妖精憑きの小説家

かるっぴ

序章

 その日。母は子供たちに、本の読み聞かせをしていた。

 昼間(ひるま)はそんな母の姿を後ろから見ていた。

 柔らかく、時に激しく、しかし全体を通して優しい声音。子供たちは母の創った物語に一喜一憂し、皆が話にのめり込み、母の言葉に耳を傾けていた。

 母は昔、小説家を夢見ていた。

 物語が好きで、創作が好きで。しかしそれがやがて、子供たちが好きで、読み聞かせることが好きに変わり、今では父の経営する児童養護施設で月に一度、こうして物語を語っている。

 父が以前、また本腰を入れて小説を書いてみたらいいと母に言ったことがある。しかし母は自分には才能がないといい、今、この日々だけで十分だと、優しく微笑んでいたことを覚えている。

 昼間はそんな母のことが大好きだった。

 物語も終盤に差し掛かろうという時。ふと視界の隅で、ひとりの女の子が部屋を出ていくのが目に止まった。

 十一歳の昼間よりもひとつかふたつ年下だろうか。母は気づかない。他の子供たちも誰一人として気づかない。昼間も放っておけばよかったのだが、今は大好きな母の読み聞かせの最中、中座は許しがたい。昼間は母に気づかれないよう部屋を出て、後を追うことにする。

 少女は廊下を進み、トイレの前を通過して角を曲がっていく。生理現象ならば仕方がないとも思ったが、これは本格的に許されない行為だ。昼間は母への愛ゆえに軽く怒りを覚え、少女の後を追った。

 職員の詰める部屋を避け、階段を上り、少女は屋上へと出る。今考えてみると彼女の行動はかなり不自然で怪しいものであったが、この時の昼間はそんなことよりも、母の話を最後まで聞け! これから主人公が妹と一緒に生き別れた母と偶然再会し、でも記憶を失っていて言いたいことを何も言えず、精一杯の笑顔で母の今の幸せを壊さないよう他人を演じるというヒジョーに心にくるシーンなんだぞ! といった感じだったので、少女の心情などまるで考えていなかった。

 だから、屋上に干されたシーツの間で座り込み、隠れていた少女を見つけたとき、昼間は何も言えなくなる。

 少女は、泣いていた。

 理由は分からない。ただ、考えられる理由は余りある。学校で親がいないことを馬鹿にされたとか、同じ施設の子供たちにいじめられたとか。父も母もいて、休日は父と一緒に自転車の練習なんかをして、夜は母の物語を聞きながら眠り、幸せであることを当たり前として生きていた昼間には想像も出来ない寂しさを、この少女は、この施設の子たちは抱えて生きていたのだから。

 だが少女は昼間の姿に驚き、慌てて涙を拭うと――笑顔を浮かべた。

 目は充血し、目じりもうっすらと赤くなっているのに、彼女は今さら何を誤魔化す気でいるのか。薄っぺらい笑みを昼間に向けて、少女は健気に笑っていたのだ。

 そんな少女を前にして、昼間は、何かをしてあげずにはいられなくなった。同情したといえば間違ってはいないが、飾らずに言えば昼間は彼女のことを可哀想だと思い、哀れだと思い、見ているこっちが苦しくなったからである。

 そして昼間は幸運なことに、人を幸せにする方法を知っていた。『人と自然と動物に優しくなるための百カ条(著作・母)』の項目にあるひとつ『その六十一:本は幸せのお裾分け』を実践するべき時だ。

 昼間は下げていたポーチから一冊の手製の本を取り出し、少女の隣に座って開いてみせた。

 それは、母が昼間のために書いてくれた物語だった。

 出てくるのはひとりの少年とひとりの少女。そして一匹の妖精。

 心に傷を負った少年が少女と出逢い、心を取り戻していくお話。妖精に導かれて世界を旅する、まあ、よくあるファンタジーの冒険活劇だ。

 昼間は母がするように、少女に物語を語ってみせた。

 大切な人を失い嘆いている少年の元に、異世界から謎の少女が迎えにくるところから物語は始まる。

 ――少女は笑っている。

 納得のいく説明もないままに、少年は戦いの渦へと身を投じていく。

 ――少女は笑っている。

 そこに一匹の妖精が現れて、少年の成すべき道を示していく。

 ――少女は笑っている。

 小年を都合の良いように利用していた少女の思惑を知り、少女への疑心が募る少年。

 ――少女は笑っている。

 しかし戦いの中で少女の本当の目的を知り、そこで初めて、少年は少女への想いを意識する。

 ――少女は笑っている。

 昼間は激怒した。

 まるで何も感じていないかのように微動だにしない少女の薄っぺらな笑顔に。

 母の愛に満ち溢れた崇高で素晴らしい作品を右耳から入れ左耳から流出させたのち、アハハ、いいんじゃないですか? などという興味ないこと丸わかりで当たり障りのない感想を顔面で語っている少女に対し、昼間は激怒した。

 お前ちゃんと耳聞こえてるか脳みそ足りてんのか母さんがこの世に創造した神作小説でまだ誰にも見せたことない物語を俺が直々に語ってやってんのに特にこの主人公とヒロインのすれ違い具合を妖精が間にいることによって本来ならばご都合主義と呼ばれるところを実に自然な展開への持っていき方が素晴らしくふたりの絶妙な距離感に読んでいるこっちがヤキモキさせられて――

 昼間はついいつもの癖で、母の神作小説について語る(一二〇分コース)に突入しようとしていた。

 しかし流石の薄っぺらスマイルな少女も、昼間が自身の態度に対して怒っていることを理解したからか、それとも変なマザコン小説オタクに絡まれてしまったからか(今思うと多分後者だった)、戸惑うような表情をみせると、やがてどうしていいか分からなくなり、泣き出してしまった。

 昼間は焦った。何故なら昼間のバイブルである『人と自然と動物に優しくなるための百カ条(著作・母)』のひとつに、『その七:女の子を泣かせたらいけません』という項目があったからだ。

 ただ慌てたのもほんの数秒。母の本に死角なし。泣かせてしまった場合の対処法も百カ条にはちゃんと収録されていた。

 昼間はおもむろに、主人公である少年の台詞を声に出して読んだ。

 続いて妖精の台詞を裏声で音読する。少女は昼間の突然の行動に驚いたらしく、泣き止んで昼間のことをじっと見ている。

『だから言ってるだろ? 俺はいつだって冷静だ』

 主人公の台詞(昼間)。

『そんなことないのよ! マスター今日は荒れてるのよ!』

 妖精の台詞(昼間裏声)。

『お前は俺とソラ、どっちの味方なんだよ』

 主人公の台詞(昼間)。

『わたしはいつだってマスターの味方なのよ!』

 妖精の台詞(昼間裏声)。

 続く台詞は、ヒロインである少女のもの。

 昼間は少女を見る。少女は昼間の意図することが分からず首を傾げていたが、昼間が視線で促すと、戸惑いながらも、小さな口を開いた。

『……私だって、一緒にいたくているわけじゃない』

 ヒロインの台詞(少女)。

『だってさ。気が合うようでなにより。仲良し仲良し』

 主人公の台詞(昼間)。

『全然仲良しじゃないのよ~!』

 妖精の台詞(昼間裏声)。

 母の紡いだ物語を――

 昼間が語り。

 少女が話し。

 昼間が問い。

 少女が応える。

 感情移入、どころではなく、時間を忘れるほどに没入し、物語を終えるころには少女の涙は渇き、自然な笑みがその顔を満たしていた。

『ひとを幸せにする物語が書きたい』

 これは、母がよく口にしていた言葉だ。

 そして母はやはりすごかった。何故なら昼間と少女を、こんなにも簡単に幸せな気持ちで満たしてくれたのだから。

 続きを読みたいとせがむ少女。しかし読みたいのは昼間も同じだ。何故ならこの物語はまだ完結しておらず、現在母が鋭意執筆中だからである。

 それならば約束を、と言って、昼間は少女と小指を結ぶ。

 ――また一緒に本を読もうね。

 昼間にとってみれば、それは本当に些細な約束事だった。

 だからなのだろう。

 彼女の名前も、彼女が泣いていた理由も知らないまま。昼間はすぐに、そのとき結んだ少女の手の温かさも、その小指が震えていたことも忘れてしまった。

 ――これは、母が亡くなる前日の話だ。

 約束は未だに果たされることはなく、昼間は今もまだ、少女を待たせ続けている。

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