情は伺えない。その背中はどこか寂しげに見えた。窓の向こうの青空や咲き誇った桜は彼女に何かをもたらしているのだろうか。

「気になるの? 話し掛けてみれば」

 いつまでも視線を外せないでいるぼくに友人はからかい気味に言う。

「いや……」

 気にはなっても行動を起こすだけの理由も勇気もなかったぼくは、無理やりに視線を引きはがした。

 その時、がたりという音にもう一度視線を向けると、彼女が立ち上がって教室を出て行くところだった。ぼくの脇を通った時に黒髪の間に覗いた瞳が澄んでいてとても綺麗だと思った。

 胸の奥がちりりと痛んだ。

 これが彼女を意識した最初なのだと思う。



 新しい季節に浮かれていても、三年生はそのまま受験生という言葉に置き換えられる。夏になる頃には先生や友人の口から、そして家に帰っても「受験」という言葉がぼくたちを追いまわし始めた。この頃のぼくはほとんどのクラスメートがそうであるように、まだ漠然としか将来を考えていなかった。大学には行きたいと思っている。けれど、その先を聞かれても何も見えなかった。

 時折配布されるプリントの中にも進路の文字がちらほらと見えて、教室はぼくらを追い立てるように重い空気をまとっていた。

「志望はあるのか?」

 だから進路指導に呼び出されて先生に言われても、力なく首を振ることしか出来なかった。

「まあ、今はそんなものか」

 多分ぼくだけではないのだろう。半ばあきれたような顔をしながらも担任の先生は少し笑みを湛えていた。

「けど、夏休みの間にちゃんと考えるんだぞ。大学に行ってから考えるのもありだとは思う。けど、人を前に進ませるの意志の力だからな」

 ぼくは何がしたいのだろうか。席を立って先生に一礼しながら自問してみた。けれど、答えはやはり見えてこない。

 進路指導室を出ると片隅に設置されたパイプ椅子に二人の女子が座っていた。クラスの女の子だ。順番を待っていたのだろう。ぼくの姿を認めるとすっと立ち上がった。

「何か言われた?」

「いや、しっかり考えろよって」

「そう」

 彼女は指導室に入っていき、廊下にはぼくともう一人の女の子が残された。 

 もう一人の子は彼女だった。同じく順番を待っている彼女はぼくの方を少し見てからすぐに視線を外した。

 新学期が始まった頃には少し周りと打ち解けないでいるように見えた彼女だったけど、さすがにこの頃になるとそんな姿も見なくなってきた。でも、ふとしたときにまだ違和感を感じていた。たとえば今、指導室に入っていったクラスメートと何か会話をしていたのだろうか?

 膝の上で組み合わされた手がどこか不安げに見えた。

「さよなら」

 じっと見つめているわけにもいかないので、ぼくは歩き出した。

「──────」

 かすかに彼女の声が聞こえて、ぼくは振り返った。しっかりと聞き取れなかったけど、多分「さよなら」と返したのだと思った。振り返った先には彼女の瞳があり、やっぱりぼくは綺麗だと思った。けれど彼女はすぐにその瞳を伏せてしまう。

 逡巡して、彼女に一歩近付いた。

「あんまり、喋らないね」

 驚いて彼女は顔をあげた。ぼくの目を覗き込む彼女の瞳には不思議そうな色が宿っていた。顔が熱くなるのを自覚してぼくはちょっとひるんだ。けど、目をそらしたくなかった。あの春の日に見た彼女の瞳はやっぱり澄んでいて綺麗だった。

 ぼくはスピードを上げる鼓動を堪えながら言葉を継いだ。

「学校、まだ慣れない?」

「そんなことはない」

 唇の動きを見ていたので聞き取ることができたけどとても弱い調子だった。彼女はぼくから視線を外すとまたうつむいてしまう。膝の上で組んだ手に力がこもったような気がした。

「声がさ……」

 ぼくは話しかける。

「もうすこし大きな声で喋った方がいいと思う」

 ぼくの中にはさっきの担任の言葉が蘇っていた。前に進むためにはやっぱり意志の力が必要だと思う。彼女は寂しさのようなものを感じていると思った。それはぼくの思い違いかも知れなかったけど、しっかりと組まれた手がそれを表現しているように感じた。

 彼女はもう一度組んだ手に力を入れてぼくを見た。

「わかって、います」

 しっかりとした口調。彼女の声のトーンとはっきりと意志を湛えた瞳がぼくを捉えて放さなかった。



 秋になって、ぼくの中に小さな変化があった。いまだに将来の設計図ははっきりと見えていなかったけど逃げるのはやめようと思った。見えない不安から逃れるためだったかも知れないけど、ぼくは志望校を決めて、そこに到達するように努力をはじめた。クラスの仲間たちも同じような思いを抱えている。教室は不思議な緊張に包まれていたけど、過ごしやすかった。

 普段居眠りをしていた者もしっかりとノートを取っていた。先生の板書の音と生徒の息遣い。教室が一つの生き物のようになって、ぼくたちを背中から押してくれている気がした。

「ねえ、この問題わかる?」

「どれ?」

 放課後の教室にはいつも数人が残って勉強していて、その中には彼女の姿もあった。夏の日より表情が明るくなった彼女は、もうクラスに打ち解けていた。

 そんな彼女の姿も、ぼくの背中を押してくれるものの一つだったと思う。

 夜が冷え込むようになってきた頃、校内は学園祭の準備に取り掛かっていた。クラスではあまり準備に負担をかけないようにと喫茶店の案が採られた。机をテーブルに見立てて飲み物とケーキを出すのだ。ぼくは買出しに行くグループの中に入っていた。その中に彼女の名前があったのが嬉しかった。

「じゃあ、羽目を外し過ぎないように、しっかり息を抜きましょう」

 クラス委員の近藤の言葉にぼくもうなずく。夏頃からの緊張はちょうど張り詰めていたように思えた。

 買出しに行くのは四人。ぼくとクラス委員の近藤、あとは彼女と藤見という女の子がいた。少しでも安く上げようと電車に乗って業務用のスーパーに向かうことになった。出かけて来たかいがあって、驚くほど安かった。けれど、紙コップなど数点足りないものもあった。

「どうする? 今日中にそろえたいよな」

 近藤が少し困ったように言った。彼は先ほどから少し時間を気にしていた。

「ちょっと先にホームセンターがあるけど」

「じゃあ、行こうか」

 四人でホームセンターへの道をたどりながら、ぼくはやはり近藤が時計をさりげなく気にしているのが気になっていた。

「近藤? 時間気になるの?」

「いや、ちょっとな」

 思い切って尋ねると歯切れの悪い返事が帰って来た。そこでぼくはあることに思い至った。

「近藤って、推薦だよな。なんなら、先に帰ってもいいよ」

 推薦入試まではあと数週間しかない。一般入試のぼくは息抜きと割り切っているけど、みんながそうではないのだ。不安の形は一人ひとり違う。近藤はまたぼくとは違う大きな不安を抱えてこの行事に参加していたのだ。ぼくが思っていたことはどうも正解だったようで、近藤は少しためらってからうなずいた。

「これくらいならぼくだけでも持てるから、みんなもいいよ」

 そう言うと近藤は本当に申し訳なさそうにしていた。藤見さんも予備校の時間が迫っているということで、ぼくと彼女だけが残った。

「いいの?」

「いいよ」

 彼女はそう言ってぼくの目を見た。



「お礼を言おうと思って」

 ひょんなことから二人っきりになってしまって舞い上がって何を話していいかわからなかった。鼓動と一緒に歩調も上がって、荷物を持ってすたすたと歩くぼくの隣に追いついてきて彼女はそう言った。

「お礼?」

「そう。お礼」

 彼女の横顔にはあの頃の寂しそうな雰囲気は微塵も感じなかった。ぼくはこの方がいいと思った。

「夏に、話し掛けてくれたでしょ」

「あ、……うん」

 ぼくは自分がどんな顔をしているのか怖くなって、彼女から視線をそらした。

「あの時はね、とても嬉しかった。クラスに馴染めてなくて、ずっとうつむいてるのを叱ってくれたから」

「……どういたしまして」

 何とか言葉を返すと、彼女はくすくすと笑った。

「とっても周りを見てる人だな、と思った。さっきも、」

 そこで彼女は言葉を区切った。続きを促そうと彼女の方を向くとあの綺麗な瞳にぶつかった。彼女はまた笑った。

「近藤君が少しそわそわしてるとは思ったの。けどわたしはそれ以上考えなかった」

 瞳を覗き込んでいると言葉が出てこない気がしたのでぼくはまた前を向いた。

「たまたまだよ。たまたま、当たっただけ」

「そう?」

 こちらを向いているのがわかって、ぼくはとても彼女の方を向くことが出来なかった。

「そうだよ」

 それっきり、ぼくと彼女の会話は途切れた。けれどぼくの隣で、彼女はずっと微笑を湛えていた。



 こんなに居心地の悪い正月は初めてだった。日を追うごとに不安は募っていく。クラスの中にはいい結果だった者もいたし、悪い結果だった者もいた。そのどちらも、ぼくを不安にさせる。

 年賀の中に彼女からのものがあった。少しクセのある、けれども読みやすい字でもう少しだから頑張ろう、というようなことが書かれていた。ぼくは慌てて年賀状を書いてポストに入れた。

 そうして、受験の日を迎えた。

 ぼくなりにやれることはやった。けど、コートを着ていても背中から震えがくるのは寒さだけではなかったと思う。学校の試験よりも数倍緊張しながら、答案を埋めていく。周りの緊張も、ひしひしと伝わってきた。

 すべての教科を終えて、大きな息をつく。すると今までずっと背中に感じていた重さとか寒さが和らいだ気がした。

 試験会場を出たところで彼女を見つけた。彼女はぼくを見て笑顔で近付いてくる。

「出来た?」

「どうだろう? とりあえず埋めた。そっちは?」

「わたしも同じ。出来るだけ頑張った」

 そう言って笑いあった。

「春に、会えると良いね」

「うん」

 数日してぼくたちは卒業式を迎えた。

 彼女とは何も言葉を交わせずに別れた。

 合格を知らせる通知が届いたのはその翌日だった。



 いくつかの季節が過ぎて、また春が来た。

 桜並木を歩きながら、ぼくは思い出がぼやけていくスピードに驚く。

 春は出会いの季節。

 そして別れの季節。

 いくつもの出会いと別れを繰り返しながらぼくは進んできた。あの日一緒に買出しに行った近藤と藤見さんのフルネームもすぐには思い出せない。

 新しい季節を感じ、新しい自分を感じながら大学に行ったあの春の日、ぼくと彼女はもう一度出会った。

「───くん」

 彼女は今もぼくの隣にいる。

 日常の中を進みながら、彼女の名前と思い出は今もぼくのそばにある。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

桜の季節 島本 葉 @shimapon

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ