ウォーレン大佐回顧録

のいげる

第1話 愛の試練


 今夜の奇談クラブの面々は、ずいぶんと盛り上がっていた。

 奇談クラブの会計を司るシュトマス財団が、今期の配当に大きなボーナスを上乗せしたのが、その主な原因である。その金は複雑な金融経路を流れていく途中ですべて酒に化けて、このクラブに集まる人々に配給される仕組みとなっている。

 タダの酒ほど、貧乏な若者たちの意気を上げるものはない。奇談クラブのメンバーの大部分はそんな連中であり、彼らがご機嫌となっているのも無理はなかった。

 それに加えて今日は、奇談クラブの一員であるボブが、ついに婚約を発表したという事情もある。

 ボブの無謀な恋物語は周囲でも噂になっていた。

 好青年ではあるが、実際には空っぽのポケットと未来への希望しか持ち合わせていないボブ。そのボブが惚れた相手が事もあろうに、経済界で五本の指に入る上流階級の令嬢だったというのだから、問題の根は深い。

 この恋の行方に関しては、奇談クラブの誰もが暗い先行きを想像していたのも、当然と言えば当然であった。しかし大方の予想を裏切るこの結果には、クラブのメンバーのすべてが満足していた。


「そうだとも、ニッキー」

 奇談クラブの中枢とも言える人物である、自称ウォーレン大佐は、手の中のパイプをじっと見つめながら、目の前の青年の問いに答えて言った。

 古い古いパイプだ。白い陶器を思わせる材質が、長い年月の間に古びて薄い飴色がかかっており、実に良い風格を醸し出している。持ち手には美女をあしらった意匠が彫り込んである。愛称ニッキー、ことニッケルは、そのパイプが象牙で出来ていると睨んでいたが、ウォーレン大佐は自分の愛用のパイプを決して誰にも触らせないので、確かめることができずにいる。

 ウォーレン大佐はいつもの癖で、手の中でパイプをいじくり回しながら、次の言葉を頭の中でようやく探しあてた。

「障害の無い愛というものは、えてして簡単に壊れるものなのだ。余りにた易く手に入ったものはありがたみが少ない。まあ、その観点で言えば、ボブは実に幸運だと言えるな。越えることができないほどではない障害に、タイミングの良い愛の返事。まさにこれぞ完璧、そう、完璧というやつの見本だな」

 それからウォーレン大佐は、まるでどこか遠くのことを思い出しているかのように、自分のお気に入りの椅子の上で宙を見つめていた。その皺だらけの唇の中で、小さく、完璧、完璧とつぶやきを繰りかえしているのが、ニッキーの耳には聞き取れた。

「そう。そうだとも。逆もまた然りだ」

 クラブの面々が、再び酒の海に戻ろうとしたときに、ウォーレン大佐は再び口を開いた。

「思い出した、彼のことを。不思議だな。あれほどの男のことを、どうして今まで忘れていたのだろう。愛のために世界を敵に回した男のことを。幻を求めて世界を駆け抜けた男のことを」

 好奇心に満ちた奇談クラブの面々の視線を受け止めて、さも判っているとでも言わんばかりに頷くと、ウォーレン大佐は椅子の背へと深く体を沈めた。

 これがウォーレン大佐が話を始める前のいつもの合図となっている。

 大佐の動きに呼応して、クラブのメンバーの一人が席を立つと、グラスに香り高きブランデーを注ぎ、大佐の前に置く。

 さあ、これで話の準備は整った。

 そのグラスを両手の中に抱えてブランデーの香を存分に楽しむと、ウォーレン大佐は待ち受けている聴衆を前におもむろに話を始めた。



 うむ、そうだな。もうずいぶんと昔の話になる。おいおいと判って貰えると思うが、わたしもその当時は君たちほどの若さで、愛と言うものにまだ幻想を持っておった。

 そうだとも、ニッキー。愛とは若さの見せる幻だと、今のわたしは思っている。こうして長い人生を生きて来た年寄りには、愛などというおおげさなものは重荷なのだよ。ほんのわずかな好意だけでいい。それだけで残り少ない人生を穏やかに過ごすには十分だ。

 もちろん、まだまだ若い君たちが、わたしの意見に賛成する必要は無いし、むしろ賛成しないほうが健康的だとも言える。人生そのものをはかない幻と見ることが出来るのは、これはもう老人だけの特権なのだよ。


 これから話すのは男と女の愛の話だ。


 当時のわたしはと言えば、軍隊組織の奥深くに極秘で作られた特殊情報機関で働いていた。

 その女性に惚れたのは、同じ部署に勤めていた友人だと思って貰いたい。名前は敢えて言うまい。当時は誰もが偽名で働いていたからな、言うだけ無意味と言うものだよ。

 ニッキー。君の持つ、猫顔負けの好奇心にはすまないとは思うがね。

 ああ、それはもう熱烈な恋だったよ。わたしもこの歳になるまで色々と他人の恋愛沙汰は見聞して来たが、彼の恋はまた特別なものだったね。確かに美人で清楚な感じのする女性だったが、彼ほどの男が彼女のどこにそれだけ惚れ込んだのかは遂にわたしたちには理解できなかった。口の悪い奴等の中には彼女の実家の財産を狙っているのだと言う者もいたが、それが間違っていたことはすぐに判った。

 おや、言わなかったかな。そう、彼女もまた、ボブが惚れたのと同じような上流階級の御令嬢だったのだ。事情は当時も今も変わりはしない。ボブが突破しなくてはならなかったような障害の数々が彼にも待っていたと思って欲しい。

 そうだな。彼はどちらかと言えば美男子と言って良いな。今ではわたしと同じような唯の老人と成り果ててしまったが。当時は顎の線のきりりとしまった、不屈の闘志と鋼鉄の意志、そして強靭の一言に尽きる体力を誇る男だった。体力を除けばその他の点では今も変っていないのは間違い無い。一度彼が何かを決意したとすれば、『それ』は『そう』なるんだ。こう言えば、彼がどんな男なのかは大体判って貰えるものと思う。

 一目惚れしたのは彼の方だった。さるスパイの引き起こした事件に絡んで、外交官の身辺調査と警護を兼ねて上流階級のパーティに参加した時に彼女に出会ったんだ。わたしはこの身に本来備わっている気品を武器にイギリスの貴族の一人に変装し、彼はパーティの給仕の一人に化けて潜り込んだ。パーティがたけなわに達した頃に、問題の人物はわたしたちの監視の目に気付いて逃げ出した。こうなればわたしたちも緊急事態だ。そのスパイが盗み出した重要機密を肌身離さず持ち歩いているのは確認していたからな。逃亡が認められた場合にはその場で射殺しろとの命令が出ていた。

 諸君には想像できるかな?

 周囲は国の中心部を固める上流階級の人間たちばかりだ。その人々の合間を縫って一人の人間だけを撃ち殺す苦労と言うものが。しかもそのことを誰にも気付かれるわけにはいかないという条件がついている。

 最悪の事態を予測して打っておいた手がここで役に立った。東洋風のパーティという触れ込みで爆竹を鳴らせる準備は整っていたし、このために給仕の大部分も東洋風のボーイに変装させておいた。わたしの合図に従って、チームの一人が威勢良く爆竹を鳴らし始めた所で、彼は隠し持っていた拳銃を引き抜くと見事な三連射をスパイに加えた。

 二十二口径を急所に正確に撃ち込む。貫通はしないし、血もほとんど流れないし、銃声は爆竹の音に紛れる。さらには撃たれた者を爆竹の音にびっくりして気絶したことできる。ナイフではここまで確実に即死させることはできないし、周囲が血の海になっては失敗したときのリカバリーができないからな。

 そこで彼に駆け寄ったわたしは信じられないものを見た。

 何を見たかって?

 彼は目の前で喋っている一人の女性の顔を擬視していたのだ。銃は彼の手にまだ握られているままだった。

 さり気無い素振りで彼の手から銃をもぎ取って服のポケットに押し込んだ後に、倒れた男を担架で運び出した。そこで初めて、わたしは何か重大なことが起っていることに気付いた。男の頭と心臓には彼の銃弾は見事に命中していたが、三発目の銃弾はなんと背骨の中心を僅かにずれて膵臓の辺りに命中していた。彼に限ってこんなことは有り得ない。あってはならないことなんだ。嫌な予感に襲われて、その男の死体を担架で運び出すとわたしは慌てて彼の元に戻った。

 彼の顔は真っ赤になっていて、その手は微かに震えていたから、わたしは彼がひどい熱病に罹ったのかと思った。

 その通り、彼は酷い熱病に罹っていたんだ。厄介な事この上無しという、恋の病というやつにな。


 上流とされている狭い社会に住んでいる人間が、他の階級に対してどれほどつれない態度が出来るかは諸君にも経験があると思う。彼女も最初はそうだったよ。彼女が使っているハンカチ一枚を買うだけでも一か月まるまる働かなくてはならないような給仕の内の一人が、突然に熱烈な恋文を送りつけて来たんだからね。侮蔑に満ちた無視。これはまあ当然の反応だろう。

 わたしも含む悪友たちの忠告には耳を貸さずに、彼はそれでも相手の女性にアタックし続けた。彼女の行動スケジュールを調べ、あらゆるパーティに潜り込み、ある時は司会者、ある時はドアボーイ、そしてある時は花束の配達人となって彼女の前に現れた。その結果、彼の担当していた仕事はお座なりになり、国家の存亡を揺るがしかねない五つの重要技術と三つの機密事項が東側に流れる事になった。

 あの時期には彼の上司は本気で彼の更迭を考えていた様だが、その事に気を悪くした彼が敵方につく可能性があるという事で取りやめになった。そんな事になれば、こちら側の組織は壊滅に追い込まれる。彼はそれほど凄い男だったんだ。

 もっともこちらも、そのお返しに東側の三人の科学者を亡命の形で引き抜き、四つの軍事工場を事故に見せかけて破壊し、二人の政治家の致命的なスキャンダルを暴きたてたんだから、まあこちら側の判定勝ちという所だろう。

 他国との情報暴露戦が一段落ついた所で、彼の悪友を自認するわたしたちは、本格的に彼を支援することにした。これ以上問題を引き起こされるのは困りものだし、それ以上にわたしたちはみんな、彼のことが大好きだったんだ。このわたしに限って言っても、彼には何度も命を助けられていると白状しよう。

 ここでお返ししなくては友達とは言えまい?


 この頃にはもう相手の令嬢のさしも頑なな心も溶けて、彼と熱烈な恋仲になっていた。

 ああ、言わなかったかな?

 彼は決してプレイボーイというタイプでは無かったが、女性の扱いにかけては超一流と言っても良いほどの腕を持っていたんだ。だから、残る問題は彼女の周囲の人間たちの説得ということになる。


 最初の難関は、驚くなかれ、彼女の所属する教区の神父だったよ。両親とも含めて厳しい清教徒である彼女にとって、神父の反対というものは絶大な権威があるものだった。両親の説得に協力して貰おうと相談に行った教会の中で、真っ先にその神父が顔を真っ赤にして彼との結婚に反対したんだからね。これには彼も彼女も当惑した。誠意を尽くした恋人たちの説得にも神父は折れず、あろうことか彼女の両親の耳に最悪の形で彼のことを吹き込みおった。可哀想に、その日から彼女は両親の手で邸宅の一室に監禁される羽目になった。

 ああ、恋する男には高圧電流を流した高い塀も、居並ぶドーベルマンの番犬も、懐に銃を抱え込んだ警備員たちも障害とはならないものだ。彼は厳しい警護の目を掠めて毎夜彼女に会いに行っていたし、そのことを知っていたのはわたしたちとその家の犬たちぐらいのものだった。

 知っているかな?

 犬と言うものは自分よりも強い者には実に簡単に服従すると言うことを。

 さて、彼が彼女との心ときめく逢瀬に出かけている間に、わたしたちはわたしたちで独自の調査を進めた。その結果、問題の神父が前の教区である事件を起していることを突き止めた。公にこそなっていなかったものの、状況証拠から事件を再現するのはわたしたちに取ってはお手の物だったからな。この神父は、神父とは名ばかりの飛んでもない破戒僧であることが判明した。なんのことはない。彼女との結婚に反対していたのは、単にこの神父が彼女に対して良からぬ思いを抱いていたからなんだ。

 さあ、こうして問題が明確になった以上、解決は実に簡単だった。次の新月の晩に神父は真っ暗な階段から転げ落ちて前歯のほとんど全部と、おまけに足を一本折ることとなった。男の大事な所をついでに何かにぶつけたのは不幸を上回る不幸と言っても良かったな。ズボンの大事な所に残った靴跡は流石にごまかせなかったが。

 ああ、それは楽しかったよ。ニッキー。苦痛と闇に脅えた神父の耳元でわたしは次のように囁いたんだ。

「悔い改めよ、次の新月が巡ってくるまでに」

 拍子抜けしたことに、神父は次の日にはもう悔い改めていたよ。わたしとしては実に残念だったな。神父の被害者であった前の教区に住んでいた女性にほんの少しばかり感情移入していたのだから。ナイフも奇麗に砥いだし、銃弾の頭にも神父の名前を刻み込んで、彼の住処にも爆薬をたっぷりと仕掛け終わった所だったのに、そのどれもが無駄になってしまった。まあ、仕方が無いな。物事はそう都合良く運ぶものでは無いから。


 さて、神父のべらべらと良く動く舌のお陰で今度は両親の説得は順調に進んだ。だが感情面での説得と理性面での説得はまた別の問題だ。彼女の両親は自分たちの愛娘を貧乏な青年の元へ嫁がせる気など毛頭なかったんだから。


 ここからは作戦の第二段階の発動だ。わたしたちは彼が実は大富豪の息子で、今は勘当状態にあるが、やがてはその資産を継ぐ事になるというシナリオを書き上げた。これならば彼の現状には反しないし、そうこうしている内に恋人たちの間には子供が出来て全ては収まるべき所に収まるのでは無いかと考えたのだ。

 方針が決まれば行動は簡単だ。立派な身分を偽造した後は、彼の身分を証明するものを幾つものさり気ない証拠にして彼女の両親の見える所に置けばいい。正確には彼女の両親の雇った探偵たちの目につく所にもだ。

 信じて欲しい。その点ではわたしたちはプロ中のプロだった。敵国の諜報員の目さえ欺く技術が、たかが市井の探偵たちに見抜けるわけがあるまい?

 驚いたのは証拠を作り上げるための事前調査で、彼が実際に大富豪の息子で勘当状態にあることが判った時だ。なんたる偶然。本来、わたしたちの正確な身元は同僚にも明かしてはならない。今回の調査は例外中の例外だったわけだが、そこから掘り出されて来たものは飛んでもない大当たりだったと、こういう訳だ。

 つけ加えるならば、この事はわたしたちのなけ無しの良心を宥める役には立ったが、わたしたちの仕事を助ける役には立たなかった。隊員の身元に関しては守秘義務があったために、わたしたちは完全に偽の記録を最初から作らざるを得なかった。結局、彼はイギリスの貴族の私生児とでも言う者になり、その男の死亡に伴い爵位を継ぐことになっているという記録を与えられた。御丁寧にも引き継がれるはずの領地からは良質のウラン鉱が出る可能性が高いという証明付きで。

 恐らくは今でもわたしたちの作った架空の身分は生きているだろうな。そして誰にも見破られてはいまい。事実を辿ろうとすれば追跡は複雑な迷宮へと引き込まれ、極めて確度の高い推測とほのめかしにより、わたしたちの作り上げた偽の身分へと導かれる。あれ程の見事な仕事が出来たのは皆の仕事に対する熱意のお陰とも言えよう。まあ、そういう訳で最後には彼女の両親も折れたのさ。娘のバラ色の未来を思ってな。


 終り良ければ全て良し。そうだろ? ニッキー。


 さて、結婚式に至るまでの最後の難関は、なんと彼女の側ではなく彼の側から出て来た。新型航空機の開発に絡んだ機密漏洩事件を調べていたある国の諜報員が、彼が上流階級の下に足しげく出入りしていることに気付いたんだ。これほどの長期に渡って、彼のように重要な特務機関員が一つの場所に出没するのは前例の無いことであり、恐らくは国家間の戦争にまで発展するような重要な事柄に関与しているのでは無いかとその諜報員は考えたんだ。

 わたしたちが止める間も無くその諜報員は報告を本国に送り、複雑な勢力関係を通じて、やがて世界中の諜報機関が彼と彼の婚約者へと目を向けることになった。これは大変な問題だったよ。一時期、彼女の住む屋敷の周囲の住人はその殆どが諜報機関員で占められる有り様ともなった。犬猿の仲である諜報機関員が同じアパートの隣の部屋に陣取ったりしたのだから、これでは火薬庫の中で焚き火をする方が幾分ましというものだ。このままではわたしたちのやって来たことが全て水泡へと帰しかねない。


 それでどうしたかって?


 わたしたちは考えた末、彼が彼女に惚れ込み結婚したがっているという事実をそのまま隠すことなく公表することにした。それに付け加えて、もし、この婚約が破談になったりすれば彼の怒りがどこに向かうのか、ということも指摘しておいた。

 それで見事に解決さ。僅かばかりの調査の後に、各国の諜報機関は事実を確認し、問題が個人的なことと判った時点で全ての調査員を引き上げた。ぐずぐずして自分たちに破談の責任を押し付けられるのは困るし、もし彼が彼女との家庭生活を優先して今の仕事を辞めるようなことにでもなれば、それこそ願ったり叶ったりの状況だったからな。


 まあ、そういうわけで彼と彼女は目出度く結婚式を挙げることが出来た。実に異例のことなのだが、彼の今の状態を考慮して、正式な結婚式は彼が本来の財産と地位を引き継いでからということになった。むろん我々としてもその方が都合が良い。式は郊外の小さな教会で親しい身内のみを呼ぶ形で出来る限り質素に行うことに決められたのだが、それでも花婿側の出席者、つまり彼の名づけ親役をする人間、彼の親戚に変装する人間、これら全てを調達するだけでも一苦労だった。お陰でその日まる一日、我が愛すべき優秀なる諜報機関は完全に活動を停止する羽目になってしまったのだから世話はない。

 こちらとしても大変な騒ぎだったが、花嫁の側でも大変な覚悟が必要だったろうな。彼女の結婚式は国を挙げての祭りというものになるだろうと、当時のマスコミの誰もが思い込んでいたほどなんだから。

 その上、信じられるかな?

 婚礼衣装まで借り物だったんだ。流石に花嫁の両親はこれには難色を示したが、二人だけの力でやりたいと言う若夫婦の願いに押し切られた形になったわけだ。この頃にはすっかり彼女も彼の生き方に影響されていたんだな。


 さて、諸君の予想を裏切って本当にすまないと思うのだが、本当の障害は結婚式の当日にあった。本来ならこれでめでたしめでたしになるはずが、驚くなよ、なんと花嫁が攫われてしまったんだ。結婚式場から。


 いやいやいやいや、そうじゃない。

 どこかの映画にあるように彼女の前の恋人が攫って行ったなんて想像しているとしたら的外れも良い所だ。攫ったのは見ず知らずの他人で、その目的は彼女の借り物の婚礼衣装のどこかに隠されたマイクロフィルムを探すためだったとは後で知ったよ。

 誓って言うが、新郎側の仕事の絡みでも無い。純粋に偶然だったわけだよ。神様という奴はほんの時たまだが罪な事をなさる。わたしたちが関っていた諜報の世界では右手がやっていることを左手が知らないなんてことは実にしばしばある。この場合が良い例だ。目的を達成する為に誘拐などという派手なことをやるグループは間違い無く二流の組織であり、二流であるということはわたしたちのような国家の存亡に関る情報を扱う一流の組織の動向に疎いということを意味する。この場合がそうだ。少しでもわたしたちのことを知っていたら、いや、彼のことを知っていたならば、式場の周辺数マイル以内には決して近寄らなかっただろう。

 まあ、その時はそんな事は判らない。いきなり銃を構えた男たちが飛び込んで来たと思ったら、式に参列した人々に発砲してから花嫁を連れ去ったんだ。式に出ていた何人かはすぐに隠し持った銃を引き抜いて応戦した。いや、本当のことを言うと新郎側の参加者は全員が銃を撃ったんだ。新郎はと言えば窮屈な衣装をぴっちりと着込んでいたからなあ。小型拳銃をどこからか引き出して暴漢の内の二人の額を撃ち抜き、袖元から取り出したナイフでもう一人を倒したことだけは確認した。

 信じられるかね?

 彼のような男が小型拳銃とナイフ一本だけしか持っていないなんて。まあ、神の御前だから、仕方が無いと言えば仕方が無い。

 飛び込んで来た男たちの半分が射殺された時点で、彼らは逃走に移った。いつものわたしたちなら逃しはしないが、花嫁が人質になっている以上、そうそうは手荒な真似はできない。まあ、犯人の頭一つでも人質である花嫁の影から出ていてくれれば射殺できるのだが、新婦の真っ白なウェディングドレスを飛び散った血と脳漿で汚したくは無かったし、もし万一狙いが逸れて花嫁に当たったりすれば、怒り狂った新郎にその場で殺されるのは間違いが無かったからな。それにタキシードって奴はズボンの尻を破らないように走るのには向かないものなんだ。

 そのすぐ後からCIAやらFBIやら、なんやかやと人々が飛び込んで来て、混乱にさらに輪をかけてくれた。いやいや、それは凄かったよ、銃を手にした男たちが花束や米が飛び散る教会の前をお互いに誰が誰なのか判らないままに走り回ったんだ。事態を悟ったわたしたちは取り敢えずそこにいた全員を気絶させることで問題を解決することにした。暴漢たち以外に死傷者が出なかったのは正直に言って助かった。

 流石に教会の、それも結婚式と来ては神様も奇跡を用意せざるを得なかったようだ。


 まあ、こういうわけで花嫁を人質にして彼らはまんまと逃げおおせた。少なくとも、そのときは。


 ああ、ニッキー。判って貰えると思うが、記録を漁ってもこの事件の顛末に関しては何も出て来ないよ。

 事件に巻き込まれた全員が見聞きしたことを秘密にするように要請されたのだからね。考えても見てくれたまえ。新聞一杯に強奪された花嫁と結婚式の出席者の写真が載る。その顔ぶれの半分が極秘で活動しているはずの情報機関の核となる人物たちなんだからね。そして残りの半分は上流階級の大物たち。そんな事態になったら、局長の首が飛ぶぐらいでは済まない。微妙なバランスで成り立っている冷戦の構造が一気に転覆しかねない。

 まあ、新婦側の出席者の内の何人かは写真を握り締めて新聞社に駆け込んだかも知れん。そしてその後は何も無かったかのように日常は進行する。新聞にスクープ記事が載ることは無い。その代りにどこかの墓地にひっそりと新しい墓が偽の墓碑名を付けられて建てられる。それだけだ。

 信じて欲しい。我々は出席者の日記まで監視したのだから。


 ああ、花嫁の話に戻ろう。


 当時、わたしたちは大陸間弾道弾の設計上で起きた機密漏洩に関する非常に重要な仕事に関係していたために、彼を手助けすることは出来なかった。だけどそもそも彼は誰の手助けも必要とはしなかった。彼に必要だったのは溜まりに溜まった有給休暇の申請だけで、それにも彼の上司が喜んで許可を出したよ。ここで渋れば、花嫁を盗まれて怒り狂った彼の最初の犠牲者が自分ということになる。それぐらいならば上司は喜んでサインする方を選んだのだろうな。

 言っただろう?

 彼女は厳格な清教徒だったって。きっと彼はキスぐらいまでしか許して貰えて無かったんだ。彼女の部屋での長い逢瀬の時間を他に何をして過ごしていたかは、それこそ神のみぞ知るということだ。彼の長く長く待たされ続けた期待に満ちた一日を暴漢どもは台無しにしてしまったんだから、彼の怒りのほどは十分に想像できると思う。

 彼が休暇を取った後に局の武器庫からビル一つでも跡形無く爆破できるだけの大量の爆薬、それに無数の銃器と一つの市を丸ごと壊滅できるだけの毒薬、それに対戦車ライフルが一丁消えていたことを考え合わせると、これから何が起きるかは誰の目にも明らかだった。小型拳銃一丁で完全武装の護衛に囲まれた独裁者を暗殺できるほどの男がこれほどの装備を使えば、その結果は凄まじいものとなる。

 ここで一言だけ、武器係の名誉にかけて言わせて貰えば、係の者はあっさりと彼に屈したわけでは無いと言っておこう。武器庫の奥にある、当時開発に成功したばかりだった歩兵用核兵器の金庫の鍵だけは死守したのだから。

 よく恐怖で白髪に変じるという話があるが、まさか本当のことだったとはなあ。わたしもそのとき初めて知ったよ。


 こうして彼の追跡劇は始った。花嫁をさらった奴等に取っては、とんでもないハネムーンになってしまったわけだ。

 どうして目的のフィルムを取り出した後に花嫁を殺すか解放するかしなかったかって?

 すでに言ったように、彼はあちらこちらの機関に名が売れていた。自分たちが愚かにも誰の花嫁を誘拐してしまったのかを知った後で、誘拐犯たちはどうしようもないジレンマに陥ってしまった。人質を解放すれば彼の怒りから彼等の命を守る唯一の方法が無くなる。かと言ってこのまま人質を連れていれば彼がどこまでも追って来る。ましてや人質に傷一つでもつけようものなら、その結果は地獄の門番でさえも顔色を青くするようなものになるだろう。

 結局、彼らは人質を連れたまま逃げ回る方を選んだわけだ。いつの日にか、彼が諦めるか彼の休暇が尽きるその日まで。しかし彼は諦めなかったし、今までに貯えた休暇はそれは実に沢山あった。それに悪友たちの密かな援助もあったしな。


 最初に彼等が逃げ込んだのは花嫁をさらった教会からさほど離れていない小さな街で、彼等はそこで車を乗り換えてもっと大きな都市へと出る手筈だったらしい。彼等は花嫁に薬を飲ませて眠らせると、新しい車に乗り込み出発した。その直後に街は大音響と共に崩壊し、彼等は際どい所で復讐の天使の手を逃れたことを知った。いや、これは彼等から我々の機関に連絡があった時に聞いた話なのだがね。

 破壊神は解き放たれた。一切のモラルからもくびきからも解き放たれてただひたすらに花嫁を目指していた。

 三つの都市がパニックに陥り、二つの鉄道会社が破綻した。あらゆる場所が煙と爆炎と銃声にあふれた。逃げ惑う彼等は我々の機関に連絡を取り、花嫁の解放と交換に彼等の身の安全を保証してくれと泣きついて来た。これは誘拐犯が出す条件としては実に例外的なものだが、こちらとしては申し分無しだ。問題は花嫁を追っているはずの彼の居場所が、我々にもまったく掴めないことだけだった。

 彼はバスの運転手に変装しているかもしれないし、ガソリンスタンドの売り子に化けているのかも知れない。彼がその気になれば誰にも掴まえることが出来ない。我々は彼との連絡が出来ないことを隠して誘拐犯との取り引きに応じることにした。


 それでどうなったかって?


 お察しの通りさ。もう少しで取り引きが完了するという所で、彼が乱入して来て誘拐犯たちは再び人質を連れて逃亡し、全ては振り出しに戻った。幸運だったよ。彼が引き金を引く前に、銃口を覗き込んでいるのがわたしだということに気付いてくれて。その後は誘拐犯たちは二度と取り引きを口にしなかった。その代りに全力で逃亡に移った。

 我々が詳しい追跡調査が出来たのは国内までだ。後は各国の諜報機関からの報告から再現するしか無かった。記録によると、彼は花嫁を追って、五つの大陸を駆け巡り、アフリカ奥地とチベットの山奥で埋もれた財宝を掘り起こし、途中で通過した十二の政情不安定な国に革命を起し、三つの大国をあわや核戦争手前にまで追い込んだ。

 たった一人の男が花嫁を取り返すためにこれほどの破壊を引き起こせるものなのか。各国の首脳陣の疑惑が疑惑を呼び、今まで隠されていた民族紛争や政治上の歪みが一気に吹き出した。

 最後には大統領が我々の前に来て、彼の殺害を語気荒く命じる所まで行ったと言えば状況は判って貰えると思う。しぶしぶ我々の上司はその命令に従ったが、我々はその上司の命令には従わなかった。命を無意味に捨てるのは馬鹿者のすることだが、我々は少なくとも馬鹿者では無かった。

 我々は彼の代りに大統領を暗殺することでこの問題を解決した。そうだとも、ニッキー、あの大統領さ。

 いや、確かに馬鹿者もいることはいた。彼が訪れた国の諜報機関が総出で彼を殺そうとしたことがある。その結果は燃え上がる建物と、無数の死体。そして完全なまでに破壊された極秘書類のファイルボックス。それはまさに諜報機関にとっての悪夢と言って良い。その後はハゲタカどもがその機関の残骸に群がり、スキャンダルに揺れる国の政治を操ることになった。馬鹿者どもの末路はいつでもこういうものだ。

 ああ、だがどのような障害も彼を止めることは出来ない。彼は不屈の闘志と鋼鉄の意志、そして決して揺るぐことの無い彼女への愛を持っていたんだから。

 長い苦難の末に、彼は誘拐犯たちを倒して花嫁をその手に取り戻したのさ。

 そうだよ、ニッキー、取り戻したんだ。

 彼の動きをずっと見守っていた我々は全員歓声を上げたよ。ついでに言うと、彼の動きを見守っていた各国諜報機関の面々もだ。すでに彼が引き起こした国の間の緊張は堪え難い所にまで来ていたからね。


 こうしてもう一度、盛大な結婚式が行われた。今度は密かにそして何より厳重に。愚かな者どもが再び問題を創り出したりしないようにとあらゆる手が打たれた。

 これ以上のトラブルは誰も望んではいなかった。そう、神さえもだ。


 ああ、今、思い返してもそれはそれは盛大な結婚式だったよ。酒も良かったが、何よりも新婚夫婦の表情が式に彩りを添えていた。障害が大きければ大きいほど愛は燃え上がる。遂にクライマックスを迎えた幸福そうな新婚夫婦の笑顔に優るものは無し、だ。

 これでわたしの話は終わりだ。いつの時代でも若者が恋に燃えるのは同じということかな。


 そうだ、ただ一つだけ残念な事があった。何だと思うね? ニッキー。

 想像もつかない?

 そうだろう。君はまだ若いし、わたしもその当時はまだ若かった。

 一週間の新婚旅行から帰って来た後に彼らは離婚したんだ。互いに相手に絶望してな。

 吊り橋効果というやつだな。毎日が緊張と波乱と死の危険に満ちた銃撃戦の中で育まれた愛に取っては、穏やかな日常は余りにも飽き足らない。


 触れて見て初めて判る真実というものがある。

 愛など幻だと、今のわたしは思っている。だが、君等はそのように思う必要は無い。

 若さとは元来、遠回りなものなのだから。

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