第30話 ああ、念願の秘書庫よ
「代書屋稼業というのは、書くだけでなく、いろんな書を読んでくれと言われることもあるのだろう?」
後宮の通路を歩きながら、まるで他愛のない世間話をするように洪緑水は訊ねてきた。何度か先の見えない角を曲がり、
「はい。どこかからか送られてきた手紙だけでなく、古文書を持ちこまれることもあります」
夏月は後宮独特の見られているような気配に苛まれながらも、つとめて事務的に答えた。
人の手による癖もあるが、字体は国や時代によって異なる。
文法でさえ、国によって定められている書き方が細かく異なっており、それらすべてを読み解ける代書屋はかぎられている。
市井で商いをする代書屋の大半は、琥珀国のごく最近の書き方でしか読み書きができないから、新しい手紙のやりとりはともかく、時代の違う文書となると、解読できない者が多かった。当然のことだが、読める者が少ないのだから、古文書の解読は、ときに手紙の代書をするより高い報酬が見込める。
『灰塵庵』が街外れでもなんとか商いを続けられる由縁だった。
師匠のもとには古めかしい文書が持ちこまれることが、たびたびあった。先祖の墓から出てきた経文――祭詞や祝詞、蒐集家がやっと手に入れた古文書の類だ。それらの秘書を誰も読むことができないと、伝を頼って師匠の元まで流れてきたものだった。
夏月たちに見せるために、あえてお手本の解読書と併せて読んでくれたが、師匠自身は目で見ただけで、たいていの文書が読み解けたようだ。
解読は数をこなすことで、精度が上がる。夏月が十六才という年齢に似合わず、古文書の解読に優れているのは、師匠のもとで多様な古文書を見ているからだ。
それに、夏月は自分が読めない書物を読むのが好きだ。知らない暗号を読み解くことに無上の幸福を覚えるという性質は、古文書を読む作業に向いている。だからいつも、古文書を開くまえから、早くその古文書を見たいと胸を躍らせていた。
しかし夏月は女官であると同時に、代書屋『灰塵庵』の店主でもある。この手の話は、古文書の難易度だけが問題ではないこともよくわかっていた。
「洪長官。古文書によっては読めるかもしれませんが……一介の女官の手にあまる仕事です。間違って解読したら首が飛ぶかもしれませんし、お断りさせてください」
へりくだるようにして拱手し、夏月は頭を下げた。傍目には、官吏に付き従っている女官が、なにか非礼を詫びているように見えるだろう。
しかし、当然のことながら、夏月としては本当に断りたくて言ったわけではない。
――お金をもらわずに古文書の解読をしたなんて、もし可不可に知られたら、また怒られてしまう……ここは女官として引きうけるわけには絶対に行かない。
そんな夏月の思惑など、初めからお見通しだったのだろうか。洪緑水はひとしきり声を出して笑うと、夏月の下げた頭にぽん、と、手を置いた。
「代書屋と言うのは儲からないと言っていたわりには、商売の駆け引きが板についているではないか。いいだろう……もしこれから行く先の古文書が読み解けたなら、そのときは一巻につき、五百文でどうだ?」
「五百文……ですか?」
自分から駆け引きを持ちだしておきながら、夏月のほうが驚いていた。
「黒曜禁城には書の解読をする部署はないのですか?」
自分が仕事として請け負えばお金になるはずだが、あまりにも話がうまいと、逆に不安になってくる。
「夏女官、解読をする部署が秘書省付き写本府だよ」
「な、なるほど」
「でも、この仕事はあまり多くの人に関わってほしくない。それで代書屋『灰塵庵』の力をお借りしたいのだ」
そんなふうに言われてしまうと、さすがに断るのは気が引ける。
さらに言うなら、夏月のような小娘相手に、洪長官の官吏らしからぬ穏やかな物言いで頼まれると、どうにも弱かった。
そもそも珍しい書物に目がない夏月は、そんな人目を忍ぶ書物ならなおさら、のどから手が出るほど見たかった。金銭の駆け引きなど抜きで、いますぐ見たいくらいなのだ。そんな心の葛藤など、初めから見透かされていたのだろうか。
「ひとまず今日は一緒に来て、読めそうかどうか、確認してみてはもらえないだろうか」
夏月の判断にゆだねるような物言いで誘われて、断る理由はなかった。
ちょうど話を終えたころ、大きな倉の屋根が見えてきた。普通の建物とは違い、漆喰の壁に瓦を張りつけ、さらに耐火に備えた作りになっているのは一目見ただけでわかった。水害も想定しているのだろう、入口は高いところにある。
「ここが夏女官が来たがっていた秘書庫だ」
洪長官はようやく種明かしをするように言った。企みを秘めたように、にやにやと笑う顔は、夏月の反応を楽しんでいるかのようだ。
正直に言えば、うれしかった。巨大な倉の威圧感や後宮の重苦しさを忘れてしまうくらい、早くなかに入りたくて早足になってしまうくらいだ。
洞門を越えてから、入口までは見た目以上に距離があったようで、数段の階段を上ったころには夏月の息が切れていた。
入口で待っていたのは宦官だ。夏月の顔を不審そうに見ている。
「新しく雇った女官だ。夏女官という。これから秘書庫に出入りすることになるから、顔を覚えてくれ」
洪長官が宦官に説明しているから、夏月は慌てて拱手して頭を下げた。
気むずかしそうな老宦官だ。夏月のことを泥棒の手引きか不審者だと思っているのだろう。不躾な視線で、じろじろと見てくる。とっとと帰れと言わんばかりだ。
それでも、写本府の長官の言葉を無下にできないらしい。
「どうぞ、なかへ」
と身を翻して、内扉の鍵を開けてくれた。
倉のなかにまた倉があるような作りなのだろう。重たい扉を開いた先が、ようやく書物を収める場所になっていた。
明かりとりのための天窓が細長く切られていたが、きらきらと輝いているところを見ると、水晶をはめこんであるらしい。かび臭い倉のなかは、どことなく息苦しかった。思わず夏月がのどを押さえたことに気づいたのだろう。
「窓を開けましょうか」
老宦官は自在を使って器用に高窓を開いた。どうやら顔がいかめしいだけで、最初の印象ほど嫌な人ではないらしい。風がふわりと入ってくるだけで、少し気分が楽になった。
顔を上げて周囲を見わたせば、本、本、本、本――壁と言わず、部屋の真ん中と言わず、木製の本棚がひっきりなしに林立して、その棚すべてにびっしりと書物が収められていた。
倉のなかは、二階建てになっており、木の階段が上へと続いている。
ぎしぎしと軋む階段を上っていくと、写本府と同じような文机が並んでいた。宦官らしい青年がなにやら真剣な顔つきで、写本をしている。
「彼は
良良と言う名前を聞いたとたん、夏月の心にぴしり、と小石を投げつけられたかのような痛みが走ったが、夏月の心の機微など、ここでは些事にすぎないのだろう。
洪緑水は巻物をひとつ手にとると、
「これが問題の古文書だ」
そう言って文机の上に、巻物を広げた。文字を書きやすいように、斜度をつけた特別な文机だ。写本府にも同じものが並んでいたが、この倉のなかの文机のほうが古いようだった。磨きこまれた机は綺麗な飴色に変色している。
夏月は広げられた巻物に見覚えがあった。
「これは……先日、弘頌殿で虫干ししていた巻物でしょうか」
「そのとおりだ。祭祀の手続きが書いてあると思われるのだが……誰も子細を知らなくて困っている。ここの机を使っていいから、解読を試みてくれないか。なにか必要な道具があれば、眉子に言えば、たいていのものは揃うはずだから」
洪長官の言葉を受けて、眉子がにこりと笑う。宦官くさくない笑みを浮かべる青年だ。
言うほど彼らを知っているわけではないが、夏月の知る宦官は、みな一様に拭いきれない陰を抱いていた。入口にいた老宦官もそうだ。
鋭い目つきになるまでの年月を後宮という閉鎖的な世界で過ごすせいで、市井を行き交う町人が持たない重さや陰鬱が体に染みつくのだろう。独特の雰囲気を放つのだった。
一方で、眉子の笑みには、なぜかその重さがなかった。無邪気な子どもが笑ったように、見る者をほっとさせる雰囲気がある。
微志に進められるようにして椅子に座り、巻物と向き合う。左手で巻物を開きながら、右手で巻きとるようにして一瞥し、夏月は読めると思った。
正確には、知っている書き方だったと言うべきか。
「これは……天原国の秘書ですね」
どこの国にも、簡単に読まれたくない書物というのが存在する。あえて読みにくい書体で書かせた文書がそれで、『秘書』などと言われている。
しかし、天原国の秘書は夏月の得意分野だった。
少し前に滅亡したばかりの大国は、美しい書をたくさん残し、蒐集家の間では人気が高い。師匠の元に来る古文書解読依頼の大半は天原国のものだった。
「水をいただけますか?」
夏月は手近な硯と墨をとりだして、机の端の平らなところに載せた。
写本の見本の場所に巻物を写し、新しい紙を広げて、文鎮で止める。
「確かに祭祀に関わる内容のようです。祖霊をまえにして読みあげる祭詞でしょうか……」
文字を読み進めるうちに、また、ちり、とうなじのあたりがひりつくような感覚を覚えた。
後宮に入ってから、ときどき感じる、ひりつくような気配だ。匣のなかの匣に押しこめられたという圧迫感であり、誰かに一挙手一投足を監視されているような、緊張を強いられる気配。
額に汗が滲む。
――この古文書を解読するなとでも言うのだろうか……いや、違う。わたしのやることを注視しているような……。
文字を書くことに集中するうちに、背中に張りつくお化けのような重さは幾分薄らいだ。それでも、ただ文字を書いただけにしては理不尽なほど、息が上がっている。
誰でも読みやすい楷書体で文章を書き直したあとで、夏月は顔を上げた。
「この巻物は、ひとつで完結ではないようですね。まだほかに同じような巻物があるのではありませんか?」
どっと覆いかぶさるような疲労を覚えているのは、奇妙な感覚のせいばかりじゃない。
これだけ長い古文書を解読したのが久しぶりで、頭を使ったせいだ。頭の芯が、ぎゅっと搾りとられたかのように痛い。
それでも、視界に大量の書物が見える場所というのはいい。このなかには、天原国の秘書と同じくらい夏月の頭を使う書物が所蔵されているはずだと思うと、もっと読みたい、解読したいという欲が、ひりつくように心の底で疼いた。
「夏女官、頭がふらついているのではありませんか。棗を食べませんか。干した果物もありますよ」
眉子から小鉢に入った棗を差し出されて、夏月はありがたくいただいた。
写本というのは、地味な作業に見えて頭を使うのだろう。甘いものを食べると頭がすっきりとする。干し杏にお茶もいただいた夏月が人心地ついているうちに、眉子は夏月の書いた写しを棚に移し、大事な巻物をしまっていた。
働き者の青年のようだ。動きにきびきびとした無駄のなさを感じる。
どことなく自宅の執事に通じるものを感じ、親しみを覚えていると、洪緑水が珍しく情感らしい素振りで命令した。
「巻物の続きがあるかどうか、夏女官と発掘調査に行ってくる」
「発掘調査ってなんですか?」
せっかく秘書庫に足を踏み入れたのだ。今日はこのまま、書物読み放題できると思っていた夏月は、弧の場所を離れたくないとばかりに椅子の背にしがみついた。しかし、眉子にはその言葉だけで通じているらしい。
「では、必要なものをお持ちしましょう」
穏やかに微笑んで、広げた大きな巾の上に、棚からとりだしたものを手早く載せはじめた。
なにやら、不吉な風が吹いてきたことに、そのときの夏月が気づく由はなかった。
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