第八話 貴族令嬢の絶望
『どうか……私の分まで生きて下さい……』
貴族令嬢は心の中で去り行く御者の事を想いながら、馬車の姿が見えなくなるまでその場を動こうとはしなかった。
最初は彼に売られたのかと思ったが、最後に見た彼の瞳は全てを理解した上で自分を助けてくれようとしてくれていたのだと思う。
貴族でなくなった自分に取り入っても、自らが不幸な目に合う事は常日頃この国の権力構造によって虐げられている彼なら分かっていただろうに。
なぜ彼は自分を助けてくれようとしたのだろうか?
もしかしたら、自分の本当の願いを叶えてくれようとしたのだろうか?
『どこまでも私を連れて行って下さい』
これは優しかった彼への
けれど、もしその願望が真実だとしても……事実だからこそ、彼を遠ざけなければならなかった。
これから我が身に降りかかる不幸については、元より謂れのない追放宣告を受けた時から予感していた。
信じていた人達に裏切られ、大好きだった両親からも見捨てられ貴族の身分も失った今、もう何も残されていない。
そんな何もない自分の為に、彼はひと時でも辛い現実を忘れさせてくれた。
そして山賊に襲われようとたった一人で勇敢に立ち向かい自分を守ってくれたのだ。
これ以上危険な目に巻き込ませる訳にはいかない。
貴族令嬢は去り行く彼の無事を神に祈る。
やがて馬車の姿も消えゆき音も小さくなると、ようやく貴族令嬢は振り返り天幕まで歩き出した。
その様子を呆れ顔で見ていたジェイスは、観念した彼女に満足した笑顔を浮かべその後ろを付いて歩く。
「おい。分かっているな?」
陣の門を通り過ぎた時、ジェイスは立ち止まり部下に対して何かの合図をした。
すると数人の部下が頷き足早に繋いでいる騎馬まで駆けていく。
その言葉から事情を察した貴族令嬢はジェイスに目を向ける。
すると厭らしい笑みを浮かべながら馬車が去った方を眺めているジェイスの顔が有った。
「ジェイス様? ま、まさか……」
「クックック。生意気な平民め。今頃浮かれているだろうさ。しかし……そんな天国気分から地獄へと招待してやろう」
貴族令嬢の問いに更に邪悪さを増した笑顔でジェイスは答える。
どうやらこの性悪な顔がこの男の本性の様だ。
それを貴族令嬢は知っていたようで、怯む事無くその邪悪に睨み返す。
「最初からそのつもりだったのですね」
「ふん、当たり前だろう。秘密を知った者を生かしておく程、私は愚かじゃないさ。何よりあの程度の金貨と言えども平民には分不相応な代物だろう? そんな身の程知らずには相応の報いが必要なのさ」
周りの騎士達もジェイスの言葉に呼応するかのように下卑た笑いを響かせる。
その場に渦巻く自身に向けられた怖気もよだつ様な卑陋な感情、そして貴族以外の者に対しての嘲笑。
狂っている……知ってはいたが、彼女は改めてこの国の貴族と言う身分に対して失望した。
「貴方って人は……なんて……」
「ん? 一体どうしたと言うのだジョセフィーヌ? 平民如きにえらく肩の入れようじゃないか。あんな羽虫に情が湧いたとでも言うのか?」
「そ、そんな事は有りませんわ」
彼女はジェイスの言葉を否定しながらも、心の中で自分の愚かさに後悔していた。
彼の無事を願うなら、部下に指示を出した時に反応すべきではなかったのだ。
王国最強騎士に勝ったと言う話を完全に信じている訳ではないが、山賊達を一蹴した彼の強さなら如何に王国騎士だとしても無事に逃げ切れるのではないか?
彼をただの下級兵士と侮っているジェイスが、ただ単に追っ手を差し向けただけならば確かにその通りになっていた事だろう。
しかし、自分が知るジェイスの裏の顔からすると、もし彼に対して少なからずの情を持っている事を知ったら、彼の命を奪うまでその追跡を止める事は無い筈だ。
平静を装おうとしても一度乱れた心は焦りにより形にならない。
その顔を蒼白とし微かに震える彼女を見たジェイスは顔を綻ばせた。
「あぁ、こいつはしまったな。やはりあの場で殺しておくべきだった。そっちの方が楽しめたのに」
ジェイスは大袈裟に残念がる仕草をしながら震えている彼女を見る。
しかし、綻んだ顔はそのままに、目の色はギラギラと歓喜に染まっていた。
「おい! 気が変わった。あいつを死なない程度に切り刻み連れてこい。ジョセフィーヌの目の前で私が直々に処刑してやる」
突然大袈裟な手振りを止めたジェイスは部下にそう命令した。
その言葉に彼女は悲痛な声を上げる。
「やめて下さい!! 騎士たる者がそんな非道を行うなど許されると思っているのですか! シュタイン様の従騎士であるあなたの行いは、そのままシュタイン様の汚名となるのですよ!」
「黙れ!! 我が主の名を軽々しく口にするな!!」
自身の主の名を出されたジェイスは先程までの歓喜は消え失せ、烈火の如き怒りに染まっていた。
その迫力に彼女は思わず身体を震わせる。
「それに……殿下だってこのような事をお許しになる筈が……」
恐怖により縮こまる身体から何とか言葉を振り絞った。
その人物が我が身に降りかかった不幸の元凶だったとしても、殿下はこの王国の未来を担う人物なのだ。
国は貴族だけでは成り立たぬ。
民の力が有ってこそ初めて国は成る。
王族である殿下ならば、自らの国を支える平民に対して少しは寛容であろう。
だって、だからこそ殿下は自分よりも……あの娘を……。
理不尽な不幸に苛まれてなお、彼女はまだこの国の正義を諦めてはいなかった。
しかし……。
「殿下だと? ハッ! 貴族から落ちぶれた今のお前が口にするのも烏滸がましいわ。フンッ!……いや待てよ? うん、そうだな。気が変った。その疑問には答えてやろうじゃないか。いいか? この場を設けてくれたのは殿下自身だ。これは日頃の私の功績に対する殿下からの褒美なのだよ。それをなす為に下級兵士の一人や二人を殺す程度の些事、咎められる筈も無いだろう」
「なっ! なんですって……」
彼女は目の前が真っ暗となる。
まさか、まさかそこまで……。
彼女は絶望によって目の前が真っ暗になり、その場に力無く膝を付きうな垂れる。
「ジョセフーヌ! 殿下の許嫁と言う名誉に溺れ欲のままに行った数々の愚行! それだけでも腹立たしいが、殿下が見付けられた真なる愛に嫉妬してあの方を傷付けると言う凶行! それを殿下が許す訳が無いだろう!!」
またしても身に覚えのない事を責められる。
これまで欲など溺れず将来王妃に相応しい人物となるべく生きて来た。
それも偏に未来の国王である殿下の隣で共に国を支えたいと夢見たからだ。
その夢は儚くも露と消える。
全ては貴族のみが通う王立学園に一人の新入生がやって来た時から始まった。
その新入生は王国でも有数な商家の一人娘。
如何に凄かろうとも商家は所詮平民である。
本来なら学園に足を踏み入れる事さえままならない筈だったが、どの様な事情か知らぬが特別に許可されたらしい。
その娘はよく言えば天真爛漫、悪く言えば礼儀知らずの無礼者。
しかし、貴族子息達は初めて見るその自由奔放でいつも笑顔を絶やさない娘に惹かれていった様だ。
やがてそれは殿下の心をも虜に……。
確かに嫉妬が無かった訳じゃない。
今まで殿下から掛けて貰った事のない優しい言葉と笑顔を当たり前のように享受している平民の娘。
それでもいつかは国を担う立場を考え自分の元に帰って来ると信じていたから、じっと耐えて何も言わなかった。
どれぐらいそんな苦しい日々が過ぎただろう。
いつの頃からか、身に覚えの無い悪評が辺りを騒がし出す。
気付いた時には殿下の婚約者であり将来王妃であると言う立場を笠に陰で悪辣非道を行う悪女に仕立て上げられていた。
それを否定しようとも既に誰も聞き入れない。
完全に孤立していたのだった。
そして、運命のあの日……。
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