第38話 格物致知の至るところ

 泰山府君と別れて琥珀国の領域に戻ってきた夏月は、全身、ずぶ濡れのままだった。

 祭壇の近くに明かりがあるのを確認すると、手燭の代わりをしてくれていた泰山府君の霊符を胸にしまう。霊符は光を放っても眩しかったが、服の内側にしまうと不思議と仄かにあたたかかった。

「洪長官、おうかがいしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか」

 明かりを遮る人影に話しかけると、声をかけられるとは思ってなかったのだろう。びくり、と動揺するように影が大きく震えた。

「ああ、夏女官か……首尾はどうであった……な、なんだその姿は?」

 夏月が近づくと、洪長官はひどく驚いていた。

 当然だろう。絞っても絞っても、髪から服からぽたぽたと雫は垂れてくるし、髪も乱れている。およそ城に女官として出仕できる有り様ではない。

「風穴の隙間に落ちて、水のなかで死にかけました」

 ここは素直に危険な目に遭ったことを強く訴えておく。泰山府君にしても、洪緑水にしても、どうもなにかを隠されている気がしてならない。そしておそらくは、その隠されているなにかのせいで、夏月はたびたび死にかけているのだ。

「ああ……そうか。それは……大変だったな」

 洪緑水は夏月の物言いから気迫を感じとったのだろう。今度は驚いたのとは違って、あきらかにうろたえている。なにを隠しているのか知らないが、この上司からはもう少し情報を引き出す必要がありそうだった。

「天原国の秘書は見つけました」

 夏月は先手を打つように、『天原国』の名を口にする。

「なんだと……いや、そうか。それはお手柄だぞ、夏女官」

 なんとも芝居がかった口調に聞こえるのは気のせいだろうか。この青年は初めから、あの天原国の祭壇のことを知っていたのではないだろうか。そもそも、なにも知らない夏月を連れてきて、どのように調査をするつもりだったのだろう。地下に大きな空洞――風穴があり、迷路のようになっていたことからすると、体よく殺されかけたと考えられないこともない。

 もっとも、ふたりで別れて捜索しましょうと言いだしたのは夏月だし、洪長官から殺意を持たれる理由が夏月にはない。いまこの瞬間も、そこまでの悪意は感じられないという直感を信じて、殺されかけたかもしれないという考えは保留にしておく。

「天原国の秘書に関して、洪長官におうかがいしたいのです。この場所に天原国の祖霊廟が残っていることを知っている人はどのくらいいるのでしょうか? ずぶ濡れになって死にかけた部下のためにも正直にお答え願えますか?」

 語尾のほうは脅しかけるような物言いになっていた。情報を引き出そうと気負ったのはあるが、それだけではない。まだ寒さが残る時節な上に、風穴にたまっていた地下水はひどく冷たかった。寒さのせいで、歯の根が合わなくなってきているのだった。正気を保っているうちに知りたいことを知っておかないと、あとになったら、追及しなければという強い気持ちが失われてしまいそうだ。

 ――遺体を捨てるには、ここに巨大な風穴があることを知っていなければならない。

 だが、祖霊廟というのは普通、その子孫しか、なかに入らないものだ。この場合は琥珀国の王族ということになる。

「六儀府は朱銅印殿以外にも出入りしている人がいるのでしょうか。清明節に祭祀を行う予定の王族は、いったいどなたなのです?」

 琥珀国の祭壇の前で話すにしては、不穏な内容だ。詰問するような口調は、王族を非難しているようにも聞こえる。それでも、彼なりに罪の意識があったのだろうか。声音を一段低くして、語りはじめた。

「そうだな……騙すように連れてきて悪かった。どこに誰の墓があるのかわからない者を連れてきたら、新しい発見があるのではないかと思ったのだ。そして夏女官は実際に天原国の秘書を見つけてくれた。その手柄に免じて答えておこう」

 夏月に代書を頼みにくる人たちが本音をうちあける瞬間と同じように、だが、いつもの彼とは違う表情をしている。

 ――これは彼にとっての本音だ。

 夏月はそう感じて、小さくうなずくにとどめた。変に質問を挟むより、語れるだけ語ってもらったほうがいいからだ。

「六儀府は朱銅印のほかに、六儀府の長官が天原国の祖霊廟のことを知っている。ただし、彼も祭壇の場所は正確にわかってはいない。国王陛下はもちろん、王太子殿下も同じだ。そもそも、清明節には琥珀国の祖霊廟でも祭祀をしなくてはならない……それはわかるな?」

「つまり、表の祭祀と裏の祭祀があると……そういうことですか?」

「言い得て妙だが……そう考えてくれて差し支えない。表の祭祀――琥珀国の祖霊廟のほうは国王陛下と王太子殿下が行う。天原国の祭祀は第三王子が執り行う」

「第三王子殿下――大変失礼ながら、王族の方々にあまり詳しくないのですが……基本的には年齢が上の順に祭祀を行うことが多いと考えて差しつかえないでしょうか?」

「そのとおりだ。第二王子は後宮の祭祀ではなく、城の外の清明節の行事を担当される。それで、第三王子の媚州王に話が回った。第四王子の飛扇王に、という話もあったが……媚州王がどうしてもやりたいと名乗りをあげたらしい」

 王族同士の思惑など、しょせん下っ端女官の夏月には関係ない。だから、名前だけを記憶にとどめて、自分の知りたいことだけに意識を傾けた。

「風穴……この地下には風穴がまるで蟻の巣穴のように広がっています。この霊廟以外にも風穴に入る場所はあるのでしょうか」

 ざわり、と体中の産毛が総毛立つように、先輩女官の言葉が耳によみがえった。

 ――『いくら後宮の園林と言えども定まった道を外れると危険です。沼のようになっていたり、自然の風穴もあります。はまって亡くなった者もいますから気をつけて』

 聞いていたときはそんなものかと聞き流してしまったが、自然の風穴とは、この祖霊廟と繋がっているのではないだろうか。

 考えごとをしている間にも冷たさが身にしみてくる。丁寧に言葉を紡ぐことが難しくなってきた。背中にしょった荷物があたたかく感じるほど、体中が冷え切っていた。

「ほかの出入り口?」

 今度の質問は完全に想定外だったらしい。洪長官は額に手を当てて考えこんでしまった。

「いや……私は聞いたことがないな」

 考えこまれている間に、またおこりのような震えが沸きおこってきて、質問を続けられそうになくなってきた。

「さ、最後にもうひとつだけ……王子殿下たちが暮らす宮は後宮のどのあたりにあるのでしょう?」

 震えを声に滲ませないので精一杯だ。

「それを聞いてどうする?」

 内容が内容だから、さすがに警戒されたようだ。固い声が返ってくる。

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