第49話

 空は透けて、風が一陣強く吹いた。朝の講義の後、私は大学内のコンビニに寄った。彩りの柔らかなお菓子が、一つの棚を埋めて華やかだ。その一つを手に取り、パンコーナーへ。そこにも春を賑やかす色や言葉が踊っていた。お腹にたまりそうなものを選び、お茶を掴んでレジへと並んだ。

 桜の下には、昼を待たずにすでに何人かが集まっていた。グループや、二人で向かい合い、お互いの言葉だけが聞こえる距離を楽しんでいる人たち。その中で彼女は一人、少し桜から離れたベンチに座って待っていた。

 私がベンチに腰を下ろすと、

「桜の下にいたら、桜が見えないと思って」

と、私ではなく桜を見ながら言った。

「桜、そんなに好きだったの」

「好きですよ。ものすごく、と言うわけではないです」

 グループで楽しんでいる中の一人が立ち上がり、手に持った炭酸飲料を飲み始めた。周りが囃し立てる。半分を一気に飲んだようだったが、途中で口が外れ、盛大に首を駆け下りていく液体に、また笑いが起こっていた。

 その騒がしさには一切目を移さず、彼女はかすかな風にきらきらと光る桜を見ていた。

 私も彼女にならって、桜を眺めた。目はそこにかためて、両手でパンの袋を開けた。その音に反応して、やっと彼女が私を振り返った。

「情緒をもう少し楽しみましょうよ」

 一口目をかじりながら、私は彼女の残念そうな目をちらりと見た。私からは見えない向こう側に、しっかりとお昼を用意している。

「もう十分情緒は吸い込んだよ。私はお腹が空いているの」

 私が二口目を口の中に収めているのを恨めしそうに見ながら、彼女も食欲に負けて袋の中のものを取り出した。彼女の膝に乗ったのは、桜餅と柏餅だった。

「お団子だけ?」

「だって花見には甘味が合いますから。あ、でもこっちもあります」

 そう言って更に取り出したのは、とろりとした醤油の香りが甦る、みたらし団子だった。


 あなたのおばさんから連絡があったのは、去年の冬以来のことだった。

 いつものように「久しぶりね」という挨拶ではじまり、体の調子はどうか、大学は楽しいかを訪ねる言葉が続いた。

 そしてそのメールの最後には、出来たら会いたいという旨のことが書かれていた。

 あなたのおばさんと最後に会ったのは、高校の三年生だったはずだ。

「受験生をこれ以上連れ出しちゃだめね」

 そう言って、別れたのだ。それからは、その言葉の通り、近況をメールのやりとりで交わすばかりだった。

 私は空いている日を返信した。すぐに返事はきて、その日に会いましょうということになった。

 彼女には前もってあなたのおばさんと会うことは伝えた。

あなたのおばさんのことを説明するとき、彼女にはまだあなたのことを言っていないのだと思い出した。彼女にあなたのことを、言うつもりはなかったのだ。こんな風に生活を重ねることになるとは、想像したことがなかったから。彼女だけではなく、誰に対しても説明するときなどこないと思っていた。それに、私には、あなたのことを伝える術がないと思っていたのだ。あなたとの関係をきちんと伝える言葉が。彼女に、あなたのとのことを確定されてしまったら、今のような広い場所であなたのことを思うことが出来なくなるような気がした。だから結局彼女に語ったのも、あなたのことではなかった。あなたのおばさんと重ねてきた親睦を、いくつか語った。それはあなたという点で結ばれていることは、言わなくとも彼女には伝わったようだった。

 私があなたのおばさんと会うことに対して、彼女は、少し渋るような顔をしながらも、「あまり遅くならないように」とだけ口にした。

 平日の午後。バイトのない日を指定したのだ。あなたのおばさんとは、大学近くのデパートの広場で待ち合わせをした。

 晴天の今日は、もう夏だと言っても差し支えがないほどに光は熱を含んでいた。少しでも肌を晒していると、そこがふつふつと熱で変化していくのが感じられるほど。

 広場の人出は少なかった。この部分だけ吹き抜けになっているために、天井が高い。小さな天窓がいくつも設けられていて、そこから真っ直ぐに落ちてくる光にさえ、私は怖じ気づきそうだった。あちこちに配置された植物は、色も濃く、瑞々しく自身の存在を広げていた。

「お待たせ」

 広場の人工池の中には、小さな魚が放されていて、水の反射を遠い天井へと投げ返している。そのすぐそばに置かれたベンチで、私とあなたのおばさんは隣り合って座った。

「なんだか、少し会わないだけで違う人みたいになっちゃうわね」

「そうですか?」

 私は缶の紅茶を手の中で転がしながら、自分の爪先と、彼女の靴を交互に見た。小さな子供が、母親の手を強く引いて前を通り過ぎた。その様子を彼女は眩しそうに見つめながら、口を開いた。

「私、今、妊娠しているみたい」

「それは」

 祝福していいのか、私は迷った。それは彼女の目が、幸福というには沈んで見えたからだった。その目は遠くの日向を見ているようで、この目の前の何にも焦点を結んでいないようだった。

「何ヶ月ですか」

「まだ二ヶ月」

 となりの彼女を見やるに、ひどい悪阻に悩んでいるというわけでもなさそうだった。相変わらずぼんやりとした彼女の目は、光のなかをさまよっている。私の言葉を受け取って投げ返してはくれるけれど、その心は、隣で私の話を聞いているわけではないようだった。白い手が、手首が、どうしようもなく頼りない気がする。彼女は母親になるということに、迷いがあるのかもしれないと思った。

「おめでとうって、言ってくれないの?」

 彼女が私の方へ顔を向けて言った。目を合わせているのに、どこか画面越しの会話のような雰囲気だった。ざわめきの波が、光のベールのように、間接的に世界を成り立たせている。その光や音が彼女の肩を触るけれど、それにも彼女は何も感じていない。彼女の中いっぱいに何かが満ちていて、他の何も新しくそこに入ることはできないようだった。

「おめでとうって、言っていいんですか」

 私の言葉に、彼女は小首を傾げ、しばらく私の目のあたりを見ていた。そしてふっと息を吐いた。筋肉の反射のように、笑った。

「そうね。私の様子を見たら、ちっともおめでたそうに感じないわよね」

 私は頷くことはしないまま、彼女の口が開くのを待った。手の中の缶の紅茶はゆっくりと汗を掻いていく。その水滴を意味もなく手の中に刷り込みながら、私は待った。

「じつはね、一人で育てようと思っているの」

「結婚はしないってことですか」

「そう。というか、結婚するつもりなんてないまま、そういう行為をしたのよ」

「お互いに、ですか」

「さあ。向こうがどんな風に思って行為に及んだのかは分からないけど」

「お付き合いをしていた人じゃなかったんですか」

「そうね。お付き合いはしていたと思う」

 彼女の目がまた正面に戻り、遠い光の空気を触ろうとしていた。

「付き合っていることが、そのあとの人生に必ずしも関わっていく人かなんて、分からないでしょう」

「そうかも、しれませんね」

「あの子のこと、まだ引き摺っている?」

 彼女はけして私を見なかった。ぴくりともその目は、私の反応を検知しないように努めていた。さっきよりも、意志をもって遠くに視線を投げている彼女を見て、私もその方向へ目を投げた。

「いいえ。引き摺ったことなんてありませんよ」

「そうなの?」

「ええ」

 私たちはそのまま静かに隣り合って座っていた。ゆっくりと、時間が過ぎていくことだけが、感じられた。長く座っていたために、おしりが痛みだした頃、彼女は大きく伸びをした。

「あー、気持ちが固まったわ」

 立ち上がった彼女の横顔につられて、私もそっと立ち上がった。背中で水音が変わらずたゆたっている。その音に撫でられ続けた背中は、きっと少しなだらかになってしまっただろう。

「ありがとう。あなたなら、ただ話を聞いてくれる気がしたの」

「いいえ。お役に立てたならよかったです」

 再会してやっと、しっかりと目を見ての会話だった。彼女は、子供のように気持ちを浮き立たせた笑顔を浮かべていた。そのまま「さよなら」と彼女は言い、そして私も同じ言葉を返した。

そのしっかりと立った背中で、去って行こうとする彼女を、私は呼び止めた。振り返った彼女に私は今度こそ心から「おめでとうございます」と言った。


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