メビウスの冠

新木一生

第1章 終わりの始まり

終わり

 目を開ける。視界には味気のない自室の白い天井が映る。ここ数年で見慣れた光景だ。実につまらないものだった。だが、今回は違う。そのまっさらな天井を背景に妻をはじめとした家族の顔が並んでいるのだ。背景が白いだけに家族の顔がよく見え、今ばかりはシミ一つない真っ白い天井でよかったと思う。家族たちは泣いてしまっていた。息子が社会人となって家を出て以来、こうして家族で集まることは少なくお盆や年末年始くらいで集まる程度だったことを思い出すが、今日はそのどちらにさえも属さない。

 ではなぜ集まっているのか、皆泣いているのか。……私がもうすぐ死ぬようだからだ。家族の横で諦めたような沈んだ顔のかかりつけの医師もいる。私の異常を端末で感知して飛んできた。この人に家族を集めてもらった。随分と世話になった。ありがたい。

 起きたことを伝えるため、手を動かす。

「お父さん、起きている?」

 妻に聞かれ、もう一度手を動かす。

「よかった、喋れるかしら?」

 乾燥しきった口を唾液で濡らし、ようやっと

「少しなら」

と答えた。元から声は枯れていたほうだったが、今生で一番しゃがれていた。聞き取れただろうか、少々不安である。

「ならお話ししましょう。話せるうちに話せるだけ」

 よかった、雑音として処理はされなかった。それに最期の時間も有意義に使えそうだ。段々と口も滑らかさを取り戻してきた。

「ああ。何を話そうか。死生観とか?」

「それ、今の時間で足りないでしょ」

 きつめに言われた。ちょっと和ませようとしただけだろう。そんな言わなくてもよくないか。

「そんなことでこの場が和むわけないでしょう。……あなたはもうすぐ死ぬのよ」

 彼女は涙を流しながらそう言った。まさか狙いを当てられるとは思わなかったが、長年寄り添えばわかるものなのだろう。これはよくないことをした。ただもう少し笑ってほしかっただけなんだが。

「すまん。空気が読めないタチなもんでな、こればかりは一生かけても治らんようだ」

「本当、つらい時こそ適当ばかり言って困ったものだわ」

「いや、ほんとすまない」

 確かにつらい時やどうにも具合が悪い時には心配させたくなくてあれこれとしょうもないことを言ってしまいがちである。最期の時くらいは正直に言えるよう努力しよう。

「ほら、ショウリ」

 ショウリとは私の一人息子だ。妻に促され、私の顔を覗き込むような態勢をとった。そして口を開き

「父さん、ありがとう」

と頭を下げた。それに私は「おう」と返事をし、続きを待つ。

「どう、元気?」

「こんな時にも皮肉かよ。かわいくないやつだな」

 本当にかわいくない。いったい誰に似たんだ。私か。

「そうよ、時間はあまりないんだろうしちゃんと言いたいことを言ったほうがいいわよ」

 息子の奥さんが言ってくれた。そうだ、もっと言ってやってくれ。

「だね。ごめん、父さん。照れくさくて余計なことを言っちゃったね」

 気にするなの意を込めて私は息子に手で遮るようにした。首を動かし、続きを促す。

「一つ謝りたいことがあるんだ。僕は高校生の頃、夢に対する自分の非力さを痛感して荒れた時期があったでしょ。その時に父さんたちに「どうして僕を産んだんだ」なんて言ってしまったことを謝りたいんだ。ごめんなさい」

 息子が高校を卒業してからもう三十年以上は経ち、その長い月日で薄れてしまっていたが、確かにそんなこともあったな。私にも似たようなことがあったため、わからなくもない。だから

「随分と遅い謝罪だが、誰かを傷つけたかもしれない後悔をその年まで持ち続けられたんだ。人間、その大元はいつも楽がしたい欲ばかりで、たとえその感情を抱いたとしても、忘れるか勝手に解釈して、納得して、許しをもらった気になるからな。お前は優しい、信用できる奴だよ。誇れ」

 なかなか喋りづらい中、結構喋ってしまった。しんどい、でも言えてよかった。

「やっぱり元気でしょ」

と息子はニヤッと笑って見せようとしていたがその目の端には涙が湛えられていた。

「……清々しくはなったな」

といって私も同様に笑ってみせる。「よかった」と息子は満足したようで私の妻の方を見やる。

 妻は他に私に言いたいことがありそうな人がいないか家族の面々を眺める。私も最期だし、いろいろな人と言葉を交わしたくはあったが残りどれだけ意識を保っていられるのかがわからないことの焦りから「サチ」と妻の名を呼んでいた。

「なに、ジュンさん」

「もうそろ眠くなってきた。お前と話したい」

「やけに素直ね、奇妙だわ」

 前言撤回、息子が似たのは妻の方だ。まったく最期だというのに笑わせてくれる。「いやちょっと?」と眉をハの字にしてみせると「冗談よ」と返ってきた。私の右手を握りながら

「長い間お疲れ様。あなたは真面目が行き過ぎて変なことばかり言ったりしたりと、たまにあきれることもあったけれど、一緒に生きられて楽しかったわ」

「それは私もだ」と返した。本当に楽しかった。私は家庭を築かないと決めていたのにいつの間にか――

「私は変ではないわよ」

「いやそうじゃなくて。もうちょっと感傷に浸らせてくれないか?」

「あなたにあとどれくらい時間があるのかは私もわからないのよ。だから言いたいことをお互い言いましょう。だから、ショウリ「せーの」って掛け声して」

「わかった」と息子。そして息子の「せーの」の後に

「向こうで待ってる」

と私の声だけが響いた。これはしてやられた。だいぶ恥ずかしい。恨みがましく妻の方を見ると、「よかった」と言って涙を流しながらもきれいな笑顔をしていた。

「ごめんなさい、ちゃんとあなたの声であなたの言葉を聞き逃したくなくて。だから私のはそれを受けての言葉になってしまうけれど、のんびり待っていて。あなたは一人も好きでしょう?私が行く頃には案内できるくらいにはなっていてね。そうしたら楽しみが一つ増えるわ。それにしても意外ね。あなたからそんな言葉を聞けるなんて」

「うるせぇ。私にだって人間の部分はあるんだ。なきゃこの体を生かせなかったからな。今この瞬間だってそうだ。………とびっきりのデートコースを考えておく。楽しみにしておくといい」

 お互い再度、笑いあった。心の底から温かい気持ちだ。こんなにきれいに最期を迎えられるとは人生苦しいこと、つらいことも多かったが、悪いものじゃない。

 本格的に眠気が強くなってきた。

「そろそろ行く。みんなありがとう、楽しかったよ」

 言って目を閉じる。段々と暗さが増してきた。数秒とせず、真っ暗になった。家族の、ショウリの、サチの泣き声が響く。そんなに泣いてくれるな。こっちも泣きたくなる。

 こんな結末を望んだわけでも、求めたわけでもない。だが、心を痛めて泣いてくれる人々が現実にいる。かけがえのない存在になれたんだという実感がこの人生の、私の満足感に添えられる。しばらく休もう。到達はまだ先だ。疲労感も程よく眠りについた。

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