第3話 笑う壁
わはは、わはは、わはわはわはは。
はいはい、あんさんがお尋ねの高田の馬場のもんも爺とは、このわしの事ですじゃ。
はい、そりゃもう、信じては貰えんかも知れませんが妖怪退治ということをなりわいに。
何? 知っておる? はあ、町田さんの紹介で。
なるほど。わしの妖怪退治の話を聞きたいと。はい、それはもうようございます。出すべきものさえ出してくれれば、わしの方はちいとも構いませんわい。
わはは、わはは、わはわは。
はい、この商売のコツはですな、妖怪や幽霊と呼ばれるものの正体を見極めることですな。見極めてそして理解する。幽霊ならば何故化けて出ねばならなかったのかを解ってやることが大事ですわな。これが妖怪ならば妖怪の持って生まれた生い立ち、どのようにして生きておる妖怪かを知ることが最初の一歩ですわい。そうしてやって初めて、退治するためには何をすればよいのかが判ります。相手の性質を理解しそれを利用すること。実に合理的なやり方ですわい。
わはは。どうなされました。もっと華々しい活躍を期待しておったのですかな。
厳しい修行と有り難いお経、かあっと一喝すれば妖怪が叫び声と共に消え去る。そんな様でも想像しておったのですかな。もしそうなら、それはあんさんの誤解と言うもの。妖怪退治というものは実に地味な商売なのですわい。
一つ妖怪退治の例を挙げて欲しいですと?
判りました。この商売の秘訣を話す以上、お値段はちと高くなりますがよろしいですかな。ああ、それだけあれば結構ですわい。悪く思わないで下され。これでわしはおまんまを食べていますのでな。年金などという気の効いたもの、わしにはございませんでな。
さてどの話をしましょうかな。
そうそう、少し前の話になりますが、こういうことがありましたわい。
そもそもの始まりは国電沿いのガード下を通るトンネルの壁にですのう、どこぞの馬鹿が絵を描いたことから始まったんですわい。
わはははははは。
はい、それはもう卑猥な絵や稚拙な絵がこれはもう沢山描かれたそうでしてな。おおかた、深夜に群れてバイクを乗り回しておるどこぞの馬鹿どもの仕業でしょう。
この絵に関してはすぐに町内会の有志の手で壁が塗りなおされましてな、それで終わりなのですが、その後に別のいたずら者の手によりすぐにまた別の絵が描かれましてな。今度の犯人はどこぞの美術学校の生徒なのでしょうな。なかなかの腕前の絵でしたわい。
描かれていたのはどれも人の顔の絵でしてな。まあ、あんさん、想像してみなさい。壁一杯に無数の顔が描かれているさまを。笑い顔に泣き顔、しかめ面に、怒りん坊、こちらに赤ん坊の顔があると思えばあちらには恐ろしい老婆の顔、大きいのやら小さいのやらそれはもう実に見事なものでしたわい。
まあ、顔の絵はそれなりに芸術作品とも言えましたがな、描かれた場所がちと悪かった。乗り換え駅のガードの下ですからな。向こうの駅前通りから反対側の駅前通りに出るためにはこの暗くて長いガード下のトンネルを通らねばならぬ。人の流れの重要な道筋に当たっておるから普段から人通りは多いものの、そんな人の流れにも時々ぽっかりと穴が開いたように流れが跡絶える瞬間がありますわい。その不運な瞬間にガード下を通った者は、所々にぽつんぽつんと明かりのともる暗いトンネルをくぐることになりますわな。
背後遥かに人のざわめき、前方遥かにこれも人のざわめき。そんな中に自分の歩いておる所だけは静かに風が流れておるだけ。一応明かりはついているものの、せいぜいが人影を判断する程度でトンネルの隅々まで明るく照らし出せるものでは無い。まるで荒野のただなかを幽霊の群れに囲まれて歩いておるような感じがしてくるものなのですわ。
そんな薄気味悪い雰囲気の中で一人ぼっちのトンネルの中をこつこつと足音を響かせながら歩いておると、トンネルがふと何時もより長く感じるものですわい。
さあ、一度そう思い込むともういけませんのじゃ。いくら歩いても向こうの明かりはちっとも近づいて来ない。おかしい、このトンネルはこんなに長かったか、などと思って背後を振り替えると、たった今入って来たばかりのトンネルの入り口はすでに戻ることの出来ない小さな向こうの明かりに過ぎない。少しばかり恐怖に取り付かれて、戻るのは諦めて無理に足を急がせるのだが、出口はちっとも近づいて来ない。そうこうしている内に恐ろしさが増して来るともう恥も外聞もありません。人が見たらきっと腰を抜かしてしまうような必死の形相をして出口目掛けて掛け続けるものです。長い距離をはあはあと荒い息で駆け抜けて、ちっとも近づいて来なかったように見えるトンネルの出口もようやくと後わずかの所にまで迫る。やれ助かったと安心したところに、ふと奇妙な気配を感じて横を向くと、これがもう壁一杯に人の顔が描いてあるのですわな。
わはは、わはは、わはわはわはは。
それはもう驚きに驚きますわいな。おおかた、壁に顔を描いたいたずら者の意図もそこにあったのでしょうな。壁の顔にびっくりした拍子に大きく転んで腰を傷めたものなどもおりましてな、近くの病院は大繁盛ですわい。一時は壁に絵を描いたのはその病院の院長だとの噂まで流れましてな、治療費など誰が支払うものかと患者が居直る騒ぎまでもありましたな。
とまあ、ここまでは笑い話で済みますが、じきにそれだけでは済まなくなったのですわい。
そうです、出たのですわい。はい、まあ、簡単に言えば顔の化け物ですわいのう。
夜更けて終電も終わり、ガード下の屋台も全て店仕舞いした後にですのう、その薄暗いトンネルを通ると笑うんですわ。
え? 何が? 勿論、壁に描かれた顔の絵が。
最初は笑い顔に描かれた絵の、細い線で描かれた口の端が心持ち以前より上がっているぐらいでしたのが、やがてニタリとそれはもう壮絶な顔で笑うようになりましてな。それに釣られたのか今まで笑っていなかったはずの顔の絵までがじきに笑うようになり、終いにはもう壁一杯に笑い顔の嵐という有り様ですわい。
ここまで来るともう、壁の顔が笑うのは気のせいなどとは言うてはおれませんなあ。以前に町内の好き者が撮った写真と比べても壁の絵が違って来ておるのは明らかでしてな。もはや壁の落書きに何かの怪異が起きていることははっきりとしていましたわい。
それでも頑固者というのはどの町内にもおるものでして、幽霊なんぞは気弱もんの戯言よと、深夜にそのガード下を一人で通ったは良いが、いつまで立っても帰って来ない。心配した家族が町内会の人々に頼んで探しに行って見ると、当の頑固者は暗いトンネルの中に一人座ってにたりにたりと笑いながらよだれを垂らしておりましたわい。これを最後に無謀な度胸試しをしようなどという者は町内にはいなくなりましたわいな。
それでまあ、問題の顔の絵なのですが、自分達が描かれた壁に張り付いてニタニタ笑っているだけなら苦労は無いのですが、何を思ったのかこの笑い顔ども、深夜に町中を出歩くようになりましてなあ。昨晩はあっちの家の壁に出たと思うたら今夜はこっちの家へ出る。最初はこの話を面白がって集まる人々でガード下の屋台もほくほく顔でしたがな。事態が大きくなるに従って客足も一人減り二人減り、ついには幽霊トンネルとの噂を恐れて駅前の人の流れがぴったりと止まってしまう羽目になってしまいましたわい。
なにぶんガードの横を通っただけで、笑い顔が背中かどこかに張り付いて家までついて来るのだから始末に悪い。流石にこれを間近に見ると家人の驚きも並みではありませんわい。深夜に酔って帰って来た旦那が、ただいま、と一言言って靴を脱ごうと屈んだ拍子に、今まで背中に張り付いておった顔が家人の目の前に飛び出して大爆笑するのですから、これが実に心臓に悪い。出迎えに出た女房どのがこれを見て気絶するとなると、もう笑いごとではありませんな。
こんな目に遭うぐらいなら一つ手前の駅で降りて遠回りした方がうんと良いと皆が考えるようになると、これでは人足が絶えるのも不思議はありませんわいな。
まあ、そのようなわけで、これはいかん、このままでは商店街が干上がってしまう、それ以前に町民が全部町から引っ越して行ってしまう、なんとかせねばならん。そう町内会で決定されましてな。
わはははははは。
最初は退治屋を呼ぶ金が惜しゅうて惜しゅうて、壁の絵を水で洗い流したり、削り取るなどしてみたそうで。でも、これが駄目なんですわい。せっかく洗って落しても、次の日には壁の上にまたもや絵が浮き出るんですわ。
この化け物はな、付喪神と言われる妖怪の一種でしてな。
なに!?
付喪神を知らないですと。あんさんは本当に日本人ですかいのう。いや、馬鹿にしとるわけではございません。わしももう時代の流れに取り残されたかと悲しくなっただけですわい。たしかにこの付喪神、近ごろではとんと見掛けなくなった妖怪ですからのう。無理も無いことですが。
付喪神と言いますのはな、人に使われた道具が百年の間、人の精気を受けておる内に自我を持ち、妖怪となったものでしてな。昔は柄杓や鍋がよう化けたものですわい。包丁が化けてこの妖怪になった時には夜な夜な人切りに現れましてな、これが人の指を切り落とすのが大好きというので大騒ぎになったものですわい。近ごろでは物を大事にしないですぐに捨ててしまいますので、道具も化けるところまでよう行かんようですなあ。
さて、この場合には壁に描かれた顔の絵が、好奇心に満ちた人の視線を受けておる内に、同じ様に人の精気を吸うて付喪神に化けましたのじゃ。壁に描かれた顔の絵を見た人が、ああ、この絵は人の顔だな、とまあそう思った瞬間に、空を切ってひゅうとばかりに人の念が壁へと飛ぶ。生きている、人の顔だ、そう念が篭っていますな。これを毎日のように大勢の人にやられれば、もうそれは百年などと言わずにわずか数ヶ月で化けるに十分な念が集まりますわいなあ。特に化ける元となる物が人の姿を取っておると妖怪が自我を持つのがうんと早くなります。古い面や人形の周りに怪談話が多いのもそのせいなのですわい。
はいはい、話を元にもどしましょ。
町内会でも色々と手を尽くした後に、どうにもこれは素人の手には負えるものでは無いと気付いて、ようやくこの道のプロに頼むことにしたそうでしてな。それも最初は近くの寺の坊主に頼んで壁の絵に向けて経文などをあげて貰ったようですが、これがとんと効き目が無い。
わはははは。
修行一つしない近ごろの生臭坊主どもに、どうして付喪神が払えるだけの法力がありますかいな。有り難いお経など、実際の妖怪に対しては屁の役にも立ちませんわいのう。仏は人が地獄に落ちないように救ってくれる有り難い存在であるとの、そんな意味合いのお経をいくら読まれた所で、はいそうですかと、妖怪がどうして身を引くものですかいな。妖怪である自分には関係無いことと笑って突っぱねられるのが落ちというものですわい。
まあ、古い年寄りの中にはわしのような商売のことを覚えているものがいましてな、その一人がなんとか伝を辿って、こうしてようやくとわしの出番になりましたのじゃ。
さあ、この依頼を引き受けたものの、付喪神と言うのはそもそも実体があって無いような妖怪じゃ。しゃもじ化けの付喪神のように、化ける元となった本体がはっきりしておれば、その本体を焼き払えば、それに絡んでいた念も解けて解決するのじゃが、元となったものが人の顔の絵ということが問題なのですわい。
壁の絵を消しても次の日には浮き出ると言いましたじゃろ。これはつまり付喪神が付喪神としての本分を越えて、どちらかと言えば人間の幽霊に近い形で存在しておると言うことなのじゃ。例えば幽霊話にあるような壁に人の姿が浮き出ているのを、壁を拭いたからと言って消えるとは普通は誰も考えませんわな。それと同じですわい。かと言って完全な人の幽霊でも無いので説得してあの世へ送り込むのもこれはちと無理というもの。まず人の言葉というものが通じませんのじゃ。
こうなって見ると人の姿を取った付喪神というのは存外にややこしい。
さあ、どうするか。わしはこの状況を随分と長い間考えておったがとうとう最後にある妙案を思い付いた。要は付喪神が中途半端な存在のままでいるから扱いが難しいのじゃ。これを別の扱い易い存在へと変えてしまえば、事件はおおかた解決したようなものですわい。
それでわしはペンキと筆を用意すると、ガード下のトンネルへと出かけて行って、笑い顔の浮き出ている壁の横に、鉄砲の絵とそれを持つ猟師の絵を一つ描き加えましたのじゃ。
わはははははは。
わしはこう見えても多少は絵心がありましてな。その昔、わしがまだ若かった時分に狩野なにがしと言う男に絵の手ほどきを受けたことがありますからな。はて、あの男はあの後、ちいとは有名な絵師になりましたかいのう。とんと思い出せぬわい。
でまあ、一晩ほど町内会長の家に泊まらせて貰ってから次の日の朝に問題の壁のところに行って見ると、思うた通り、笑い顔の一つがなんと泣き顔に変わっておりましたわい。
判りますかの?
ちょうど鉄砲の銃口の前に描かれている顔がですわい。わしは思わずニヤリと笑ってしまいましたわい。事がこれほどうまく運ぶとは思っていませんでしたからのう。わしの笑いに応えて、壁の顔も一斉にニタリと笑いましたが、当の泣き顔のやつだけは笑うどころでは無かったようですな。
次の日に行って見るとその泣き顔のあったところには赤いしみが残っておるばかりでしたわい。その代わりと言っては何ですがな、鉄砲の絵に少しばかり変化がありましたわい。銃口の辺りからな、煙が一筋昇っているかのようにくすんだ線が上へと伸びていましたのじゃ。
わははははは。
わしの狙い通りに、わしの描いた猟師の絵は、猟師の付喪神へと変わりましたのじゃ。なにぶん、壁自体が人の念を吸い込んでおるのだから変化は早い。一度、猟師として目覚めたからには生き物を撃つのはこれは猟師の性というものですわい。
顔に取っては、この物騒な壁と猟師から逃げたかったのでしょうが、何分、最初に描かれた壁にしっかりと因縁が絡んでいましたから、逃げようにも逃げられません。夜になると、ぱああん、ぱああん、と鉄砲を撃つ音、それに続いて顔のあげる悲鳴が聞こえてくる有り様でしてな。
まあ、あんさんのおっしゃる通りに、騒ぎを聞いて警察が出動しそうなものですが、このトンネルの事はすでに警察の間でも有名になってしまっていましてな、ことこのトンネルに関しては夜は何が起こってもお構いなしとの態度を取っておったようですわい。一度だけ警察に追われたヤクザ者がトンネルに飛び込んだことがありましたが、反対側から出て来た時には髪が真っ白になってうわ言を口走るようになっておりましたわい。中で何が起こったのか、何を見たのかは決して喋ろうとはしなかったそうですな。
そうこうしている内に壁は赤いしみだらけ、とうとう最後の顔の一つも片付いてしまうと後には鉄砲と猟師の絵だけが残っていましたわい。町内会長もどえらく喜んでくれましてな、わしのこの手を握って嬉しさのあまりにまあ上下に振り回すこと振り回すこと。
でまあ、その夜に、妖怪退治の仕事は終わったとばかりにわしが報酬を受け取って帰ろうとした時ですわな。ぱああん、とまた一つ銃声が聞こえたと思いましたら、わしの背後の窓ガラスが割れて、部屋の向かいの壁に何かが当たりましたのじゃ。何が起きたのかはわしには薄々判っていましたが、できればわしが帰った後に起きて欲しかったというのが本音ですわい。そうすればまたわしが呼ばれて、儲けは倍とまあ、こう笑いが止まらぬところでしたのになあ。
壁に当たったのは何かと言えば、これが鉄砲の弾なのですわな。いや、弾丸というのは正確じゃない、その壁にあったのは弾痕、それも弾痕の絵だけなのですわいな。
もうお判りになられましたかな。そう、あの猟師の付喪神が撃つ相手がいなくなって退屈して暴れはじめたわけですわい。わしの予想よりは随分と早かったわけで、それだけ妖怪としての度合が強いということでしょうな。自分が撃ち殺した顔の付喪神どもの力を吸い取ったのは間違い無いところですわい。
こうなれば致し方ありません。わしは再びペンキと筆を用意して、最初の予定通りに虎の絵を一匹描き加えましたのじゃ。それはもう大きくて立派なやつを。目は獲物を狙って爛々と光り、飢えた口元からは涎を垂らした獰猛な虎が、鉄砲を持った猟師の背後にそっと忍び寄っている構図は、我ながらほれぼれとする出来でしたわい。
これから何が起こるのかは十分に知っておりましたので、その日の晩にはトンネルの出入口を柵で囲って貰って誰も入れないようにして貰いましたわい。時計の針が深夜の一時を指すと同時に、トンネルの中から大きな虎の咆哮と猟師の悲鳴が聞こえて来ましてな。それはそれはあまりの凄まじさに、このわしでさえも思わず耳を覆ってしまったほどですわい。
次の日の朝に行って見ると壁には満足した表情の虎が一匹、顔を舐めている姿で残っているばかり。このまま放置しておけばやがてこの虎の絵も腹を空かせて深夜の町をうろつくようになりましょう。わしは再びペンキと筆を持って来て、次の絵を描くことにしましたわい。
描くべき絵の内容を書き留めておいた紙を広げて、はたとわしは困りました。
虎の絵の次に描くべきものの記述が無いのですわい。そこまで読んでわしは今まで紙を反対側に折っておったことに気付きましてな。描くべき絵の内容を左から右の順に書き留めておいたのを、実は逆に読んでいたわけですわい。歳は取りたくないものですわいのう。
最初の目論見では、顔の中に虎の絵を描き、虎が顔を始末したところで次に鉄砲と猟師の絵を描く。その次には鉄砲を消して猟師の頭を剃り直して坊主の絵に書き換える。最後にこの坊主が化けて出たところで成仏を呼び掛ければ、これはもう見事にあの世に消えてくれますのじゃ。これが先に言いました扱い易い形へ変えるということなのですが、わしが迂闊にも順番を間違えて描いてしまったので、最後に壁に残ったのはなんと虎の絵でしたわい。
さあ、これにはさしものわしも困った。今更、猟師と鉄砲の絵を描いたとて、再び虎が勝ってしまうのは十中八九間違い無い。一度でも手順を間違えるとやり直しが効かんのがこの商売ですわい。策士策に溺れるとはまさにこのことですな。
さあ、どうしようかと手をこまねいている内に数日が経ってしまいましてな、遂に深夜の町内で虎に遭ったという噂が流れ始めましたわい。そうなれば後はいつ人が襲われるのか、時間の問題ですわい。段々と飢えに駆り立てられて狂暴な光りを目に宿し始める虎の絵を前にして、わしはとうとう最後の大勝負に出ることにしたわけですわい。
いつまで経っても問題が解決しないことに、依頼主の町内会長も随分と苛ついておりましての、わしも気まずい思いをしながら再びペンキと筆を取って壁の前に立ちましたのじゃ。そうして心を決めると一気に描きあげましたのじゃ。
大きな龍を一匹。
その通り、龍、ですじゃ。いや、あれはまさに一世一代の傑作でしたわ。長く伸びたひげは力強く、曲げた前足の鉤爪は刃物さながらに尖り、体は隆々としてそれでいて流れる川のように滑らかに雲に乗り、その強猛な意志は寄せた眉根に見事に表わされておりましたわい。
ただ一つ未完成な部分と言えばその目でしてな、竜眼の中に光るはずの瞳だけは描きこんでおりませんでしたわい。さて、これが出来てしまえば後は夜を待つばかり。わしは少しばかりどきどきしながらその日を過ごしましたわい。
いや、その夜の騒ぎと来たら、これはもう忘れられるものではありませんわいなあ。わしはガード下のすぐ横に足を運んで見つからないように静かに見ておったのですがな。いきなり暗いトンネルの中に稲妻が走ったと思ったら、中から一匹の龍が躍りだして来よりましたわい。その後を追って風と共に飛び出たのはあの猛虎ですわいなあ。どちらもわしの描いたものには違い無いが、出来ることならば龍の方に勝ち残って貰いたい、わしはそう祈りながら事の終わるのを待ちました。
ああ、それはもう凄いものでしたわい。町中をところ狭しと駆け回りながら龍と虎が己の存在を賭けて戦うのですからな。町の者には出歩かぬようにとは言いつけておきましたが、家の中に閉じこもっていても、恐ろしげな戦いの音は聞こえますわな。一度聞けば腹の底から震えが来るような虎の咆哮。龍と雷が空を引き裂く閃光。これに暴風と天の桶の底を抜いたと言わんばかりの豪雨とくれば、これが世の終わりと説明されても納得することでしょうな。
しかしまあ、いつまで続くかと思われた戦いもやがては決着が着きましたわい。勝ち残ったのは龍の方でしてな、昔から言われる通りに龍と虎では龍の方が一段ほど格が上ですからな。負けた虎の方はと言うと、一瞬、元の絵に戻ったかと思ったら、風に吹かれてぼろぼろの破片へと崩れ去りましてな。後はそのまま消えてしまいましたわい。何、これは虎が死んだとかそういうものでは無く、虎と言う姿を取っていた付喪神が、龍と言う姿に変わっただけの話ですわい。杯の中の酒が別の杯へと流れ込んだようなものですな。
次の日の朝、わしは最後の仕上げに町内の人々を連れて問題の壁へと出かけましたわい。壁には今や見事な龍が一匹、その威容を誇っておりましてな。わしはそこで黒いペンキを筆にたっぷりと吸わせると、全ての意志と勢いを込めて、壁に描かれた龍の眼、そこだけわざと塗らずに置いておいた瞳を一気に描きあげましたのじゃ。
わはは、わはは、わはわはわはは。
壁から龍が躍り出て来た時の皆の衆の慌てた顔と来たら、これはもう笑わずにはおられませんわいのう。わき起こる雷鳴に壁の中から吹き出す雲、その中を悠々とわしの龍は泳ぎ出して来ましたわい。
さあ、そこでとどめですわい。わしは大きく息を吸い込むと、目の前をよぎる龍に向けて、こう叫んだのですわい。
「龍の眼に瞳が入った。画龍点晴とはこのこと。汝は今や本物の龍よ。天に昇るがよい」
わはははは、いやいや、そうではありませんわい。
確かに絵に描いた龍の瞳を描いた途端に、龍の絵が命を持って飛び出すというようなことはあるにしても、それと天に昇るかどうかは別のこと。しかしまあ、このように自信ありげに言われてしまうと当の龍の方も、ああ、そんなものなのか、とそう思うわけです。一度そう思い込めば、これはもう実際にやってみるしかなくなる。妖怪を支配するのは物理の法則では無く、持って生まれた自分の意識ですからなあ。
まあそう言うわけで、龍はしばらく迷った末に、ついと上を向くと、遥かな天を目指して昇って行きましたわいなあ。後には奇麗さっぱり何も無くなった壁だけが残り、これを一か月ばかり誰も絵を描いたりしないように見張らせれば、壁に絡み付いた人の念も散じて、もはや絵が化けたりすることもなくなりましたわい。
その龍がその後どうなったのか、わしには判りません。本物の龍に成ったとは言え、元はただの絵、もしかしたら天の上で他の龍に苛められておるとしたら不憫ですわいのう。
それでもわしの描いた龍が、下手くそながらもこの天のどこかに連なっていると考えれば、これはもう素人絵書きの冥利に尽きるというものですわいのう。
わはは、わはは、わはわはわはは。
はいはい、またおいでなせ。
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