第48話

 新学期は穏やかに始まった。

最近は、講義でいっしょになった数人と、大学内のカフェや食堂でいっしょに時間を過ごすことが増えた。私のことを、みんなは何故かとっつきにくい人だと感じていた、と話した。いつも一人で本を読んでいて、携帯をいじる学生たちなんて相手にしたくないと思っているのではないか、と。私は笑いながらそれを否定したけれど、よく人というものは他人をみているものだと思った。けして携帯をいじっている人を馬鹿にしていたわけではない。ただ、そうやって誰でも良いから繋がれる人たちが、うらやましいと感じていたのだ。私には、それが無いから本を読んでいたのだから。

 彼女たちは華やかで、一緒に居るとその色が移るような気がした。課題の話よりも、恋人の話や、見た映画やドラマの話を活発に話し、言葉にする感情の起伏のわりに、感情の上下の少ない。ここまでしか動かさない、と決めているように、その運動量を守って彼女たちはお喋りをくり返しているようだった。

 そうやって彼女たちと居る時に、時々同じように群れた男子たちが寄ってくることがあった。彼女たちは恋人がいる人も、居ない人も居たけれど、概ね笑顔で対応していた。本気で嫌な時は、さっと席を立って行ってしまう。その身軽さにも、私は驚いた。私はのろまに、いつもテンポを間違えて動いてしまうのだけれど、それに気付いた何人かが、「意外ね」と笑った。朗らかに聞こえたが、どこかで冷たい欠片が混じっていることが感じられた。

 その話を帰って彼女にすると、憤慨した様子で

「それって、〝意外に、ああいうタイプの男が好きなの?〟って揶揄しているのじゃないですか」

と眉を跳ね上げて言った。そうか、そうならば納得できる気がした。

私がそういう他の人たちからの反応に対して気にする様子がないと、彼女もやがて落ち着き、途中だった夕食に手を戻すのだった。

 私は、誰かと付き合いたいと、思ったことがなかった。あなたが占めている割合が大きすぎて、新しく入ってくるものを置いておく場所が無かったのだ。

それならば、彼女はいったい私の心のどこに居るのだろうか。級友は。あなたのおばさんは。あなたのお母さんは。新しく覚えた名前や、知識はどこに書き連ねられているのだろうか。いつかは炎の中に消えてしまう体の中で、見えない扉を私は探していた。見つけたら閉じてしまいたかった。もう新しいものは十分だったから。

 私の中の嵐が、泣いている気がしていた。泣いているのは、私のはずだったのに。苦しい気持ちの吹きすさぶ中に居るのは、私であるはずなのに。

 私は順調に生きている。まるでこのまま時間は流れ続けていく様な気がしてしまうくらいに。

 それを感じた日の夜は、いつも眠りが浅かった。夜が味方ではないと知ったのは、いつからだったのか。少なくとも、あなたに出会った時にはそう感じていた。

「暗くなる前に、帰った方がいい」

 そう口にするあなたが、恨めしかったこともあった。日の短い冬が、憎らしかったことも。冬は、あなたの体を弱らせる季節でもあったから、私は、それはもうあなたがいないところで、口汚くこの時期を罵っていた。

 あなたの夜が、長いことを悲しんだ。

 あなたに会うための光が遠いことを、さみしがった。

 そうして居るうちに、眠れていたのだから、十分に守られていたのだろうけれど。家の誰もが眠った後の暗闇は、濃度が変わっていた。外の音の大きさも、カーテンから漏れる外灯も、力の関係は逆転され、私は大変に場違いな存在だった。

 あなたが生きていると信じられた夜は、けれど確かに戦って居られたのだ。明日になれば証明しようと、前借りの勇気を握りしめていた。今思い出しても、小さな手の中で。




 春を芽吹かせる力は、冬の血なのではないかと考えていた。この国中に広げたその色は、淡く、やさしく見え、その蕾に多くの人が視線を向ける。色が心を解いてくれるのを、待っているようだ。冬を打ち倒したことを、安堵したい。生きているものの、生存本能として、正しい反応だ、と。

 それを彼女に話すと、

「どうしてお花見の計画立てている時に、そんな小難しいことを考えてしまうんですかね」

と呆れ顔をされた。

 今暮らしている住宅街は、わりと新しく作られたものだからか、桜の木を植えている家が少なかった。散っていく桜の花びらの始末や、毛虫の駆除、秋の落葉。知らないことも含めて、面倒ごとが多い木なのかも知れなかった。

 実家の周りには、何軒かが桜の木を植えていたので、毎年、散歩すればゆっくりと開花までを見守ることが出来た。

 この辺りだと公園に数本の桜の木あるのと、近くの小学校の校庭にぐるりと植えられているだけだった。

 大学まで行けば、そこにも数本の桜はあるので、私たちは大学の空き時間に桜を楽しむことにした。ピクニックバックを抱えて、レジャーシートを広げるようなお花見ではない。ただ桜の見える場所に座って、お菓子を頂く。それだけの予定だった。

 すでにそういう生徒や、教授たちの姿を目にしていて、私たちはいつ決行するのかを話し合っていた。

 お互いの学年が違うことよりも、取っている講義が違うことの方が、私たちのすれ違いをつくっていた。彼女は私が一年の頃よりも、多くの講義を取っていた。それなのにバイトにも行くという強行軍な一年を送っていたのだ。今度はその点も踏まえ、もう少し考えて講義は選択することを彼女はかたく誓っていた。

「講義を多く取っていたら、先輩に会える可能性が上がる気がして」

 その下心のつけを、彼女は一年間払い続けたのかと思うと、感心するべきなのか、呆れるべきなのか、考えてしまった。

 桜は、もうすでに開花を始めており、昨日の時点で六部咲きの状態だった。私たちのお花見の決行日は三日後。彼女は、その日の天気を毎日何度も確かめていた。雨の予報は、もともとでてはいなかったけれど、それでも早朝、窓に濃い青が感じられた時にはほっとした。

 風の少ない日だった。昼過ぎに目当ての桜の下で落ち合う約束をして、私たちはそれぞれに家を出た。

 私は朝からの講義があったため、早めに部屋を出た。大学の桜の横を通り過ぎる時、つい見上げている自分に気付いた。その色が美しいとか、儚げな姿が好きだとか、思ったわけではなかった。確かに美しいとは思うけれど、私にはこの儚さがどこか諦めているように見えていた。少しの風にも散らされて、みんなが見上げてくれる時間はほんの一時だ。咲くことよりも、散ることを期待されている。その期待に応えるように、毎年毎年、変わらず美しく桜は散っていく。散るために咲く。それは、死ぬために今を進む自分の気持ちと重なるような気がした。私の死に期待しているのは、では誰だというのだろうか。

 講義を聴いている間、私は古びた記憶の埃を払い、一度目の自分が見た講義とこの今が、同じなのかを確認しとうと試みていた。授業をする教室の雰囲気、座る面々。そんなものを覚えているわけが無いと分かっていても、そうしないではいられなかったのだ。

講義の内容は同じような気がする。担当する先生たちにも見覚えがある様に思う。思うだけで、何を見てそう感じているのかは分からなかった。大学のカフェテラスも、食堂も、通っていたはずだ。何人かの顔見知りもできただろう。私は普通を保ってここに居たはずなのだ。それなのに、私は何も覚えていなかった。確かな記憶がほとんどなかった。記憶というよりも、思い出のたぐいのものが。それがどこにも無かった。講義を受けていたこと。ボードに書きだされる問題は、どことなく目が追ったことがある気がしたけれど、それに関連したことを何も紐付けできていなかった。この講義はこの教授の言い方が嫌いだったとか、食堂では何が人気だったとか。どの席によく座っていたとか、なんの講義が好きだったのか。何一つ残っていないのだ。


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