第2話 探し物はどこに?


 どうしたね? 諸君。

 今日はクラブの中が、奇妙に騒然としているし、何人かは床に這いつくばっている。

 拳闘の試合でもしたのかね。それともコンタクトを落としたとか?

 だとしたら、わしは待合室のソファの上で酒を楽しむとしよう。後で何かを壊したと責められたら嫌だからね。

 ニッキー。このおいぼれに事態を説明してくれようという親切心は、持ち合わせていないのかい?

 これから説明しようとしたところだって?

 ああ、これは悪かった。説明してくれたまえ。


 ふむふむ。

 ファンキーの結婚指輪が消えたって?

 そりゃ大変だ。ファンキーの申告通りだとしたら、彼の奥さんはクラブ会員の妻のなかでも一番怖いというからな。結婚指輪なんか無くしたと知ったら、どんな目に遭わされるか。いや、くわばら、くわばら。

 おや、ファンキー、顔が青いな。悪いものでも食べたんじゃないか?

 いや、悪かった。冗談はこのぐらいにして、真面目に相談にのってあげよう。

 クラブの部屋の中はもうすでに探し尽くした後なのだろう?

 だとすれば結婚指輪の行き先は次の三つということになる。すなわち、盗まれたか、家に置き忘れたか、落としたかのどれかだ。指輪というものはスポーツでもやっていない限りは落とすことはないものだから、この可能性は排除できるだろう。となれば、後は盗まれたか、置き忘れたかの二つということになる。

 そこでだ。この老いぼれが少しばかり役に立つ話をしてやろうじゃないか。

 ニッキー。わしの酒を取ってくれ。

 ああ、ありがとう。


 さて、いつものように、物語はわしがまだ若かった頃にさかのぼる。当時のわしは、カイロ支局に勤めておった。もちろん、表向きは大使館の職員ではあったが、その実はスパイであった。

 カイロ支局でのわしの相棒はモッブと呼ばれる男で、その他に五人ほどのメンバーが常時詰め掛けておった。一応はわしがリーダーを勤めていたが、どのメンバーも一人で十分にやれるだけの実力を持っていた。というのも、この大使館のボスである大使は、ある非常に重要な軍事上の機密に関っており、通常の護衛の数ではこの機密を守るのには足りないと、上層部の連中は考えたのだな。そういうわけで、腕利きの連中がこの支局には集められていた。

 だがまあ、心配するようなスパイ騒ぎも起きず、カイロでの日々は極めて平穏に流れていたので、わしらはちょっとばかり油断していたのかも知れない。

 モッブときたら、街の売春宿に潜り込んだきりで、支局に滅多に顔も出さない有り様であったし、他の連中もまあだいたいが似たり寄ったりな暮らしを送っておった。まあ、わしらはみんな、カイロでの任務を一種の特別休暇とみなしていたんだな。

 わしかい?

 わしもまあ、モッブほどではないが、似たようなものだったな。こちらのバーで酒を飲み、あちらのバーで酒を飲み、昼の日中に水風呂に浸かって鼻歌を歌う。いくら諜報員だからと言って、朝起き掛けに銃撃戦をやり、昼飯の最中に爆弾を組み立て、夜に舞踏会に出席して要人暗殺を行う、なんて毎日を送っているわけでは決してないからな。まあ、そんな日があったとしても、月に一度か二度がせいぜいというものだ。

 そういうわけで平和なカイロの日常で、あんなどえらい事件が起きるなんて、わしらは想像もしていなかったものだ。


 その日は珍しくも支局員がみんな集まっていた日で、いまから考えると、これは虫の報せが働いたのではないかと思う。一本の電話がその発端で、部屋の隅で水パイプをくゆらせていたモッブが、奇妙にゆっくりした足取りで立ち上がると、受話器を持ち上げたのを覚えている。他の連中はだれもかれもひどい二日酔いで、他のだれかが電話の鳴る音を止めてくれないかと、心待ちにしているような体たらくであった。

 モッブはしばらく電話の声に耳を傾けていたが、やがて静かに受話器を置くと、一言だけ、こう言った。

「あれが無くなった」

 あれ、とは何だ? とは、だれも言い返さなかった。カイロ支局で、あれ、と言えば決まっている。例の重要機密文書のことだ。その一言で瞬時に全員の二日酔いがぶっとんだ。問題の大使の護衛にだれも割り当てられていなかったことに、そのときやっと気がついたからだ。わしらの職務怠慢は明らかであり、紛失したものの重要性からして、書類が見つからなければわしら全員が死刑を宣告されることは明らかであった。

 受話器をおいたモッブが、これも奇妙に静かな動作で、もう一度受話器を取り上げると電話をかけはじめた。それがワシントンの堅いガードを越えて、大統領の秘書のところにまで到達した時点で、わしらはモッブを取り押さえ、彼の頭に巻かれていたターバンで彼をぐるぐる巻きにした。いつものモッブならこんな馬鹿なことはしないのだが、どうやらその日の彼は水パイプのやり過ぎで脳がとろけていたらしい。

 だが、まあ、しかし、選択の余地はなかった。わしらは何としても、その重要機密書類を見つけ出さねばならない。すべてを捨てて亡命するにしても、全面核戦争の引き金を引いた人物を笑って迎え入れてくれる国があるとは思えなかったからだ。あの書類が東側に流れれば、遠からずそうなるに違いなかった。

 まだ薄ら笑いを浮かべたままのモッブをみんなで担ぎ上げると、わしらは大使官邸へと車を飛ばした。

 大使の説明は判り難かったが、それでも要約するとこうなる。

 昨日、大使は親善パーティに出て、しこたま酒をきこしめした。例の書類はあまりにも重要だったので、止せばよいのに、わざわざ小型の書類カバンに入れて持ち歩くことにした。パーティの間中、その核戦争の引き金は大使の腕の下でぶらぶらとしていたのだが、やがてパーティがお開きになる頃には、再びかれの懐へと戻ったそうである。

 問題はここからで、浴びるほどの大量の酒を飲んだはずなのに、かれは飲み足りないと思ったらしく、どこか手近のバーへ行くようにと運転手に命じたそうなのだ。運転手はさんざん探した末に、そんな深夜でも開いていた唯一のバーへと大使を送りこんだ。

 いやいや、そのバーの名前を聞いたときには、わしらは心臓が止まりそうになったよ。特にわしの心臓は、その瞬間確実に止まっていたと断言しておこう。大使の告げたバーは、こともあろうに、ここらあたりの悪党どもの溜り場でもあるバーで、それは当然、わしの愛用のバーでもあったわけだ。昨日の夜のどこかの時点で、わしは大使の顔を見ているはずであったが、いや、その覚えがなかったのは、わしの一生の不覚であった。

 だが、神か悪魔か知らないが、運命の主というものは奇妙なことをする。大使は無傷で、もっと驚くべきことにはきちんと財布を持ったまま、そのバーを出た。それから向かいにある安ホテルへと飛びこんだ。流石に酔いの回った大使には、大使官邸に帰るだけの力はなかったので、そのまま宿を取り、すえた匂いのするベッドに倒れこむと、深い眠りへと落ちこんだとまあこういうわけだ。

 翌朝、大使は目覚めると、自分がどこにいるのかとぼんやりと考え、それから空っぽの自分の両腕を見て悲鳴を上げた。

 恐るべき状況だったが、たった一つだけ救いはあった。それはベッドに倒れこんだとき確かに書類を抱えていたと大使が証言したことだ。ということは、少なくともあの酒場で盗まれたのではないことになる。これは朗報であった。そうでなければ、酒場にいた全員を誘拐して拷問しなければならない羽目になっていただろう。この街一番の飲兵衛ども、それに暗黒街の組織の面々、武器商人、盗賊ギルドの支配人たち、ついでに言うならば警察署長もだ。悪党どもにワイロを要求するために来ていた役人たちもリストに入るし、もっと厄介なことに、わしは自分自身を逮捕しなくてはいけないことになる。自分で自分を拷問するなんて、考えるだけでも馬鹿馬鹿しくてぞっとする。

 だがまあ、ホテルのなかで無くなったということで、対象はぐっと絞られる。ホテルの外の悪漢どもが、ホテルの連中たちに知られないままに、部屋にそっと忍びこみ書類を盗んでくるなど、小説の中ならともかく現実では有り得ることじゃないからだ。大きなホテルなら可能だろう。だがこんなに小さくて、そして悪党どもが利用するホテルじゃ無理だ。


 わしらは早速、ホテルの従業員とその日に泊まった連中を調べだした。

 その結果わかったことは、当夜、そのホテルの客で身元の確認できなかった人物は五人いること。それにホテルの従業員のうち、二人が行方不明になっていることだった。

 わしらの人数は七人、容疑者も七人。確かにカイロ支局の他のメンバーを使えば、頭数だけは増やせるが、諸君らも知っての通り、諜報活動というのは個人の資質が大きくものを言う世界だ。ひよっ子をいくら張り付けたところで、最初の乗り換え駅でまかれて、それで追跡はお終いということになりかねない。

 つまるところは、この七人だけで事態を収拾しなくてはいけないということだ。さて、そこでわしらが直面した問題はこうだ。容疑者一人につき、こちらのメンバーを一人つけるのか、それとも容疑者一人にこちらの七人が一斉に襲いかかり、それを続けるのか、ということだ。

 結果として、わしらが採用したのは後者の案だ。マン・ツー・マン方式では、あまりにも危険が大きいと、わしは判断した。

 ただし、後者の案、全力集中各個撃破方式にも欠点はある。それは、作戦行動の時間がひどく限られることだ。一人に張り付いている間に、残りの六人が逃げてしまう恐れがある。だからこそ我々の作戦の方針は、素早く襲い、書類の有無を確認し、すぐ次の容疑者へ移ることだ。こと今回の作戦に関しては、エレガントという言葉は考えないことにした。

 そうこうしているうちに、問題の容疑者の一人が目撃されたとの報告が入った。目撃された場所はカイロ郊外の道路の一本で、それでわしらには容疑者の目的地がわかった。その道の行き先はただ一つしかない。小さな飛行場だ。

 飛行場!

 わしらは車に飛び乗ると、アクセル全開で車を走らせた。途中で残りのメンバーの乗る車と合流し、わしらはまるでスピード狂にでもなったかのように、ただの一度も止まることなく、その飛行場へとなだれこんだ。

 砂埃にまみれた飛行場の中では、怪しげな風体をした怪しげな顔つきの男たちが集まって、怪しげな何かをしている所だった。その男たちの輪の中にいたのは例の容疑者であった。手にしたバッグを男たちに差し出している。代わりに何か重そうなものが入ったカバンを受け取っているところだった。

 金だ! わしは直感した。重さからみて、相当な大金である。

「あいつだ。あいつに違いない。ビンゴ! 大当たりだ」

 こう叫んだのはモッブだったが、実を言えば、わしもまた同じ気持ちだった。わしらは何てついているんだ。最初の容疑者で答えを見つけたぞ、と。

 最初に発砲したのがどちらであったのかはわからなかったな。やつらは機関銃を持っていて、わしらの武器は拳銃だけだったが、その代わりに、鍛えられた銃の腕がこちらにはあった。

 騒ぎの中で、例の容疑者が金の入ったカバンと相手に渡したばかりのバッグを引っつかむと、逃げ出した。やつが逃げ出したその先にあったのはボロボロのセスナ機だ。

 残りの連中はモッブたちに任せて、わしはやつを追った。セスナ機のプロペラが回り始め、機首が滑走路へと滑りこんだ。いやいや、わしの生涯であれほどの速さで走ったのは、後にも先にもあのときだけだろう。もしオリンピックであれほどの走りができていれば、世界記録を樹立していたことだろうな。

 セスナ機は離陸し、わしはかろうじてセスナ機の足にしがみつくことに成功した。今でこそそんな無茶はできないが、若い頃のわしがどれほどエネルギッシュな男であったかは、想像に難くないことと思う。

 そこまでいけば後は簡単だ。わしは風圧に逆らってセスナ機の機体をよじのぼると、操縦席へと入りこみ、男が半狂乱で撃ちまくる拳銃の弾をすべて避け、そうしてやっと、問題の書類が入ったバッグへとたどりついたわけだ。

 開けたバッグの中身が書類ではなくただの麻薬だと知って、わしがどれほど落胆したのかは、わかってもらえるかな?

 つまりこの男は麻薬のディーラーであり、機密書類を狙ってやってきた諜報員ではなかったというわけだ。

 わしは、拳銃の弾を装填しなおそうとしている男の胸倉をつかみ、自分がその男をどう思っているのかを、腹蔵なくぶちまけた。普段、人が人に接するときにやるような、言葉の制限を一切かけずにだ。

 それからわしはセスナ機の向きを変えると、飛行場へと舞い戻った。

 飛行場で待っていたモッブたちに作戦は失敗だったと伝えるのは、正直に言ってつらかったよ。

 ああ、なんだね。ニッキー。男はどうしたかって?

 それが不思議なことにな、わしが思いの丈を存分にぶちまけた直後、やつはどうやら大事な用事を思い出したらしく、セスナ機のドアを開けると、空中散歩に出て行ってしまったんだ。パラシュートを忘れて行ったぐらいだから、よっぽど急いでいたんだろうなあ。

 まあ、それはさておき。飛行場でわしらがこれからどうしようと考えていると連絡が入った。二番めの容疑者の一人、ホテルの従業員であったメイドが見つかったという話だった。目撃されたのは駅のプラットホームで、これから高跳びしようとしているのは明らかだった。

 わしらが再び車を飛ばしたと思うかね?

 いやいや。わしらがそのときにどこにいたのかを思い出して欲しい。飛行場だよ。わしらはセスナ機をチャーターすると、再び空へと舞い上がった。目指すは駅、正確に言えばそこにいるはずの容疑者の女だ。

 それはさすがに、セスナ一機に七人の人間というのはひどく乗り心地が悪かった。しかし他に方法がなければ、人は我慢をするものなのだ。一人は座席に乗れなかったので翼の上にしがみつくことになったが、まあ大したことじゃない。

 ようやく、プロペラの前方に鉄道が見えて来た頃には、列車はすでに出た後だった。こうなっては静かに容疑者の周りを取り囲んで持ち物を検査するという計画は取りやめだ。セスナ機の機首を線路へと向けると、わしらは列車を追った。飛行機の燃料が尽きる前に追い付くことができたのは幸運だと言えたな。

「怪しい。いきなりこんな長距離列車に乗るとは、絶対に怪しい。ビンゴだ。今度こそビンゴだ」

 モッブがつぶやいた。

 さて、そこからがわしの操縦の腕の見せどころだった。

 走っている客車の上にセスナ機を着陸させるのがどれほどの難事か想像できるかね?

 まあ、とにかくわしがそれをやり遂げると、七人のスパイは列車内へとなだれこんだ。ちょうど列車はカーブに差し掛かるところで、列車の屋根の上のセスナ機がバランスを崩すと、カーブの外側へと転げ落ちるのが見えた。

 型は古かったし汚れてはいたが扱いの良い飛行機だったのに、実にもったいない。だがこれもセスナ機の運命だったのだろう。わしはセスナ機のことを念頭から消した。拳銃を右手に構えたままで座席内の通路を走った。客の何人かは何を勘違いしたのか財布を差し出す者もいたが、わしらはそれを無視した。容疑者の女がいたのは個室の一つだ。

 まずモッブが部屋に飛び込むと、両手で構えた拳銃を最初は彼女に、それから彼女と一緒にいた男へと突きつけた。残りの連中は蟻の一匹も入りこまないように周囲を固めた。となれば武装解除はわしの役目だ。わしは手早く彼らの荷物を確かめ、機密書類がそこにないことを確認した。モッブが銃を突きつけていた男の方が緊張に耐え切れなくなり、拳銃を奪い取ろうとしたので、モッブは彼に向けて撃った。なに、別に当てたわけじゃない。耳のそばに一発。それだけだ。

 男の行動があまりにも稚拙なものだったので、わしらはこの容疑者も違うと気がついた。いやしくも諜報活動に少しでも関ったことがある者ならば、もっとましなことをする。銃を構えている男に正面から掴みかかるような真似をしていては、命が幾つあっても足りない計算となる。

 彼女は怯え切っており話を引き出すのには苦労したが、結局これは借金に追われての逃避行であり、男の方は彼女のヒモであることがわかった。こちらの調べでは彼女はホテルのメイドであったが、実体は売春婦だったらしい。

 彼女らが機密書類を持っていないことが確認できたので、わしらは次の駅で降りて引き返すことにした。彼女に同情したモッブは、ヒモを殺して彼女を自由にしようとしたが、どうしたわけか彼女が泣いてすがるので止めることにした。モッブにしては珍しくも優しい行動だったので、わしも彼に見習って、セスナ機から救出しておいた金の詰まったトランクを彼女の元におくと、その場を立ち去った。

 なんだい、ニッキー?

 列車強盗をしたのに、どうしてわしらが捕まらなかったのか?

 ふむ、どうも君は懐疑主義でいかん。いいかい?

 乗客たちは騒いだ。空から飛行機が降りて来て列車の屋根に止まるわ、銃を持った男たちが走りまわるわ、銃声は聞こえるわ。なんやかやだ。だが、そんなパニック状態の心理のなかで、いったい誰が銃を持っていた男たちの顔を覚えているものか。彼らが覚えているのは、何か恐い目にあったというそれだけだ。セスナ機は密輸に関わった飛行場から勝手に乗ってきたものだしな。足がつくも何もない。事件は存在したが犯人はどこにも存在しない。よくあることさ。


 わしらは次に来た列車に悠々と乗りこむと、何の問題もなくカイロに戻った。

 最初の駅に着くと、次の報告がわしらを待っていた。容疑者の一人が、こともあろうに、敵国の大使館の付近をうろついているのが目撃されたのだ。それを聞いたとき、全面核戦争という文字がわしらの頭の中に明滅した。

 だがまあ、地獄の門がわしらの頭の上で開くまでは、あきらめてたまるものか。わしらは敵国の大使館へと急行した。

 わしらがそこに到着したちょうどそのとき、大使館員の制服を着たその容疑者は、扉を抜けて大使館の中に消えたところだった。ああ、あと数秒、わしらの到着が早ければその男の頭を撃ち抜くか何かして、事態を収拾できたものを。いくらわしらでも、拳銃を乱射しながら他国の大使館の中へ突入するほど無謀じゃない。そうすれば全面核戦争は防げただろうが、絞首刑か電気椅子送りにされるのは、まず間違いのないところだったからだ。

 考えうるシナリオの中で一番悪いのは、国際的犯罪者として拘束され、敵国へ引き渡されることだ。なにぶん、わしらは他国ではひどく評判が悪い。昔の恨みを晴らしたがっている敵の諜報員は、その頃にはいくらでもいたのさ。

 あはははは。ニッキー。どうした。不満だって顔だな。


 その連中は今はどうなったかって?

 さあな。ただ、これだけは教えておこう。わしが本職から身を引いて、いまの、まあ、一種の隠遁生活に入るまえに、わしはちょっとした罠を仕掛けたのだよ。彼らが旧友へのささやかな挨拶をしたがっているのが、十分にわかっていたからな。組織の後ろ盾がなくなれば、後はどのようにいたぶろうが、どこからも文句はでない。だれしもそう考えるものだ。

 旧敵たちを一堂に集めてわしは自分のささやかな引退パーティを開いた。過去の恨みをこれで水に流しましょうという、なごやかな暗黙の平和に満ちたパーティだ。

 いや、実に素晴らしいパーティだったよ。豊富な酒と、美味しい料理。それに適度な興奮剤。

 人を逆恨みする輩は、恨む相手を一人に限定することは、滅多にないものだ。彼らはわしを始末する目的で招待に応じたが、そこに集まっていたのは彼らの秘密の絶対殺すリストに載っている面々。

 殺気に満ちあふれた馬鹿騒ぎは、実に容易に銃撃戦へと発展する。

 いや、勘違いしないでもらいたい。少なくともわしは止めたんだ。最初のうちは。それから事態がエスカレートするのを待って、わしはその場を抜けて、一人静かに郊外のバーの片隅で酒を飲むことにした。

 一つだけ残念だったのは、爆発で半壊したパーティ会場の修理費用の請求がわしの方に来たことだ。他に請求するべき相手が生き残らなかったものでね。まあ、その代金は政府機関のコンピュータの裏帳簿で何とかしたがね。

 先手必勝だよ。ニッキー。それがコツだ。トラブルの芽は早めに摘んでおくこと。今度もその方針が役に立ったわけだ。罠の口が閉じた後には、まあ、気にするほどのものは残っていなかったわけだ。


☆前編・後編


 さて、話がそれてしまったな。元に戻そう。

 大使館の中に消えてしまった敵を捕まえるためには、わしらも大使館の中に入らねばならぬ道理なわけだ。そこでわしらはかねてから用意しておいた作戦Aを使うことにした。

 それは何かって?

 どこの支局でも、いざというときに敵国の大使館に侵入しなければならないような事態を想定して、あらかじめいくつかの作戦が用意されているものなのだ。これには侵入作戦の他にも要人の暗殺計画なんかも含まれているな。この計画の一つが万が一にでも敵方に漏れたとすれば、それだけで国際紛争の火種になりかねないような、作戦Aとはそんな計画だ。

 ここで諸君に質問を出そう。大使館でパーティを開くとき、かならず必要になるものは何か?

 料理。うむ、それは確かだ。

 酒。確かにそうだ。

 お客。当然の答えだな。ニッキー。他にはないかな?

 よし、正解を教えてあげよう。それは花だ。造花、生花、花束、鉢植え。殺風景なパーティに彩りを沿える。重要なアイテムの一つだ。

 料理は大使館専属の料理人が仕切る。酒は大使館の中に膨大なストックがあるので、パーティのときに酒屋が呼ばれるとは限らない。お客は最初からチェックが厳しい。

 だが、大量の新鮮な花を用意するには、そのつど花屋に頼むしかないわけだ。駐在大使が花を育てる趣味を持っていなければ。

 これこそが作戦Aの中身だったのだ。当時のその街に、パーティに必要な花の注文をさばき切れるほどの店は、わずかに数軒。そのすべてに我が諜報部の息がかかっていた。折り良くパーティ用の花の注文がその大使館から来ていたので、わしとモッブは花屋の配達人に変装して大使館へと乗りこんだ。

 お役人というのは極めつきのなまけ者と相場は決まっている。重そうな物を持った配達人に対しては、荷物を受け取るかわりに、監視をつけて奥へと招き入れる方を選ぶ。わしとモッブは両手に大きな鉢植えを持って、そのまま大使館の奥へと入りこんだよ。それから頃合を見計らって足を滑らすと、大使館の床の上に鉢植えの中身をぶちまけた。

 監視員がそれに気を取られた隙に、わしがそいつの顔に麻酔剤をたっぷりと染みこませた布を押し当て、続いてモッブがそいつの腕にすばやく薬を注射した。

 モッブがいつも持ち歩いている類の恐ろしくたちの悪い薬だ。これを注射すると実に悪い夢を見るし、後でひどい頭痛がする。おまけに薬を打った前後のことをすっかりと忘れてしまう。

 監視員が目を覚ましたら、わしらは彼に謝り、それからこう説明するつもりだった。わしらが落とした植木鉢につまづいて、彼は足を滑らせて頭を打ったのだと。できれば彼の上司には報告しないで欲しい。そんなことになれば、うちの店との取り引きを打ち切られてしまう、とね。あとは多少の袖の下をつかませれば、それで事件はなかったことになる。すべて問題なしだ。

 わしらは手早く部屋から部屋へと回り、そしてようやく例の男が廊下をうろついているのを見つけた。

「ビンゴ」一言だけ、モッブが言った。

 その後の手順は同じだ。周囲に他の人間がいないことを確かめてから、相手の後ろから羽交い締めにして、麻酔剤を染みこませた布を相手の顔に押し付ける。ぐったりとした相手を手早く空き部屋の中に引きずりこみ、それからモッブが薬を注射する。

 モッブは怪しげな薬のエキスパートだ。ときたまモッブは自分にも薬を使い、これは薬の効果を確かめるためだとのたまうが、それは嘘だとわしは考えていた。実情は薬を注射する腕を間違えていただけではないかと思う。つまりモッブは相手の腕だと信じて、自分の腕に注射としてしまうのだ。ウスコ・ダスガの街での銃撃戦で頭に銃弾を受けるまでは、モッブはこういった間違いは滅多にやる男ではなかったのだが、それでもなお一流の諜報員であることには違いなかった。

 今回モッブが使ったのは自白剤だ。もちろん、こういった重要な局面で、モッブはドジをやらかさない。今から注射しようとする腕が自分の腕でないかどうかを確かめるために、モッブはその腕を舐めることまでやったのだから。この目的のためにモッブ自身の腕には常に薄くカラシが塗ってある。

 自白剤に抵抗できる人間なんかそうそういやしない。喋りまくるか、あるいは心臓が止まるか、そのどちらかだ。男は喋るほうを取り、自分が何のためにこの大使館に来たのかを説明し始めた。

 うちの大使は酒癖が悪いが、こちらの大使はどうやら女癖が悪いようだ。男の話を要約すると次のようになる。大使はこの男の妻に手を出して、浮気がばれると事態をうやむやにして逃げたらしい。家庭は崩壊し、男のメンツは潰れ、どういうわけか、職場からも叩き出されてしまった。もちろん裏で画策したのはここの大使だ。強制労働収容所送りになる前に、賢くも逃げ出したこの男は、愚かにもここまで大使を追ってきたと、まあこういうわけだ。

 機密書類?

 もちろん何も知らなかったよ。またもや、はずれ。まったくツキというものに見放されているときはどうしようもないものだな。

 さて、話がはっきりした以上、敵国の大使館の中でいつまでもうろうろしているのは得策ではない。わしらは即時撤退を行うことにした。

 薬でラリった男が泣き始めたのには、さしものわしもまいったな。おれが馬鹿だった、こんなことはもうしません、おとなしく強制労働収容所にまいります、と泣くんだ。モッブは諜報員らしく冷酷な男だったが、奇妙なところが優しい男でな。まあ、言ってみれば変なやつだったわけだ。やつは男の肩を安心させるようにやさしく叩いて、どこからか予備の拳銃を取り出すと、自分の指紋を拭き取ってから男の手に握らせた。

「大丈夫。君は悪くない。君は正しい行為をしている。君はいま神の正義を代行している」

 モッブはそう言って彼を元気づけると、興奮剤と記憶喪失作用のある例のらんちき騒ぎの薬を彼にたっぷりと注射した。それからわしをうながすと、その場を離れたんだ。

 その後どうなったかって?

 さあ、わしは知らない。いろいろ忙しくて調べるひまがなかったからな。ああ、でも二、三日たってから例の花屋から報告が来たように覚えているな。大使館から葬式用の大量の花の注文があったと。


 さて。残りの容疑者は従業員一人と客が三人だ。このうちの一人が機密書類盗難の犯人ということになる。わしらは支局の事務室に戻り、カイロの街中に張った網に獲物がかかるのを待った。

 それほど待たなくて済んだよ。客と目される男が、あろうことかホテルの前にある酒場に現れたということだった。

 これにはちょっとばかり、わしも驚いたね。機密書類が消えたのは昨日の今日だ。犯行現場近くに犯人が出現するなど、まずありそうもないことだった。普通これほど重要な書類を盗んだ場合には、できる限りの速さでその場を遠ざかるものだ。逃げ足が速ければ速いほど、敵の放つ網にかかる可能性は少なくなる。戦場でも諜報合戦でも、足の速さのほうが銃の腕よりも物を言うものなのだ。

 それなのに犯行現場近くの酒場に現れるような奴は、いったいどんな奴なのだろう。信じられぬほどの間抜けか、それとも恐ろしい度胸を持った怪物か。そのどちらかだ。

 わしらは、そいつを後者だと判断した。相手を過大評価しておいて損はない。少なくとも、相手を過小評価して胸に大穴を開けられるよりはうんといい。わしらは事務所の秘密の武器庫から武器を引っ張りだした。対戦車ライフル。パンツァーフィスト。重機関銃。それにうんざりするほど大量の爆発物。モッブが用意したのは毒ガスに催涙ガス弾の類だ。

 戦争を起こす気だったのかって?

 その通り。この戦争にわしらが負けた場合には、事態は全面核戦争へと発展するはずだった。

 わしらは密かに酒場に近づくと、そこを完全に包囲した。人数こそはわずか七人だったが、どれも修羅場を潜り抜けてきた、殺人狂とでも言える連中だったからな。おっと、わしは違うよ。わしのような紳士が、そんな血生臭いことを好むと思って貰っては困るね。

 先にも述べた通りに、この酒場は様々な裏取り引きの場に使われている。それには政府のお役人も混じっており、だから警察も敢えて手を出さない場所であった。酒場の入り口の左右には、タフな男たちの待機所がある。どいつも最低二挺の銃を脇の下にぶら下げており、殺気に満ちた目でお客を睨んでいるという具合だ。酒場の裏手のドアはおとりで、本物の裏口は地下にある。わしらはここも固めたよ。モッブが空気よりも重い毒ガスを、あらかじめ下水道に流しておいたんだ。即効性の毒ガスだが一時間もすれば自然に分解する。さすがに酒場側でもガスマスクは用意していないから封鎖方法としては完璧だ。まあ、深夜に下水道に潜りこむやつはいないから、一般市民が巻込まれるおそれはなかったし、おまけにネズミまで退治できる計算となる。カイロ清掃局は、ぜひともわしらに感謝して欲しかったな。

 突撃部隊の先頭はもちろんわしだ。責任者が常にデスクの背後にいるようでは、どんなことも達成できはしないというのが、わしの若い頃からの持論だ。

 酒場のドアをノックしてドア番に顔を確かめさせるようなことはさせなかった。どのみち顔は黒いマスクで隠している。自分の愛用しているバーから、叩き出されるような真似はしたくなかったんでな。わしは。

 ドアをノックするかわりに爆薬で一気に吹き飛ばした。背後にいたボディガードたちも一緒にだ。それから機関銃を構えたままで中に飛び込み、最初に動いた者を撃ち殺した。

 いや、たとえ悪党でもプロの集団というものは良いものだね。こちらの動きを見て全員があっさりと抵抗を諦めた。ぴくりとでも動けば間違いなく挽き肉になる。わしらは引き金を引くのをためらわないし、それは酒場の誰もが理解していたな。

 緊張に満ちた静寂の中でわしは問題の人物に近づくと、そいつのこめかみに銃口を押し付けたまま、手早くそいつの身体を調べた。わしの銃は発射したばかりで銃口はひどく熱かったが、そいつは文句を言わなかったな。実に見上げた態度だった。

 モッブがテーブルの下から書類の束を見つけだして言った。

「ビンゴ」

 わしはそれを手早くあらため、それから全員に引き上げ命令をだした。

 わしらが引き上げた後は、酒場はまるで何事もなかったかのように営業を再開したよ。追っ手もなしだ。そんなものを出しても皆殺しにされることはわかっていただろうからな。ああ、ただ一つだけ変化があった。それ以降は酒場の扉は鉄製に替えられたんだ。次にこの酒場を襲うときには、壁を爆破する方が手っ取り早いな。

 その男がどうなったのかはわからないな。ただこれだけは言える。酒場の側は古顔のボディガードを何人かと大切な客を殺されているんだ。その責任を取らせるのは、今回の襲撃をまねいたその男しかいないわけで、そう考えれば、男の運命は自ずからわかるというものだ。もっとも出来立ての死体を片付けるのに地下道を使ったとすれば、ちょっと困った羽目に陥ったことだろうな。


 それで終わりかって?

 ところがそうじゃなかったんだ。わしらが回収した書類は、大使が無くした例の機密書類じゃなかった。それは別の軍事情報で中身は当時開発中だった新型魚雷の設計図だったな。わしらはそれを奇麗な箱に詰めてリボンを結ぶと、ホワイトハウスへと送り付けてやったよ。

 がっかりしていなかったと言えば嘘になるな。しかし諜報活動の成功のキーワードは忍耐という言葉だ。わしらは事務所に戻ると次の電話を待った。すでに事件から一日が経過していた。空は白々と開け始め、わしらときたらシャワーも浴びずシャツもよれよれの状態だった。モッブだけはどこで着替えたのか、今度はアルバニアの民族衣装で事務所の床に座り込み、例の変な薬をやっていた。

 遅い夕食なのかそれとも早めの朝食なのか、とにかく食事を取っていると、次の報告が飛び込んできた。消えたホテルの従業員の片割れが、見つかったとの話であった。目撃されたのは街の反対側にある別のホテルで、その諜報員はどうやらずっと前から報告を入れていたのだが、わしらが酒場襲撃に行っていたために連絡が取れなかったものらしい。


 ああそうだよ。ニッキー。当時は携帯電話などという洒落たものはなかった。黒電話オンリーだ。いまは便利だね。どこにいても連絡が取れる。


 そのときのわしらが疲れていなかったとは言わない。しかしそれでも、事件の解決がすぐそばまで来ていることは感じ取っていた。わしらは思い思いの武器を引っつかむと、報告のあった現場へと急行した。

 いや、壮観な光景だったな。機関銃を手にした面々が車の窓から銃口を突き出して、全員がむっつりとした顔のままで夜の道路をとばしたのだから。わしらが危ない連中であることは一目でわかる。たとえ警官がこれを見ていたとしても、関り合いになることだけは避けたいと思ったことだろう。

 例によって、ホテルの部屋に飛び込んだのは、わしが先頭だったな。薄っぺらなドアを蹴破り頭から飛び込むと、床で一回転してから銃を膝に当てた。もちろん飛び込んだときに室内の様子はすべて目にとめている。大きなベッドの上に裸の男と女が一人づつ。

 やったね。わしは心の中でそう思った。穴の開くほど似顔絵で見た顔だ。だが、これはどうみても色事の真っ最中だ。わしらは間違った場所に飛び込んでしまったのだろうか?

 ベッドの上で裸の男が立ち上がると、真っ青になった顔で両手を上げた。むろん、わしの構えた機関銃を見てのことだ。

「待て。話せばわかる。撃つな! 撃つんじゃない!」

 そう、裸の男は叫んだね。全裸だ。見るに堪えないものが、わしの顔の前にぶら下がっていた。女の方はと言えば、残念、身体にシーツを巻き付けて部屋の隅で縮こまっていた。

 おや、なんだい。ニッキー。意外だって?

 紳士なんかではないさ。わしの人生はどっぷりと悪徳に浸かっているよ。自分が楽しめると思う機会は極力否定しないように努めている。ただまあ、この歳になると、その決意も鈍りがちではあるがね。

 裸の男の方は、わしのそんな気持ちにはお構いなしに話し続けたよ。

「おれが悪いんじゃない!」

 男は言ったね。

「彼女の方から誘ってきたんだ! 本当だ。嘘じゃない。許してくれ。あんたの女房だとは知らなかったんだ」

 それが演技だとしたら、まあ、素晴らしい演技だったな。モッブがその腕を奮い、男がすべてを話した後には、わしらは他人の浮気の現場に踏み込んでしまったのだとわかった。

 となれば後は大人しく引き上げるしか仕方が無い。事務所を飛び出て以来モッブがずっと手に持っていた武器を、シーツを巻き付けたままの姿でまだ震えている女性に渡すと、それを合図にわしらはその部屋から撤退した。

 ああ、モッブは奇妙な男だったな。夜にやった麻薬の効果がまだ薄れていなかったんだ。やつが手にしていた武器というのは、花屋に化けたときの土産として持って帰っていた、大咲きの薔薇の花が一輪、それっきりだったんだから。

 今でもたまに疑問に思うことがある。あの女性はその薔薇の花をどうしたのだろうか、と。


 さて、ここまでで残りの容疑者は何人になったかね?

 はい、ニッキー。残念だったね。残りは二人じゃない。一人だ。

 ちゃんと数えていたって?

 それはそうだろう。よろしい。謎を解いて進ぜよう。


 発端は、旅行中の彼女が旦那と行った口喧嘩だ。少し頭を冷やせとばかりに、彼女は旦那と泊まっていたホテルを出て、問題のホテルへと泊まったんだ。そんな彼女を慰めたのが、ホテルの従業員をしていた男で、二人は不倫をすることに同意した。

 ここまではいいかね?

 さて、そうと決まってみると、男の側が働いているホテルで事に及ぶのはちょっとばかり具合が悪い。心配した女の夫が、いつ迎えに来るか知れたものではない。というわけで容疑者の二人は、街の反対側のホテルへ泊まり直し、そこへ銃を構えたわしらが飛び込んだ、とまあこういうわけだ。


 そういうわけで残る容疑者はただ一人。ついにわしらは正解を見つけたわけだ。

 機密書類盗難の犯人は、顔一面髭だらけの大柄な男だ。見るからに凶悪そうな面相で、何やら重そうな荷物を抱えていたと、報告書には記されていた。

 わしらはおとなしく待ったね。朝日が登り、事務所一面に光が差し込んだ。モッブは朝の日課の逆立ち瞑想の真っ最中で、残りの面々は二日酔いでこそなかったが、まったくの素面というわけでもなかった。作戦遂行中に酒を飲むのは実に不謹慎ではあるが、何事も抑えすぎることは良い結果を産まないので、わしは敢えてこれを見過ごすことにした。

 それほど待つ必要はなかったな。わしがカイロの街の中に作り上げた諜報組織は実に効率が良かったから。その最後の容疑者が倉庫街で目撃されたとの報告がわしの耳に飛び込んで来た。

 全員が奮い立ったね。これが最後の一仕事だ。これが済んだら眠ることができるのだから。

 わしらは車に飛び乗った。モッブが逆立ちのままとことこと歩いて来ると、足を先にして車の窓から乗り込んで来た。それから彼はゆったりとした動作でシートに身体を納めると、つぶやいた。

「ビンゴ」

 これがモッブじゃなければ、わしはきっと彼の頭を銃で撃ち抜いていただろうな。だが相手はモッブで、変人ではあるが諜報員としては一流の男だった。この世の中で一番貴重なのは有能な人材だ。わしは彼を撃ち殺すのは諦めた。その代りに車を最高時速で飛ばすと倉庫街へと突入した。

 いや、驚いたね。わしらが倉庫街に飛び込むと同時に四方から銃弾の雨が飛んで来た。どうやら待ち伏せを食らったらしい。倉庫街を見張っていたわしの部下は、これでは殺されてしまった後だろう。わしらの車が特別な防弾仕様でなかったら、今頃こうして椅子に座ってブランデーを飲みながら、ゆっくりと話をすることはできなかっただろうな。

 まあ、わしは機関銃で撃ち返した。モッブはバズーカ砲を撃っていたし、車の屋根の上では対戦車ライフルが吼え声を上げていたな。そう、三十分も撃ちあったかな。そろそろどこかの軍隊が騒ぎを聞きつけて現れるんじゃないかという頃になって、敵の最後の抵抗も潰え去った。わしらは倉庫の瓦礫の中から例の男の残骸を見つけ出した。

 いや、残骸と言っても、まだ口はきけたな。致命傷を負っていたし手足の骨も砕けていたが、それでも死んではいなかった。

 そいつはわしらに向かって、殺せ、と言った。わしらはそいつに向かって、話せ、と言った。しばらくの間わしらの話は平行線をたどったが、モッブが彼に話が終わったら安らかに眠らせてやると約束したことで、後はスムーズに進んだ。

 男はテロ組織のメンバーで、この倉庫で襲撃の準備を着々と進めているところだったと判明した。わしらが潰したのは彼の組織の攻撃メンバーだ。なるほど大騒ぎになったのも無理はない。しかしまあ、彼らも不運な連中だ。わしらに関らなければ楽しくテロを実行できていただろうに。

 わしらは普通、大統領の暗殺とか、大使館公邸襲撃のような些細な事柄には触れないんだよ。ニッキー。きみはどうしても、わしがそれほど重要な地位についていたとは信じないようだが。これは本当なんだ。

 いやいや、この男は、わしらが追っている重要書類のことなんか何も知らなかった。その内容の一部が漏れただけでも、全面核戦争を引き起こす機密情報についてもだ。わしらは彼にそのことを教えてやり、彼の目は大きく見開かれたね。そうして恐ろしい情報を抱えたまま、彼はあの世へと旅立った。モッブが注射をしたんだ。致死量のモルヒネを。

 その情報は何かって?

 それはわしでも明かすことはできないな。諸君の口が固いことは重々承知してはいるが、もし万が一にでもそれが漏れたら、今でも地域限定された核戦争を起こすだけのインパクトがあるに違いないからね。


 とにもかくにも、わしらはすべての容疑者を調べ終わった。大変な二十四時間だったが、それでもわしらはやり遂げたんだ。さあ、これで困ったことになったのは、他のだれであろう、わしらだ。容疑者と目された七人の人物はすべてシロとわかったのだから、唯一の問題は重要文書はいったいどこに行ったのかということになる。

 もう一度、大使に絡んだすべての人物を洗い直し、捜査の手を広げるしかないのか。わしらは心底うんざりとしていたと正直に白状しよう。そのときはすでに、事件が起ってからかなりの時間が経過していたので、問題の文書を抑えるためには、相当の範囲に渡る封鎖処理が必要になる。すべての空港、すべての港、抜け道をも含む広範囲な道路の封鎖。さらには容疑者が接触したすべての人物の身元保証に追跡。まさに天文学的な量の仕事だ。少なくとも、カイロ支局の人間はすべて一か月に渡る徹夜作業に借出されることになるはずだった。


 モッブが夢遊病者の足取りで電話機のところにたどり着くと、大使のところに電話をかけた。もっと詳しい話を聞くために、時間を割いてくれと頼み込むつもりだったのだろう。彼はしばらくの間、受話器を耳に押し当てていたが、やがて無言で電話を切ると、うつろな笑いを顔に張り付かせると、こう言った。

「みんな、喜べ。書類が見つかったぞ」

 その一言で、部屋のなかにいた全員の耳が一斉にぴんと立った。嘘じゃない、本当に立ったんだ。まるでウサギが耳を動かすかのように、ぴんとな。人間の耳の筋肉は退化してしまってはいるが、ひどく驚いた場合にはそんな事実も忘れてしまうようだった。

 みんなの質問が浴びせかけられる前に、モッブは話の先を続けた。

「書類は大使が泊まった部屋の枕の下にあったそうだ。酔っ払って寝る前に、無くさないようにと、そこに隠したらしい。ようやく思い出したと笑っていたぞ」

 モッブもそこでへらへらと笑った。わしらも全員へらへらと笑った。徹夜をしたために気分が少しばかりハイになっていたんだ。何でもないことがおかしくてたまらなくなり、笑いが止まらないんだ。いや、実を言えばちっともおかしくなんかなかった。それでも顔は自然と笑いを形作り、へらへらと情けない笑い声が喉から漏れていく。奇妙なものだよ。人間の心というものは。

 そんなみんなの笑い顔のなかで、目だけがどれも笑っていなかった。それはわしも同じであり、心の中は怒りで煮えたぎっていた。

「良くまあ、見つかったもんだ。盗まれもせずに」これはわしの言った言葉だ。

「あの宿ではベッドメーキングなんかしていないんだろう。同じ部屋に次の客が泊まらない限り、枕を動かすやつなんかいない」

 モッブが答えた。それから、モッブはようやく笑いをやめると言った。

「最後に大使はこう言っていたぞ。これでみんなに迷惑をかけないで済んだ、ってな」


 その一言で、わしらに残っていた最後の理性のタガが吹き飛んだ。



 ああ、計画はうまくいったよ。今度は十分な時間があったし、相手は指名手配の犯人でもなければ麻薬密売人でもない。周囲をまったく警戒していない、ただの大使だ。味方のはずの連中が密かに敵に回ったんだ。これで誰が何をどうできるって言うんだ?

 まあ、命だけは奪わなかった。わしらはかんかんに怒ってはいたが、それでもまだ祖国に忠誠を誓った身であり、おまけに紳士であったのだから。

 外交官特権を持つ身は外国では逮捕できない。だから、わしらは大使が自国に戻るのを待ち、それから行動に出た。

 いやいや、あれはまさに見物だった。タイヤがパンクし路肩に乗り上げた大使の車に警官たちが近づく。大使は警官たちに身分を証明しようとしたが、どういうわけか身元を証明するものが何一つないときている。おまけに大量の麻薬の詰まった袋が大使のカバンから転がり落ち、車のトランクからこれも大量の爆発物と銃器が見つかったと来ては、警官たちも穏やかではいられなかっただろう。

 最後の望みを託して、留置場から外務省にかけた電話も、どこをどう間違ったか、郊外のレストランにかかってしまい、あわれな大使はしばらくの間、臭い飯を食う羽目になってしまった。

 おっと、言い忘れていたが、これはわしの考えたプランだ。モッブの考えたプランはもっと強烈でタチが悪かった。さらに言うならば、ファットのはそれに輪をかけてひどかった。最初にあまりひどいのをもってくると後が続かないから、軽いプランから順に実践しようというのが、わしらの出した結論だった。

 まあそういうわけで、わしらの胸のうちも何とかおさまり、大使がもの忘れに対する教訓を十分に習った段階で、事件は一応の落着をみたわけだ。


 ニッキー。わしはそのとき以来、こう考えるようにしている。もし誰かが大切なものを無くしたとわめき始めたら、最初にそいつの枕の下を探せ、とね。まあだいたいにおいて、この考え方は間違ってはいなかったよ。


 ファンキー。君の指輪がどこにいったのかは、これでわかったものと思う。

 ああ、自宅の方の枕じゃない。君が結婚指輪を外して独身と偽るときに使ったベッドの方の枕だよ。

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