疑心暗鬼

よしお冬子

疑心暗鬼

 それは、酷い喧嘩をした翌日から始まった。酷いとは言っても、過去に同じような口論は何度もあったし、いつものように数日気まずく過ごして、そのうち、なし崩し的に日常に戻る、そう思っていた。

 喧嘩の内容にしても、二人にとってはもう何度も繰り返されたことであったし、一体今までと何が違ったのかと、いくら考えても、恭一には全く思い当たらない。

 妻、早織がおかしいのである。いや、おかしいと言って良いのだろうか。やたらと素直で、かいがいしい。だが恭一にとっては何を企んでいるのかと、ひたすら不気味であった。

「おかえりなさい!もうご飯はできてますよ!」

 そう言ってにっこり微笑むが、そもそも敬語を使い始めたのすらおかしい。それについて恭一は早織に何故そんなことをするのかと何度か聞いたし、最初の方は、嫌味か、それとも馬鹿にしているのかと怒った。だが。

「私、反省したんです!あなたあっての私だもの!今まで本当にごめんなさい!」

 何を言ってもニコニコ笑ってそう答えるばかりであった。

 さて、口論の発端であるが…。お盆に恭一の実家に帰省した時のことだ。血のつながった恭一にとって、両親の言動が特別おかしいと感じたことはない。しかし帰省の度、帰りの車内でいつも早織は口をとがらせて、お義父さんのあれは酷い、お義母さんのあれは意地悪だ、どうして守ってくれないのか、私の立場からは何も言えるわけがないだろう、と延々愚痴るのである。

 恭一は、ハイハイと適当に聞き流そうとするが、数日我慢した早織の怒りや悲しみはなかなか収まらない。

 車内と言う密室、しかも2時間3時間、渋滞の中の運転。自分の両親を悪し様に言われるのは気分が良くない。明日からの仕事を思えば気分も沈む。そんなこんなでイライラが募り、つい怒鳴ってしまう。早織も何がしか言い返しはするが、最後はいつも早織が泣き出して終わり。

 ようやく帰宅して家の中に荷物を運び入れる間も、早織はずっと俯き、しくしく泣き続けているし、恭一も不機嫌そうにガタガタドスドスと荒々しく音を立てる。恭一は寝室へ、早織はキッチンへそれぞれ籠り…それでも早織はお風呂と恭一の着替えは準備して、夜は、喧嘩の日は常にそうするように早織はリビングで寝た。そう、それも、いつも通り。

 ――何が、今までと違ったんだろう…。

 今日の食卓も豪華である。無駄遣いしてないだろうな、と聞くと、○○時以降は半額になるし、□曜日はお肉が安いんですよ!恭一さんの大事なお金を無駄にするなんてとんでもないですよ!と、これまたにこにこ笑って言うのである。

 『明らかにおかしい』と言えるのは、今までなかったような料理の失敗が、数日おきに起きることだ。変に苦いのである。指摘すると、早織は平身低頭謝り、すぐにそれを下げて、一皿新たに追加で作るのだ。

 あまりにも申し訳なさそうに謝るものだから、恭一も、

「もういいよ、少し減っても別に…。」

と言うが、早織は手早く作り直し、配膳してくれるのである。

 二人はテレビを観ながら食事を摂るのであるが、時々、早織が無表情で恭一をじいっと見つめていることに気付いた。

恭一がそれについて聞けば、

「…そろそろおかわりどうですか?」

「…味の方はいかがですか?」

 と、言って、早織はまたにっこりと笑うのである。

 もう一つ、早織が随分身だしなみに気を配り始めたのも気になった。早織は週に何度かパートに出ていたが、休みの日も朝からばっちりメイクをしているのである。

 以前は「お肌は休ませないと駄目なの」などと言っていたのに。

 態度が変わって綺麗になったとなれば、恭一にとって『当然導き出される答え』は、浮気である。時折料理が苦いのは、まさか、毒でも入れて保険金殺人を企んでいるのでは…?そして、浮気相手と再婚しようと思っていたりして…と。

 証拠を得るためにと、早織がパートに行く日に有給休暇を取って、こっそり家に戻って家探ししたが何も出ない。そんなはずはない、殺されてはたまらないと、恭一は独身時代の貯金を取り崩して、興信所に調査を依頼した。…が、何も出ない。早織はスーパーでレジのパートをしていたが、浮気をするような暇はどこにもないというのだ。

 そんなこんなで10月になった。街の銀杏も色づき、いよいよ秋らしくなっていたが、その日は急に暑さがぶりかえし、寝苦しい夜となった。

 …ふと、恭一が気配を感じうっすら目を開けると、同じベッドで隣で寝ていた早織が、正座して、じいっと見下ろしていたのである。暗闇の中、目だけが異様に輝いて見えた。

 ひっ、と変な声が出る。だが、騒いではいけない気がして、寝たふり、気付かないふりをして、恭一は寝返りを打ち、ぎゅっと目を閉じた。

 しばらくして、早織が布団に入る気配がした。そしてすやすやと寝息を立て始めても、恭一はそれから眠りにつくことができなかった。

 ようやく少しウトウトできたのは、早織が朝の用意をするために寝室を出て行った後であった。

 その日もきっちり身支度を整えた早織は、朝御飯をしっかり準備し、にこやかに恭一に声をかける。

 その笑顔のなんと恐ろしいことか。恭一はもう耐えられなかった。テーブルの上の食事を右手で全部払い落し、怒鳴りつけた。どういうつもりだ、毒でも入れてるんだろう、俺を殺すつもりなのか、と。

 「あらあら大変。どうしたんですか?朝御飯食べなきゃ、お腹空いてしまいますよ?」

 全く意に介さず、にこにこと笑ってそう言う早織。この落ち着きぶりに、恭一の疑念は確信に変わる。

 ――やはり、こいつは、俺を殺そうとしているんだ。

 「割れた食器があぶないわ。さ、こっちのソファの方へ…。」

 右手で足下に落ちたフォークを拾い上げ、満面の笑顔で近づいてくる早織。

 恭一は叫びながら早織を殴り飛ばし、助けを求めて外へ出た。近所の人が通報して、パトカーが来るのはそれから5分とかからなかった。


「こちらの要求は全て飲むということで、離婚に合意されました。慰謝料も満額です。」

「ありがとうございました。本当にお世話になりました。」

12月。窓から見える街並みはすっかりクリスマス仕様となっていた。喫茶店の一角で、紺色のスーツを着た、いかにも気がきつそうな女性に、早織は深々と頭を下げた。

 あの日駆け付けた警官が見たのは、荒れたリビングに倒れる早織だった。早織は頬骨を骨折し、即入院となった。恭一は逮捕されたが、殺されそうだったとか、あれは正当防衛だったとか、警官からすれば呆れるような言い訳を並べ立て、心証はおよそ最悪であった。

 だが、弁護士を通じた早織の働きかけで恭一は無罪放免、その代わり相当の慰謝料を払って離婚ということで話がついたのである。金額的には痛いし、両親からも色々言われたが、命あっての物種である。恭一はむしろ喜んで判をついた。

 早織はほくそえんだ。

 ――こんなに上手く行くと思わなかった。数か月間しんどかったけど、思っていたより早く済んだ。本当はずっと前から愛想はつかしていたけど、あの日がラストチャンスだったのよね…。

 早織は責められるようなことは何もしていない。ただ時々『うっかり』、料理にコーヒーパウダーを入れてしまったり、時々『なんとなく』、恭一を真顔で見つめたり、夜中に『なんとなく』、正座して恭一をじっと見降ろしたりしただけだ。

 そしてただ、身綺麗にして、明るく笑い、『理想的な良い妻』をしていただけ。

 暖房が効いた喫茶店から出ると、冷たい空気が身に染みる。だが早織はとても心地良く感じられた。気の早いクリスマスソングが流れる街の中、服の一着でも見に行こうと思えば、ウキウキと足取りも軽くなるのだった。

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疑心暗鬼 よしお冬子 @fuyukofyk

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