第6話

 全身紫色の僧衣の男が名前を得てから数日後、レンリは久々に彼と会った。

 というのも、これまで彼はシエン預かりとなり、シエンが所有する別荘にいたためだ。それが、この日の朝になって急に『レンリ預かりとする』との沙汰が下り、シエンの秘書を務める男がレンリの研究室に連れてきたのだ。秘書は沙汰を告げると、さっさと部屋を出ていってしまった。沙汰が下された理由は分からず終いだが、どうせミロクに飽きただけのことのだろう、とレンリは推測する。

 ミロクは相も変わらず、紫色の僧衣に紫色の髪と目の色をしている。髪にべたつき等は見られないことから、湯浴みくらいはさせてもらっていたようだ。

 全身が紫色ではあるが、よく見れば、ところどころ違う色が混ざっているのも分かる。虹彩は金色。袈裟も金糸が混じり、動くと光りの波が立つ。毛先はよく晴れた空の色で、暖色系の電灯の下では明け方を連想させる。

 見た目の美しさと珍しさとで、一歩レンリが私室としている部屋を出れば、途端に研究者達の餌食となるだろう。

「久しいな、ミロク。調子はどうだ?」

「ちょうし、とは?」

 ミロクは不思議そうに首を傾げる。見た目は良い歳をした青年だが、知識と表情は無垢な幼児と変わりがない。経験は、それ以下だ。シエンが、ミロクにこれといって物事を教えなかったことが分かる。

「喜び、怒り、哀しみ、楽しみ。怠いでも辛いでも良いが、あらゆる感情が発生していないかと聞いているんだ」

 詳しくレンリが言い直しても、「この辺りに」と頭や胸を指差しても、ミロクの表情は変わらなかった。

「わからない。このなかには、なにもない」

 頭や胸の辺りを両手でペタペタと触っていたミロクだったが、不意に耳の辺りで両手を止める。

「よばれている。ここにきてから」

 ミロクは急に体の向きを変えると、部屋を飛び出した。レンリも慌てて部屋を出るが、身長差があって彼の方が足が速い。見失わないことで精一杯だ。飛べばすぐに捕まえることは可能だが、研究者達のことを考えるとそれもできない。

 ミロクは、最上階の最奥にある部屋の中へと飛び込んでいった。レンリも滅多に立ち寄らない部屋だ。彼女が部屋にたどり着いた時には、既に居合わせた人間から驚きの声が上がっていた。

 部屋に入ると、ミロクは白い扉の前で立ち尽くしていた。その扉の向こう側にあるものをレンリは知っている。『よばれている』と言っていたことを思い出して、思わず眉が寄った。

「どうしたの? 彼、王子が拾った子だよね?」

 部屋の責任者であるヒヨクが、声を掛けてくる。常におどおどとして頼りない彼だが、気の合う研究者仲間やレンリには怯むことがない。両腕に書類を抱え、小首を傾げる姿は、まだあどけなささえ残る十代に見える。しかし、実年齢は六十前後だとレンリはシエンから聞いたことがあった。研究者の間でも、整形を繰り返しすぎて元の姿が分からなくなったのだ、とまことしやかに噂されているようだ。

「今朝から急遽、私預かりに変わったんだ。騒がしくして、すまないな。こいつが急に走り出して」

「レンリ。このなかから、こえがする」

 人が話している最中にも関わらず、腕を掴んで引っ張っていこうとする。この辺りも、幼子と変わらない。レンリは顔をしかめると、「はあ?」と声を上げた。滅多にとる態度ではないためか、傍にいたヒヨクが「ひっ」と短い悲鳴を上げる。

「レンリ。このなかから、こえがする」

 ミロクはめげることなく、同じことを繰り返し言う。レンリは、ため息を吐いた。

「すまないが、開けてやってくれないか」

「まあ、レンリの頼みだから良いけど。開けてあげてくれる?」

 責任者であるヒヨクの指示に従って、扉の近くにいた研究者が開いた。

 真っ白い扉の向こうには、これまた真っ白な壁が四方を囲う小部屋があった。物といえば、白い寝台が一台あるのみ。そこに腰を掛けていた少女が振り返る。

「あなた、だれ?」

 小部屋の中で唯一色彩を持つ少女が、首を傾げた。眩い金糸の髪が、肩から流れ落ちる。

「ミロク。よんでいたから、きた」

「だれもよんでないけど。でも、きてくれてうれしい」

 少女が、わずかにほほ笑んだ。

 すると、ミロクの口角もわずかにではあるが、上がった。少女よりも遥かに不器用に、しかし『笑った』のだ。

「感情が芽生える、か」

 二人の様子を、レンリは複雑な心境のまま見守っていた。

 彼女自身、少女には興味がある。少女のために、この世界に遣わされたのだから当然だ。

 しかし、ミロクと会わせ続けて良いかどうかが分からない。ミロクと世界を結びつけたのはレンリだが、彼を受け入れるも淘汰するも決めるのは世界だ。ミロクが感情を持った時、世界はどちらに転ぶのだろう。

「やあ、レンリ。ここにいたんだね」

 呼ばれて振り返ると、シエンが立っていた。あたかも探していたかのような物言いだが、この男が現れるタイミングは常に良すぎるくらいに良い。

「見計らってきたんじゃないのか?」

「そんなことはないよ。レンリの顔を見たくなっただけさ」

「調子のいいことだ。まあ、良い。ちょうど、ミロクとレイを会わせて良いものかどうか考えていたところだ」

 この世界のことだ。この世界に生きる人間に判断を委ねることは、世界が判断することに等しい。そう考え、レンリは切り出した。

 シエンはミロクとレイを交互に見ると、目を細める。

「へえ。感情が芽生えたんだ。良いじゃないか」

 シエンの目が、今度はヒヨクを捉える。ヒヨクは「ひっ」と悲鳴を上げながら、首を縮こまらせた。

「ここの責任者は、ヒヨク博士だったね? レイも刺激を受けているようだし、しばらく彼と会わせてはくれないかな?」

 疑問形ではあるものの、彼の言は命令に等しい。ヒヨクは首が取れてしまうのではないかと疑うほど、激しく縦に振った。腕にも力が入っているのか、抱えている書類に皺が寄っている。

 こうして、ミロクとレイは毎日顔を合わせるようになった。レイは実験の時以外に小部屋を出ることを禁止されているため、専ら小部屋で、研究者の誰かが立ち合う中での顔合わせだった。

 それでも、ミロクの口数や表情の種類は、目に見えて増えていく。

「なあ、レンリ。レイは、いったい何者なんだ?」

 見た目だけはいい歳をした青年が、椅子を逆向きに腰かけ、足をぶらつかせている。レンリ預かりとなって十五日以上経つが、いまだに動作は子供のそれだ。

「レイはヒヨクが造った、この世界で唯一の『人』であり、『人』でないものだ。二重螺旋の構造としては人そのものだが、親というものは存在しない。だからこそ、同じく人でないおまえが惹かれるのかもしれない」

「人ではない、か」

 ミロクは背もたれの上で手を組むと、その上に顎を乗せた。そのまま首を傾げるが、悲しいかな、ちっともかわいく見えない。

「俺に付けてくれたミロクって、菩薩の名前なんだろ? 俺にも、人の願いを叶えることができるのか?」

「確かに、菩薩ではあるが。いったい誰から、そんな古い話を」

 レンリは呆れて、ため息を吐いた。誰がミロクに教えたのかは知らないが、既に廃れてしまった宗教の考え方の一部だ。第四次世界大戦の最中である今、疲弊している市民も、戦いに酔う上層部も、我関せずといったように研究を続ける研究者達も、神や仏といった存在達を忘れてしまっていることだろう。

 そのような中で、如来になることを約束されたわけでもない赤子のような男が現れるとは、なんという皮肉だろうか。

「いいか、ミロク。どんな存在であれ、ありとあらゆる欲望や願いというものは受け止めることしかできないんだ。すべてを叶えることは不可能だと覚えておけ」

「そんなもんか?」

「そんなものだ」

 レンリが諭しても、ミロクは不服そうだ。顔全体に、そう書いてある。

 レンリは、ため息を吐いた。

「レイの願いか?」

 不服と顔に書いたまま、ミロクはうなずく。

「実験を止めてほしいって。レイには、何人か複製がいるんだろ? レイ自身も不自由な思いはしてるけど、複製はもっと酷い目にあってるって」

「そうか」

 ヒヨクはヒヨクなりに、レイを大切には思っているようだ。だからこそ、外には複製を用意し、レイ本人は自身の研究室から極力出さないようにしている。しかし、レイとしては自身も複製も同じ『レイ』なのだから、納得できようはずもない。

「だが、それは私にも止めるのは難しい」

 レンリが潜り込んだのは、薬学の分野だ。正体不明のミロクは、本来ならヒヨクの元へやられても不思議ではない。単に、王子の命令だから預かっているにすぎない。レンリ達は遺伝子学や生命科学と同じ建物に部屋を構え、必要があれば関わることもあるが、互いに干渉することはできない。

「分かってる」

 管轄外ということが、だろう。分かっているという割に、やはりミロクの顔には不服と書いてある。これでは、どれだけ話したところで平行線に終わるだけだ。

 レンリは一つ息を吐くと、話題を変えることにした。

「ところで、ミロク。その口の利き方は、どうにかならんのか?」

 ミロクの顔から、不服の文字が剥がれた。紫色の瞳が、きょとんとレンリを見る。

「どうにかって。俺はただ、レンリのまねをしてるだけだ」

 そう言われてしまうと、レンリは黙るしかなかった。



 それから更に十日ほど経ったある日、レンリは机の上に放りだした一枚の紙をじっと見つめていた。ミロクは朝からレイのところへ出掛けたので、彼女に「どうしたのか」と問う者はいない。

 しばらくそのままでいると、慌ただしい足音が聞こえた。何事かとレンリが耳を澄ませると、部屋の戸を何度も強く叩かれる。レンリがそっと戸を押し開くと、涙目になったヒヨクが立っていた。今にも大声で泣き出しそうに見えたため、素早く部屋へと入れてやる。

「どどど、どうしよう、どうしよう。急に異動命令が出たんだけど。ぼく、何かやっちゃったのかな? どうしよう、レンリー」

 人の白衣の裾を掴んで涙を零すヒヨクは、とても研究室の責任者を任されていた人物とは思えない。レンリはため息を吐きながら、机の上に放りだしてあった紙をヒヨクに見せた。

「安心しろ、とは言い難いが。私のところにも来た」

「え?」

 瞬きをするヒヨクの目尻から、大粒の涙が零れる。

「他にも数名、異動命令が通知されている者がいる。それも、ミロクとレイに関わりのある者ばかりだ」

 驚きが勝ったのか、ヒヨクの涙が止まった。

「そ、それって。わざとってこと?」

「だろうな。我々を二人から離すのが目的だろう」

「そそそ、そんなのダメだよっ。離れたら何されるか分からないじゃないかっ」

 レンリは顔をしかめながら、手で両耳を塞いだ。常にどもるようにして喋るヒヨクだが、感情が高ぶると急に大声を出すことがある。

「そこは私も皆も承知している。だからと言って、違反するわけにもいかないだろう。相手は軍の上層部だ。処分されてしまえば、それこそ終わりだ」

「し、死ぬのは、やだ……けど。レイは、ぼくのなのに」

 項垂れたヒヨクの手は、目に見て分かるほど震えている。レンリとしても、ミロクを残していくのは不安だが、命令書には『置いていけ』と書かれている。それも世界が決めたことと考えれば、従うより他に選択肢が無い。

「とりあえず、シエンには連絡を入れておこう。あいつも今は外遊で留守にしているから、どこまで助力してもらえるか分からんがな」

「そう、だね」

 ヒヨクはまだ不安そうではあったが、出発日の当日にはちゃんと姿を現した。レンリはミロクに極力おとなしくしているよう伝えたが、中身が子供ということもあり、守るかどうかは分からない。

 研究者十数人と不安を乗せた船は、スルガ港から出港し、南へ南へと進んでいるようだった。日常を部屋の中で過ごす者が多いせいか、船酔いを起こして船室で寝る者が半数以上出た。異動という名目だからか、一人一人に船室が用意されている。戦争のおかげで休業を余儀なくされた長距離運行用のフェリーを活用しているらしい。

 ほとんどの人間が船室に籠り、話し相手がおらず暇を持て余したレンリは、一人船内を歩いていた。このまま食堂にでも行くか、甲板に上ってみるか。そう考えたところで、甲板から下りてくる人物と出くわした。実際に見たことは無いが、画面では見たことがある顔だ。

 レンリは眉をひそめた。

「なぜ、戦神がここにいる?」

「その質問には、二つ答える必要があるなあ」

 くせ毛をふわふわと風に遊ばせている優男は、右手の指を一本立てた。

「一つ。僕は、戦神のコピー元。正真正銘の人間です。ヒガン、といいます。お見知りおきを」

 優男は「二つ」と言いながら、立てる指を一本増やす。

「シージャックをしに来ました」

「シージャックだと?」

 レンリの眉間に皺が寄るが、ヒガンは柔らかい笑みをたたえたまま「そう」と肯定する。

「この船には、パーパの優秀な研究者。それも遺伝子学に明るい研究者が複数人、乗船しているようだね」

「あいにく私は薬学専門だがな」

「それも僕達には必要な要素だ」

 ちっちっ、と立てた指を横に振るヒガンに対して、レンリの眉が片方だけ吊り上がる。それでもヒガンは、笑顔を崩さなかった。

「君達には、僕達の計画に是非とも参加してほしいんだ。別に犯罪を犯そうとか、国を滅ぼそうとか、悪意を持った計画ではないよ」

「こうなってしまった以上、参加された方があなたにもヒヨク博士にも良いと思います」

 背後から声が聞こえ、レンリは振り返った。見知った顔に、目を見開く。初めてミロクがレイに会いに行った時、白い扉を開けた男だ。

「おまえは、ヒヨクのところに所属する者だな」

「はい。第二班の班長を務めさせていただいております、アハンカーラと申します。この計画に参加している者は、私以外にも数人いますよ。下手に暴れない方が懸命な判断かと思いますが」

 アハンカーラの後ろに、筋骨隆々の男が現れる。その顔を見て、レンリは更に目を丸くした。見知ったどころか、会話を交わしたことのある人物だった。時に最前線に立ち、時にシエンの護衛も務める男だ。

「シャオウ。おまえまで加担しているのか。このこと、シエンは知っているのか?」

「いや。この計画は、どこの国からも秘密裏に行われている。戦争やら権力闘争やらに飽き飽きした研究者達の集まりだ」

「戦争屋がよく言う」

 レンリの呆れたといった物言いに、シャオウは「ははっ」と短く笑った。

「計画については、島に着いてから詳細をお話します。レンリ嬢。お手をどうぞ」

 ヒガンが、レンリの前に右手を差し出す。レンリは、じっと差し出された手を見つめた。柔和な顔に反して、細かくささくれができた荒れた手だ。一分経っても引っ込めようとしないので、仕方なく手を男の手に重ねた。

 男の手は、甲板へと導いていく。船の外は、風が強い。下ろしたままだったレンリの横髪が、一気に風に浚われる。

「あの島か?」

 視線の先に、緑豊かな島が浮かんでいる。

「ええ。『ナカツクニ』と祖父が名付けました。祖父は、そちらにいるミロクと同じように、この世界に突如現れたものです」

「なんだと?」

 レンリは、ヒガンを見上げた。ヒガンも、レンリを見下ろしている。やはり、その顔は笑っていた。

「祖父は自分のことを『何者でもない存在の欠片』だと言っていました。無意識のうちに世界に欠片が入り込んでしまうことがあると」

「無意識のうちに?」

 レンリは意識的に入り込んだ存在だ。ミロクやヒガンの祖父は、同じ存在でありながらも非なるもの、ということになる。

「ええ。知識量の差は、個体によるようですが。これまで、何を言っているのか分かりませんでした。しかし、世界が紫色に染め上がり、シャオウ達にミロクというものの存在を聞いた時に理解しました。祖父の言っていたことは本当であり、こういった事例は度々起こると。大昔に信じられていた神々も、同様のことがあったのかもしれません」

「なるほどな」

 天から降りてくる。産道ではないところから産まれてくる。そういった逸話は限りなくある。箔をつけるために背びれ尾びれを付けているのだろうが、レンリやミロクといった存在がいる以上、同じような事例が太古からあった可能性は十二分にある。おそらく、この世界という名の箱庭に限ったことでもないのだろう。

 思念体は、自身の欠片が箱庭に落ちたことに気付いていない。更に、意識的に降りたレンリは極力世界に影響を与えないようにと考えるが、無意識のものは違うようだ。世界がそれぞれに独自の道を歩いているのは各々の特性というだけでなく、彼等の影響も受けているからだろう。

「大変参考になった。それで、その人は今どこに?」

「亡くなりました。それで、僕が計画を受け継いでいるんです」

「亡くなった、か」

 無意識のものは肉体が世界に残るらしい。精神は世界の外へと帰っただろうか。人が輪廻と呼ぶものから、レンリ達は外れているのだから。

 船は、島に寄せられるところまで寄せて動きを止めた。島には大きな船が着岸できるだけの設備がないため、ここからは避難用の小舟を下ろして手漕ぎで移動となるようだ。研究者達が甲板に集められ、三、四人の班に分けられる。レンリはヒヨクと共に、ヒガンやシャオウ、アハンカーラと同船することになった。

「なな、なんでこんなところに、戦神がいるの? 僕、行くの嫌なんだけど」

 ヒヨクは怯えながらも、はっきりと嫌だと主張した。てっきり大声で泣き出すものだと思っていたレンリは、意外な面を見て目を丸くする。しかし、どれだけ主張しても、シャオウの腕力には敵わない。結局は、レンリと共に岸へと送られた。

 ナカツクニと名付けられた島は、緑豊かな何の変哲もないところだった。岸の近くに人の気配は無く、海鳥の鳴き声と波の音だけが聞こえている。

「無人島か?」

「元はね」

 ヒガンは上着のポケットから携帯電話を取り出すと、誰かと話し始めた。こんな島でも電波が繋がるのか、とレンリは感心する。その隣りにうずくまったヒヨクは、頭を抱えて「もう終わりだ」と呟いている。

「悲観することもないと思うがな」

 苦笑いを浮かべるシャオウは、避難用の小舟にもう一度乗り込んでいた。

「戻るのか?」

「軍にな。航路からはずれたことは、奴等だって分かってるだろうから、ごまかしてくる」

 どうごまかすつもりかは分からないが、シャオウは「じゃあな」と言いおいて小舟を漕いでいってしまった。沈んだ、とでも言うのだろうか。

 レンリが難しい顔をしながらシャオウを見送っていると、車のエンジン音が聞こえてきた。ヒガンが迎えの車を呼んだらしい。しかし、車は五人乗りで一台しかない。小舟の時と同じように班分けがされ、班ごとに送られることになった。

 レンリ達の班は、最終便だった。ヒヨクがあまりにヒガンも怖がるので、苦笑する彼が助手席に乗り、レンリとヒヨクとアハンカーラの三人が後部座席に座る。ヒヨクが少年並みに体が細いのもあって、体を縮めなくても座ることができた。

 森は車幅分だけ切り開かれているが、舗装はされていない。タイヤで踏み固められた道を揺られながら進む。

 こんな場所で研究者を集めて行う計画とは、どういったものなのか。

 レンリは窓の外を眺めながら、首を傾げる。

「あっ、見て。レンリ」

 突如声を上げたヒヨクに、腕を引っ張られる。中央に座るヒヨクに顔を寄せて前方を見たレンリは、「なんだ、これは?」と声を漏らした。

「驚いたかな? 誰も、こんな島に研究都市ができてるなんて思わないよね」

 助手席に座ったヒガンが、得意気に笑った。

 まず目を引くのは、金色に輝く建物群だ。そこから波紋状に、建設途中の街が広がっている。街は、広大な湖に浮かぶ孤島の上に造られている。岸と孤島とを二本の橋が繋ぎ、まるで糸の上に街があるように見えた。

 糸、と言っても、実際には車が対面通行できるほどの幅がある。簡単には落ちないよう、太い鉄骨と大きなボルトが使用されている。岸壁も崩れないように補強がされていて、どこの国からも秘密裏にこれだけの工事を進めるのは難しいように思われた。

 車を降りた研究者達は、建物群の中でも一番手前のビルの一階に集められた。使われていないのか、しんと静まり返っている。椅子も何も無いため、しかたなく直接床に座る。将来的に車を入れるつもりなのか、アスファルトで固められた地面は硬くて痛い。

「パーパのみなさん。『ナカツクニ』へ、ようこそ」

 一人立ったままのヒガンが、軽く頭を下げる。その顔を真正面から見た途端に、研究者達からどよめきが起こった。戦神の顔を知らない人間は、意外と多い。しかし、集まっているのは、たびたびシエンや軍の人間が訪れる部署の人間だ。普段は時間を惜しんで報道を見ない研究者であっても、毎度話を聞かされれば嫌でも覚える。

 どよめきの中でも、ヒガンは平然と笑っていた。

「僕は、ドゥルガーのヒガン。戦神のモデルの一人です。みなさんにお越しいただいたのには、もちろん理由があります。僕の計画に参加してください。拒否権は、ありません」

 どよめく声が、更に大きくなる。収拾がつかなくなる前に、レンリが手を挙げた。

「まずは、計画の内容を教えてくれ。でなければ、判断のしようがない」

「今、拒否権が無いと言ったばかりだけど」

 ヒガンが、さもおかしいといったように笑う。

「まあ、いいさ。単刀直入に言うと、種の保管計画、だね」

「種の保管計画?」

 小首を傾げるヒヨクに、ヒガンがうなずく。

「悲しいことに、祖父はこの世界が滅びの道を進んでいると早くから試算していました。実際に、僕の仲間達が大気や土壌、水に至るまで日々汚染度を計測してくれていますが、数字は芳しくありません。にも関わらず、どこの国も戦いに明け暮れている。このままでは仲間達も徴兵され、調査さえ滞ってしまう。そう危惧した僕達は、まず徴兵されない仕組みを作ることにしました」

「それが戦神、ということか?」

 レンリの問いに、またヒガンがうなずいた。

「本当は戦争を止めさせるのが良いのでしょうが、僕たちが何を言っても上層部は聞きもしません。実際に、ドゥルガーでは徴兵される人間の数を減らすことに成功しました。一国だけとはいえ、無駄死にする人数を減らすことができたんです」

 「しかし」と続けるヒガンの笑顔が、少しばかり曇る。

「他国にとっては脅威でしょうが、実は安定していない技術です。ただクローンを作るだけならまだしも、急激な細胞分裂をさせて短時間で大人の姿にさせようというのですから当然でしょう。人の身を持たない肉塊ができることもあれば、感情を持ちすぎるものができることもある。僕の記憶を持つものなら割り切ってくれますが、そこら辺の人間のコピーではそうもいきません。人間の記憶や感情があるのに、人形として死ねと言っているのですから当然でしょうね」

 初期の戦神は同士討ちが散見されたということは、シエンから聞いて知っている。最近、落ち着いてきたのは技術の向上ではなく、人を選んでいたからなのだ。シエンにも後で教えてやろうか、とレンリは考える。一人であれば、逃げることなど容易だ。

「ただ、戦神はあくまでも一時しのぎです。時が来れば、技術は潰します」

「潰しちゃうの?」

 問い返すヒヨクに、「ええ」とヒガンは躊躇なく同意した。

「計画の本筋は、種の保管です。徴兵を無くすだけでは、いずれ生物は滅びます。一時しのぎをしている間に、たとえ瀕死の状態でも生還し、どのような環境下でも生き続ける技術を作るのです。そのために、有志を集めて、この島に街を作りました」

「それが、僕達を連れてきた理由?」

「その通りです。一からヒトを造り上げたヒヨク博士であれば、この計画も遂行することができるでしょう。軍部に半ば島流しのように扱われるよりも、よほど有意義な時間を過ごすことができると思いますが?」

「僕、やりたいっ」

 二つ返事で了承したヒヨクの目は、輝きに満ちていた。胸の前で両の拳を握り、頬は興奮のためか紅潮している。

「レイは心配だけど、戻っても何もできないんだから。今は、やれることをやる。良いでしょ、レンリ?」

「良いも悪いも。ここにいるのは、ほとんどがおまえの部下だ。おまえの好きにしたら良い。私も、それに従う」

 レンリは答えながらも、内心で驚いていた。ここまではっきりと自分のやりたいことを主張するヒヨクは、あまり見ない。何がヒヨクを前向きにさせたのかは分からないが、とりあえず反対意見を言う者は出なかった。

「話は、まとまったようだね。それでは、みなさん。今後とも、よろしくお願いします」

 研究者達に深々と頭を下げたヒガンは、やはり笑顔だった。

「研究には、この棟を使ってください。四階建てで、ここ一階は搬入口および駐車場となります。二階は個室のみ。三階、四階は個室と大広間とあります。太陽光パネルを設置していますが発電量が限られるため、昇降機はありません」

 顔を上げたヒガンが、A3用紙に描かれた図を使いながら説明を始める。昇降機の部分で、ヒヨクが顔をゆがめた。意外にも研究は体力勝負のところがあるし、パーパでも多くの者が走り回っている。昇降機が混んでいて階段を駆け上がるのも日常茶飯事だが、ヒヨクが階段を使っているところを、レンリは見たことがなかった。

 レンリとしては、別のところに疑問を感じる。

「昇降機はともかく、研究に必要な機器は総じて電力を食うだろう。そこは、まかなえるのか?」

「今のところは。地熱と風力を試みてはいますが、火山帯ではないので地熱は難しいでしょうね」

 「あの」と、丸メガネをかけた青年が手を挙げる。ヒヨクの部下の一人で、一班の副班長を任されている人物だ。

「小水力発電は、どうでしょうか? 街はまだ開発段階と見受けられますので、用水路などに設置が可能だと思います」

「君、こういうことに詳しい人?」

 ヒガンが小首を傾げる。青年は「多少は」と答えると、ずり落ちてきたメガネを押し上げた。

「得意分野ごとに班分けをし直した方が良いかもしれないぞ?」

 レンリの助言に、ヒガンは「そうみたいだね」と笑った。

 実際に班を分けてみると、研究所に残る人間は随分と減ってしまった。生活拠点も同時進行で作っていかなければならない中で、圧倒的に人が足らないのだから仕方がない。ヒガンは指示に人集めにと忙しなく動き回っているようで、顔を合わせる機会はさほど無かった。シャオウに至っては、岸で別れてから一向に姿を見せない。

 ヒヨクはと言えば、研究室に籠りっぱなしで、こちらも姿を見せなかった。代わりに、アハンカーラとはちょくちょく顔を合わせる。研究者の内で島に一番詳しいのが彼ということもあって、食料調達や資料収集で使い走りをさせられているようだ。室内の様子を窺えば、皆が皆、寝る間も惜しんで研究に励んでいる結果やつれてきていると言うので、レンリは栄養剤の調合を試みることにした。

 それぞれが生活に慣れてきた頃、急にシャオウが研究所に現れた。外遊から帰ってきたシエンの働きかけにより、異動が取り消されたのだ。話を聞いたレンリは、「ああ」と声を漏らした。

「そういえば、出る前に連絡したな。すっかり忘れていた」

「急だったし、島に来てからは忙しくしてたからね」

 ファイルを抱えたままのヒヨクは、大きなあくびをした。よく見ると、目の下に隈ができている。不思議なことに、彼は年齢は気にするものの美容には意識がいかないようだ。

「僕はレイが心配だし一度戻りたいけど、ここに残って研究を続けたいって人もいるみたい。レンリは、どう?」

「私も戻りたい。ミロクが、やらかしていないか心配だからな」

「まあ、シエンはレンリさえ戻れば問題ないだろう。レンリとヒヨク、班長クラスだけ戻ってもらうか。ただな」

 シャオウは眉間に皺を寄せて、大きく息を吐いた。彼が言い淀むのは珍しい。仕方がないので、レンリが促してやる。

「どうした? 大抵のことなら、私は驚かないぞ」

 「だろうな」と、シャオウは苦笑する。

「ミロクがまだ王子預かりの時に、一度見たことがあったんだが。えらい変わりようだぞ? 今は、最前線に立っている」

「なんだと?」

 レンリの眉間にも皺が寄った。

「戦ってるわけじゃない。死なないのを利用して、おとりにしてるって感じだな。数日、傍で見てきたが、傷が残るようになってたのが気になるな。全身紫色だったのも、色が抜けてきてるし」

「それは汚れて人化が進んでる、ということだね」

 振り返ると、部屋の入口にヒガンが立っていた。相も変わらず、柔和な笑みをたたえている。

「ヒガン。帰ってたのか」

「それは、こっちのセリフだよ。久々の最前線は、どうだった?」

「おまえの顔を飽きるほど見てきた」

 ヒガンは「あはは」と愉快そうに笑いながら、レンリの隣りに立った。

「僕の祖父も、元々は全身紫色だったらしい。それが人の負の感情に触れるにつれて、抜けていったんだそうだ。完全に力が無くなるわけではないみたいだけど、人の子ができるほど人に近い存在になる。まあ、人の子ができるって言っても、僕みたいな感情の一部がすっぽり抜けたような奴ができることもあるけど」

 ヒガンが常に笑顔でいるのは、喜怒哀楽の内の怒か哀かが無いから、ということのようだ。

「もう手遅れかもしれないけど、引きずってでもここに連れてくると良いよ。何者でも受け入れる場所が、ここにはあるから。人手不足だしね」

 「あっはっはっ」という快活な笑い声と共に送り出されたレンリ達は、港でシエンと合流し、ミロクとレイがいるはずの研究所に戻ってきた。シエンはレンリの顔を見がてら送り届けるためだけに来たようで、「会議があるから、僕はこれで」と言って去ってしまった。彼も立場上、忙しいのだ。

 階段でヒヨク達と別れたレンリは、久し振りに自室として使っていた部屋に赴いた。戸に鍵は掛かっておらず、中には人の気配がする。どうせミロクだろう、と思いながら戸を開けると、部屋の隅でうずくまっている青年の背が見えた。厚手のカーテンを閉めきり、明かりもつけていない部屋は薄暗い。

「帰ったぞ。明かりもつけずに何をしているんだ?」

 尋ねながら、レンリは室内灯をつける。ぱっと明るくなった部屋の中で、レンリは目を丸くした。背を丸めた青年は軍服を着ていて、髪は藁色をしている。しかし、「レンリ」と小さく呼ぶ声は、確かにミロクのものだった。

「何があった? 話してみろ」

 レンリは長期戦を覚悟して、どっかりと椅子に座った。背中を向けたままのミロクは、なかなか話し出さない。飲み物でも準備すれば良かったか、とレンリが思い始めた頃、ようやく「絶対、怒るから嫌だ」という声が聞こえた。離れている間も、心の成長は無かったとみえる。

「怒るか怒らないかは、話を聞いてみなければ分からんな。ただ、今も呆れてはいる。このままでも私は構わんが、機嫌は下降の一途を辿るだろうな」

 正直に心の内を話してため息を吐けば、ミロクの肩がおもしろいほどビクリと跳ねた。

「レンリが急にいなくなった後、軍の偉い奴が来たんだ。そいつは、俺に戦場に立てと言った。そうしたら、レイの実験をすべて止めてやるって」

「なるほど。利用されたわけだな。それで?」

 レンリの声の調子が凪いでいるためか、ミロクが振り向いた。紫色に金が混じった綺麗な瞳も、いまや黄昏色に変わってしまっている。寝ていないのか目の下には隈ができ、肌も荒れている。数か月前の奇跡の存在は、どこへ行ってしまったのだろうか。

「レンリ、怒ってない?」

「怒るか怒らないかは、話を聞いてみなければ分からんと言ったはずだ。今は怒っていない」

 その言葉に安心したのか、ミロクは這ってレンリのすぐ傍まで近付いた。

「レンリの傍は、安心する」

「まあ、同族のようなものらしいからな。で、戦場に行って、どうした?」

「最前線に、一人で立たされた。最初は、銃に撃たれても、切りつけられても平気だった。でも、だんだん髪の色が抜けてきて。そしたら、怪我をするようになった。戦神も一人、怪我をさせた。シャオウって、レンリの知り合いなんだろ? その人が助けてくれて、俺をここまで連れてきてくれた」

「あいつが……」

 本人からは何も聞いていない。恩に着せないためかもしれない。シャオウとは、そういう男だ。

「もうすぐレンリが帰ってくるって聞いて、待ってた。待ってる間、ずっと怖かった。レイの声が聞こえないんだ」

 それを聞いて、レンリは目を丸くした。

「レイには会いに行ったのか?」

「行こうとは、した。けど、見張りがいて、近付くと撃たれるんだ」

 ミロクをよく見ると、軍服には数カ所穴が開いていて、体には治りきっていない傷まで見える。どれが戦場で負ったもので、どれがここで撃たれたものなのかは判別できない。シャオウもレイのことは見ていないらしいが、見に行けなかったというのが正しいのかもしれない。軍に所属しながら島を行き来する彼は、揉め事を極力避けているに違いない。

「ヒヨクが帰ってきた今なら、会えるかもしれん。私が行ってくる。おまえは、ここにいろ」

 レンリは言いおくと、足早に上階へと向かった。最奥の部屋では、白い部屋の入り口でヒヨクが震えていた。

「ヒヨク。どうした?」

「レンリ。ぼ、ぼくのレイが……」

 普段からあまり血色が良い方ではないヒヨクの顔が、更に青ざめている。レンリはヒヨクを押しのけると、白い部屋の中へ入った。

 レイはいたが、無事ではないことは一目で分かる。ミロクと同じように藁色の髪に変わってしまった彼女は、寝台の上にぐったりと倒れ込んでいた。体はやせ細り、浅い息を繰り返している。それでもレンリが近付くと、懸命に腕に力を入れて起き上がろうとする。

 レンリは、一度レイを抱き上げると、寝かせなおして薄布を掛けてやった。

「起き上がらなくていい。今は、安心して休んでいなさい」

 そう耳元で囁くと、すうっとレイは眠りについた。土気色に近い頬を、一筋の涙が伝う。

「無理な実験をさせられたようだな」

 手首には、無数の傷跡がある。今はワンピースで隠されているが、おそらくは体中に同じような傷跡があるのだろう。軍がミロクとの約束を守らなかったことは明白だ。

「まあ、守るわけがないだろうな」

 レンリが息を吐くと、背後で叫び声が上がった。と同時に、何かに背中を押されたような感覚に陥る。振り返ると、いつの間にか背後に立っていたミロクが、狂ったように叫び声を上げ続けていた。彼の叫びは空気の振動を起こし、小さな波となって辺りを襲っている。

 しかし、その波はレンリには見えるが、他の者には見えないらしい。ただ、圧力は掛かるようで、ヒヨク達は突然の耳鳴りに頭を抱えて苦しんでいる。

「この馬鹿。むやみに力を暴走させるな」

 顔をしかめたレンリは、ミロクの両肩に手を掛けた。

「だから、どんな存在であれ受け止めることしかできないと言ったんだ」

 両手に、ぐっと力を籠める。すると、ミロクは叫ぶのを止めた。彼の目には、涙が浮かんでいる。

「レイは、救えないのか?」

「いいやっ」

 力が無いミロクの言葉を強い口調で否定したのは、ヒヨクだった。両手を握りしめ、眉を吊り上げて二人を見ている。

「レイは、僕の最高傑作なんだ。失わせない。明日の朝には出立するから準備して」

「ああ。島に連れていくんだな」

「それだけじゃ足りない」

「足りない?」

 レンリの問いに、ヒヨクは勢いよくうなずいた。

「世界を変える。新しい発明、『再利用』をお披露目するんだ」

「あれはまだ、完成していないだろう。それに、どうやってお披露目する気だ?」

「実施検査はまだだけど、ほぼほぼ完成してるよ。レイを作った時の技術を横流しにしてるだけだからね。すぐには効果は現れないけど、後々思い知ることになるね。でも、軍部の人間は気付きもしないのかもしれないな」

 「せっかくのお披露目なのに、残念だな」と言いながら、ヒヨクはその場でくるりと回った。

「明日の朝、十時にここを出発するから、それまでに荷物をまとめておいてね。遅刻して巻き込まれちゃっても、僕は知らないからね。僕が何をするかは、明日になってからのお楽しみ、だよ」

 口元に長すぎる袖を寄せて、ふふっと笑う顔は純粋な子供のようだった。碌なことをしない、ということだけはレンリにも分かる。普段はおどおどとしているくせに、開き直ると善悪の区別が付かなくなるらしい。

 レンリは一つため息を吐くと、ミロクを引っ張って自室へと帰った。



 翌朝、あまりにもミロクが「レイ、レイ」とうるさいので、レンリは荷物を持って白い部屋を訪れた。レイも既に身支度が済んでいるだろう、とため息交じりで戸を開いた彼女は、寝台の上にいるレイの姿に目を丸くした。

 やつれてしまったレイのすぐ傍らに、彼女にそっくりな少女が座っている。少女はレイと同じような藁色の髪ではあるものの、輝きのある丸い瞳で興味深そうにレンリとミロクを見上げていた。

 ミロクは少女には構わずに、レイに近付いて手を差し伸べる。

「レイ。俺と一緒に逃げよう」

 しかし、レイは首を弱々しく横に振った。

「ヒヨク博士にも同じことを言われたけど。私にはもう、逃げる体力さえ無いの」

 レイを見ていれば、納得せざるをえない有様だった。頬は痩せこけ、髪や歯はところどころ抜け落ちてしまっている。普通に話してはいるが、本当は声を出すのも辛いのだろう。時折、肩で息をしている。

「ヒヨク博士にね。一番新しい『レイ』を連れてきてもらったの」

 それでも彼女は、ほとんど光を失った目で、懸命にミロクの顔を見上げていた。

「ミロクに、お願いがあるの。『レイ』を一緒に連れていって。実験なんて知らない世界へ行かせてあげて」

 レイの願いに、ミロクが戸惑いをみせる。願いは受け止めるだけのもの、と思い知らされたばかりだ。

 レンリは一つため息を吐くと、ミロクの背中を軽く押してやった。振り返るミロクに、うなずいてやる。

「……わかった」

 ミロクの返事を聞いて、レイは顔をほころばせて『レイ』の顔を覗きこんだ。

「良かったね、レイ。これからは、ミロクがずっと傍にいてくれるって」

「行こう、『レイ』」

 ミロクが『レイ』に、手を差し出す。瞬きを繰り返していた『レイ』は、やがて「うんっ」と大きくうなずくと、無邪気な笑顔でミロクの手を取ったのだった。



 この日の午前十一時頃、レンリ達がいた研究所は大爆発を起こした。建物は跡形もなく、研究所にいた人間は行方不明となった。約半年に及ぶ調査が行われたが、依然として彼等の消息がつかめないことから爆発に巻き込まれ全員が死亡した、という結論に至った。

 研究所のいたるところに化学物質を詰め込み、大爆発を引き起こした張本人は、爆発が起きた同時刻に船の上で高笑いをしていた。レンリやアハンカーラでも、見たことのない笑い方だった。

 やがて、この日は『世界入滅の日』と呼ばれるようになった。

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